うさるの厨二病な読書日記

生涯中二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好きも嫌いも全力で語るブログ。

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【ネタバレあり】諌山創「進撃の巨人」あらすじと重要設定を5分でおさらい(24巻まで・随時更新)

 

だいぶ世界の姿が分かってきて、話もややこしくなってきたので、一巻から改めて読み直してみました。

読み直してみると何気なく読み飛ばしていた事実があったり、初めに読んだときには理解できなかった登場人物の心情に感じ入ったりします。

 

17巻からのウォール・マリア奪還戦は最初読んだときはさほどとも思わなかったのですが、一から読むと余りに絶望的な状況に目まいがしそうになります。

常に絶望的な状況なのですが、200名以上投入して、9人しか生き残らなかったというのはすさまじい死亡率ですね。

ひと言でいうと

 

やっぱりおもしれええええ!!

 

と思いました。

 

話が込み入ってきたので途中で読むことを止めてしまった人もいると思うのですが、ぜひもう一度手にとって欲しいです。

また「読んでいるけれど、話が込み入ってきたので惰性で読んでいる」というのも、ちょっともったいないな、と思います。

自分も整理しきれていない部分があるので、これを機にこれまでのあらすじと重要な設定を、一緒にサラッとおさらいしたいと思います。

 

「進撃の巨人」24巻までのあらすじ

100年以上人類を守ってきた壁が、突然破壊される(1巻)

人類が巨人の手から逃れるために、壁を築いて中に閉じこもって102年。

知性を持つ超大型巨人と鎧の巨人が突然現れ、一番外側の壁「ウォール・マリア」が破られる。

巨人たちが侵入してきたシガンシナ区は壊滅し、母親を殺されたエレンは、幼なじみのミカサとアルミンと共に、巨人を殺す兵士になるために訓練兵団に入団する。

 

エレンは巨人化の力が、人類の希望になる。(2巻~4巻)

5年後、訓練兵となったエレンたちの前に、再び超大型巨人が現れる。

今度は二番目の壁「ウォール・ローゼ」に穴をあけられる。

同期の訓練兵たちが巨人との戦いで次々と死んでいく中、危機に陥ったエレンが15メートル級の巨人になる。巨人となったエレンが「ウォール・ローゼ」の大穴を岩で塞ぎ、防衛することができた。

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(引用元:「進撃の巨人」4巻 諌山創 講談社)

調査兵団に入団したエレンは、他の団員たちと共に五年前開けられた「ウォール・マリア」の穴を塞ぐために、巨人の領域と化してしまった壁外に出る。

 

女型巨人の正体は、同期のアニだった。(5巻~8巻)

巨人と出会うことのない索敵陣形で5年前あけられた穴を目指す調査兵団だが、突如現れた知性を持つ女型巨人によって、全滅の危機にさらされる。

女型巨人の狙いは、巨人化の力を持つエレンであることが明らかになり、女型、超大型、鎧型、三人の知性ある巨人は、エレンが巨人化したことを知る調査兵団の人間である疑いが濃くなった。

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(引用元:「進撃の巨人」8巻 諌山創 講談社)

アルミンは推理を重ね、女型巨人が自分たちの同期で、憲兵団に入団したアニであることを突き止める。

正体がバレたアニは、エレンをさらい、壁外に逃亡しようとする。が、失敗して調査兵団にとらえられ幽閉される。

 

皆はエレンの中にある、最強の巨人「始祖の巨人」の力を狙っている。(9巻~17巻)

人類を守っていた壁は巨人の硬質化能力でできており、人類を守る壁が巨人そのものであることが分かる。

事情を知る「ウォール教」のニック司祭は、頑として口を割ろうとしない。その秘密を明かすかどうかを決められるは、ある血筋の人間だけだ、と言う。

その血筋であるレイス家こそ真の王家であり、現在の王フリッツはかりそめの王だった。エレンたちの同期であるクリスタは、レイス家の当主ロッド・レイスの落胤だった。

 

五年前「ウォール・マリア」が崩壊したとき、エレンの父親グリシャがロッド・レイスの子どもたちを皆殺しにした。巨人の頂点に立つ最強の巨人「始祖の巨人」の力を、レイス家から奪うためだ。

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(引用元:「進撃の巨人」16巻 諌山創 講談社)

そしてエレンに自分を喰わせることで、「始祖の巨人」と「進撃の巨人」の力をエレンに移譲した。

 

ロッド・レイスは「始祖の巨人」の力を奪い返すために、エレンとクリスタをさらう。クリスタにエレンを喰わせることによって、「始祖の巨人」の力を奪い返そうとしていた。

クリスタはこれを拒絶し、父ロッド・レイスを倒す。

同じころ兵団がクーデターを起こして現王政を倒したため、クリスタは本名ヒストリア・レイスを名乗り、壁の中の女王として即位する。

 

ウォール・マリア奪還戦。エルヴィンが死に、アルミンが超大型巨人となる。(18巻~21巻)

エレンの父親グリシャは壁外の世界から来た人物であり、壁の外の世界の真実を、自宅の地下室に残している。

調査兵団は、エレンの家があるシガンシナ区を奪い返すために「ウォール・マリア奪還作戦」を計画する。

 

シガンシナ区では「超大型巨人=ベルトルト」「鎧の巨人=ライナー」知性のない無垢の巨人を操る力を持つ「獣の巨人」が待ち構えていた。

巨人と調査兵団は、交戦に入る。

しかしベルトルトとライナーを人間のうちに打ち取ることができず、獣の巨人との挟み撃ちにあい、調査兵団は全滅の危機に陥る。

 

アルミンの捨て身の作戦でベルトルトを打ち取ることができたが、獣の巨人とライナーをあと一歩のところで逃す。

調査兵団団長のエルヴィンは、特攻で命を落とした。アルミンはベルトルトを食らって超大型巨人の力を手に入れ、瀕死の重傷から蘇る。

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(引用元:「進撃の巨人」21巻 諌山創 講談社)

エレンたちはついに地下室に行き、父グリシャの残した手記を見つけた。

 

壁の外の世界の真実とグリシャの目的が明らかになる。(21巻~22巻)

壁の世界があるのは、パラディ島という名前の島だった。

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(引用元:「進撃の巨人」21巻 諌山創 講談社)

107年前、巨人化できる能力を持つエルディア人の一部が壁の中に逃げこんだ。

壁の外の世界は、長い間、エルディア人が迫害していたマーレ人が支配する世界だった。マーレ人は9つの巨人のうち7つを手に入れており、「巨人大戦」に勝利してエルディア人を支配下においた。

 

グリシャはマーレ支配下のエルディア人収容所に生まれ、エルディアの復権を目指す「エルディア復権派」に所属していた。

大陸に残ったエルディア王家最後の生き残りダイナ・フリッツと結婚して、ジークという息子を設ける。

 

ジークが両親を密告したためエルディア復権派は壊滅し、グリシャとダイナは「楽園送り」となる。ダイナは壁の外の世界をさ迷い人を襲う、無垢の巨人に変えられた。

グリシャは、「フクロウ」と名乗るスパイ、エレン・クルーガーに助けられる。

 

クルーガーはグリシャに自分が持つ「進撃の巨人」の力を託し、「壁の中の王から始祖の巨人の力を奪い、その力でエルディア人を救ってくれ」と頼む。

グリシャはエルディア人を救うために「始祖の巨人」をレイス家から奪い、息子であるエレンに託した。

一年後、パラディ島全体の安全を確認したエレンたち壁内の人類は、初めて海を見る。

 

壁の外の世界の話。(23巻~24巻)

そしてさらに三年の月日が流れ、マーレで暮らすジークとライナーには寿命が近づき、次の「巨人の力を受け継ぐ戦士の選考」が行われようとしていた。

戦士候補であるファルコは、自分の力が同期のガビに及ばないことに落ち込んでいたが、戦傷者病院にいたクルーガーという男に「それでも進むしかない」と励まされる。

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(引用元:「進撃の巨人」24巻 諌山創 講談社)

ファルコはクルーガーに頼まれて、ライナーを連れてきた。クルーガーの正体は、エレン・イェーガーだった。

 

一方、世界各国から高まるエルディア人への迫害意識を抑えるために、マーレは「パラディ島の始祖の巨人奪還作戦」をエルディア人が世界の人々のために戦う英雄譚に仕立てようとする。

その英雄譚の語り手として、マーレの実質的な支配者であり「戦鎚の巨人」の支配者であるタイバー家が表舞台に登場する。

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 (引用元:「進撃の巨人」24巻 諌山創 講談社)

 

年代系列及び時系列

初代レイス王がパラディ島に壁を築いた年を、0年とします。壁内の出来事は赤字にしています。

 

前1740年 ユミル・フリッツが大地の悪魔と契約し、「巨人の力」を手に入れる。

前1620年 エルディア人(ユミルの民)による、他民族の民族浄化が始まる。

  0年 巨人大戦。七つの巨人の力を従えたマーレが勝利する。

  0年 145代フリッツ王がパラディ島に三重の壁を築き、国民と逃げ込む。

 65年? グリシャの妹・フェイが殺害される。  

74年くらい? グリシャとダイナが結婚。

75年くらい? ジーク誕生。

80年以後 ジークの密告により、グリシャとダイナが楽園に送られる。

  92年 エレン誕生

  99年 ジークが「獣の巨人」を継承。

  100年 ライナーが「鎧型巨人」を継承。

  102年 ウォール・マリアが超大型巨人と鎧型巨人によって突破される。(「始祖奪還計画開始」)

  107年 エレンが調査兵団に入団。

     仮の王政が倒れ、ヒストリア・レイスが即位。

     マーレと中東連合との戦争が始まる。

 108年 壁内の人類、海の存在を確認

 111年 マーレと中東連合の戦争が終結する。

 

巨人の設定

巨人化の力は、エルディア人の祖先であるユミル・フリッツが大地の悪魔と契約して手に入れた。そのため、ユミルの血を持ち「ユミルの民」と呼ばれるエルディア人しか巨人になることはできない。(エルディア人には、「ユミルの血」が流れていない「他人種系エルディア人」もいる。)

ユミルは死後、自分の魂を9つの巨人に分け与え、エルディア帝国を築いた。

この9人の巨人には知性があり、知性ない「無垢の巨人」とは性質も能力もまったく違う。

 

無垢の巨人

知性がなく意思の疎通ができない。

「人を感知し、人を追跡し、人を喰らうだけの存在」

すぐそばの人間に反応する通常種と、より多くの人間に反応する奇行種がいる。

個体差があるものの、日光がなければ活動を停止するが、ジークの脊髄液を注入した場合は月光でも活動が可能。

 

9つの巨人

知性がある巨人。無垢の巨人と化した人間が、9つの巨人を身に宿している人間を喰らうとその能力を手にすることができる。

9つの巨人の力を継承したものは、ユミルの呪いにより、その後13年しか生きられない。

9つの巨人の力が誰かに喰らわれることによって継承されなかった場合、他のエルディア人(ユミルの民)の赤ん坊に突如として継承される。この継承には、血縁も距離も関係がない。

 

始祖の巨人

(ウーリ→フリーダ→グリシャ→エレン)

巨人の頂点に立つ、最強の巨人。

エルディア人の記憶を改ざんできる、他の巨人を操れるなどの能力を持つ。

すべての巨人、すべてのユミルの民は道でつながっており、そのすべての道が交わる座標が「始祖の巨人」である。だから記憶に干渉したり、操れることができる。

「始祖の巨人」の力は、レイス家が受け継がないと真価を発揮できない。

「始祖の巨人」を継承すると、力と共に歴代の王の記憶を継承する。

「始祖の巨人」を継承したレイス家の者は、145代目レイス王が「始祖の巨人」と結んだ「不戦のちぎり」や「過去の歴史を根絶し、一糸乱れぬ平和を実現すること」「平和とは、人類が巨人に支配される世界」という思想に支配され、巨人に対して無抵抗の自死の道を選ぶ。

 

進撃の巨人

(エレン・クルーガー→グリシャ→エレン)

最長15メートルの巨人。喋れない。

 

超大型巨人

(ベルトルト→アルミン)

50メートル級の巨人。筋繊維を燃やして、周囲に高熱を発している。

 

鎧型巨人

(ライナー→ガビorファルコ?)

関節以外の全身を硬質化に特化した巨人。女型と違い、硬質化が常態。

 

女型巨人

(アニ)

高い機動力と持続力がある。何でもできる汎用型。

望んだ箇所を硬質化できるが、鎧型ほど恒常性はない。

叫びで無垢の巨人を操れるが、範囲は狭い。

 

獣の巨人

(ジーク→コルト?)

巨人になっても話せる。

「叫び」でエルディア人を巨人にし、操ることができる。無垢の巨人を月光で動かすことができる。この能力は「獣」のものではなく、王家の血を引くジーク固有のものであるようだ。

 

顎の巨人

(マルセル→ユミル→ポルコ・ガリアード)

強襲型。小ぶりな分、最も素早く、強力な爪と顎で大抵のものは砕ける。

 

車力の巨人

(ビーク)

並外れた持続力を持ち、長期任務が可能。 四つ足歩行で物が運べる。

 

戦鎚の巨人

 (ヴィリー・タイバー)

 

 登場人物の設定と謎

読んでいて疑問に思った点。今後おいおい明かされるのかもしれない。

 

①エルディア人以外も巨人になれるのか?

エルディア人以外は巨人になれないと思っていたが、ケニーは「始祖の巨人」になろうとしていたし、死ぬ間際「どうして薬を使って巨人化しなかった?」とリヴァイが聞いているから、薬を使えばなれるのか?

