うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

ドラマ「銀と金」第13話「殺人鬼有賀編」が色々と残念だったので、その理由を書きたい。

 

Amazonプライムビデオでドラマ「銀と金」の第13話「有賀編」を視聴しました。

第13話

第13話

 

 

地上波で放送されたドラマが満足の出来だったので楽しみにしていましたが、非常に残念な内容でした。制作スタッフは同一のようなので、一体、なぜこうなってしまったのかよく分かりません。

「良かった」というかたには申し訳ないのですが、個人的にはだいぶひどいと思いましたし、不満が多いです。

どういうところが気になったか、具体的に書いていきたいと思います。

 

森田のすごいところがすべて削られている。

一番、ひどいと思ったのがここです。

森田は普通の青年に見えて、鋭い嗅覚や判断の素早さ、いざというときの度胸などすごいところがたくさんあります。

原作の「有賀編」は、一人で仕事を請け負うことで、その「普通に見えて常人離れしているところ」「なぜ、銀二が森田を仲間にしたのか」という森田のすごさを読者に説明する編でもあります。

 

扉の開け閉めの回数で、部屋から出てきたのが有賀と分かる。

有賀に罠をしかけて、不意をつく。

有賀に「逃げていいよ」と言われても「逃げないで戦う」と言う。

 

これらがほとんど削られている。

そして「窮地を切り抜けるために判断し戦う」という役割のほとんどが、ドラマのオリジナルキャラクターで、しかもこの回にしか出てこない女殺し屋??に割り振られています。

「女殺し屋」という現実離れした設定は実写で出すのは厳しいと思うのですが、それを押して出したのだから何か目論見があるのかと思いきや、特に何もなかったです。

「逃げない」という森田のセリフを強奪し、ただ撃たれて死にました。

何だったんだ???

 

伏線の使い方や回収のしかたがおかしい

これは「銀と金」には関係なく、物語の構成としておかしいと思った箇所です。

有賀が「子どものころ火事に巻き込まれている」ということを森田が知る、という伏線から、「有賀は火を怖がるのではないか」ということを森田が思いつく点です。しかしこれは、火が風で消えてしまったために、物語の展開としては何の意味もないものになりました。

展開に影響を与えない描写を伏線まで張って入れるというのは、物語の描きかたとしては拙いと思います。単なる尺稼ぎに見えてしまうし。

 

あともうひとつ、撃たれたときに女暗殺者が実は生きている、という描写があったのですが、これも最終的には死んでいるうえに理屈ではなく情緒に回収されるので、あんなに意味深に描写する必要がないです。

伏線というのは「物語が大きく展開し」「読者がああそういえばそれを遠因となる描写があった」と思わせるための装置です。

読者が十分想定できるストーリーラインで物語を展開させているのであれば、伏線というのはいらない描写です。

物語がレールに沿って走っていれば、切り替え装置はいりません。むしろ「何で切り替えたんだ?」「切り替えたあとも、元のレールに沿ったまんまなんだけれど?」という疑問が湧くだけです。

「でも、女暗殺者が船田に電話をかけたから、船田が駆けつけられたのでは?」と思う向きもあると思います。この展開、設定について遡って色々と言いたいのですが、ものすごく長くなるのでやめておきます。

 

そもそもなぜこんな出す必要のないオリキャラを出したのか、ということが分かりません。

物語の展開には関与しない、意味のない、それでいながら世界観を壊しかねない非現実的な設定、主人公森田の役割を奪いとって原作のファンをがっくりさせ、それでいながらほとんど自分のキャラは立たずに死ぬ、という悪夢のような登場人物でした。

 

ドラマ制作陣は、森田に興味がないのか?

テレビ放映されたドラマを見ていたときから、自分はドラマの森田に非常に違和感を持っていました。

原作の森田は「一見、どこにでもいる普通の青年」でいながら「いざというときは優れた判断力を発揮する」

そして一番の特徴は、情が深いところです。

少し前まで自分を殺そうとした人間でも、その境遇に同情して涙を流すし、自分を殺そうとした人間を助けるために、マシンガンの前に丸腰で飛び出す、そういう深い人間愛が森田の一番すごいところです。

ところがドラマの森田からは、そういう「熱いところ」「深い情愛」みたいなものがほとんど感じられません。

「ただクールで頭が切れる男」という印象です。

 

第13話ではそういった森田の「人よりも情が深いところ」「普通の青年らしいところ」が描写されていたのですが、そうすると今度は有賀に「逃げていいよ」と言われたらすぐに逃げようとしたり、炎が消えて慌てふためいたりする小物臭満載になってしまって、がっくりしました。

 

俳優の演技はとても良かった。

このドラマは相変わらず、俳優の選択だけは間違いがありません。

今回、有賀を演じた手塚とおるさんも素晴らしい演技でした。

「銀と金」を見ていて思うのは、俳優というのは本来、このレベルのことができて当たり前なんだな、ということです。笑い方、表情、言葉の抑揚の付け方、間の取り方、そういうもののひとつひとつをどうすれば、見ている人が驚くか、怖いと思うか、どういう感情を抱くか、全部熟知している印象です。

 

船田のカッコよさは異常。

原作では出番どころか、セリフもほぼなかった船田ですが、ドラマでは大活躍しています。今回もカッコよかったです。

 

まとめ

テレビで放映されたぶんは、原作の大ファンである自分も十分楽しみ満足できたので、最後の最後でこれ、というのは非常に残念でした。

あの女殺し屋を主人公にした物語を描きたくて、「銀と金」の話に無理矢理組み込んできたのでは、と邪推してしまいます。そういうことがやりたければ、オリジナルドラマでやって欲しいです。

安田、巽、船田の三人のスピンオフでもいいと思いますよ。

 

この感じで神威編を作ったら、田中が大活躍しそうだな。

 

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銀と金 文庫全8巻 完結セット (双葉文庫―名作シリーズ)

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「男女の友情はあるかないか論」で思い出す「バクマン。」のサイコーと見吉のステキな関係。

 

*この記事には、「バクマン。」のネタバレが含まれています。未読の方はご注意ください。

 

 

見吉香耶はすごい女性だ

「男女の友情はあるかないか論」については、実はそんなに興味がない。そもそも「友情」というのがフワフワした言葉だし、関係性というのは外野が名前をつけるものではなく、本人同士が了解し合っていればいいものだと思っているからだ。

 

ただ、「恋愛感情抜きの男女の関係」で一番理想的な関係はどんな関係か、と言われたときに思いついたのが「バクマン。」(原作:大場つぐみ 作画:小畑健)の主人公・真城最高と見吉香耶の関係だ。

自分は見吉がすごく好きで、「二次元キャラで結婚したい女性」の五指には確実に入る。

 

役割的には「糟糠の妻」「物分かりのいい女」なのだが、そういうことに対して恨みがましいことは一切言わず「自分で選んでそうしている」と意思がはっきりしていること、そして「仕事に対しては、物分かりのいい女」でありながら、プライべートではシュージンやサイコーに対して自分の意見をはっきり言うところもいい。

シュージンに浮気疑惑が出たときは、五年付き合ってシュージン(とサイコー)の夢を支えてきたにも関わらず、きっぱり別れることを選ぶ決断力もいい。

 

「糟糠の妻」で「支える奥さん」なのだが、見吉は「献身的に尽くすことを、自分の意思で選んでいる」ので、社会的な立場はどうあれ、内面的には自立している。自分が好きでやっているから、「あれだけ尽くしたのに」「これだけやってあげているのに」のような恨みがましいことは一切言わない。

そして、相手の気持ちが自分から離れたと思ったら、「殴る気にもならない」と言ってすっぱりと離れる。(実際は誤解だから、結婚したが。)

 

「いい女」なんだけれど、「都合のいい女」ではない。

ちょっとひねくれているけれど、若くて才能もあってモテるシュージンがずっと付き合って結婚したのも頷ける。こんなできた女性は、二次元でもなかなかいない。

 

「バクマン。」の中では、シュージンと見吉の関係、サイコーと亜豆の関係よりも、サイコーと見吉の関係が好きだ。

「関係性が育つ、成長する」というのは、こういうことを言うのかと思う。

というわけで、この二人のステキすぎる関係を振り返りたい。

 

サイコーと見吉の関係の変遷

最初、見吉のことを嫌っているように見えるサイコー。

最初のころ、サイコーは見吉にかなり冷たい。

「興味のない赤の他人+ちょっとうざったい」くらいの扱いだ。

自分の相棒の彼女であり、好きな人の親友なので、多少対抗心もある(のちに嫉妬もあったと認めているし。)にしても、かなり冷たい。

「まったく興味がない赤の他人だけれど、つながりがあるから口出ししてきてうざい」二人の関係はここからスタートする。

文字にするとけっこうキツイ。

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(引用元「バクマン。」2巻 原作:大場つぐみ 作画:小畑健 集英社)

 

そのあと、「見吉って基本いい奴だよな」「見吉、優しいじゃん」と言うなど、少しずつ見吉のいいところを口にするようになるが、それでも「亜豆の親友」「シュージンの彼女」という域から脱しない。

「亜豆の親友としてはいい奴」であり「シュージンの彼女としてはちょっと邪魔」。というのが、サイコーの見吉に対する評価だ。

後者が色濃く表れたときのサイコーのシュージンに対する不信感が原因で、二人は決裂する。

 

これはサイコーの誤解だったので、サイコーとシュージンは仲直りをする。

この辺りはそれほどクローズアップされていないが、「漫画のために見吉との関係が邪魔になっているのではないか」という言いがかり(としか言いようがない)をつけているサイコーを、見吉は一切責めたりしない。

むしろ「確かに邪魔かもしれない」と自分を責めている。

見吉が声を荒げたり、怒ったりするのは、例えば亜豆とサイコーの関係に対してのように、常に他人のためだ。

おせっかいなのだが、サイコーも他人の関係にこうやって口出ししているのだから、見吉のことを言えない。むしろ「漫画のため」という大義名分を掲げて、その口出しを正しいと思っているだけ、サイコーのほうが性質が悪い。

しかし見吉は、そういったことをまったく言わない。

「どんな時でも、自分のことよりも他人のこと。でもそれは自分で選んでいることだから、犠牲とは思わない」

見吉のこういうところが、後にサイコーの信頼につながるのだと思う。

 

 サイコーが、少しずつ見吉を気遣うようになる

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 (引用元「バクマン。」5巻 原作:大場つぐみ 作画:小畑健 集英社)

「クリスマスもサイコーが遊ばないなら遊ばない」

ちゃんと仕事をしていれば、そこは合わせなくても良くないか?

シュージンの訳の分からない理屈を、受け入れる見吉。

普通だったらこの辺りで別れると思う。

 

その後も「色々とやってくれる見吉」に対して「アシスタント代をあげたほうがいいのではないか」「ありがとな」という言葉を言う。

「色々とやってくれる」のは、見吉本人は好きでやっているというし「二人の夢は自分の夢」と言っている。

でもそれは決して当たり前のことではない。自分がやっていることに対して見返りを求めるのは、ごく当然の感情だ。見吉にとって、その見返りが「二人が成功し、喜ぶ姿。真城と亜豆が結婚すること」なのだ。

何ていい子なんだ。

こういう姿勢に触れて、真城の態度はどんどん軟化していくのは当たり前だと思う。

 

この辺りになるとサイコーは、「シュージンの彼女」ではなく、「亜城木夢叶の同志」として見吉を見ている。

シュージンとサイコーを合わせた仮想人格としての「亜城木夢叶」は、例えばアシスタントと上手くやっていけるかなど、自分たちが苦手とする場面でかなり見吉を頼りにしている。

その事実よりも、そこに「余り気づいていないところ」が「甘え」と思うし、見吉にも「そんなに甘やかさないでも」とは思うものの、こういう「無意識の甘え」も突き詰めたりせず、引き受けるところが見吉の魅力だと思う。

 

サイコーが見吉に仕事場の合いかぎを渡したシーンは、サイコーが見吉のことを「同志」として認めた象徴的なシーンだ。

このあとシュージンの浮気疑惑が持ち上がる。

しかし「漫画に影響したらイヤだから、描きあがるまでは絶対に言わないで」と泣きながら亜豆に頼む見吉。

どんだけいい子なんだよ!

 

「香耶ちゃん」の心を配慮するようになる。

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(引用元「バクマン。」9巻 原作:大場つぐみ 作画:小畑健 集英社)

ファースト「香耶ちゃん」呼び。

呼び方が変わるのは「結婚したから」という理由なのだが、意外とこういう形式から心境も変わってくるのが呼び方の変化の萌えるところだ。

話の内容は、二人の関係にはまったく関係ないが。

 

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(引用元「バクマン。」11巻 原作:大場つぐみ 作画:小畑健 集英社)

5巻とまったく同じシュチュエーションだが、明らかにサイコーの態度が違う。

5巻のときは「仕事をしてくれればいい」と言い、シュージンが断ると「悪いな、見吉」とそれ以上すすめることはしていない。多少気を遣っているが、二人の関係だから好きにすればいいというスタンスだ。

それに対して今回は、明確に見吉の気持ちを慮った発言をしている。そのため、シュージンに対する言葉も「帰れば?」とか「帰らないのか?」ではなく、「帰れよ」という命令形になっている。

こういう言葉から、サイコーの見吉に対する心境の変化がうかがえる。

 

シュージンと結婚して以降、サイコーは見吉のことを非常に尊重するようになる。

見吉が「シュージンの配偶者」という公的な立場になったこともあるが、「夫婦だから」という社会的な側面を尊重しているというよりは、「香耶ちゃんに寂しい思いをさせるな」という言葉のように、見吉の心情をかなり気にするようになる。

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(引用元「バクマン。」13巻 原作:大場つぐみ 作画:小畑健 集英社)

自分もだいぶシュージンと気まずい状態なのにも関わらず、「(言いにくいなら)俺が言ってやろうか?」というサイコー。

漫画関連のこと以外は他人のことには余り口出ししないサイコーが、こういう気遣いを見せるのは、見吉に対してだけだ。

関係性の違いもあるが、ある面ではシュージン以上に見吉の気持ちを大事にしている。

 

そして亜豆のことは元より、仕事のことまで相談するようになる。

「邪魔者」と言わんばかりの態度で「漫画のことに見吉が口出しするって、駄目だろ」と言っていた初期のサイコーからすると、信じられない変化だ。

 

見吉は「亜城木夢叶の妻」

なぜ結婚以降、サイコーの態度がこれほど変化したのかは、見吉がさりげなく言っている「亜城木夢叶の妻」という言葉に象徴される。

「シュージンの妻」という存在以上に、見吉はサイコー、シュージン、亜豆の未来と夢の集合体の妻であり、同志なのだ。

「シュージンを忙しくさせてごめん」という言葉の返事に対して「(自分が)わかった、頑張る」と返すのはよくよく考えるとやや不自然なのだが、その不自然さが見吉とサイコーの関係では自然なのだ。

 

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 (引用元「バクマン。」20巻 原作:大場つぐみ 作画:小畑健 集英社)

そして最後のこのシーン。

サイコーが、どれほど自分たちを献身的に支えてくれた見吉に感謝しているかが伝わってくる。

遠くで自分と同じ夢を追いかける亜豆とも、自分の分身とも言えるシュージンとも違う、すぐ近くから自分たちとはまったく違う視点を持って、自分たちを無償で見守って支えてくれる存在として、非常に強い信頼と感謝を寄せていたのだなと思う。

 

恋愛感情のまったくない異性が、これほど強い信頼で結びついているのが羨ましい。逆に「信頼」という一点だけを考えるなら、恋愛感情というのはむしろ邪魔なのかもしれない、と思うほどだ。

亜城木夢叶のペンネームの逸話が回収されたこともあり、このシーンが、個人的には「バクマン。」のクライマックスだ。

 

この二人の関係性がメインテーマでないのにも関わらず、これほど関係性が変化していく様が描かれるのはけっこう珍しいと思う。

サイコーが中学生から20歳を超えた大人になったということも大きいとは思うのだが、漫画と亜豆のことしか頭にないサイコーの信頼を、漫画を描けない見吉が勝ち取ったのは、やはり見吉の性格によるところが大きいと思う。

「見返りを求めない自由な意思からの献身」

ひと言で言えることだが、これを出来る人間は万に一人もいないのではないかと思う。どれほど自分からやったことでも、つい「これだけやってあげているのに」と思いがちになってしまう。

少年漫画だからほとんどフォーカスされないし、物語としてもそのほうがバランスがいいと思うけれど、読めば読むほどすごい女性だと思う。

 

シュージンと見吉の関係など

シュージンと見吉の関係も、結婚前は連絡がなくてもほとんど気にしない、常に仕事が優先、嫌なら別れて一向にかまわないという態度に見え、シュージンのほうは惰性で付き合っているんじゃないかと思うような関係なのだが、結婚後はびっくりするほど見吉を大事にしている。

まったくそうは見えないが、シュージンも付き合っていたころから見吉のことが好きだったし、言葉の端々では「見吉が好きだから頑張る」など言っている。

 

このシュージンの態度から、仕事や趣味を最優先にしている男性の交際に対する姿勢がよく分かると思う。

たいていの女性はこういう態度を見ると「自分はないがしろにされているのではないか」と思うし、そこから自滅するパターンもよく見る。そして彼女がそういう心境を表に出したときにフォローに回るのではなく、蒼樹さんとの関係を疑われたときのシュージンのように「信じてくれないならそれでいい」という結論に達する。

それがいいとか悪いとかではなく、こういう男性はこういう人なのだから仕方ない。

 

そういう態度を非難するのではなく、そういう人と一緒にいるかいないかを自分で決め、どうしても許せなくなったときは即座に別れるという決断を下す見吉は、稀に見る女性だと思う。

「こういう男性が何を考えているか」「交際に対してどれくらい重きを置いているのか」ということがよく分かる点も面白い。

「彼女が大事」と「交際が大事」がイコールではない。この辺りをごっちゃにすると、話がややこしくなるだなあとシュージンを見ていて思った。

 