でもグロス曹長が「巨人の脊髄液を体内に吸収しただけで巨大な化け物になる。こんな生き物は、お前らエルディア帝国のユミルの民以外存在しない」と言っている。

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(引用元:「進撃の巨人」22巻 諌山創 講談社)

そもそも「エルディア人しか巨人になれない」という設定は、この物語の根幹を支える重要事項だ。(正確には「エルディア人の中のユミルの民」しか、巨人にはなれない。そうすると、ますますケニーの言動が謎だ。)

ケニーはエルディア人との混血なのかもしれない。もしくは、アッカーマン家の者は巨人にはなれないと知らなかった?

この辺りはよく分からなかった。

 

②貴族の血と奴隷用の血に分かれている?

フリッツ王政を支えていた重臣の一人が、ザックレーに対して「お前の血は我々と違って奴隷用の血だ」と言っている。

貴族がエルディア人以外なのか、エルディア人の中でさらに血が分かれているのかは不明。ユミルの民=奴隷用エルディア人?ということなのかもしれない。

24卷でエルディア人は、ユミルの血を引く「ユミルの民」とユミルの血を引かない「他人種系エルディア人」に分かれることが判明した。フリッツ王や彼をとりまく貴族たちは「他人種系エルディア人」であり、始祖の巨人の力が及ぶ「ユミルの民」を「奴隷」と揶揄していると思われる。

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 (引用元:「進撃の巨人」24巻 諌山創 講談社)

 

③ウドガルド城跡で発見した缶詰の文字は何語?

9巻の「ウドガルド城跡」で、壁内の人間が読めない名前の酒があり、缶詰もあった。ライナーも読めない「にしん」という文字をユミルは読めた。

ジークがここに潜んでいたのだと思うけれど、とするとライナーが本当は読めるのに嘘をついたのだろうか?

それとも、壁内の言葉ともマーレの公用語とも違う文字でユミルが読めたのか?

恐らくライナーが正体がバレないように、嘘をついたのだと思うが。

 

④物語開始当初の「いってらっしゃいエレン」は、誰の記憶か?

このときエレンはまだ、どの巨人の力も受け継いでいないので、誰かの記憶を見ることはありえない…と思っていたけれど、22巻でエレン・クルーガーが「ミカサとアルミン」の名前を口にしていたので、巨人の記憶は時間の次元を超えるものなのかもしれない。

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(引用元:「進撃の巨人」22巻 諌山創 講談社)

エレンが「進撃の巨人」や「始祖の巨人」を継承することが未来的に確定していたので、時間を超越して誰かの記憶を見たのかもしれない。

時間も超えられるとなると、「繰り返すだけだ。同じ歴史を、同じ過ちを。何度も」というのは、ループ説の伏線か?とも思う。

初期のころ、かなり有力だったループ説が復活するかもしれない。

 

⑤「エレン・クルーガー」は「エレン・イェーガー」なのか?

どういう仕組みなのかは分からないけれど、顏も似ているし、↑のセリフも二人のエレンが同一人物なら説明はつく。

24巻でマーレに潜入したエレンが、「クルーガー」と名乗っているし。

そうすると、やはりループものなのか?

 

⑥物語開始当初の「845」「850」という数字は何なのか?

「ウォール・マリア」が突破されてから五年後、という数字と合っているので、年号であることは間違いないと思う。

恐らく壁外、マーレの年号なのではないか。

 

⑦巨人は雨の日でも動けるのか?

巨人は日光を遮断すると動けなくなるが、雨の日や曇りの日はどうなんだろう? ジークの脊髄液を注入しなければ月光でも動けなかったのだから、晴れの日の日光でないと動けなくなると思うのだが。

ただ今のところ、雨が降っている描写が四巻の訓練兵時代の時だけなので、極端に雨が少ない地域なのかもしれない。

 

⑧グリシャと一緒に楽園送りになったグライスは、ファルコとコルトの血縁なのか?

顔立ちも似ているので、血縁だと思う。(24卷で血縁と判明)

 

⑨ハンジは男なのか? 女なのか?

作者のコメントで正式に性別不明になったらしい。

場面ごとに男顔になったり女顔になったりしている。

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(引用元:「進撃の巨人」5巻 諌山創 講談社)

初期のころの女性っぽい話し方も懐かしい。

今回読み返して、ハンジがすごく好きになった。

 

 まとめ

今のところ一番気になるのは、「奴隷用の血」の部分です。ユミルの民については、もうひとつカラクリがありそうな気がします。

「始祖の巨人」の力の影響を受けないということは、貴族たちはエルディア人ではないのか、自分の力が及ばないものをなぜ貴族したのか。この辺り、何かあるのかな?と思いました。(この辺りは記事に書き加えた通り、24巻で判明しました。)

145代目レイス王が、「始祖の巨人」とかわした「不戦のちぎり」とは何なのか。なぜ、人類が巨人に支配されることが一糸乱れぬ平和だと思ったのか。

 

続刊が出たり、何か新しい発見が出てきたら、随時付け加えたいと思います。

 

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大西巷一「乙女戦争」を読んで感じた、「個人」として生きることを選べる現代の幸福とか不幸とか。

 

*この記事にはネタバレが含まれています。未読の方はご注意ください。

 

大西巷一の「乙女戦争 ディーヴチー・ヴァールカ」を既刊9卷まで読んだ。

 

この本を読んで一番強く感じたのは「現代は、『個人』として生きることを選べる幸福な時代なんだろうけれど、共同体の一員として生きなければならない幸福は失っているのかもしれないな」ということだ。

 

現代の日本社会というのは、比較的「個人」というものが重要視される時代だと思う。共同体の価値観よりも個人の価値観が重んじられて、法律の枠内であれば個人の価値観が尊重される。

結婚や出産、祖先の墓を守るかどうかなど、従来は「当たり前」とされていた価値観が疑問視され、「それは個人の選択を尊重するべきではないか」という意見が一般的になりつつある。「多様性」「人それぞれ」が重んじられ、「社会」という共同体よりも、「個人」という単位が重要視されるようになった。

 

これは何故なのか。

現代の日本社会は「私的な共同体の働き」の必要性が希薄だからではないか、と「乙女戦争」を読んで思った。

「公的な共同体」の働きは、共同体の中にいる人々が共存するために、互いの権利を侵さない範囲内で個人の権利を守る、このお互いの権利や利益をどの程度認めるかという点にある。

それに対して「私的な共同体」の大きい働きは、「自我を外敵から守ること」にあるのではないか。

 

「私的な共同体」は最小単位では、夫婦や恋人同士など二人からなり、家族、親族、友人同士などが基本的には個人の自由意志で形成されるものがあげられる。その「私的な共同体」の究極の形が、「乙女戦争」でも大きな鍵になっている「宗教」だ。

(「私的」「公的」という言い方には、「精神的」「法的」と言いかえてもいい)

 

「結婚」「家族」「友人同士」などの私的な共同体に違和感を感じたり、必要性を感じなかったり、むしろネガティブなイメージを持つのは、それがなければ生きられないほどの自我の崩壊の危機を感じることがないからではないか。

言い換えれば「個人で引き受けられる範囲を超えた痛み」「共同体全体で受け止めなければ受け止めきれない痛み」を感じる機会がないから、「私的な共同体」の必要性を感じないのではないか。

 

「個人では受け止めきれず、共同体全体で受け止めなければ、受け止めきれない痛み」とは何であるか、ということが「乙女戦争」では何回も……というよりは、ほぼ全編に渡って描かれている。

自分が、個人的に「乙女戦争」で見出したテーマは「個人で引き受けると自我が崩壊しかねない痛みを、人はどのように乗り越えるか」ということだ。

たぶんこれは「乙女戦争」という物語がことさらテーマとして描こうとしたものではなく、今よりもずっと「個人の尊厳」が軽んじられていたり、というよりはまったく何の価値もなかった時代を描くときに、避けて通れないテーマなのだと思う。

 

「乙女戦争」では、「個人の尊厳のなさ」が延々と描かれているので、「個人の尊厳や多様性」が重んじられている時代に生きている人間には、本来、読むのがとても辛い物語になっている。

それでも「読むのが辛い」以上に面白い物語であるのは、主に二つの点がうまく働いているからだと思う。

①特定のキャラクターに過度に感情移入させないようにしている。

②「個人の尊厳」が傷つけられたときの回復方法が上手く描かれている。

 

 「個人で引き受けたら自我が崩壊する痛み」というのが何であり、それをどう乗り越えているのか、というのが一番わかりやすいのは、7卷でクマン人の捕虜となったフロマドカ隊の女性たちのエピソードである。

捕虜となって毎晩のように多人数から酷い性的暴行を受ける、というのは恐らく個人では消化しきれない痛みである。

個人ではなく捕虜となった全員でその痛みを引き受けたからこそ、「例え強姦による妊娠でも、その子を産んで、自分たちの思想を伝える。そうすれば最終的には自分たちの勝ちだ。だから頑張ろう」と思える。

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(引用元:「乙女戦争 ディーヴチー・ヴァールカ」7巻 大西巷一 双葉社)

恋人の前で暴行を受けたラウラもそうだが、個人で引き受けきれず自我が崩壊するような痛みでも、共同体全体でならば引き受け緩和し、何かに昇華することができる。

自尊心というものは個人のみで維持していると、個人が徹底的に傷つけられたとき、心の死につながり自殺を選ばざるえない。

しかしその自尊感情を何かに仮託できる、つまり「自分が傷つけられた痛みには、自分以外の何かにとって意味がある」と思えると、耐えることができる。

 

捕虜となり残酷な性暴力を受けて、それが元で若くして(絵を見ると13、4歳くらい?)死んだモニカは、個人単位で見ると 「これほどひどい死に方をして、生まれてきて何の意味があるのだろう。こんなに苦しい生ならば、いっそ生まれてこなかったほうが幸せだったのでは」と思う。

それは「乙女戦争」に出てくる、多くの登場人物がそうだ。

現代のように社会が「個人」を尊重し認めている時代とは違い、個人が尊重されない時代で生きていく意味を見出すためには、「自分の生や死に意味を与えてくれる他者」「自分を『自分』として見てくれる他人」が絶対に必要なのだと思う。

それが家族であったり恋人であったり、子どもであったり、仲間であったりする。

個人単位で見ると「意味がない生や死」を、共同体全体で意味があるものにする。例え死んだとしても、自分の思いを受け継いでくれる人がいる限り、客観的に見れば意味がない、苦しいだけのように見える自分の生に意味が与えられる。

 

この発想は「進撃の巨人」でも、エルヴィンが「死んだ兵士たちは、無意味な犬死にではない。後世に生きてる自分たちが、彼らの死に意味を与える。そして自分たちの死に、後世に続く人々が意味を与えると信じる」と同じように語っている。

「個人」がゴミのように扱われ死んでいく時代では、「自分の生は自分のみで完結しない」という発想がなければ、人は生きていくことができない。

 

「自分が死ねば、すべてが終わり。自分が死んだあとのことを考えることに何の意味があるのか」

と個人で自分の生を完結できる発想が持てること自体、とても幸せなことなのかもしれないと「乙女戦争」を読んでいてしみじみと思った。

 

「個人」というものが尊重される時代では、自我の痛みというものも人によっては非常にキツいものだと思うし、それほど共同体というものを必要としない人が、共同体の価値観を破壊している面があるので、それを真に必要としている人にとっては辛い時代だという面もある。(オウム真理教があれほど人を集めたのは、他に受け皿となる共同体や価値観が社会になかったことが問題だったのでは、と思っている。)

なので、「この時代の人に比べれば、現代日本に生まれただけで幸せでは?」ということが言いたいわけではない。

共同体を大切にしましょうよ、と言いたいわけでもない。どちらかと言うと、自分は「精神的共同体」というものに対しては、人よりも懐疑的な眼差しを向けているほうだと思う。「乙女戦争」を読み終わった今も、それは変わらない。

 

「乙女戦争」の時代は、社会が個人をゴミのようにしか考えていないから共同体の必要性が高いだけで、現代のように社会が個人を尊重している時代ならば、むしろひとつの共同体にコミットしすぎるのは危険だと思う。

「乙女戦争」で言うと、「父の娘」であることに自分のアイデンティティの全てを預けてしまっていたために、その父親に捨てられた途端自我が崩壊したイルマのような末路を辿りかねない。

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 (引用元:「乙女戦争 ディーヴチー・ヴァールカ」3巻 大西巷一 双葉社)

人の自我や心を癒すようにうまく機能する「精神的共同体」と、自我を破壊する「精神的共同体」とは何が違うのだろう、という疑問も「乙女戦争」で解けたような気がする。

「個人の思い」を大事にするかどうかなんだろうな、と思う。

 

銀河英雄伝説の中に「人は革命のために戦うんじゃない。革命家のために戦うんだ。理想のために戦うのではなく、理想を体現している人のために戦うんだ」といういいセリフ(うろ覚え)があったけれど、「乙女戦争」はこの言葉を体現したような物語だ。

 

「思い」が大事にされているから、これほど残虐で過酷な描写が延々となされていて、現代社会では忌まれがちな「共同体の気持ち悪さ」が描かれていても、とても癒されるのだろうなと思う。

 

9卷でジシュカが死んだけれど、「彼が何のために戦っていたのか」ということにそれがとても表れている。

もしジシュカがフスに実際に会ったのではなく、ただフスの考えを伝え聞いただけならば、どこかで割りに合わないと感じ、戦いを降りていただろう。

彼はフスの考えに共感したからではなく、死んでいくフスの思いを引き継いだから、ガチョウになり最期まで戦い続けた。

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(引用元:「乙女戦争 ディーヴチー・ヴァールカ」9巻 大西巷一 双葉社)

 

ジシュカの下で戦うシャールカたちは、フスの教えを信じる狂信者ではなく(作中で、シャールカたちがフスの教えに関心を持つ描写はほとんど出てこない。)「ジシュカが大好きだから」彼が死んだあとも彼の思いを引き継いで戦う。

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 (引用元:「乙女戦争 ディーヴチー・ヴァールカ」9巻 大西巷一 双葉社)

 