あとはシュージンと亜豆(岩瀬ではない)の「相容れないけれど、お互いの力量を認め合っている好敵手」という関係もなかなか好きだ。シュージンと亜豆の絡みは、常に緊張感が伴う。これも異性だとなかなか見ない関係だと思う。

サイコーと岩瀬の「お互いまったく興味がないし、好きでもないけれど、認めている」という関係もいい。

「バクマン。」は他の漫画では見ない、面白い関係が多い。

 

色々な登場人物が出てきて、色々な心情が読み取れるところも「バクマン。」の面白いところのひとつだと思う。

 

 

諌山創「進撃の巨人」22巻の感想&この物語のテーマの特異性について、徹底的に語りたい。

 

2017年4月に発売した諌山創「進撃の巨人」22巻の感想及びテーマについての再考です。

テーマについては新刊が出るたびに考えていますが、新たな考えも出てきたので、改めて語りたいと思います。

 

20巻までの感想はコチラ↓

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21巻の感想はコチラ↓

www.saiusaruzzz.com

 

 

ついに「進撃の巨人」という言葉が出てくる。

22巻では巨人の正体も含め、世界の真実の姿がだいたいわかりました。

タイトルの「進撃の巨人」も、物語の中でその意味が語られました。

 

最近の巻では物語の謎が次第に明かされていっているのですが、それと同時にこの物語のテーマも語られています。

そのテーマというのが、かなり不思議なものというよりは、今までの少年漫画ではそのテーマ自体もその語られ方も余り見たことがないものです。

 

「進撃の巨人」のテーマは見たことがない。

「進撃の巨人」は、気持ちの悪い巨人が出てきて残虐なシーンも描写されていること、主要登場人物もあっさりと死んでいくことなどから、一見すると少年漫画の中では異質さを放っています。

そういう外枠を取っ払えば、中身はごくまっとうな王道の少年漫画ではないかと今まで思っていました。

 

でもここ最近の巻を見て、「進撃の巨人」が最も強く打ち出しているテーマ、そのテーマの語られかたを見ると、「今までの少年漫画、というよりは他の漫画にない考え」を今までにない語り口で語っているように見えます。

この特異性が、この漫画を「一見、王道の少年漫画でありながら、今まで読んだことのない漫画」にしているのではないか、と22巻を読んでいて思いました。

 

「進撃の巨人」で最も重要な思想

「進撃の巨人」では個人の命や人生は尊重されていない。

ジャンプに代表される少年漫画で、たいてい重要視される思想というのは「優しさ」「夢」「努力」「友情」この辺りの現代社会で「道徳的」と言われるものです。

「命の尊さ」「個人の尊厳」などもそうです。

 

「進撃の巨人」では、この「一人の人間の絶対的な尊さ」というものは肯定されていません。

「人間は一人一人違うのだから、その人の代わりなんていない。一人の命と大勢の命の尊さは比べられるものではない」

という現代社会的な価値観は、初期の段階からほとんど組み込まれていません。

それどころか、20巻でリヴァイがエルヴィンに「新兵を地獄に導け。夢を諦めて死んでくれ」と言った時点で、明確に否定されます。

 

「組織(多数)を救うために、個人を犠牲にする」

「組織(多数)を救うために、個人が死ぬことを是とする」

 

というのは、戦時戦前の価値観に対する反動もあり、現代社会では基本的には忌まれている考え方です。

少年漫画で、自己犠牲という形をとり「犠牲になるのは本人なんだからいい」という言い訳めいた描写のされ方をすることはたまにありますが、他人に対して、しかも弱者である新兵に対して「組織や大義のために死んでくれ」と主要登場人物が強いるのは前代未聞の描写です。

マルロを含め新兵たちの死に方は、特攻以外の何物でもないですし、読んだ人の中には嫌悪感とまではいかないまでも違和感を感じた人もいるのではないかと思います。

 

「フクロウ」として生きたクルーガーの人生も、「エルディア人全体のために、自分の人生を犠牲にする」という「多数のために個人を犠牲にする」という考え方に基づいています。

アルミンが大型巨人を倒すために犠牲になった描写もそうですし、グリシャが息子のジークに「エルディア人復権のために生きろ」と強いた描写もそうです。

 

「進撃の巨人」は「大儀やその他大勢の人のために、個人を犠牲にする」「個人の幸せよりも、大切なことがある」そういう考えが語られているのか?? それが「進撃の巨人」で最も重要なテーマなのだろうか??

特にエルヴィンの死にざまを見ていると、そんな気がしてしまいます。

 

でも、そうではないのです。

もし「個人の人生よりも、大勢の人生のほうが大事。そのための犠牲は尊い」というテーマならば、生き返るのはアルミンではなく、エルヴィンのはずだからです。

リヴァイやハンジがエレンとミカサを論破したように、「人類のため」という観点ならば、どう考えてもアルミンよりもエルヴィンが生き返るのがスジだからです。

 

なぜ、エルヴィンではなくアルミンが生き返ったのか。

ここで「単にエレンの友達だからじゃないの?」という理由でアルミンが生き返るならば、「進撃の巨人」という物語自体が破たんします。戦友であるエルヴィンに「夢を諦めて、死んでくれ」といったリヴァイが、そんな理由でアルミンを生き返らせることに同意するはずがないからです。物語の重みや、登場人物の考え方が無茶苦茶になります。

 

エルヴィンではなく、アルミンが生き返ったのは、主人公であるエレンとの関係がどうこうではなく、物語としてとても重要なことだと思います。

 

エルヴィンはいわば「個人の人生よりも、大勢の人生のほうが大事」という考え方の象徴です。エルヴィンはそのために、自分が長年追い求めた夢を諦め、自分どころか他人にまで死ねと命じて死んだ人物だからです。

エルヴィンこそが「人類を救う人物だ」ということは、最終的にはエレンもミカサも納得しています。

「人類のために、個人(私情)は犠牲になるべき」という考えが、この物語の最上位にくる考えならば、生き返るのはエルヴィンのはずです。

 

では、アルミンはどんな人物なんだろう??

エレンが「なぜ、生き返らせるのがエルヴィンではなく、アルミンでなければいけないのか」という理由で、はっきりと語っています。

「この壁の向こうにある海を見に行こうって」

「アルミンは戦うだけじゃない。夢を見ている」

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(引用元:「進撃の巨人」21巻 諌山創 講談社)

これが、「進撃の巨人」で最も重要なテーマなのだと思います。

 

「個人の命」よりも「人類を救うこと」

そして「人類を救うこと」よりも「壁の外に出る、という夢を見ること」

 

「進撃の巨人」の不思議なところは、「個人の命や尊厳」よりも「夢を見ること。外の世界を見ること。そういう自由があること」のほうが絶対的に重要だという考えが語られていることです。

 

「命を捨ててでも、自由のために戦わなければならない」

アルミンの件だけだと、それは「進撃の巨人」のテーマではなく、あくまでアルミンという登場人物だけに課せられた属性ではないか、とも思いますが、22巻でグリシャが「進撃の巨人」を受け継ぐと決意する場面で、まったく同じテーマが繰り返されています。

 

「何も知らないで、良き夫、良き父親として平和で穏やかな一生を過ごすよりも、飛行船を見るために外の世界に出る自由を得ることが一番大切だ」

グリシャが最終的に「進撃の巨人」を継承することを決意するこの理由は、一見、尤もらしく聞こえます。

しかし、この「自由」のためにグリシャが支払った代償は余りにすさまじいです。

妹を犬に食い殺され、息子には見切りをつけられて裏切られ、仲間は崩壊し無能と罵られ皆殺しにされ、愛した妻は巨人にされ、最終的には二度目の妻を食い殺し、息子に殺される。自分は拷問を受け、指を全て斬りおとされる。

「フクロウ」となったクルーガーは何年も敵地で過ごし、仲間を拷問し、死に追いやらなければならなかった。

 

「進撃の巨人」で語られているのは、例えこういう凄まじい経験をしてでも、人は「穏やかで平和に生きる」よりも自由であるために戦わなければならない、そういう考え方です。

 

妹を犬に食い殺されても、拷問を受けて指を切り落とされても、子供に裏切られても、心ならず仲間を死に追いやり続けてでも、新兵を地獄に導いてでも、人間は自由のために戦わなければいけない。外の世界を見なければならない。

 

「自由」というのは、これほどの対価を支払わなければ得られないものなのだ、と当たり前のように描かれています。

 

「進撃の巨人」のいいところは、フロックやグリシャの父親のように「なぜ、それほどの対価を支払ってまで自由を求めなくてはいけないのか。真の自由ではないかもしれないけれど、平和で穏やかな暮らしにも十分価値はある」という対立する価値観も、まったく等価に語られていることです。

クルーガーがグリシャの父親をまったく嫌味なく「お前の父親は賢い男だった」と語ったり、フロックがエレンに対して「何だって自分が一番正しいと思ってんだろ?」と言うことで、グリシャの父親やフロックの価値観も尤もだと思わせています。

グリシャが「これが自由の代償だとわかっていたなら、払わなかった」「もう何も憎んでいない」と語ったシーンは、読み手の心を「ここまでして自由を追い求めなくてもいいのではないか」とぐらつかせます。

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(引用元:「進撃の巨人」22巻 諌山創 講談社)

 

物語の枠内で見ても、この「自由を追い求める」というのは非常に困難ですが、枠外から見ても、仲間はどんどん死んでいき、ベルトルトやアニ、ライナーとは戦わなければならず、リヴァイやハンジという人たちとも時には殴り合うレベルで対立しなければならず、ヒロインであるミカサでさえ、ギリギリのところで自由(=アルミンを生き返らす)を諦めてしまっています。

 

ここまで自分の価値観を徹底的に追いつめて、「これほど苛酷なものだとしても、誰にどれほど非難されても、例え自分が特攻して死ぬ新兵の一人だったとしても、自分は自由を絶対的に追い求める」という「人間にとっては命よりも愛よりも平和よりも他の何物よりも、自由が大切なんだ」という作者の考えの強烈さが、この物語を特異なものしているのではないかと考えています。

 

「命があればこその自由」「家族を犠牲にしてまで、自由を追い求めて何になる」というグリシャの父親的発想も尤もだけれど、それでも自分は飛空船を見るために外に出てしまった。

だから「どれほど苛酷な目に合おうが、命ある限り自由を追い求める」

それが「進撃の巨人」なんだ、とクルーガーはグリシャに語ります。

 

自分も今の時代に語られている「就職しなければ自由」みたいな字面だけの自由ではなく、本当に自由でいるというのは、かなり対価を支払わなければならないと思っていますが、それにしてもここまで対価を支払っても人間は自由でいなければいけない、という発想はどころからくるのか、すごく不思議です。

すごく不思議ですが共感します。

 

本当の意味で自分の求める生き方をする困難さ

本当に何かのために生きるというのは生易しいことではないし、聞いているコチラもしごく真っ当だと思う非難を山ほど浴びせられるだろうし、最初は同じ考えを持っていた仲間も、途中で考えが変わったり、脱落していったりします。

本当の意味での「自由」は身を切り、対価を支払い、戦って得なければならないものだ、そうすることによって逆説的にその価値を語り続けているのが、この漫画のすごいところだと改めて思いました。

 

22巻でエレンが「きっと壁の外には、自由が」と語ったときに、犬に食われた死体の映像が出てきました。「壁の外の自由」が、エレンが夢見たものではない可能性があります。

 

そういう絶望に直面しても、エレンは自由を追い求め続けられるのか。

この先の展開が楽しみです。

進撃の巨人(22) (週刊少年マガジンコミックス)

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【福本伸行原作】土曜ドラマ「銀と金」が最終回を迎えたので、感想&総評を熱く語りたい。

 

土曜ドラマ「銀と金」が最終回を迎えたので、全12話の感想及びドラマ全体の総評を語りたいと思います。

第一回を見たときの感想はコチラ↓

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ポーカー編を見終わった段階での、くっそうるさい文句はコチラ↓

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「原作よりもいいのでは」と思う部分が多々あった。

上記の「こうるさい文句」とは矛盾していますが、「原作よりもいい」と思う部分が多々ありました。

第一に、脚本の改編の仕方が上手かったです。

 

安田、船田、巽のキャラの変更

脚本で一番いいと思ったのは、この三人のキャラ変更です。

原作は三人のキャラにそれほど差がなく、特に船田と巽はモブとほぼ変わりありません。船田って、セリフありましたっけ?

巽の女体化に関しては色々と物議を醸したようですし、自分も最初は気になりました。

 

ただ女性にすると、「女性である」という一事だけで船田・安田とキャラ分けできるし、使い勝手も大幅に広がります。

例えば「麻雀編」。

漫画と違い、ドラマでは麻雀のルールなどもセリフで説明しなければなりません。ドラマでは巽が「麻雀のルールをよく知らない」と言って、船田に説明を求めています。

このシーンは巽が男性だと「裏社会に精通している男が、麻雀のルールを知らないのか?」と不自然に感じますが、女性で店を経営している情報屋という立ち位置のキャラだと不自然さが軽減されます。

感覚的なものですが、こういう「自然さ」というのはすごく大事だと思っています。

原作を読んでいない人にも、視覚的に「強面が安田で、若いのが船田で、女が巽」とすぐに区別がつきます。

 

絵画編で川田の役割を船田に代えたのもよかったです。

川田はすごく好きなキャラですし、森田と川田の別れのシーンは福本漫画屈指の名場面だと思っているので残念な気持ちもあります。でもドラマの放送時間が限られていることを考えれば、あの役割を船田に差し替えたのは英断だと思います。

 

原作の船田と巽は「いるだけキャラ」ですが、ドラマのこの三人はそれぞれ個性がきちんと出ています。

安田は「アカギ」の安岡と見分けがつかない、福本漫画定番の「説明おっさんキャラ」なので、原作の三人にはほとんど興味が持てませんが、ドラマの三人はこの三人でもドラマが作れるのではないかと思うほど個性的です。

演じていたマキタスポーツ、臼田あさ美、村上淳もキャラにぴったりでよかったです。

 

俳優陣の演技がすごかった

ドラマで一番いいと思ったのは、出演していた俳優さんたちの演技が素晴らしかったことです。

「ポーカー編」で西条を演じた大東駿介さんも良かったですが、「麻雀編」で蔵前を演じた柄本さんもすごかったです。

 

蔵前は福本作品に一人は出てくる「巨額の資産と権力を持つ、倫理観のねじ曲がった金持ちの老人」で、漫画的なキャラなのですが、柄本さんはとてつもなく深い闇を抱えた人物として非常にうまく演じていました。

 

福本伸行の作品は魅力的なセリフが多いのですが、それはすべて漫画ならでは、のセリフです。

ドラマでセリフとして喋ってしまうと、とんでもないものになってしまうのではないかと見る前から心配していました。

一話を見た段階では「漫画的なセリフはぜんぶ削るのかな?」と思っていましたが、蔵前の印象的なセリフはほとんど脚本に入っていてびっくりしました。

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(引用元:「銀と金」福本伸行 双葉社)

 

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(引用元:「銀と金」福本伸行 双葉社)

 

この二つもだいぶ驚きましたが、一番驚いたのはこれ。

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 (引用元:「銀と金」福本伸行 双葉社)

 

「ヘル・エッジ・ロード」言っちゃうんだ?!!

 さらに驚いたのは、こういうセリフがまったく漫画っぽく聞こえなかったことです。

 

リリーフランキーや柄本明の演技を見て思ったのは、「狂気性」などの非日常的なインパクトの強いもの(キャラであろうとセリフであろうと行動であろうと)は、むしろサラッと演じたほうがいいんだということです。

「ここ!! ここがこの登場人物の特異なところですよ!!」

っていう演技をやられると、完全に漫画になってしまいます。

 

「ポーカー編」の大東俊介の演技も良かったですが、蔵前のような「ザ・漫画」というキャラクターをここまでリアルに落とし込める、それでいながら個性はむしろ漫画よりも際立っている柄本明の演技に脱帽しました。

こういうものを見ると、俳優って、演技ってすごいと思います。

 

話の都合上、余り出番がなかったリリー・フランキーですが、最後の最後は全部さらっていったなという印象です。

「運命に対する冒涜云々」のシーンも、演技が控えめなところが良かったです。

ベテランの俳優は、引き算の演技が上手いですね。

抑制された静かな演技で逆に存在感を際立たせられる、そういうベテラン俳優陣の底力が銀二や蔵前の凄みにつながっている、というメタ構造がよかったです。

 

まとめ&「有賀編」について

ドラマ「銀と金」は「脚本の上手さ」「演技のすごさ」というものが改めて感じられる、とても上質なドラマでした。

原作と比べてどうこうではなく、ドラマにはドラマにしかない良さがありました。

原作の大ファンである自分も、三か月間、楽しく見ることができました。

面白いドラマをありがとうございました。

 

Amazonプライム限定で、第13話「有賀編」がやるらしいですね。すごい好きな話なので見たいのですが、プライムに入るのはちょっと…悩みどころです。

銀と金 DVD BOX

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福本伸行「アカギ~闇に降り立った天才~」の魅力を名セリフをあげながら、全力で語りたい【7巻まで】

 

「アカギ~闇に降り立った天才~」という麻雀漫画がある。

「天ー天和通りの快男児ー」という漫画で、主人公の天以上に人気があった、伝説の天才雀士・赤木茂の若き日のことを描いた漫画だ。

アカギ?闇に降り立った天才 1

アカギ?闇に降り立った天才 1

 

 

「アカギ」という漫画はひと言で言えば、この赤木茂というキャラクターの天才と狂気と格好良さをひたすら描く漫画だ。

もちろん、福本漫画ではおなじみの勝負や駆け引きの面白さも描かれているのだが、それ以上に赤木茂の人間性とその生きざまに痺れる物語である。

そしてその魅力が、独特の言い回しのセリフ、通称「福本節」にうまく凝縮されている。

今日は「アカギ」の名言の数々をあげながら、この漫画と赤木茂というキャラの魅力について語りたい。

 

ちなみに自分の中では「アカギ」は全七巻だ。

鷲巣が地獄めぐりをしたり、配牌だけで一巻丸ごと使うような漫画は読んだことがないのでご了承いただければと思う。

 