人を動かすのは机上の理論ではなく、その理論を体現している人への思いなのだ。

 

そういう意味で「乙女戦争」のフスのキャラクターは秀逸だ。彼の教えがどうしてこれほど多くの人にとって救いになったのか、戦争を引き起こすまで人の心を打ったのか、ジシュカのような人まで命を賭けて戦わせたのがが出てきた瞬間に分かる。

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 (引用元:「乙女戦争 ディーヴチー・ヴァールカ」9巻 大西巷一 双葉社)

 

「乙女戦争」のフスは、力強い信念に満ちていたり、非常に知的で指導力に優れているようには見えない。カリスマ性はほぼ感じない。

でも自分がもしこういう苦しい時代を生きていたら、フスのような人に触れたほうが一発で傾倒し、狂信者になるだろう。

過酷で非寛容な環境の中で、多くの人に赦しや居場所を与えられる人、というのは、強力な吸引力を発揮する。

優しく大らかで、どんな時も穏やかで笑顔を浮かべている「乙女戦争」のフスが本当に好きだ。「大好き」ほど人を動かすものはない。

 

「乙女戦争」が「過酷な環境下での苦しみに満ちた生も、人への思いやつながりがあれば生きていける」ということを描いているのならば、フスの人物像はこれ以外には考えられない。そして「人を赦し、他者の居場所になることで、苛酷な環境下に生きる人を救う」フスの役目を、彼が死んだ後も主人公のシャールカがしっかり体現している。

 幼い主人公が家族を皆殺しにされてレイプされて始まるような救いのない残酷な物語なのに読んだあとに癒されるのは、死んでいった人々の思いがしっかり引き継がれていることが分かるからだと思う。

 

「死んだあとも誰かが思いを引き継いでくれるから、その死は無駄ではないし、自分の死を恐れる必要はない」

というのは「個人」が確立している価値観の中だと、すごく怖い発想だと思う。

「乙女戦争」の中で出てくる歌で死をも恐れない高揚感を得たり、「炎のラッパ」のような特攻行為は現代の価値観で見てしまうとものすごい違和感がある。

しかし「個人」が認められなかった時代では、正しいとか正しくない以前に、こうやって共同体に自らの生死もアイデンティティも密着させて生きるしかなかった。

 

「乙女戦争」の時代のほうが生きるのに大変な時代なことは確かなんだけれど、共同体に密着せず「個人」として生きることを選べば、何かを強いられることはない代わりに、「個人」としての痛みも全て「個人」で引き受けなければならない。自分で自分に赦しを与えられない場合、その罪悪感をずっと背負って生きなければならなくなる。

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(引用元:「乙女戦争 ディーヴチー・ヴァールカ」8巻 大西巷一 双葉社)

現代社会は、そういう息苦しさや生きづらさの弊害がところどころに出てきているようにも感じる。「個人」を大切にするのはもちろんいいのだけれど、「個人至上主義」は偏りすぎだし危ういかもしれない。そんな風にもう一度、現代の価値観を見直してみてもいいのかな、と「乙女戦争」に癒されながら思った。

 

「理由なんてないよ。大好きだからだよ」っていいよね。

 

 

小池ノクト「蜜の島」は、アンチミステリー好き、どんでん返し好きにおすすめ。

 

ふと目に留まった小池ノクトの「蜜の島」を購入した。

 
あらすじが面白そうだったこと、全4卷と気軽に読めそうなこと、レビューがかなりの高評価だったことで購入を決めた。
もうひとつ、小池ノクトの絵がものすごく好みなこと。
 
小池ノクトのことは、竜騎士07が原作の漫画「蛍火の灯る頃に」の作画で知った。
最初見たときから、自分が漫画の絵の中では一、二を争うくらい好きな高橋ツトムの絵に似ていると思った。元アシなどつながりがあるのかな、と思ったけれど、そういう情報も出てこないので、空似?かもしれない。とにかくすごい好みの絵だ。

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(引用元:「蜜の島」1卷 小池ノクト 講談社)
 

「蜜の島」あらすじ

終戦直後、復員した南雲が、戦死した上官の娘・ミツを、ミツの母親の生まれ故郷である岩津島に送り届けようとするところから始まる。
岩津島は地図にさえ載っていない島で、終戦後に米国がその存在を発見し、調査に乗り出していた。
南雲とミツは、偶然同じ船内にいた内務省の調査官・瀬里沢と共に岩津島に辿りつく。
 
島に住む住民は明るく屈託がない様子だが、妙に話が通じなかったり、古い家にミイラになった遺体が残されていたり、村はどこか外の世界とは異質な雰囲気がある。
三人が到着した直後に、村の娘ハナが崖から落ち事故死する。
そして瀬里沢の同期であり、村に調査官として派遣されていた今村の、切り落とされた腕が発見される。
 

短い物語の中に、様々な要素が詰め込まれている。

全4卷と短い物語なのだが、「蜜の島」には様々な要素が贅沢なほど詰め込まれている。
 
歴史の裏舞台に追いやられた平田神道、日本の創生の古代神話、共同体とは何か、死とは何か、自分とは何かという概念的な話。
衒学を思う存分楽しんだり、形而上学概念でミステリーを成り立たせようとするその筋は、アンチミステリーの名作群のオマージュのように見える。
そういう方向性で解決するのかと思いきや、最後の最後で提示される驚くべき事件の真実。
アンチミステリーの要素とミステリーが非常に上手く融合した鮮やかな解決は、すさまじく爽快だ。
 
あとは瀬里沢がカッコいい。頭が切れてクールに見えて、実は情に厚い男。

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(引用元:「蜜の島」1卷 小池ノクト 講談社)
三白眼といい、髪型といい、「進撃の巨人」のリヴァイに若干似ている。
 

ちょっと話が駆け足すぎるような。

手軽に読めそうな点が気に入って購入したのでこんなことを言うのは何なのだが、描いている要素に比べて話が駆け足すぎる。
 
物語のコアな部分はしっかり描かれているのだが、遊びがほとんどない。
キャラ同士の人間関係も、かなりあっさりしている。
最後の真実の動機についてはミステリーの解決としてはうなったものの、感情面では今いちピンとこなかった。
もう少ししっかり描きこんだほうが、読んでいるほうもキャラに対して愛着が湧くので感動が深まるし、事件についても納得しやすいのではと思った。
 
終わり方も、かなりあっさりだ。
最後の締め方は、新しく生まれた「わたし」に通底するので上手いなと思ったものの、「必要なことだけ描きました」という感が否めない。
余りに手際が良すぎて、プロットだけを見せられているような気持ちになる。
それでも十分面白いのだけれど、もう少しじっくり描いても良かったと思う。
 
ベースがきっちり考えられている物語だけに、「よくできているなあ」という思いよりも、もったいないという気持ちが先行する。
 

まとめ

設定がすごく凝っていてよく考えているだけに、そこにのっける物語をこんなに手早くあっさり終わらせるのかともったいなく感じる漫画だった。

 

もうちょっとじっくり描いても良かったのに、というもったいなさは感じるものの、だからと言ってつまらないということはまったくない。

「話が面白そうだし、小池ノクトだし読んでみようかな」くらいの気持ちだったが、読み出したら止まらなくなり、一気に読んでしまった。

 民俗学的要素が好き、概念的な話が好き、ミステリーが好き、サスペンスが好き、このうちのどれかが当てはまるならば、読んで損はしないと思う。
 

全4卷で非常にきれいにまとまっている話なので、面白い漫画を探しているかたはぜひ読んでみて欲しい。

 
「蛍火の灯るころに」も面白い。まだまだ導入部分という感じだけれど。

【ネタバレ感想】「モンキーピーク」4卷は、予想の斜め上の展開。あの人がまさかの死亡。 

 

この記事は原作志名坂高次、作画粂田晃宏「モンキーピーク」4卷のネタバレ感想です。

未読のかたはご注意ください。

1卷~3卷までの感想はコチラ↓

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田中さんは「鉈猿」ではないようだ。

相変わらず、予想の斜め上を行く展開だった。

早乙女と別れた田中さんは、安斎一派がいる山小屋に辿りついた。

田中さんは、やはり「猿」ではなかったようだ。

www.saiusaruzzz.com まだ共犯者の可能性は捨てきれないけれど。 

 

今後、安斎というキャラをコントロールできるか。

極限状態の閉鎖空間に閉じ込められた安斎一派は、ひどい展開になるんだろうなと思っていたけれど、予想以上の陰惨展開だった。

 

こういう展開のとき、フィクションでは女性や子供、老人が犠牲になることはなかなかない。秩序がなくなったときに若い成人男性が肉体的強者であることは明確で、強者が弱者を虐げる描写というのは、読んでいる人間にすさまじい不快感を与えるからだ。

氷室が拘束されて拷問される描写もひどいのだけれど、それとはまた別種の弱肉強食の世界の怖さを感じる。

 

さすがに佐藤を拷問する展開にはならなかった。

そこまで行くと、エンターテイメントとしてはすごく厳しくなると思うし、作者も安斎というキャラを制御できなくなると思う。

 

こういうところを衝撃度を求めて逸脱しちゃうか、もしくは物語全体のバランスを考えて制御するかが創作をするうえで大切な点じゃないかな。

これで安斎に佐藤まで拷問させちゃうと、猿の存在とのバランスが難しくなると思う。

 「アカギ」で鷲頭と赤木の非人間性度のバランスがとれなくて、鷲頭のキャラを壊さざるえなくなったみたいな感じ。

こういうことをやっちゃうと物語を展開させるのが、ものすごく難しくなる。というか、作者が自分で勝手にハードルを上げている感じになる。

 

「モンキーピーク」は三巻の時点では、猿、安斎、八木兄妹の非人間性や残虐さのバランスをどうとるのかな、というのが今後難しそうだなと思っていたけれど、今のところはうまくバランスをとっている感じだ。

 

まさかの八木薫死亡。

でもそこも、予想の斜め上だったな~。

まさか八木妹が殺されるとは。

そして八木が猿の敵に回るとは。

てっきりこの二人は「猿狂信者」で、主人公たちを裏切って猿の手先になるのかと思っていた。

これはこれで面白いけれど、パワーバランスが悪くないか? と思う。こういうホラーテイストの話は、主人公側がかなり不利くらいで丁度いい気がする。

純粋な味方というよりは、とんでもないことをしでかしそうな雰囲気ではあるが。

 

岡島の死に涙。

主人公の早乙女みたいに徹頭徹尾いい人キャラよりも、岡島みたいに「良くないことかもしれないけれど、周りがイライラするのも分からないでもない」という灰色のキャラが犠牲になったほうが泣ける。

こういうどこかにいそうな普通の人が上手く描かれているところもいい。

 

普通の範囲を大きく逸脱している安斎よりも、社会では「卑怯で自己中な普通の人」である飯塚や南、氷室のほうがムカつくし、佐藤や遠野、藤柴、田中みたいに「自分が出来うる範囲のみでいい人」の気持ちもよく分かる。

そりゃあこんな状況じゃあ、誰しも自分のことしか考えられないよ。

 

安斎がやっていることは怖いし、飯塚がやっていることは最低だと思うけれど、そういうものに対しての「作者の視点」みたいなのを感じない。

こういう人たちを作者がことさら断罪している風でないところも、「モンキーピーク」のいいところだと思う。

「ほうら、人間みんな、極限状態になるとこんなに醜くなるんですよ~~」みたいに描かれると、特にエンターテイメント作品では鼻について読めなくなる。

 

辻殺しの犯人は、氷室だった。  

「辻は経理だから、何か会社の金銭上の問題を知っていたのでは」

「氷室も横領程度ならば、あそこまでやらないだろうし」

と言っていたのに、この二つを結び付けて考えられなかった…。くっそお、悔しい。

経理の辻が氷室の横領を知っていてゆすっていたから、氷室は辻を殺したのね。

 

猿は複数人いる。

鉈猿と弓猿が別人。槍猿は弓猿と同一人物かな?

とりあえず四巻の最後で、猿はまだ最低でも三匹はいることが分かった。

これだけ見るとなんかかわいいな。

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(引用元:「モンキーピーク」4巻 志名坂高次/粂田晃宏 日本文芸社)

 

死んだ鎖場猿は長谷川さんかな、とも思ったけれど、三巻で弓猿が弓矢で狙っているので違うのかもしれない。

(追記)これはもしかしたら狙ったのではなく、矢文を打ち込もうとしたのかもしれない。長谷川が時計を見ているのも、約束の時間だったからなのかも。そうすると、鎖場の猿は、やはり長谷川??