周りの人間がアカギの天才に気づく

初登場時、アカギは何の変哲もない普通の中学生として雀荘に現れる。

しかし、じょじょにその天性の才能に、他の人間と一線を画す狂気性に周りが気付き始める。

 

まだ心のどこかでオレは、このガキを軽んじていた。なんせ見かけは中学生だからね。しかし、もう舐めない。毛ほども舐めたりしない。

なぜなら……このガキの薄皮一枚剥いだその下は、魔物だから(一巻 八木)

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(引用元:「アカギ~闇に降り立った天才~」 福本伸行 竹書房)

一巻で十三歳の中学生のアカギと戦った、ヤクザの代打ちである八木。アカギの麻雀を見て、すぐに只者じゃないと気づくところがむしろすごい。

 

だから関わりあうな、あの男には。そっとしておくんだ。虎の尾をわざわざ踏むことはない。奴は「別」なんだ。(4巻 安岡)

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 (引用元:「アカギ~闇に降り立った天才~」 福本伸行 竹書房)

2.38%の確率でしか引けない三牌を「牌が透けてみえるくらいの感覚がなければ、今までの勝負は生き残れなかった」と豪語して引いたアカギ。

別にイカサマしなくとも引いているのに、イカサマしたフリをするところが華麗すぎる。

圧倒的な才能、まぶしすぎるスター性をいかんなく発揮したエピソード。

こんな人間のニセモノになることを、本人を知らずに引き受けたニセアカギ(本名:平山幸雄さん)が気の毒すぎる。

 

そばにおいてください。オレ、アカギさんのようになりたいんです。(4巻 治)

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 (引用元:「アカギ~闇に降り立った天才~」 福本伸行 竹書房)

無理だよ。

と思うが気持ちはわかる。自分が治でも、同じことを言いそうだ。

常に冷静沈着なアカギが困った顔をしているのは、唯一このシーンくらいだ。そして何だかんだ言って、治の面倒をよく見ている。後年、「神域」になってからも、ひろゆきの面倒をよく見ていた。

クールに見えて、意外と面倒見がいい。アカギのこういうところがいい。

 

 周囲が畏怖するアカギの狂気

アカギの最も大きな特徴は、冷静さの奥に秘めた常人には理解しがたい狂気性にある。

 

この世の中、バカな真似ほど、狂気の沙汰ほど面白い。(2巻)

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 (引用元:「アカギ~闇に降り立った天才~」 福本伸行 竹書房)

アカギの代名詞とも言える有名なセリフ……なのだが、実はこのセリフを初めに言ったのは市川だ。アカギの精神性をひと言で表したセリフだと思う。

 

まだまだ終わらせない、地獄の淵が見えるまで。限度いっぱいまでいく。どちらかが完全に倒れるまで。勝負の後は、骨も残さない。(2巻)

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 (引用元:「アカギ~闇に降り立った天才~」 福本伸行 竹書房)

相手にも、自分と同じ、命を賭けた極限までの勝負を求めるアカギ。「ブレーキの壊れた生き方」という南郷の言葉が、言いえて妙だと思う。

 

アカギの生き方と哲学

天才性であったり狂気性だったり色々な要素を持っているアカギだが、最もすごいところは、自らの哲学をすでに確立しており、その哲学に殉じた生き方を徹底している点にある。

その哲学が世の中の常識や倫理観、社会性から逸脱しているので、周りはアカギという人間が理解できず、狂人のように見えてしまう。

しかし、アカギが語る自分の生き方というのは、世の中の人間の大多数の価値観とはまったく違うが首尾一貫している。

 

アカギにとって最も大事なことは、常識でも倫理でも愛情でも損得でも他者からの評価でも社会の価値観でも自他の生き死にですらなく、自分を自分として成立させている己の哲学を貫徹することだけにある。

その哲学は他人から見るとまったく無価値かつ無意味なものなのだが、アカギはそれを守るために命すら平然と捨てようとする。

「他人には何の意味もないように見える、自分を自分たらしめている己の価値観と哲学が最も大事であり、その他のものは命ですらそれほど価値はない」

アカギというキャラの凄みというのは、この辺りにあると思う。

 

仮にこの国、いや、そんなスケールでなく、ユーラシアからヨーロッパ、北米、南米、この世界中の全ての国々を支配するような、そんな怪物、権力者が表れたとしてもねじ曲げられねえんだ。自分が死ぬことと、博打の出た目はよ。(7巻 アカギ)

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 (引用元:「アカギ~闇に降り立った天才~」 福本伸行 竹書房)

ヤクザに脅されようが、殺されかけようが絶対に引かないアカギ。

どんな権力者だろうと、一度出た勝負の結果は絶対に覆せない。自分を殺そうが、その結果は絶対に覆らない。そういう強い信念を示す。

今まで「小僧」と馬鹿にされようが、自分のニセモノにコケにされようが、チンピラに金をむしられそうになろうが、銃を突きつけられようが、むしろ楽しそうだったアカギが唯一、声を荒げて激怒したシーン。

一度出た勝負の結果を覆すというのは、アカギにとっては命を取られそうになったり、リンチにかけられそうになる以上に怒りの対象なのだ。

なぜ、博打の出た目ごときに命まで賭けようとするのか、周りはまったく理解できない。

他人には理解できない、共感もされない自分の哲学を、極限まで突きつめるところが、アカギの最も特異な点だと思う。

 

不合理こそ博打。それが博打の本質。博打の快感。不合理に身をゆだねてこそギャンブル。(3巻)

 

無意味な死か。その「無意味な死」ってやつが、まさにギャンブルなんじゃないの?(4巻)

 

もともと損得で勝負事などしていない。ただ勝った負けたをして、その結果、無意味に人が死んだり不具になったりする。そっちのほうが望ましい。そのほうが、博打の本質であるところの理不尽な死、その淵に近づける。(6巻)

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(引用元:「アカギ~闇に降り立った天才~」 福本伸行 竹書房)

アカギの面白い点のひとつに「ギャンブルに意味があってはならない」という考え方がある。

そしてこれは、アカギの人生に対する考え方に通底している。

アカギにとって人生というものは「意味があったり価値があったりするもの」の対極にある「意味がないかもしれないし、価値がないかもしれないもの」ですらなく、恐らく「人生に意味や価値があってはならない。人生とは無意味で理不尽で、それ自体に意味性を付与してはならない」という考え方なのだと思う。

 

「意味性が付与されない、そんなただ無意味な人生をどう生きるのか」

という哲学を体現しているのが、アカギという存在なのだと思う。

意味がないから、未来のことなど考える必要はない。「いまこの瞬間」の濃度を極限まで高めて、ただ生きればいい。

恐らくそういう考え方の持主であり、その生き方を体現しているのだと思う。

 

ただ「天」の最後で、死ぬ間際に「無念だが、その無念さを愛する」という言葉を言っているので、アカギも生きていく中で考え方が変わったのかもしれない。

 

他者の生きかたへの感想

周りとはまったく違う、自分独自の哲学に基づいた生き方をするアカギ。たまに周りの生き方に対して、すさまじい毒舌を吐く。「福本節」は、人をディするときにこそ真価を発揮する。

 

やっぱりね。見当はついていたけれど、案の定、ひねた打ち方。人をはめることばかり考えてきた人間の発想、痩せた考え。(一巻)

 

一巻でヤクザの代打ちである八木に対して。

自分がこんなことを中学生に言われたら、その場でぶん殴りそうだ。

こういう挑発にのらなかったり、中学生のアカギを相手に最初は「見」に回ったり、やられ役とはいえ、八木は大した人間だと思う。最後は地獄の淵まで追いつめられたが…。

 

しかし、どういうわけか、どこの職場にもあんなのが二、三人にかたまっているんだよな。どうしてなんだろうね。なんでもっとスカッと生きねぇのかな。(4巻)

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(引用元:「アカギ~闇に降り立った天才~」 福本伸行 竹書房)

就職した先の工場の威圧的な先輩たちに対して。

 

なるほど、凡夫だ。的が外れてやがる。(4巻)

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(引用元:「アカギ~闇に降り立った天才~」 福本伸行 竹書房)

確率だのなんだの理屈を言い出した平山幸雄さんに対して。

このセリフ、アカギらしくて大好きだが、自分が言われたらショックで気絶する。「凡人」じゃない。「凡夫」。

この単語、他には「三国志」くらいでしか聞いたことがない。

 

あんたは、運も運命も信じてなんかいねぇ。あんたが信じているのは耳。卓越した自分の能力だけ。違うかい? 実はオレもそうなんだ。(2巻)

 

「信じているものは、己の卓越した能力だけ」

こんな格好いいセリフを一度でいいから言ってみたい。

まあ、卓越した能力がないんで無理なんですけどね…。

 

他の登場人物たちの生きざま・思想

漫画「アカギ」には、様々なタイプの敵役が登場するが、そのいずれも魅力がある悪役だ。そしてたびたび自分の生き方を支えてきた、考え方を語る。

 

リーチは、天才を凡夫に変える!(2巻 八木)

 

この言葉と「しかし、八木に電流走る!」は、読んだ当時、実家の兄ちゃんと自分の間だけで大流行した。

何か失敗したときに「リーチは天才を凡夫に変える!」

何かに気づいたときに「しかし、〇〇に電流走る!」と叫ぶのが、主な用法。

 

強打して自爆する素人などまれ。大抵は、「安心」という重りを体に巻き付け溺死する。(2巻 市川)

 

だから、その1000点がいばらの道なんよ。兄さんのやわな足じゃ、まず通りきらん。(4巻 浦部)

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 (引用元:「アカギ~闇に降り立った天才~」 福本伸行 竹書房)

こういう経験からくる言葉は、そのキャラの哲学がにじみ出ていて好きだ。福本伸行のセリフ回しの上手さに惚れ惚れする。

 

アカギのこのセリフに励まされた

アカギは、「人生は閃光のように一瞬で消える瞬間の積み重ねでできている、意味などないもの。だからその一瞬を極限まで突き詰めて生きる」という独自の哲学を貫いて生きている。

普通の人間にはさっぱり理解できない、なぜ、そんな生き方をしなければならないのか共感もできない哲学を、自分の命すら惜しまずたった一人で貫いている。

そんな誰にも理解されない生き方を、誰にも理解を求めず一人で生きてきたアカギが、最期に言うこのセリフがすごく好きだ。

 

俺は偏っている。俺は、唯一それを誇りにここまで生きてきた。

 

自分も家族にですら「お前の考え方は極端すぎる。偏っている」と言われてきた。

当たり前だが、自分はアカギのように天才ではない。何の際立った才能もない、ごく平凡な人間だ。

だからアカギのように、その偏った思考に基づいて偏った生き方をすることはできない。それが「社会性を身につける」「大人になる」ということなのかもしれない。

でも、思考は相変わらず偏ったままだ。「社会で生きるには、偏っていてはいけない」そう誰も彼もから言われ、自分でもそう信じかけていた中でアカギのこの言葉を読んだ。

「偏っているからこそ、この偏りこそが自分なんだ」

初めてそう思えた。そして、それからはずっとそう思っている。

 

自分は平凡な人間だから社会の中で、その規範を守って生きている。奇想天外な破天荒な生き方ができ、それを社会から許されるのは、才能がある者の特権なのだと思っている。

でも頭の中ならば、いくら偏っていても他人には迷惑はかけない。

自分の偏りなど、世界には何の影響も与えないし、何の関係もないし、何の意味も価値もない。

それでも自分の偏りを大事にして、生きていきたいと思っている。

 

まとめ

「アカギ」は、赤木茂という、創作上の登場人物で最も特異で魅力的なキャラクターの哲学と生きざまを、麻雀という手法を用いて描いた漫画だ。

「天才」というのは読者に納得がいくように描くことが難しいが、「アカギ」はこの難題を難なくクリアしており、しかも他のどの創作でも見たことのない種類の「天才」を描くことに成功している。

麻雀を知らなくても、文句なく面白いと思う。特に最初の三巻は、何度読んでも圧巻の面白さだ。

全7巻で絶賛発売中なので、読んだことのない人はぜひ一度手にとってみて欲しい。

アカギ?闇に降り立った天才 2

アカギ?闇に降り立った天才 2

 

八木がやったイカサマ、キャタピラを必死で練習したのもいい思い出。 

 

関連書籍

年をとった赤木・通称「神域」が活躍する「天ー天和通りの快男児ー」も面白い。

天―天和通りの快男児 全18巻 完結コミックセット (近代麻雀コミックス)

天―天和通りの快男児 全18巻 完結コミックセット (近代麻雀コミックス)

 

 

小島アジコ「はてな村奇譚」を読んではてな愛に心を打たれたので、今さら感想を書きたい。

 

 

はてな独自の文化を面白く綴った、「はてな村奇譚」を読みました。

はてな村奇譚上

はてな村奇譚上

 

はてなのサービスを少しでも使ったことがある人なら、楽しく読める内容だと思いました。 

 

もともと「村」と呼ばれるほど独自の文化が強いはてなですが、

「手斧が飛び交い、相手をつぶし合う」

そういう風によく聞きます。

 

自分がいま体感している感じを正直に話すと、ブコメを中心に他のブログサービスよりはキツい言葉を見る確率はあるけれど、それでもそんなに言うほどかな??と思っていました。

 

色々な言葉から察するに、おそらく昔はこんなものではなかったのだと思います。

実際、ブログ歴が長い方の過去記事を読むとその片鱗が見られて、「そうか、こういうきっつい言及の飛ばし合いが普通だったのか」と思いました。

過去記事を読むうちに、色々な人の言葉の端々で感じられる「旧来のはてな」とはどんな感じだったのだろう?? とはてなの歴史を知りたくなりました。

それがこの「はてな村奇譚」を読もうと思ったきっかけです。

 

結論から言うと、旧来のはてなを知る人が、「オレの知っているはてなじゃない」と言う気持ちが少しわかりました。

良くも悪くも、今、自分が体感しているはてなとはまったく別の世界の話のようでした。

 

自分が「はてな村奇譚」を読んで理解した限りでは、はてな村という場所は、

 

自分がまだ人間だと信じている承認欲求の亡者たちが溢れる場所であり、監視する火のみ櫓に上ったブクマカたちが、火の手があがったことを確認したとたん、自分たちも怪物と化し、口からブクマとスターを吐き出して地上にばらまく。

そのブクマを争って、地上で亡者たちが蠢きまわる。

 

黒々とした呪いの言葉を吐き出す人間たちが化け物と化し、人間たちが集まり、手斧を片手にその化け物と戦うが、その実、その人間たちも狂った化け物。

 

自分は人間の心の奥底に眠っているドス黒い感情の触れ合いを見ることが好きなので、「はてな村奇譚」をかなり楽しんで読みました。こんな世界があるなら、自分もぜひ訪れてみたい、そう思います。

道徳の教科書に載っているような言葉は、義務教育でさんざん聞いて聞き飽きました。

どんなに毒々しくても、日常生活では決して聞くことができないその人の心の絶叫を聞きたい、それが本音です。

はてなブログはブコメ、増田を含めて、そういったものの宝庫です。

そういうグチャグチャのドロドロした、醜いゴミの山の中をあさることでしか、自分にとって本当に価値のあるものは見つけられない、そう思っています。

呪詛と祝福の言葉は、実は同じものなのではないか、というのが自分のごく個人的な意見です。

 

そう思うのは、シニカルにクソみそにはてなのことを描いているのにも関わらず、本書が並々ならぬはてな愛で溢れているからです。

本書の底に巌のように存在する、化け物だらけの最果ての地獄はてなに対する深い愛情に心を打たれました。

自分はそれほどはてな歴が長くはないので、必ずしも「古き良きはてな」を語る意見に全面的に賛同というわけではありませんか、もし自分が長く「この本の中のようなはてな」を愛していたら、同じことを言っていたかもしれません。

 

過去にそういうはてな愛を語った記事で、心打たれたものがありました。この記事を最後にブログをやめてしまったみたいですが、それこそ新しいIDに転生しているといいなあと思います。

goodtaihoudai.hatenablog.com

 

自分の感覚では今のはてなは、この本に描かれているような世界とは違うと感じます。こういう世界にちょっと行ってみたかったです。

その世界は間違いなく、他のどのブログサービスにもない特色があったのだと思います。(それがどんなにネガティブな要素で溢れていたにせよ)

 

今のはてなだって楽しいけれど、この漫画に描かれている最果ての地獄のようなその世界を、自分はきっとそれ以上に大好きだっただろう、長くいればいるほど愛しただろう、そんな風に思いました。

手斧をザクザク刺されて、泣きながらIDを消して、二度と近寄らなかったかもしれないけれど。

いや、しぶとく転生しそうな気もする。

はてな村奇譚下

はてな村奇譚下

 

 

会社という理不尽な場所の楽しさと、理想の上司像を描く「中間管理録トネガワ」

 

はてなで昨年「レールの乗った人生は嫌だからフリーランスになる」という記事が話題になった。

どんなに他人から見て見通しが甘かろうと、人生は本人の自由に生きる権利がある。大学を中退しようが、就職しないでフリーで働こうが好きに生きればいいと思う。

自分が非難するのは、経験したこともない他人の生き方を勝手な想像で「レールに乗った人生」「そんな人生は嫌だ」と語ったことに対してだ。

 

ただ最近、少し違う考えも出てきた。

ネットでは、「働く」ということに対してネガティブなことが語られていることが多い。

もちろん仕事に必ずつきまとう理不尽さや後ろ向きな気持ちを吐き出しているだけで、そういう思いを抱えながらも真面目に日々仕事をこなしている人が大多数だと思う。

ネットでくらい、ネガティブな気持ちを吐き出したい、その気持ちは十分わかる。

 

ただネットでこういう言葉を見て、就職したことがない若い人が仕事や会社というものに対して、いいイメージがまったく持てないのも、また当然かもしれないと思った。

自分も就職前の学生の立場でネットを見ていたら、「就職するというのはレールに乗ったつまらない人生なんだな」と思うかもしれない。

 

ということで、今日は働くことや会社というものが楽しく思える本を紹介したい。

すごい、表紙からして、とても楽しそうだ。

 