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(引用元:「モンキーピーク」3巻 志名坂高次/粂田晃宏 日本文芸社)

 

あとそのシーンの少し前で、シートをはがして死体を確認していることがやっぱり気になる。

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(引用元:「モンキーピーク」3巻 志名坂高次/粂田晃宏 日本文芸社)

内通者がいるけれど、連絡手段が限られているから死んでいるかもしれないと思ったか、もしくは特に殺したい人間がいるのか。

(追記)靴がなくなっているという描写か。黒い服が馬場なので裸足なのは寺内だけれど、二巻を確認したら、死んだときには靴を履いている。

昼間にとるのは恐らく無理だと思うので、とられたのは夜だと考える。

五十音順で見張りをしていて、長谷川の順番の時に氷室が裏窓を開ける騒ぎが起こっている。

早乙女、宮田、安斎の三人が動き出す人間を見張っていたのだから、見張りの人以外は、靴をとれない。五十音順で長谷川の後に当たる、林、氷室、藤柴、宮田、南には靴は盗めない。足を怪我している黒木も無理。

残るのは安斎、飯塚、岡島、早乙女、佐藤、遠野、長谷川、念のため田中も。

このうち心の声が出ている岡島と早乙女はない。そうすると安斎、飯塚、佐藤、遠野、長谷川、田中の誰かになる。

氷室の尋問でみんなが集まっているときに見張りだった長谷川が、一番靴をとるチャンスはあると思うけれど。

犯人が誰にせよ、なぜ靴をとったのだろう。思いついたら、また追記する。

 

結局、四巻は八木薫、岡島、黒木と犠牲者が増えたのと辻殺しが氷室の仕業だったと分かっただけで、猿については謎が深まっただけだった。

次巻は団体戦に期待。

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(引用元:「モンキーピーク」4巻 志名坂高次/粂田晃宏 日本文芸社)

 

矛盾だらけの不思議な歌詞。秦基博「ひまわりの約束」の謎を考える。

 

初めて聴いたとき、不思議な歌だと思った。

「STAND BY ME ドラえもん」の主題歌として有名な秦基博の「ひまわりの約束」を初めて聴いたとき、不思議な歌だなと思った。

改めて歌詞を読み返すと、多くの謎と矛盾が含まれていることに気付く。その矛盾と謎について、改めて考えてみたい。

 

この記事を書くにあたって、秦基博自身の言葉や他の人の解釈は目にしていない。もしかしたら、もう公式の解釈があるのかもしれない。

自分は、初めてこの歌を聴いたいたときに感じた、自分自身の疑問を考えたいと思ってこの記事を書いている。あくまで、個人的なひとつの解釈として読んで欲しいと思う。

 

「僕」と「君」との関係が分からない。

「ひまわりの約束」は、「僕」が「君」に対しての思いを述べる歌である。

一番では一緒にいた二人が、二番で離れ離れになり「僕」は「君」を思い出してその思いを歌う。

 

「僕」に悲しいことがあると、「君」のほうが先に泣く。

「僕」に何かあると「辛いのがどちらか分からなくなるほど」「君」は悲しむ。

「僕の悲しみを、僕以上に辛く思い悲しむ存在」ということから察するに、「僕」と「君」はそうとう親密な関係であることが分かる。

少なくとも「君」は「僕」のことを、大切に思っている。

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この段階で、真っ先に思い浮かぶ関係は「親子」である。「君」から「僕」への一方向の思いが強いように感じるからだ。

しかし、親子であるなら「君」という二人称には違和感がある。

親に対して「君」という二人称を使う子供も存在するかもしれないが、一般的には想定しづらい。

「僕」「君」という言葉から、内実はどうあれ表向きは二人は対等の関係性だという想像が妥当だ。

 

とりあえず恋人(もしくは夫婦)、あるいは親友という仮定で先を読む。

そうすると、また不思議な言葉にぶつかる。

 

「そばにいたいよ。君のために出来ることが、僕にあるかな」

  

自分がこの歌の歌詞で最も不思議に思ったのは、この部分である。

そばにいたいなら、ただいればいいのではないか? 

「君」は「僕以上に、僕の悲しみを悲しんだり辛がったりする存在」なのである。

それほど大切に思われているなら、「君」だって「何もしなくても、ただそばにいてくれるだけでいい」そう思っているだろうと想像がつく。

 

しかし、「僕」はこう思っている。

「そばにいるためには、君のために何か出来ることがなければならない」⇒「そうでなければ、そばにいられない(もしくはいづらい)」 

少しとんで、二番のサビの歌詞にくると、「僕」がなぜそう思うのかが少し分かってくる。

「その優しさを温もりを全部返したいけれど、君のことだからもう充分だよ、ってきっと言うかな」

 

「僕」は「ひまわりのような優しさや温もり」を、「君」から一方的にもらってきたと考えている。(事実はともかく、「僕」はそう考えている。)

そして「君」が言うであろう「もう充分だよ」という言葉から察するに、「僕」がそう思っていることは「君」も知っている。

二人の関係は、表面上は「僕」が「君」から一方的に色々なものをもらっていた関係なのだ、ということが分かる。

 

一方的に「優しさや温もり」をもらってきた関係に負い目があるために、「僕」も「君」に何かしてあげたい、もらったものを返したいと考えている。

そうでなければ、そばにいたいけれどいられない、でもそばにいたい、そういう意味になる。

 

「僕と君」という対等の関係でありながら、「一方的に何かを与えてもらい、それを返せなければそばにいたくてもいられない」と「僕」が考える関係。

これだけでだいぶ矛盾しているが、歌が進めば進むほど、二人の関係がどんどん分からなくなる。

 

二番の歌詞で、二人は別々の道を行く

これほど「いつも君に笑っていてほしい」「そばにいたい」という相手を思う気持ち繰り返しながら、二番で二人は唐突に離れ離れになる。

 

「旅立ちの日 手を振る時、笑顔でいられるように」

 

「笑顔でいられるように」という言葉からして、死別や喧嘩別れなどのネガティブな理由による別れでないことが分かる。

それぞれの目標に向かっての門出、という印象が強い。

しかし、それにしてもなぜ、別れなければならないのかが理解できない。

 

「返したいけれど、君のことだからもう充分だよ、ってきっと言うかな」

 

という歌詞からは「返したいけれど、その機会はもうないかもしれない」ということが感じとれる。

一時的な別れではなく、もう会うこともないかもしれないという印象だ。

そして「きっと言うかな」という言葉が現在形ということは、「君」は生きているから、会おうと思えば会えないこともない状態なのだと分かる。

それなのにもう二度と会うことはないかもしれない、そしてそれでいいというニュアンスが感じ取れる。

「その先でまた出会えると信じて」とあるので、自分の意思では会いに行くつもりがないということだと考えられる。

 一番の歌詞であれほど強くお互いを思いやり、「ここにある幸せに気づいた」と言っていたのに、なぜ二人は離れ離れにならなければならないのだろう??

二人が一体何者で、何があったのかますますわからなくなる。

 

今までの話をまとめると、「僕」と「君」は、

①表面上は対等な関係である

②「君が僕の悲しみを、僕以上に辛く思い悲しむ」というほど、親密な関係である。

③「僕」は「君」から、そばにいづらくなるほど、一方的に「優しさや温もり」を与えてもらっていると感じている。

④③を「君」も知っている。つまり表面的な事実としては、「君」が「僕」に一方的に色々与える関係性である。

⑤二人は、それぞれの未来に向かって、笑顔で前向きに別れた。

⑥そして、恐らく二度と会うことはない。(会う可能性を信じてはいるが、率先して会うつもりはない。)

 

歌詞をすべて読んでまとめてみても、「僕」と「君」がどんな関係で、なぜ別々の未来を歩まなければならなかったのか見当もつかない。

かろうじて恋人同士がお互いの未来のために、別々の道を選んだのか?というストーリーが当てはまりそうだが、気持ちが既に終わっているという印象がまったくない。

これを「それぞれの未来のために終わらせた恋の物語」と見るのは、かなり違和感がある。

 

何故ならこの歌の最大の矛盾は、

「別れの歌」であり「あのときああだった」という「思い出の歌」でありながら、後悔がいっさいない点にある。

「あのときああすれば、今はこうなっていたのではないか」という後悔や、「君」と離れた悲しみや喪失感がいっさい語られていない。

 

一瞬だけ語られる

「返したいけれど」

という後悔めいた気持ちは、次の瞬間に、

「君のことだから、もう充分だよってきっと言うかな」

と、後悔にはならず、自己完結する。

 

罪悪感を感じてもそばにいたいと望んだ相手に二度と会えないかもしれないのに、悲しみや後悔はいっさい感じず、相手への大きすぎる感謝と前向きな気持ちにすべてが昇華されている。

逆に言えば後悔や別れの悲しみを感じないほど、相手への感謝が大きい。一方的にもらった優しさや温もりがあって、自分は成長し、前向きに旅立つことができた。

しかし親子ではない。

「君と僕」「二人なら宝物になる」「それぞれ歩いていく」など、対等な関係を思わせる言葉がそこかしこにあるからだ。

 

自分が今まで聞いた歌の中では、こんな不思議な関係性の歌はなかった。

結局、最後まで「僕」と「君」がどんな関係で、二人のあいだにどんなことがあったのかは明言されずに曲は終わる。

 

まさにドラえもんとのび太の歌である。しかし…。

「君と僕」の対等な関係でありながら、「君」が「僕」に一方的に優しさや温もりを与える保護者と被保護者のような関係でもある。

いつかはお互い別々の道を歩むことがわかっていて、離れたときに悲しみや後悔よりも圧倒的な感謝を感じる関係。

「要するにこれはドラえもんの映画の主題歌で、ドラえもんとのび太の歌です」と言われれば、それですんなりと納得がいく。

 

しかし、そうなったときに思うのは、これはドラえもんとのび太以外ではなかなか見当たらない特別な関係性で、ましてや現実でありうるのかというと、そうそうないのではないか、ということだ。

余りに特別な関係だから、それを「ドラえもんとのび太」という存在に限定せず「君と僕」という存在で歌にした時に、多くの人にとって意味がある歌になりうるのか。

そんな疑問がある。 

 

しかし、そんな「ドラえもんとのび太」という限定された特殊な関係を思わせるにも関わらず、この歌は多くの人に愛された。

自分も初めてこの歌を聴いたとき、強く心を動かされた。

今まで一方的に「ひまわりのような優しさと温もり」を与え続けてくれた、ドラえもんのような存在に出会ったことがないにも関わらずである。

「自分が見たこともない関係性の歌なのに、聴いたとき泣けて仕方がない」

たぶんこの矛盾が、この歌の意味を考えるきっかけになったのだと思う。

 

この歌は、見たこともない関係性の歌ではない

恐らく誰もが人生で一度は、例え一瞬であっても、誰かから無償で「ひまわりのような優しさと温もり」を受けとったことがあるから、この歌は多くの人の心を動かすのだと思う。

その相手は人生で一瞬だけすれ違って、もう二度と会わない人かもしれない。

そしてその誰もが、「返したい」と言ったときに「もう充分だよ」と答えるのがわかっている。

何故なら自分も、誰かにとって無償で「温もりや優しさ」をあげたことがある「君」であり、「返したい」と言われたら、きっと「もう充分だよ」と答えるだろうからだ。

 誰もが誰かの「そばにいたい」と願ったことがあり、「ここにある幸せに気づいた」ことがあり、それでも「旅だちの日」を迎えて「それぞれ歩いたこと」があるからなのだろう。

 

誰もが誰かにとっての「君」であり、誰かにとっての「僕」なのだ。

 

今まで自分が出逢いすれ違った、「優しさや温もり」をくれた無数の「君」と、逆に自分に「優しさや温もり」を与えられたと感じた無数の「僕」を思い出させる。

人生の少しの関わりの中で、誰もがそうやって与え与えられ生きている。一瞬だけすれ違って、別々の道を歩むけれど。

 

日常を生きるうちに記憶の片隅に追いやられていた、自分が誰かにとっての「僕」であり、誰かにとっての「君」だった場面場面を、強烈に思い出させる歌なのだと思う。

だから「ドラえもんとのび太」という現実にはあり得なさそうな理想的な関係を歌いながら、多くの人が心を揺さぶられる歌なのだと思った。

 

ドラえもんとのび太の関係性は、いっけん漫画だから可能な美しいもので、現実にはあり得そうもないもののように思える。

でも実は、「ドラえもん」に象徴される「ひまわりのような優しさと温もり」は、自分の人生に与え与えられてきたものなのかもしれない。それが余りにささやかなものだから、気づかないだけで。

 

誰もが誰かにとって、のび太でありドラえもんなのだ。

そのことを気づかせてくれる歌である。

 

(歌詞引用元:「ひまわりの約束」作詞作曲:Hata Motohiro 2014年)

ひまわりの約束 -Deluxe Edition-(DVD付)

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STAND BY ME ドラえもん

STAND BY ME ドラえもん

 

 

「たまたま法に触れることなく、俺の掟に沿って生きているだけだ」というキャラが好き。

 

「ザ・ワールド・イズ・マイン」で、ヒグマドンと戦う猟師・飯島が言うこのセリフが大好きだ。

自分が好きなキャラクターの共通点は、このセリフのような生き方をしていることだ、と気付いた。

 

傍から見ると冷酷に見えることもある。優しく見えることもある。利害に聡いように見えることもあるし、まったく何も考えていないように見えることもある。社会的規範に重なるようなことをすることもあるし、それらにまったく関係なかったり相反する行動をとることもある。

他人には理解しようがない、自分独自のルールだけを守って生きているので、他人には何を考えているのか、どういう人間なのか一見では理解できない。

自分独自のルールは利害に反しても、生死に関わる問題でも絶対に譲らない、そういうキャラが好きだ。

 

代表的なキャラは赤木だけれど、

「ザ・ワールド・イズ・マイン」の飯島。

「ゲーム・オブ・スローンズ」のブロン。

「ゴールデン・カムイ」は、ほとんどのキャラがこのタイプであることが好きな点のひとつで、特に尾形が好きだ。

樹なつみの「OZ」に出てくるネイトもいい。少女漫画だと、このタイプのキャラは余り見かけない。

「俺の掟」が社会的正しさと重なる部分が多いので違うタイプに見えるけれど、「銀河英雄伝説」のオーベルシュタインもここに入ると思う。

 

「ファイナルファンタージータクティクス」のガフガリオンもこのタイプ。

ガフガリオンは自分が今までやったゲームの中で、一番好きなキャラクターだ。

狡猾で残忍で利己的なリアリストだが、そんな自分すら皮肉な目で見ている。

理想主義の偽善性をとことん追求するラムザとの会話も好きだけれど、世慣れた感じで皮肉を飛ばすダイスダークとの会話も好きだ。ガフガリオンの性格が、よく表れている。

 

「ファイナルファンタジータクティクス」は何度もプレイするくらい大好きだけれど、物語的にはガフガリオンが死んでウィーグラフがルカヴィ化したところでいつもテンションが下がる。

善悪がはっきり分からない人間同士の戦いが面白いのに、 神と悪霊の話になってしまうのは残念だった。

ウィーグラフは、ガフガリオンの対極の存在と言っていいと思う。あまり好きなキャラではない。ラムザほどではないけれど。

 