利根川幸雄は、カイジの敵役だ。

「中間管理録トネガワ」は、福本伸行の大人気漫画「賭博黙示録カイジ」のスピンオフであり、物語初期の最大の敵役である利根川幸雄を主人公にした漫画だ。

 

利根川と言えば、このセリフが一番有名だろう。

「世間の大人が本当のことを言わないなら、オレが言ってやる」

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(引用元:「賭博黙示録カイジ」福本伸行 講談社)

「その認識を誤まるものは、生涯地を這う」

 

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(引用元:「賭博黙示録カイジ」福本伸行 講談社)

「世間は、お前らの母親ではない」

 

こういう厳しい言葉の数々で、カイジを始めとする集まった若者たちの心に喝を入れる。

「カイジ」の面白さ……、福本漫画の面白さのひとつは、悪党たちが吐く「辛辣だけれども現実的でぐうの音も出ないほどの正論」をカイジが命がけの行動で覆していく点にある。

 

トネガワは集まった若者たちに上から目線で厳しい正論を語るが、自分でもその厳しい正論を貫く。

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(引用元:「賭博黙示録カイジ」福本伸行 講談社)

勝負に負ければ、自らの意思で、約束通り高熱の鉄板の上で土下座する。

こういう善悪を越えた誇り高さや厳しさ、筋を通す強さが利根川の最大の魅力だ。

現実と向き合えず怠惰に日々を過ごしていたカイジにとっては、利根川は社会の厳しさや乗り越えるべき壁を体現した存在であり、自分が向き合えない厳しい社会で生きている人間でもあり、「疑似父親像」として機能している。

 

生まれて初めて所属する社会(家族)の中で、乗り越えるべき壁(父親)を乗り越えて、真の意味で社会(兵藤)に立ち向かう。

「カイジ」をそんな構造で見るのも面白い。

 

会社という場所は、理不尽の塊だ。

「中間管理録トネガワ」は、そんな利根川の普段の働きぶりを描いた漫画だ。

読めば読むほど、「会社あるある」で溢れている。

 

権力者の鶴の一声でくつがえる決定。

気分で動く上司。

何故あるのかが分からない、会社独自のローカルルール。

意味のない会議に、意味のない仕事。

世代間のジェネレーションギャップ。

空気が読めず、暴走する部下。

せっかくの休日に行われる、訳のわからない行事。

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 (引用元:「中間管理録トネガワ」 萩原天晴/橋本智広 三好智樹 講談社)

「何がレジャー! いい迷惑だ、せっかくの休日に……!」

全サラリーマンの心の叫び。

 

利根川は、理想の上司だ。

利根川は中間管理職なので、部下・黒服たちがいる。

上は気分屋で我儘な兵藤会長のご機嫌を常に伺い、下は同じように見えて個性がバラバラな黒服たちをまとめるのに苦労している。

「中間管理録トネガワ」は、上からは抑圧を受け、下からは突き上げをくらい、上も下も自分の苦労を理解しない、孤独な中間管理職の悲哀が描かれている。

 

部下の暴走の責任をとって減俸されたり、会長の顔色を窺いすぎて部下の信頼を失ったりする。

利根川のすごいところは、そういったことをいっさい周りのせいにしない。

ましてや、自分がしてきた苦労を部下に味合わせたり、仕事の価値観を押しつけたりもしない。

利根川は兵藤の命令で20連勤もこなすが、部下の黒服たちにそれを強いたりしない。

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(引用元:「中間管理録トネガワ」 萩原天晴/橋本智広 三好智樹 講談社)

黒服がこれだけ驚いているところを見ると、普段も「忙しいときは休日出勤も当たり前」などの自分の価値観を語ることもないのだと思う。

 

先日、電通社員が過労が原因で自殺したときも問題になったが、人というのは自分がやってきた苦労を他人に(特に下の人間に)押し付けがちだ。

「自分もそれをやってきたのだから、お前たちにできないはずがない」

「あの苦労があったから、今の自分があるのだ。自分は、あの苦難を乗り越えてきた人間なのだ」

自分が苦労していたときはどれほど心の中でそれを強いる上司を毒づこうと、自分が上に立ったときは、自分の過去の苦労を意味のある美しいものにするために、同じことを繰り返してしまう。

そうすることによって、自分のやってきたことに価値を持たせようとする。

 

しかし利根川はむしろ、そういった悪しき連環を断ち切ろうとする。

自分が嫌悪した過去の上司たちと同じことはしない、そういう思いがある。

 

また自分と同じことを言っても、まったく会長から怒られない黒崎に対しても、嫉妬をほとんど抱かない。

会長の不公平を責めたりもしない。

周りの理不尽さを責めることなく、「そういう環境で自分がどうするか」だけを常に考える。

黒崎に嫉妬したり、蹴落とそうとするのではなく、黒崎のいいところを真似し、取り入れようとする。

ギャグ漫画だからまったくクローズアップされないけれど、こういうところがすごいと思う。

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(引用元:「中間管理録トネガワ」 萩原天晴/橋本智広 三好智樹 講談社)

「槍…、アウツ?!」

でも、失敗する。

何でミゾレがよくて、槍が言いすぎなのかはわからない。すごい理不尽。

 

「部下によく言われる上司はいない」とよく言うけれど、そんな利根川だから、黒服たちも、たまには反発したり意見したりしながらも慕っている。

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(引用元:「中間管理録トネガワ」 萩原天晴/橋本智広 三好智樹 講談社)

どんな時も他責的にならず、周りの環境ではなく自分が変わろうとする。

自分の価値観を押し付けず、部下の気持ちをくみ取ろうとし、様々な個性を持つ部下を管理し指導する術を常に学ぼうとする利根川は、稀にみる理想の上司だと思う。 

 

会社というのは、確かに理不尽な場所だが…。

会社というのは、確かに理不尽さばかりを感じる場所だ。

自分の保身しか考えないクソみたいな上司がいて、気分で動くトップが朝令暮改で方針をコロコロ変え、言ったことを言わないと言う奴がおり、言っていないことを言ったという奴がおり、何もできなくせに態度だけはデカいクソ生意気な後輩がいて、自分がやっていない失敗で客に頭を下げなければならず、忙しいときに限ってまったく意味のない会議が開かれ、他人の訳のわからないたわごとに一時間も付き合わなければならず、

 

そういうことを別に自分だけではなく、お互い思っていたり思われていたりする中で、特にやりたくもない仕事を、非合理的で理不尽なルールの中でしなければならない。

そんなことを毎日やるのが仕事であり、それが会社だ。イヤにもなる。

 

どんなに自分が会社や周りのことを考えても、会社というのは会社のことしか考えていない。自分の心身を犠牲にしてまで働こうなどと考える必要は、まったくないと思う。

 

ただ、理不尽でもイヤなことがあっても、気の合わない苦手な人間がいても、仕事というのはそれだけでもない。

楽しいこともあるし、達成感もあるし、喜びもある。

中には仲良くなれる人もいるし、尊敬できるような人に出会えることもある。

環境にもよるし、人にもよる。千差万別だ。

そんな年齢も性別も考え方も性格も、何かもかもがまったく違う人間がひとつの場所に集まり、家族よりも長い時間を一緒に過ごす。よく考えると不思議な場所だ。

そんな場所だから、今まで出会ったことのない人たちにたくさん出会えたし、今まで知らなかった自分自身を知ることもできた、そんな風に思う。

 

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とっても 楽しそうだけど、帝愛グループは超絶ブラック。そして何故か女性社員がいない。(追記:博多っ子西口さん登場! さっそく社内恋愛勃発。悪魔的事態!) 

 

 カイジは「沼」までしか読んでいない。

 

狂気のゲーム「ムーンライトシンドローム」にみる、謎ときコンテンツの面白さ

 

狂気のゲーム「ムーンライトシンドローム」の面白さ

このブログで何度か紹介している「ムーンライトシンドローム」というゲームがある 。

ムーンライトシンドローム

ムーンライトシンドローム

 

 このゲームは、非常に癖のあるゲームだ。

まず第一に、ゲームなのにゲームの態をなしていない。

 

ジャンルとしてはノベルゲームで選択肢が用意されているのだが、この選択肢に意味はない。どの選択を選んでも、物語の進行は変わらない。

たまに歩き回れるシーンになって無駄に広いマップを探索させられたりするのだが、この探索にも意味はない。

モブたちと会話しても、その情報がゲームの進行に影響を与えることはほとんどない。

 

登場人物たちは、意味不明なことばかりを話す。

例えば冬葉スミオという人物は、出てきたと思ったら、突然こんなことを話し出す。

 

「人は誰しも詩人たれ。言霊を尊く思うよ。野人だね、きみは。もっとチャーミングな男だと思っていたけれど」

 「ただオレは、きみに執着しようと思っている。精神において、きみのどこかに滞在するよ。特に意味はない。これはオレ独特のメタファーだよ。深い意味はない。簡単なことなんだよ」

 

控えめに言って、ちょっと言っている意味がよく分からない。

このスミオという男だけではなく、「ムーンライトシンドローム」の登場人物たちは、こんな会話ばかりする。

物語も、突然焼身自殺をしたり、気持ちの悪い変質者に追い回されたり、友達が実は神様の下僕??だったり、プレイしているこちらのほうがおかしくなりそうになる。

 

恐らくプレイした人間が10人いたら全員、まぎれもないクソゲーだと認めると思う。自分もゲームとしてはクソだと思っている。

 

意味不明な会話をする狂気じみた登場人物たちが、ぶっ飛んだ鬱展開の物語を繰り広げる。やっていても楽しい気分にならないし、ストレス発散にもならない。(むしろ、操作性が悪さと話の訳の分からなさにイライラする。)そんなゲームだ。

それにも関わらず、一部でカルト的な人気がある。

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このゲームの最大の魅力は、「事実」「真実」と思われるものが一切語られていない点にある。

あの登場人物のあの言葉は、本当はどんな意味があるのか?