 男性キャラで好きになるのは、だいたいこのタイプのキャラか、「自分の卑しさに苦しみながら、それでも変われない弱さを持つキャラ」のどちらかだ。

こちらは、ひと言で言うと「心の弱い小者」。個人的に「サリエリキャラ」と命名している。

一歩間違うと簡単に闇落ち化して、ろくでもない末路をたどる。

 

「ザ・ワールド・イズ・マイン」のトシ。

「ゲーム・オブ・スローンズ」のシオン。

「銀河英雄伝説」のアーサー・リンチ。

「カラマーゾフの兄弟」のフョードル。(開き直っているけれど。)

「鉄血のオルフェンズ」は、第一部のユージンが好きだった。第二部ではただのいい人になってしまい残念だった。

「マギ」の白龍も基本的にはこの系統。

 

このキャラの中で闇落ちしないほど性格がいいキャラが、「木更津キャッツアイ」のアニだと思う。葛藤が他人ではなくすべて自分に向くので、社会的ダメ人間になる。

 

いまアニメ化で注目を集めている「BANANA FISH」では、オーサーが好きだった。オーサーが死ぬ間際にアッシュに言う、嫉妬まみれの激白は共感しすぎて泣ける。

アッシュが言う通り才能がある人には才能がある人の苦しみがあるだろうし、望んでそうなったわけじゃないという気持ちも分かるけれど。

いま思うと、アッシュに嫉妬できるなんて、むしろオーサーは凄いと思う。(嫉妬すらできないだろ~)

誰かそう言ってあげてくれ。まあもう死んだからいいんだけれど。

 

自分が物語のキャラだったら、どうせそこいらにいるモブだろうな、という僻みのようなものがこういうキャラに肩入れしてしまう原因かもしれない。僻みっぽいのだ。

 

こうやって並べてみると、好きになるキャラの傾向って、何年経っても変わらないんだなあ。

 

という理由もあり、「BANANA FISH」には今いちハマれずところどころうろ覚え。 これを機に読み返そう~。

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【ネタバレ考察】「俺は俺を肯定する」20世紀最凶の衝撃作 新井英樹「ザ・ワールド・イズ・マイン」を読み解く

 

読もう読もうと思っていた「真説ザ・ワールド・イズ・マイン」を読んだ。

昔、最初のほうを少しだけ読んだことがある。その時は「人を殺しまくる過激さを描いているのかな」と思って面白いと感じず、読むのを止めてしまった。絵も好みじゃないし。

 
今回、改めて読んでみて、すごい話だと思った。よくこのテーマをこの巻数で綺麗にまとめたな、と思う。
 

 「ザ・ワールド・イズ・マイン」が難しいなと思うのは、登場人物がほとんど自分の考えを断片的にしか語らないからだ。

というよりは登場人物たちも、社会が破壊され機能しなくなった極限の状況で、初めてこういう問いを向き合っている。

明確に答えを語れないし、人によってはその答えが二転三転したり、状況によってまったく違うことを言い出したりする。

 

突きつけられた問いに対する追い詰められた人間のギリギリの葛藤と叫びが、すごくリアルだ。

 

モンちゃんを初めとしてヒグマドンやイヨマンテの下りなど、それを実体としてとらえていいのかメタファーとして見たほうがいいのか迷う存在も多い。

「真説」は作者のインタビューが載っているので多少、どういう物語なのかということを考える手がかりが増えている。

 

この物語をどう解釈するのか、自分なりの考えを述べたい。

 

「命の価値を決めるのは誰なのか」

「人間同士の契約を破棄した状態」を作るために社会を破壊する。

「命に価値があるのかないのか」については、作中では主に三つの立場が出てくる。

①命は平等に無価値である。(モンちゃん、飯島)

②命は時価であり、状況や相手との関係性でその価値は変動する。(由利、トシ、その他大勢)

③命には平等に価値がある。(マリア、塩見、須賀原)

恐らく多くの人が社会が正常に機能している現代で「命に価値があるのか?」と問われれば「③だ」と答える。

 

しかし本来は違う。赤の他人の死と身内の死、自分の死を同じように考えることはできない。

由利が看破した通り

「他人が死んでも、私は今日を眠りメシを食い、明日は笑うだろう」

それでいながら自分の死には怯え、肉親の死は嘆き悲しみ、理不尽さを呪う。それが普通の人だと思う。

 

しかし多くの人は本音は②でありながら、「③である」という建前を崩さない。

「命には平等に価値がある」という建前が崩れれば「社会」が守れないからだ。「人間同士の契約」である「社会」を守り生きるために、「命には平等に価値がある」という建前を言い続ける。

 

ではその「社会」が破壊され意味をなさなくなったとき、人は「命は平等に価値があるのか?」という問いに何と答えるのか?

 

「ザ・ワールド・イズ・マイン」では、この問いに「社会の一員」ではなく、個人として向き合わせるために、これほど徹底的に社会を破壊している。

モンちゃんが言う「俺は俺を肯定する」という言葉を、飯島は「神と人間の契約を破棄する言葉だ」と言った。「社会を破壊する」ことは「人間同士の契約を無効にする」ことだ。

 

「人が人を殺してはいけない理由は何なのか?」

青森西署を襲撃した際、トシが総理に答えを要求した問題は非常に重要である。

「宗教や法律以外で、人が人を殺してはいけない理由は何なのか?」

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(引用元:「真説ザ・ワールド・イズ・マイン」1巻 新井英樹/エンターブレイン)

「法律=社会=人間の契約」「宗教=神との契約」が破壊され意味がなくなったとき、命は平等に無価値になるのではないか。

「俺は俺を肯定する」「世界は俺のもの」という言葉は、人間同士の契約と神との契約を無効にする言葉だ。だからモンちゃんは「命は平等に無価値である」と断じ、凶行を重ねる。

 

作品の中でこの「人間同士の契約が無効になった状態」を、読者は何度も味合わされる。

それはヒグマドンにいきなり襲われて、先ほどまでその命の大切さを説いていた教師が、猫を「餌」と言ってその眼前に突き出すことだったり、関谷潤子に対する「マリアを殺せば、お前とお前の息子の命は助けてやる」というトシの言葉だったりする。

トシの父親に同情すれば、トシに惨殺された紀子の母親から「あの中継を見て(父親に)同情した奴らは、紀子をもう一回殺している」という言葉を浴びせられる。

どれほど綺麗ごとを言っても他人の命の価値を、しょせん自分の快不快でしか判断していないことを思い知らされる。

 

自分が安全圏にいるときのみその綺麗ごとを喋ることに対して、モンちゃんはトシに「お前は俺より残酷でズルい」「今、お前が振りかざす気持ちも善悪も屁理屈だ」と看破している。

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(引用元:「真説ザ・ワールド・イズ・マイン」1巻 新井英樹/エンターブレイン)

社会が破壊され善悪という建前をいう余裕がなくなったとき、「命には平等に価値はあるのか?」という問いに自分自身はどう答えるのか。

そういう状況を作るために、「ザ・ワールド・イズ・マイン」では、あれほど凄惨な大量殺りくが描かれている。

 

「神との契約」と「人間との契約」

「ザ・ワールド・イズ・マイン」では契約という概念が何度か出てくる。「命に価値があるのかないのか」という問いに対して、それぞれの考えとは別に「どの契約を重んじるか」という項目が組み込まれている。

 

①「命は平等に無価値である」 

ガタルカナル島の戦いの生き残りである飯島は、モンちゃんと同じように「命には価値がない(命など赤紙一枚の原価一銭五厘の価値しかない)」と考えている。人間同士の契約はそれほど信じておらず「たまたま法に触れることなく、俺の掟に沿って生きているだけだ」と語っている。

ただ飯島は神との契約については一応重んじている。だからモンちゃんと違い、自分の欲望や衝動のみの殺しはしない。

 

神とも人間とも契約しておらず「命は平等に無価値だ」と語るモンちゃんは、マリアと関谷潤子と子供の命を守るという契約をかわす。

 

 ②「命は時価である」

恐らく建前をなくした9割以上の人の本音がこれだと思う。

この点、人間同士の契約が生きている社会的な存在である塩見にでさえ「赤の他人が人質だから撃てというが、自分の娘だったら言うわけないだろ」と言い切る薬師寺は潔い。

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 (引用元:「真説ザ・ワールド・イズ・マイン」四巻 新井英樹/エンターブレイン)

 

案の定、塩見から批判される。後述するが塩見は③の人間であるから、この批判は成り立つ。

だが本来は②であるのに、安全圏にある時だけ「③である」ということを、この物語では「ズルい」と繰り返し批判している。

 

③「命には平等に価値がある」

人間同士の契約が破壊された状況でもなお、この主張を繰り返すのがマリア、塩見、須賀原である。

マリアと塩見は「神との契約」があるために、人間同士の契約を自ら破棄して殺戮を行うモンちゃんやトシですら殺すことができないし、殺さない。

 

須賀原は③であるが、マリアや塩見とは違い「無神論者だ」と本人が言っているとおり神とは契約はしていない。一方で「個人よりも社会」という言葉を使っていて、人間同士の契約は非常に重んじている。

「自分の身内だろうと、他人の命との間に価値の差はない」「すべての命に同じ価値があるから数量で判断する」須賀原は、「人質が自分の娘でも射殺しろと命じるだろう」と評される。

 

トシの父親に対する「人間としては正しいが、父親としては失格」という須賀原の言葉は、後の自分に対して言っているように見える。

物語の中で「他人に言っているように見えて、自分に言っているのではないか」 というセリフがいくつか出てくる。

トシがマリアに言った「自分の親が死んでホッとするなんて、どういう了見だ」も明らかに自分に重ね合わせている。

こういう部分も、何重にも屈折した登場人物の心情を理解する手がかりになっているところが面白い。

 

モンちゃんとトシ

モンちゃんは人間なのか?

物語において、モンちゃんを「人間として見るかどうか?」というのは難しい問題だ。「モンちゃんを人間として見るか」で物語に対する見方(特に結末)が大きく変わる。

 

自分は最初、モンちゃんは「物語的には」ヒグマドンと表裏一体の存在であり、熊神ではないかと考えていた。

理由はいくつかあるが、生まれたときから背中に毛が生えていたことや、暴力を振るうシーンで毛皮をまとっていることが多いこと、また飯島や初江が「人間じゃない」と言っている点だ。

物語の最後では、飯島を「なめとこ山の猟師」としてイヨマンテを行っている。 

 

ただ生い立ちが描かれていたり、マリアが「おメは人間だと。モンちゃん」と言っていること、また「真説」のインタビューで作者が

モンちゃんはマリアとの関係の中で、初めて生きることを肯定されたのだと思う。

 (引用元:「真説ザ・ワールド・イズ・マイン」四巻 新井英樹/エンターブレイン)

と暗に人間であるような発言をしている。

 

「神や人間との契約を知らない原始の人」であるモンちゃんを「人間にする」ためにマリアが行動していた、というのがサブストーリーだとすると、人間ではなく神になった結末に疑問を感じる。

 

「吐き気するほど人間のスタンダート」なトシ

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(引用元:「真説ザ・ワールド・イズ・マイン」5巻 新井英樹/エンターブレイン)

 

トシのやったことは最低な許されないことだ。

ただ自分は9割以上の人間はトシのような弱さを内包している「吐き気するほど人間のスタンダート」だと思っているので、物語外の人間としてトシに非常に同情している。

 

この物語には「赤の他人の痛みを想像できない人間」「見も知らぬ他人の死ならば、数値としか考えられない人間」が繰り返し出てくる。トシモンのやることに喝采をあげた人、トシモンに殺人依頼をした人間、ヒグマドンの被害にもっと死傷者が出ないかと言った人間、世間の多くの人間は心情的にはトシとまったく同じであり共犯者だ。

 

強盗に入った家の子どもを何の躊躇もなく殺しながら、「仲間になり個人と認識したマリア」を救いたいと願うようになったことも、トシが本来は②の価値観を持つ普通の人間であることを表している。

むしろ「自分は弱い人間だから、強い力を持ったら使いたくなる。だから持ってはいけない」と自覚していたぶん、普通の人より心が強かったのではないかとすら思う。

 

トシが気の毒だと思う点は、あれほど人を殺しておきながら、求めていたのは人だったということだ。誰かに自分を認めてもらうこと、それだけを求めていた。

自分を始めて認めてくれたのがモンちゃんだから、彼に付き従い、その力に酔った。

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(引用元:「真説ザ・ワールド・イズ・マイン」5巻 新井英樹/エンターブレイン)

 

しかし運命が導いたと信じた行動は、自分の勘違いにすぎなかった。そしてその勘違いの裏側には、自分が求めていた自分を認めてくれる人がいた。

マリアに人工呼吸をしたときに、「僕、初キスやで」というセリフは泣けた。あれほどのことをしでかしたのに、求めていたのはただ自分を認めて愛してくれる人だけだった、ということが伝わってきて辛い。

 

トシは最期、被害者の遺族によって惨たらしく殺される。これは人間同士の契約に基づくので当然だと思う。

しかし信じていた運命に裏切られ、契約を結んだ力の神に嘲笑われたことは、同じ「吐き気がするほど人間のスタンダート」としては辛い。

 

「想像力の欠如したバカ」と由利が痛烈に批判した、世の中の大多数を占める普通の人間に過ぎないトシは、

「殺したい奴を殺した訳とちゃうんや」

「どこがどおでこおなったか、まだ何もわからんのや」

「神さま」

と叫んで死んでいく。

 

トシや世の中の多くの人間が酔った「俺は俺を肯定する」という神との契約を破棄する言葉も、実存主義にかぶれた強姦魔が吐いたセリフにすぎず、「人間のスタンダート」はとことんコケにされる。

無力で平凡な人間に対して、世界は余りに強大で残酷だ。

 

総評

 「ザ・ワールド・イズ・マイン」は、人間という未熟で不完全な存在でありながら個々の命の価値を決める傲慢さ、そんな傲慢さですら社会という安全圏が崩壊したときに容易く捨て去る人間の卑小さを徹底的に批判した物語である。

 

「世界はつながっており、他者に生かされている人間は、例え相手が殺人鬼であっても、命の選別自体をしてはならない」

「その命を生かすか殺すか決めるのは、神のみの権利だ」

 作中で飯島が星野に語る

「生きたいと思う奴だけ生きたらいいべ。生かしたいと思う奴がいれば生かせばいい」「それでも死ぬときは死ぬ。そういった……もんだべさ」

人間が命に対してできることは、この理を受け入れることだけではないか、と語っている。

 

自分は、飯島やマリアや塩見のようにはどうしても思えない。トシが塩見に言ったように「(結局みんな)一緒や」ということなのだろう。

 

自分が納得できる理由なら、人を殺して構わないと思っていいのか。

テレビで悲惨な死を見ながら「明日には笑う」自分に、死ぬべき人間を選別する資格があるのか。

容疑者の両親に同情して、赤の他人の被害者のことを容易く忘れる自分に、誰かに死ぬべきだという権利があるのか。

 

自分は本当は命についてどう思っているのか?

 

そういうことを自他を極限の状況に追い詰めて喉元に刃を突きつけるようにして問いただしてくる本作は、他に似た作品を見たことがない。

こういう時代だからこその問いであり物語なので、現代の代表作として後世に残って欲しいなと思う。

 

 余談:「羆嵐」と飯島

「ザ・ワールド・イズ・マイン」には吉村昭の「羆嵐」の影響をところどころ感じる。

「羆嵐」の作中で一貫して語られている、「人間には理解しがたいものに対する畏怖の感情」をトシがモンちゃんに語っているし、畏怖の対象にただひたすら頭を垂れるだけの存在を「ズルい人間」と言うのも、両作品で共通している。

「羆嵐」の熊撃ち名人・銀四郎も飯島を連想させる。

 

自分が一番好きなキャラクターも飯島だ。

佇まい、吐く言葉、生き様のすべてがカッコいい。銃を持っていない普段は、嫁や息子にたしなめられるただの老人にしか見えないところもいい。

自分が星野でも「飯島語録」を書きとめてしまいそうだ。飯島から「マブダチ」と言われた星野が心の底から羨ましい。

星野は「モンちゃんではなく飯島に会っていたら」という、トシのもうひとつの可能性のように見える。

 

飯島語録は全部好きだけれど

「空に鳥、海に魚、山に獣がおることを、あんたらは感謝しなきゃなんねえ。いなけりゃ、あんたらが俺の獲物さ」

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(引用元:「真説ザ・ワールド・イズ・マイン」2巻 新井英樹/エンターブレイン)

 

「たまたま法に触れることなく、俺の掟に沿って生きているだけだ」

この二つが特に好きだ。

 

飯島にはモデルになった熊撃ちの人がいるようだが、久保さん? 外見が似ていないから違うかな?

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「運命に対する無力さ」を描く「親なるもの断崖」は、男性に残酷な物語なのかも。

 

この記事からの派生話題です。引き続き主語デカい系の話です。

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この話の中で「無力感や無能感に対する耐性の低さ」「無力であることは悪である」という考えは男性特有のものであり、「運命に対して受け身で無力になったときの耐性」のようなものが、よく言われる「男性にはない女性の強さ」につながっているのではないか、ということを書きました。

 

あえて言うと

「運命(敵)に立ち向かう」ときに強さを発揮するのが男性で、「運命(敵)に耐える」ときに強さを発揮するのが女性なのではないかと。

 

「親なるもの断崖」は、自分ではどうすることもできない、立ち向かうことも難しい運命に男女問わず、主要登場人物ほぼ全員が翻弄される物語です。

主な男性キャラである大河内、直吉、聡一は、梅の運命や世の中を何とか変えようと頑張るけれど、それが果たせずに無力なまま表舞台から消えていきます。

武子が死に損なった梅に言う「自分の生きざまで世に問え。おなごの深さ、強さを見せつけてやれ」は、男が死に損なうと難しいんだなと感じます。

 

「親なるもの断崖」は、女性である梅だからこそ過酷な運命に対して無力であっても「決して母を不幸と思うな」と言われるような人生を送ったわけで、聡一が梅の前から姿を消した点を見ても、無力感というのは男にとっては致命的なんだな、と思いました。

梅が道生の前から姿を消した理由と、聡一が梅の前から姿を消した理由の違いにそれがよく表れている気がしてなりません。

 

「女の人一人幸せにできなかった男のくやしさは、道生の悲しみの百倍はあるぞ」

「家族を残して死んでしまった親父の気持ち、おれ、同じ男だから分かるんだ」

女性向けだと、こういうことも言葉にしないと「道生と梅、かわいそう」「茂世、何やってんだよ」で終わりそうだからかな。

そういう意味では男性視点もきちんとフォローしている点は好感が持てます。「こういうことはあえて説明されるほうが辛い」ような気もしますけれど。

 

道生は茂世に「お父さんだって、お母さんを幸せにできなかったくせに」って八つ当たりできるけれど、茂世は誰にも言えないし。

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(引用元:「親なるもの断崖」曽根富美子 小学館)

こういう「運命に立ち向かったけれど、どうすることもできなくて、その悔しさも自分のせいにして、一人で耐えなければいけない」という無力感と罪悪感の強烈なコンボを味合わせる、というのは男にとっては割と酷なシュチュエーションだなあと思います。 

 

登場人物に運命を変える力があると、「運命に対して受け身で無力になる」という状況にならないので仕方がないのかもしれないけれど、過酷な運命下の女性の強さを描くということは、同時にそういう状況下の男性の無力さを描くことになるんだなと。

 

「運命に破れた無力な存在になるか」「ゲヒゲヒ言うだけのモブになるか」の二者択一を迫るこの漫画は、男性にとってこそ、残酷な物語なのかもしれないなと思いました。

 

「魔法少女まどか☆マギカ」と「ベルセルク」の類似について考えた。

 

この記事の続きです。

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相変わらず主語デカい系の話なので、苦手なかたはブラウザバックをお願いします。

前回少し書いた「まどマギ」と「ベルセルク(黄金時代)」はすごく似ているという話です。

 

「まどマギ」と「ベルセルク(黄金時代)」が似ていると思う点

自分は何の役にも立たないという認識が基点(他者評価関係なし)→自分はこれで生きていくと決める→同じ志を持つ仲間に出会う→主人公の存在を自分の存在基盤におく人が出てくる(グリフィス・ほむら)

 

「ガッツは元々、他者評価も役立たずだった」などの細かい違いはありますが、基本的な物語の構造は似ています。

あと「自分が執着するものが足かせになる」という点では、使徒と魔女はよく似ています。(執着によって魔(法少)女化する、執着を捧げないと使徒にはなれない。)

 

あくまで自分の考えですが、

「他者評価に左右されない自己完結した世界で、惑わせる執着(味方であれ、敵であれ)を乗り越えて、自分の道を貫き、自分が理想とする自分になる」という発想が、究極の男の美学なのかなあと思いました。

「ベルセルク」と「まどマギ」は、この世界観を体現した物語だなと思います。

 

「強くなくてはいけない」という呪いからの解放

ただ、その世界観をあえて「少女」という本来、男性から見たら「弱い存在」に背負わせたことが、かなり画期的なことなのではないかと思っています。

「ベルセルク」では弱さをキャスカという女性キャラに背負わせて、「自分=男」から切り離していますが、「まどマギ」では強さも弱さも同一の存在(少女)に表現させている。

これは昨今よく話に出る「男は強くなくてはならない」という呪いからの解放の過程じゃないかなと思います。

 

マミさんみたいに、「強くて優しくて頼りになる先輩」に見えて、内面は寂しさや孤独などの弱さを抱えている。それで当たり前だし、そういう面を見せることは別に悪いことではない。

むしろそういう誰にでもある当たり前の弱さを受け入れたほうが、もっと強くなれるんじゃないのか? 

物語の構造は従来の少年漫画的精神を踏襲しているけれど、あえて登場人物を少女にすることで「強さのみを良しとしない」ところがいいです。

 

心折れてもいいんだよ。

瞳をうるうるさせて上目遣いで手を握って「本当に一緒に戦ってくれるの?」って言ってもいいんだよ。 

男だって(女でも)そういう自分の弱い面をダメなものと思わなくていいんだよ。

 

その後、マミったり病みさんになったりするのも、まあそれでいいんじゃないかと。(たぶん)

 

ほむらとグリフィスは似ている。

 一番初めに「まどマギ」と「ベルセルク」は似ているなと感じたのは、ほむらを見ていて唐突にグリフィスを思い出したからです。

「自分」という存在の基盤のすべてが、たった一人の他人に依存している点でこの二人はよく似ています。

 

「グリフィスがなぜ使徒になったのか?」については意見が分かれると思いますが、ある同人誌で見た「ガッツと対等でいたかったから」という意見が一番しっくりきました。

 

あの時点でグリフィスは、それまでの人生の全てを賭けてきた夢を、ガッツのために忘れてしまっています。

「幼いころからの夢以上に、ガッツと対等でいることが大事。守られるだけの無力な存在であることに耐えられない」

この辺りも「まどかに守られる私じゃなくて、守る私になりたい」というほむらと通ずるものがあります。

 

無力感や無能感に対する耐性の低さ、「無力であることは悪である」という考えは男性特有のもののような気がします。グリフィスのように「無力な存在でい続けるくらいなら、仲間を全部捧げる」という発想は極端ですけれど、「分からないこともない」という人もいるのでは、と予想しています。

逆にこういう「運命に対して受け身で無力になったときの耐性」みたいなものが、よく言われる「男性にはない女性の強さ」につながっているのではないかと個人的には思います。(「運命に対して受け身で無力になったときの、女性特有の強さ」が主題の代表的なものが「親なるもの断崖」)

 

女性の中には、グリフィスのガッツに対する感情が恋愛感情に見える人がいるようです。ほむらのまどかに対する感情も、恋愛のように見えないこともない。 

この辺りの男性と女性の恋愛感情の違いから、グリフィスのガッツに対する感情を読み解くという試みを「ベルセルクフリークス」という同人誌でやっていました。

「男性は友人が迷惑をかけていい存在だが、女性にとって迷惑をかけていいのは恋人や配偶者で、友人は迷惑をかけてはいけない存在」

「男性にとっては相手に迷惑をかけるのが信頼で、女性にとっては迷惑をかけないのが礼儀」

「信頼と迷惑というキーワードで関係性を解釈すると、グリフィスの態度を恋愛感情と誤認する女性もいるのではないか」

なるほどな~~、と思って読みました。

同人誌なのに作者との対談なども載っていて、すごい豪華な本だったのですが、もう手に入らないのかな。

 

男性にとっての「強く生きるという美学」の中に「弱さや脆さ」を否定することなく混ぜ込んだ「まどマギ」は、現代的な物語だと思います。

社会的に「弱さを見せてはいけない」という抑圧を受けやすいけれど、同時に強さのみで生きることが難しい今の時代で、「ベルセルク」から「まどマギ」に、「自分の弱さや脆さを受け入れて生きていく」「男も自分の弱さを良しとしていい」という風に前進したのかな、だといいな、と思いました。

 

続き~。

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もう誰にも頼らない

もう誰にも頼らない

 

 

「面白さ史上主義」に対抗する「真っ当さ」の物語。ゆうきまさみ「機動警察パトレイバー」

 

21世紀の新型悪役像「内海課長」

togetter.com

このまとめ記事を読んで、頷く部分が多かった。

YouTuberに限らず、「内海課長的悪」「面白ければいいじゃん主義」というのはネットで見かけるし、確実に増えていると思う。

 

自分が欲しいもの、面白いと思うことのためならば、笑顔で法を犯し、人を傷つける内海課長。

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(引用元:「機動警察パトレイバー」22巻 ゆうきまさみ 集英社)

まぁ内海課長の画期的なところ、面白さ至上主義というよりも何を面白がるかというところにある気はするよね。

あれが単に人が苦しんでるところを見るのを面白がる人だったら面白さ至上主義でも単なるサディスト扱いなわけだし

要するに「アニメみたいなロボットが対決するの面白いやん?」という共感しやすい面白さを標榜してるからこそのアレなわけだよね

秀逸だなあと思ったのは、まとめの中のこの文言。

内海課長の目的自体は、多くの人が「面白いそう」「やってみたいな」と思うことだと思う。

従来の悪役のように「人を殺したい、傷つけたい」という目的だと反発が先に立つけれど、内海課長みたいに「最強のロボットを作って、最強のロボット同士で戦わせたら面白そうじゃん」というのは、多くの人が「確かに面白そう」と感じそうだ。

少なくとも自分はそう思うし、シャフトで働いたら楽しそうだな~とも思う。

 

問題なのはその面白さのためならば、法を破ろうが人を傷つけようがおかまいなしのところだ。

人身売買で手に入れた子供をレイバーのパイロットにするために、社会性や道徳を無視した教育をする。

当のバドも幸せで楽しそうなので、一体それの何が悪いのか、ということがすごく分かりにくい仕組みになっている。

内海はまだしも法を犯しているから「悪として可視化しやすい」けれど、これが法律のグレイゾーンでやられると「みんなが面白くて楽しいのに、一体何がいけないのか」ということが非常に分かりにくくなる。

「何がどう悪いのかを指摘しづらい」から、一定の支持を集めやすい点が、この種の人の怖いところだ。

 

こういう「悪を目的としていない悪」「悪と自認していない悪」は、パトレイバーが連載していたときは漫画の中の絵空事だったけれど、ネットを見ているとそういうものがこれからどんどん増えていくんだろうなあと思わされる。

 

善悪の評価軸を持たない、結果論としての「悪」

「悪と自認していない悪」は、そもそも物事の良し悪しの判断の基準が「面白さ」など従来のものと違うものになっているから、理解し合う術がない。

「パトレイバー」の最後の野明とバドの会話には、それがよく表れている。

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(引用元:「機動警察パトレイバー」22巻 ゆうきまさみ 集英社)

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(引用元:「機動警察パトレイバー」22巻 ゆうきまさみ 集英社)


こういう会話がまさに現実のものになりつつある、のが怖い。

それと同時にこういう存在が世の中に出てくるだろうと予見していた「パトレイバー」は、やっぱりすごい物語だなと思う。

 

このまとめ記事を読んで、自分がなぜ、「パトレイバー」がすごい好きなのかということが分かった気がした。

 

「面白さ至上主義」は可視化しづらい悪ゆえに、それの何が悪いのかということを指摘することが非常に困難だ。

まとめ記事でも書かれている通り、

銀河英雄伝説のトリューニヒトなんかもその眷属でしょうか。すなわち、ドラマツルギーにのっとると倒すための筋道がなく、キャラクターの怒りやこだわりによってのみ打ち倒される。

その時代の価値観の内側から出てくるため、善悪の評価軸で精査されづらく、すごく支持されやすい。

それの何が悪いかを指摘すると「時代遅れ」とか「ダサい」とか「空気が読めない」という言葉で封じ込まれやすいと思う。

「面白い面白い」「空気読め空気読め」と煽られたり抑圧されたりして、そういうものに対して多くの人が支持に回ると、トリューニヒトがルドルフになるのだと思っている。

 これをトリューニヒトのように合法的なシステムの枠内でやられると、どうにも対抗手段がない。

 

「パトレイバー」は「悪を目的としない悪」に対抗する物語。

そういう近い未来に必ず出てくるだろう愉快犯的悪=内海への、対抗手段としての物語が「パトレイバー」だ。

こういうものに対抗するには、言葉でも理屈でもより強い力でもなく、一人一人が真っ当な生き方をすることによって、そういうものに容易く与さない社会を作っていくしかない。「地道に生きる平凡な人の力を信じる」そういうメッセージ性がたまらなく好きだ。

 

「真っ当さ」って何だろう? と考えたときに、言葉では説明できないけれど、「パトレイバー」を読むとすぐに分かる。

「特車二課」の面々は、愉快犯的悪=内海に対峙するものとして、すごく「真っ当に」生きている。

 

「真っ当さ」というのは、「正しさ」とも違う。「常識」とも違う。

「道徳」が近いかもしれないが、自分の中ではやはり違う。「真っ当さ」としか言いようがない。

 

人身売買の犠牲者であるバドを探すことにのめりこむ野明を、遊馬や後藤隊長はたしなめる。

後藤隊長が言う「俺たちの仕事は本質的には手遅れなんだ」という言葉や、遊馬が言う「お前のやっていることは自己満足で偽善だ」という言葉は、圧倒的に正しい。

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(引用元:「機動警察パトレイバー」18巻 ゆうきまさみ 集英社)

人身売買の犠牲者の中で、自分がたまたま知りあった子供だけを、仕事の合間の休日に探している野明の行動は、どう考えても自己満足だ。

 

人身売買の捜査に取り組む捜査員のことに思いをはせたり、「自分たちの仕事は本質的には手遅れだ。それでも覚悟とプライドを持って仕事をする」後藤隊長や、「自分の目から見ると、お前のやっていることは偽善にすぎない」とはっきり指摘する遊馬は、すごく真っ当な人だと思う。

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(引用元:「機動警察パトレイバー」18巻 ゆうきまさみ 集英社)

 

でもそう言われてなお「立派な偽善ができるような立派な大人になればいいんだ」と返す野明も、すごく真っ当だ。

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(引用元:「機動警察パトレイバー」18巻 ゆうきまさみ 集英社)

このセリフすごい好き。

 

間違えても困難にぶつかっても、社会のシステムの不合理さを飲み込まれ、ときにはそういう不合理さの一部にならなくてはならないとしても、その中で自分にとって正しいと思えることを、自分のできる範囲で成し遂げようとする。

特車二課の面々の、そういう泥臭くてダサくて地味で特に英雄的でも面白くもない生き方にこそ、たぶん「真っ当さ」というものは宿るのだと思う。

 

野明は「立派な大人」である「お父さんとお母さんに育てられて、杉浦先生に救われて、後藤隊長に働き口を与えられて」今日までこれた。

それは内海から「面白さや楽しさ」しか与えられなかった、バドとの対比に思える。

「立派な大人」というのは、「子どもを幸せにできる人だ」と言う。それが「真っ当な大人」なんだ、と野明は言う。

 

言葉だけならば「でも、バドだって内海といて幸せそうだけれど?」「幸せって人それぞれじゃない?」といくらでも反論が思い浮かぶ。

「真っ当さ」というのは言葉で説明するのが難しい。

だから「真っ当さ」でしか対抗することができない「悪を目的としない悪」は、指摘するのは難しいのだ。

 

言葉で説明するのが難しい、言葉の世界では反論によって簡単に消え失せてしまう「真っ当さ」が、「パトレイバー」ではしっかり描かれている。

 

「パトレイバー」を読むと「面白さ至上主義=内海」というのは、余りに魅力的だ。「真っ当さ」なんてどうでもよくなって、面白いこと、楽しいことを生み出す内海を支持したくなる。

それに対して警察機構というのは、いかにも地味だ。

敵が出るまで何時間も待機して、新機が入るときも癒着があったのではないかとおろおろして、内輪もめやいざこざもしょっちゅうだ。

地味でつまらない「本質的には手遅れなこと」を、それでも自分が負った責任として必死で果たす、そんな「真っ当さ」を身をもって教えてくれるところが好きだ。

これからの時代に多くなるだろう、内海課長のような悪に相対するものとして、「パトレイバー」のような物語が残って欲しいなと思う。

「パトレイバー」は、最初に読んだときは、まったく面白いと思わなかった。「企業がどうの、研究がどうの地味で面白くない話だな」 と思っていたけれど、大人になってからいっき読みしてようやく面白さに気づいた。

内海を見ていると、「自分は面白さ至上主義なんて支持しない」とは言い切れない。

「新しい悪の形」として内海というキャラを生み出したのもすごいけれど、それ以上にそれに対抗する手段をきっちり描いている点が「パトレイバー」のすごさだと個人的には思う。

 

ネットは「面白さ至上主義」や「分かりやすさ至上主義」との親和性が非常に高い。情報が多いので、パッと見で分かりやすく面白いものにどうしても惹かれてしまいがちだ。

「面白さ」「分かりやすさ」以外の評価軸を手放さないことが、今後の社会ですごく大事になるんじゃないかなと思う。

難しいことだけれど。

 

続き。 

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【ネタバレ注意】「モンキーピーク」を三巻まで読んだ時点で、「田中さん=猿説」を検証してみた。

 

本記事は、志名坂高次原作/粂田晃宏作画の漫画「モンキーピーク」の三巻までの検証記事です。

未読の方はご注意ください。

[まとめ買い] モンキーピーク

[まとめ買い] モンキーピーク

 

読んでいない方は読んでみてください♪♪

極限状態の密室劇好きのかたに、特におすすめです。

 

 

「田中さん=猿説」

この記事では、ちらほら目につく「田中さん=猿説」を中心に考えていきたい。

ちなみにこの記事では、あくまで「三巻までのみ」の情報で検証している。

 

再会直後の田中さん。

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(引用元:「モンキーピーク」3巻 志名坂高次/粂田晃宏 日本文芸社)

見たところ相当大柄で、人間離れした能力を持つ「猿」の中身が田中さん、というのはかなり意外だが、人は見かけによらない。「猿」の着ぐるみが大きければ、体型は誤魔化せるので、体型や能力で「違う」とは言い切れない。

 

三巻までの「猿」の登場シーン。

三巻までの時点で、「猿」が登場した場面は以下の通り。

 

①一泊目のキャンプ場で、鈴村さんを含む四名を殺害。(生き残り36名)

②二日目の「矢ノ口落とし」で四名殺害、及び六名が転落死。(生き残り26名)

③「矢ノ口落とし」に残った11名のメンバーを襲う。8名が死亡。(生き残り18名。田中さん行方不明)

④二泊目の岩場で、辻の死体発見直後。(生き残り17名)

⑤三日目、中岳小屋で馬場、寺内を弓矢で殺害。社長を狙撃、後に死亡(生き残り14名)

⑥三泊目、中岳小屋の裏窓。早乙女と一緒に崖から転落。(このあと早乙女が田中さんと合流)

⑦四日目、八木が持ってきた衛星電話を壊す。

⑧四日目、鎖場で宮田たちを襲う。

 

「猿」登場シーンの田中さんの動き。

①では、早乙女が猿が去っていくのを確認した直後、反対側から悲鳴が上がり、遺体を発見する。

このときに田中さんは画面内にいるので、この時点ですでに「田中さん=猿説」には無理がある。もちろん、複数犯の可能性はあるが。

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 (引用元:「モンキーピーク」1巻 志名坂高次/粂田晃宏 日本文芸社)

 

②の場面で、早乙女が押しのけたのが田中さん。

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 (引用元:「モンキーピーク」1巻 志名坂高次/粂田晃宏 日本文芸社)

 

少し間があくが、墜落した後のシーンでもいる。

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(引用元:「モンキーピーク」1巻 志名坂高次/粂田晃宏 日本文芸社)

早乙女に押しのけられたあと、上に戻り、みんなの背後に回って、猿の衣装を着てみんなを襲い、みんなが転落したあと、猿の衣装を脱いで崖側から合流。

いくらパニック状態とはいえ、バレないはずがないと思う。

この場面でも「田中さん=猿」ではない。

 

③「矢ノ口落とし」に残ったのは11名だが、6名の遺体の他にきちんと11名描写されている。一名なんで遺体と一緒に寝ているのかは分からないが、動かせなかったのかもしれない。

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(引用元:「モンキーピーク」1巻 志名坂高次/粂田晃宏 日本文芸社)

どれが田中さんなのかは分からないが、とりあえず人数的には合っている。

このあと、田中さんは行方不明になるため、「④⑤⑥」のシーンについては、「猿」の可能性はある。

 

⑦の「猿」が衛星電話を壊したシーンでは、田中さんと早乙女が既に出会っているので、この「猿」は田中さんではない。

⑧中岳山頂の宮田の足跡に、猿の血がついている。仮に田中さんが猿だとしたら、胸の傷をアウターで隠しているにしても、この血をどうやってたらしたのかが説明がつかない。

宮田が中岳山頂に到着したときから、早乙女が宮田の靴跡とそこについた猿の血を発見するまで、田中さんはずっと早乙女と一緒にいたからだ。

少なくとも宮田の靴跡についていた血は、田中さんのものではない。

 

⑧の鎖場に現れた猿が田中さんではないとは言い切れない。ただそれならば早乙女と二人きりのときに不意打ちで殺せばいいのではないか、という疑問もわくので、やはり田中さんは猿ではないとは思う。

協力者の可能性は捨てきれないけれど。

 

「猿」が内部の人間だと考えるのは難しい。

「猿」は内部の人間ではないと思う。

田中さんは④⑤⑥ならば「猿」であることが可能だが、他の人間は④⑤⑥も猿であることは不可能だ。

ただ内部の人間が相当数協力している場合は、できないこともないかもしれない。例えば⑧は部長の長谷川の可能性もある。さすがにないかなと思うけれど。

 

その他の疑問。

 (1)なぜ、辻さんは殺されたのか?

今までのところ、唯一、「猿」ではなく内部の人間に殺されたらしい辻さん。「猿」であれば皆殺しの一環と考えられるが、内部の人間の犯行となると、辻さん自身が狙われた可能性も出てくる。

辻さんの部署が経理であることも関係しているのかもしれない。

 

(2)氷室はなぜ裏口を開けたのか?

氷室に関しては、分からないことが多すぎる。

足の指二本切られても何も言わないということは、本当に何も知らない可能性もある。

なぜ「早乙女が猿の仲間だ」などとウソをついたのか? 誰かにそう信じこまされているのか?

拷問されるような環境よりも、警察を恐れるのは何故なのか?

人体実験とかそういう方面の話か? とも思うけれど、氷室は営業部長だし。横領程度なら、拷問よりは警察のほうがマシだろうという気がするけど。

 

(3)「猿」が社長たちの遺体のブルーシートをめくったのは何故なのか?

皆殺しが目的に見えて、明確な標的がいるのか?と考えた。

そうすると内部の人間と常時連絡がとれるわけではないのかもしれない。

それとも他に目的があるのか。

(追記)寺内の靴がなくなっている、という描写かなと思った。

 

(4)早乙女が感じた「腕に残ったこの感触。猿の謎」とは何なのか。

これを考えると、やっぱり内部犯なのか?とも思える。

ただ早乙女が「猿」につけた「胸の傷」が誰にもないし。

 

結論としては「田中さん=猿説」には無理がある。

何人かが組んでやるならば、できないこともないが、それでも内部犯のみだと難しいと思う。誰かが死んだふりをしていた、とかはさすがに苦しいか。

 

続刊でも謎が続くようなら、引き続き考えたい。

 

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3巻までの感想も書きました。

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2017年11月発売4卷の感想。

色々と閃いたことを書いています。

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【ネタバレあり】陸の孤島で正体不明の殺人鬼と戦う。「モンキーピーク」が面白すぎる。

 

原作志名坂高次、作画粂田晃宏の「モンキーピーク」を読んだ。現在、既刊は三巻までで連載中だ。

余りに面白くて、三巻いっき読みしてしまった。

続きが待ち遠しくて仕方がない。

 

「モンキーピーク」は、自分が大好きな要素だけを集めたような漫画で、ここまで自分の好みにぴったりな漫画があるのか、ということにまず驚いた。

正体不明の殺人鬼に追いかけられるサバイバルホラー。

閉鎖空間に閉じ込められることによりむき出しになる人間の心理。

内部の協力者は誰なのか、殺人鬼の真の狙いは何なのかというミステリー要素。

ようやく表れた救助者が、むしろ殺人鬼より怖そうという謎が謎を呼ぶ展開。

「山」という過酷な自然をどう乗り越えるのか。

 

絵は昔の青年漫画風味なので好みが分かれると思うけれど、「絵が好みではないから」という理由で読まないのはもったいないと思う。

上記に上げた要素でひとつでも心惹かれるものがあれば、ぜひ読んでみて欲しい。

 

「モンキーピーク」あらすじ

薬害疑惑を起こした藤ケ谷製薬は、経営陣を一新して一から出直すことになる。

結束を高めるためのレクリエーションとして、社員40名で登山を行う。

無事に頂上に辿りついたその日の夜、社員たちが泊まるテントに巨大な猿が表れ、社員四名を惨殺する。

恐怖に震えながら一夜を明かした社員たちは、夜が明けるとすぐに下山しようとする。

しかし罠にはまり、どんどん山奥に誘い込まれる。

水や食料が尽きるなか、内部の人間による殺人も起き、社員たちはお互いを疑心暗鬼の目で見るようになる。

 

正体不明の殺人鬼「猿」が怖い。

強烈な殺意を持ち、何のためらいもなく、社員たちを次々と殺していく「猿」。

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(引用元:「モンキーピーク」1巻 志名坂高次/粂田晃宏 日本文芸社)

みんな「猿」「猿」と呼んでいるけれど、鉈をふるったり、弓を使ったり、水を捨てたりしているので中身は明らかに人間だ。

この「猿」が、殺戮以外の一切の意思表示をしないことが怖い。

一体、なぜ藤ケ谷製薬の社員を皆殺しにしようとしているのか、恐らく薬害疑惑にかかわる復讐か利害関係なのだろうけれど、それにしても恨み言のひとつも言わない。言わないどころか、「猿」のお面?をかぶっているため、表情すら分からない。

感情や表情など、自分の言い分を一切明かすことなく、淡々と殺戮を続ける非人間性が怖い。

 

「猿」の造形が上手くできているので、ミステリー部分もすごく面白いそうなのだけれど、犯人が人間ではない超常現象ホラーパターンも見てみたくなる。

 

極限状態の「人間」が怖い。

最初の晩に四人が殺害されて、それ以降、三十六人の社員たちが山の中で「猿」から逃げることになる。

この群像劇がすごく面白い。

 

自分の利益のために平気で他人を陥れる氷室や南、飯塚などの人間がいる一方で、瀕死の重傷を負っても社員のことを考える社長や、常に部下のことを第一に考える部長のような人間もいる。

また普段は沈着冷静なのに友達が殺された口惜しさから拷問を容認する遠野や、責任感があって公平な判断ができるけれど、正しさばかりでもない佐藤、気の弱さから卑怯な行いに加担してしまう藤柴など白黒はっきりしない人たちの描写もいい。

宮田のように、真っ当な正義感と感覚が山ではかえって仇となってしまう場合もある。

 

一番、度肝を抜かれたのは、「猿」にも対抗できるような強さと正しさを持った安斎の豹変ぶりだ。

「仲間の遺体を運ぶために、殺人鬼がいるかもしれない場所を四往復する」ような強さと正しさが、「猿の仲間の疑いがある氷室を、拷問してでも情報を得ようとする」行動の根底にあるものと同じだというのが怖い。

この世で「正しさ」を確信した人間ほど残酷で恐ろしいものはない、ということを骨の髄まで味合わせてくれる。

 

 安斎に負けず劣らず怖いのが、八木兄妹だ。

「ようやく出てきた外部からの人間」「しかも山のスペシャリストで頼りがいがありそうな存在」なだけに、この二人の怪しさと怖さが分かったときの絶望感は半端ない。

こういうポジションの人間が殺されたり、実は敵だったりしたときは、出てきたときにホッとしたぶんだけ、さらに恐ろしさが増す。

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(引用元:「モンキーピーク」3巻 志名坂高次/粂田晃宏 日本文芸社)

八木兄のこの表情は、「猿」や安斎よりも怖かった。不吉な予感しかしない。

この二人が何者なのか、真の目的は何なのか、という謎も明かされるのが楽しみだ。

 

過酷な状況下の「山」が怖い。

「モンキーピーク」は見どころが多すぎて、一番面白い要素は何かと言われると迷う。

自分が一番いいなと思ったのは、初心者が登山する気持ちが追体験できることだ。

 

山をテーマにした漫画というと、パッと思い浮かぶのが「岳」や「孤高の人」だ。

どちらも「登山のプロ」を描いた漫画で、「遭難した人を救助する」「K2を目指す」と言われると、ただひたすら「すごい」という言葉しか思い浮かばない。

 

「モンキーピーク」は登山を経験している人間も出てくるが、大半は登山素人だ。地図の読み方が分からなかったり、はしごの高さや鎖場に戸惑ったりする。

ルート確認をする様子なども、見ていて楽しい。

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(引用元:「モンキーピーク」1巻 志名坂高次/粂田晃宏 日本文芸社)

 

上司に騙されてスーツに革靴で山に来てしまった宮田は、八木に遺体から登山靴やアウターを借りるようにすすめられて断る。しかしそれが後に大きな仇となる。

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(引用元:「モンキーピーク」3巻 志名坂高次/粂田晃宏 日本文芸社)

山や自然は怖い。

そういった気持ちを登場人物たちと一緒に体験できる。

 

「モンキーピーク」の一番好きなところは、惨劇を描きながらも、根本にはその舞台となる山への愛情があることが伝わってくる点だ。

作者は本当に山が好きなんだろうな、と思う。

これだけ過酷なことばかりが描かれているのに、読んでいると何故かむしょうに登山がしたくなる。

 

4巻は2017年11月8日ごろ発売予定

3巻が非常にいいところで終わっているので、続きが読みたくて仕方がない。

4巻を待つあいだ、ネットでちょこちょこ見る「田中さん=猿説」を検証してみたい。

してみた。

www.saiusaruzzz.com

一人で「猿」をやるのは、無理じゃないかな~と思う。

内部犯だとしても何人かで交代でやっているのかな?

この辺りを、もう一度読んで考えてみたい。

 

【漫画感想】 大高忍 「マギ」が今いちブレイクしない理由を考える。

 

週刊少年サンデーで好評連載中の漫画「マギ」についての記事です。

 

いや、ブレイクはしているとは思うんですよ。

アニメ化もしたし、「シンドバットの冒険」というスピンオフ漫画もあるので。

「ドラゴンボール」とか「ワンピース」とか「スラムダンク」とか「HUNTER×HUNTER」とか「進撃の巨人」は、考察したり、熱く語る人って多いんですよね。

ただ、「マギが大好き」で「マギ」について熱く語る、という人に今まで会ったことも見たこともないんですよ。

人気は人気なんでしょうけれど、熱狂的ファンという人を見たことがないです。

 

自分も「マギ」は好きですけれど、「スラムダンク」や「HUNTER×HUMTER」みたいに、内容について熱く語ったり、セリフまで覚えて再現したり、とかはないんですよね。

「マギ」に今いち、熱狂できない理由を考えていきたいと思います。

 

ターゲットがあやふや

一番はこれだと思います。

少年誌に連載しているので、基本的には小中学生男子がメインターゲットだと思うのですが、その割には話が若干、分かりにくいです。

キャラクターも男性受けするよりは、女性受けしそうなキャラのほうが多いです。

男キャラが余り汗臭くもなく、泥臭くもない。

「マギ」のキャラって、戦闘中も汗をかかないし、筋肉や血管が浮き出たりもしないです。

この辺りの描写が象徴的だと思います。

物語の骨子としては、「HUMTER×HUMTER」や「ワンピース」と同じように王道の少年漫画です。

ただ、男子が特に思入れが強そうな、戦闘描写が全然違います。

努力したり、自分の力で強くなったという過程が、視覚として確認しにくいです。

現実感がないというか、重みがないというか、

 

生まれつき能力のある人の曲芸を見ている。

 

「マギ」の戦闘描写って、そんな感じです。

なので、成長したいざかりの小中高生男子にとっては、いまいち感情移入しずらい漫画なんじゃないかと思います。(物語自体が面白いとは思っても。)

 

(血はけっこう流れているのに)血の匂いを感じさせないので、戦闘描写一点だけを見れば、女性向けのスイーツ描写です。

「ベルセルク」ばりに生々しくやってくれとは言いませんが、もうちょっと人体の生理現象面に重きをおくと、戦闘シーンが全然違ったものに見えるのではないかなと思います。

 

キャラクターも、いかにも女性が好きそうなキャラクター多いんですよね。

ジャーファルとか紅覇とか。

「一見、冷静で論理的に見えるんだけれど、最も強い行動原理が他者への感情のキャラクター」

って言うんですかね。

「誰かのためには、死をも厭わない」という行動原理しか持たないキャラクター。

こういうキャラクターって、男性作家の作品にはほとんど出てこないです。

 

男性作家が描くキャラクターは、「理想」とか「大義」とか「信念」とか「生き方」とか、そういうものに従って生きている人が多いです。

男性作家が描くキャラクターの場合は、「誰かのため」という理由でも、

「その誰かに対する感情のために行動する」のではなく、

「その誰かのために行動することが、自分の生き方である」場合が多いです。

「ワンピース」のルフィを見ると、分かりやすいですね。

ルフィがそこいら中で人を助けるのは、「その人をどう思っているか」という以上に「困っている人を助けることが、自分の生き方だから」なんだと思います。

 

さらに面白いのは、女性が描くキャラクターでもこういう「理想」とか「信念」とかに従って生きるキャラクターは出てくるのですが、女性が描くキャラの場合は、

「その信念なり、理想をきちんと言語化できる」キャラが多いような気がします。

男性が描くキャラクターというのは、

自分でもその「信念」なり「大義」なり「生き方」がよく分かっていなくて、「自分でも何故かは分からないけれど、そうしなければならない気がする」という形で、行動によってその自分の中にあるものを示すキャラが多いです。

 

一言でいえば、女性が考えた男キャラというのは分かりやすく、男性が考えた男キャラは(よくよく考えると)分かりにくいです。

「ワンピース」のルフィも、単純そうに見えますが、よくよく考えると、ただの通りすがりなのになぜ、そんな何もかもに首を突っ込んで、誰も彼も助ける??と思います。

 

そういう観点で見ると、「マギ」というのは、まさに女性が考えたキャラクターっぽいな、という印象です。

男子が今いち、感情移入や自己投影しずらいんじゃないかと思います。

 

全てが平均を超えているのだが、突き抜けたものがない

「マギ」は人物の書き分けがイマイチなことを除けば、絵も上手いし、キャラクターも魅力的だし、物語も面白いし、世界観もよくできています。

 

自分は、「マギ」の世界観が好きです。

複雑な話なのに、ほとんど破綻なくできているし、神話や哲学も取り入れていて細かいところまでよく考えられており、読んでいて楽しいです。

 

ただそれでも、「マギ」の印象は

 

「どこかで読んだことがある気がする、うまくできた話」

 

以上のものではありません。

「うまくできていない話」が大半なので、それだけでも「マギ」は、素晴らしい漫画だと思います。

でも、漫画や小説の中でもほんの一握りの、

「他とは一線を画す神漫画」群と並べてしまうと、正直、「よくできた漫画」以上の評価ができません。

話や世界観であれば「ワンピース」よりも、ずっと深くて面白いし、絵は「進撃の巨人」よりもずっと上手いです。

女性キャラクターの魅力なら、「ドラゴンボール」よりも上だし、話の分かりやすさでいえば「HUMTER×HUMTER」より上です。

 

逆に言えば「進撃の巨人」は、最初のころの絵なんてひどいものでしたし、キャラクターも全員がものすごく魅力的だとは思えないし、何より演出が下手だと思います。

それでも、初めて読んだとき、「すごい漫画だ。」そう思いました。

最初の数巻なんて、何度読んだか分かりません。

 

「マギ」は物語も複雑で、けっこうえげつない描写や残酷なシーンもあるのですが、それでも「HUMTER×HUMTER」の予想の斜め上どころか、どこにとんでいくか分からない展開の連続、エピソードの収束の仕方には、面白さでは遠く及びません。

 

全てが平均点を超えている、これはすごいことだと思います。

それでも、人を熱狂させるには、全てにおいて平均以上であることよりも、欠点があっても、何かひとつ突き抜けたものがなければならないかもしれないしれません。

 

書いていて思ったのですが、恋愛と婚活の違いに似ています。

 

それでも「マギ」が好き

「何で、マギには熱狂的なファンがいないのだろう」

という疑問に自分なりに答えましたが、自分はそれでも「マギ」が大好きです。

 

「マギ」の男性キャラについていろいろ描きましたが、個人的には、「マギ」は他の少年漫画に比べて、女性キャラがいいと思います。

ほとんどどのキャラも好きですが、特にモルジアナと紅玉、玉艶が好きです。

 

特に玉艶が大好きです。

男が本気でぶん殴りたくなるような、極悪さと物理的強さと美しさと気持ち悪さを兼ね備えた、稀有なキャラクターだと思っています。

 

実の息子である白龍に、屈辱を与えるためにチューしたりね。

女性の怖くて生々しいところが凝縮したようなキャラクターです。 

全国の少年たちに、

「自分のお母さんがこんなんだったらどうしよう」

という恐怖を与えたと思います。

 

こういうキャラを少年誌で描いたという一点だけでも、「マギ」は評価されるべきだと思います。 

 

「マギ」もいよいよ最終章に入ったようなので、今後も楽しく読み続けたいと思います。