あの登場人物は、あのときどうしてあんな行動をとったのか?

あのシーンは、何のためのものだったのか?

結局、このムーンライトシンドロームという物語は、何を言いたかったのか?

そういうことが、いっさい明確には語られていない。

 

「ムーンライトシンドローム」の中でも、比較的分かりやすい「浮誘」という話がある。

巨大な集合住宅で、そこに住む中学生たちが飛び降り自殺を繰り返すという物語だ。

この話は比較的多くのことが語られているので、何となく「真実は、こういうことではないか」ということは分かる。

 

でもひとつひとつの言葉の意味や、行動の意味、結局、中学生たちに飛び降り自殺を強いたものは何だったのか? 本当の目的は何だったのか? ということは何ひとつ説明されずに終わる。

だから表に出た情報から、「本当はこういう話だったのではないか?」ということを考えたくなる。

 

ちなみに自分なりの考察はコチラ↓

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もちろん、これが合っているとは限らない。

真相は分からないけれど、人によって分析や考察が違い、多種多様な解釈ができる、それが「ムーンライトシンドローム」の、他のゲームにはない面白さだと思う。

 

出題編だけのコンテンツが好きだ。

「ムーンライトシンドローム」のように「出題編だけでできている物語」が好きだ。考える楽しみがある。

 

自分が考える出題編だけで、できている物語はコチラ。

「うみねこのなく頃に」

「色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年」

「ブレア・ウイッチ・プロジェクト」

「新世紀エヴァンゲリオン」(テレビ版・旧劇場版)

 

最もシンプルで優れていると思ったのは、この話だ。

元ネタは読んだことがないのだけれど。

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しかし、この出題編だけでできている物語というのは、作る側からすると相当大変だと思う。

まず根底となる物語を、しっかり作りこまなければならない。

そして表に出せる情報だけで、読み手の興味を引き、なおかつ面白い物語を作らなければならない。

 

物語に明確な答えがないので当然、「は?? 結局、何が言いたかったの?」と思い、そこでつまらない物語だと断じて去ってしまう読者も大勢いると思う。

魅力のない出題ならば、読者はそこで考えることを放棄するので、考えてもらうところまで持っていくのも難しい。

 

どこまで情報を出し、どの情報を隠すか。

 この兼ね合いが非常に難しいと思う。

 

「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」は、自分は最初、これが出題編の物語だと気づかなかった。

ぼんやりと寝ぼけたスッキリしない話だな、と思っていた。

ネットでたまたま、この本の考察をしたブログを読んで飛び上がるほどびっくりした。

自分も今は、村上春樹はこれを「出題編」として書いたのだろうと思っているが、ほとんどそういう感想を見たことがない。

今までの作品が暗喩で書かれた物語であり、「村上春樹の書く作品は、明確な答えがないことに読者が慣れている」ことを完全に逆手にとっている。

「題名がラノベっぽい、よくわからない話」くらいの扱いをされているが、そのことに対していっさい何も言わないところが、なんだかんだ言われててもやはりすごい人だなと思う。

 

逆にそういう上手い仕掛けをしているのに、その仕掛けに対して弁明、というか「それが分からないのは読者が悪い」という言い方をして、評判を地にまで落としたのが竜騎士07だ。

「うみねこのなく頃に」自体は、今までにない仕掛けをほどこした面白い物語だと思っているだけに、作者の言動を非常に残念に思う。

村上春樹との言動と比べて、これがプロとアマの差か、と思っている。

 

出題編だけのコンテンツで、もっと謎解きがしたい。

「ムーンライトシンドローム」も最初にプレイしたときは、「登場人物がみんな頭がおかしい、訳の分からないゲーム」としか思わなかった。

しかしいざ、謎解きをしてみると、「こんな風にも考えられる」「もしかしたら、この人のこの言葉には、こんな意味があったのでは?」と様々なことを思いついて考えることが楽しくて仕方がなかった。

 

こんな風に謎だらけで、読み手に解き明かす楽しみを与えてくれるコンテンツをもっと生み出してほしい。

少なくとも自分は、明確な解答がないことに文句も言わず、自分だけの解答を考えることを楽しみ続けると思う。

 

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「人間の真価は自分自身でさえギリギリまで分からない」。「銀河英雄伝説」ウォルター・アイランズから学ぶ。

 

ウォルター・アイランズは権力機構にひそむ寄生虫だった。

 

田中芳樹の大人気SF小説「銀河英雄伝説」に、ウォルター・アイランズという登場人物が出てくる。

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(引用元:「銀河英雄伝説」©田中芳樹/徳間書店

「銀河英雄伝説」は、専制君主国家である銀河帝国と民主主義国家である自由惑星同盟が宇宙の覇権をかけて、長い戦争をしている物語だ。

この二つの国は、長い年月の中でどちらも腐敗している。

銀河帝国は貴族の横暴がひどく民衆が虐げられているし、自由惑星同盟は政治家の腐敗がひどく、終わらぬ戦争のために労働人口が激減している。

 

この自由惑星同盟の国家元首となる、ヨブ・トリューニヒトという悪徳政治家がいる。

戦争を賛美することで国民の人気者になっているが、国のことなんてまったく考えていない。自分の保身と利権のことしか頭にない。「悪い政治家」を絵に描いたような男だ。

自由惑星同盟側の主人公であるヤン・ウェンリーの、国内の最大の敵役である。

 

ウォルター・アイランズは、このトリューニヒトの腰ぎんちゃくである。

小説の中では

「伴食という言葉の生きた実例」だの

「権力機構の薄汚れた底部にひそむ寄生虫」だのと言われている。

「銀河英雄伝説」は、人に罵声を浴びせるときも、こういう華麗な表現が使われる。

「腰ぎんちゃく」では済まない。「寄生虫」だ。しかも残念なことにぜんぶ事実だ。

 

「銀河英雄伝説」は、作者視点による「いい人間」と「悪い人間」がはっきりと分かれている。

小説の中で主要登場人物の言葉や地の文章で悪い評価を下されたら、まず浮かび上がれない。

「権力機構の薄汚れた底部にひそむ寄生虫」と言われた人間は、小説の始めから終わりまで「権力機構の薄汚れた底部にひそむ寄生虫」なのだ。(それにしてもすごい表現だ。)

 

実際、親玉であるトリューニヒトは、「民主主義をヤドリギにする怪物」(これもすごい言われようだ。)として、主要登場人物たちの軽蔑を一身に浴びながら死ぬ。

ウォルター・アイランズはこの「ヤドリギ」トリューニヒトにこびへつらい、利権をむさぼり食っていた人物だ。偉い地位につけてもらうために、トリューニヒトに銀食器(!!)をプレゼントしたりする。

「銀河英雄伝説」の物語上のお約束として、小悪党としてろくでもない末路をたどるだろう、そう思われた。

 

しかし・・・!!

 

アイランズは、とつぜん思いもよらない変貌を遂げる。

 

同盟が滅亡の瀬戸際に立たされたとき、突如覚醒する

帝国軍が自由惑星同盟の領土に侵入したとき、トリューニヒトは国家元首にも拘わらず、国民をおいて一人だけどこかに逃げてしまう。悪党として、最低っぷりをいかんなく発揮する。

「悪い奴」は、一挙手一投足に至るまで悪い行動をとるのだ。

 しかし、祖国が滅亡の危機に瀕し、国家元首が逃げ出したとき、

 

「寄生虫」アイランズは突如覚醒する。

 

国防委員長であったアイランズが政府を主導して意思の統一をはかり、今まで理不尽に敵対視してきたヤンたちに全面的に協力するようになった。

 

「半世紀の惰眠よりも半年間の覚醒で、歴史に名前を残した」

 

祖国が平和であったとき、アイランズは悪徳政治家の腰ぎんちゃくの一人だった。平気で賄賂をわたし、利権をむさぼり、公費を横領し、政治家としての理想も大義もへったくれもないような男だった。

 

国を傾ける悪党の才すらないただの小悪党、それがアイランズだった。

 

しかし、祖国が危機に瀕したとたん、突然、人が変わったように強烈なリーダーシップを発揮するようになる。祖国と国民のために戦う真の民主主義政治家になった。

 

アイランズ自身さえ、自分にこんな面があったことを知らなかったのだ。

二十五年もの間、自分は民主主義の端っこに生息して利権をむさぼる、大悪党にすらなれない小悪党だと信じていたのだ。

そして同盟が滅亡の危機に立たなければ、アイランズは生涯を権力におもねり、こびへつらってそれなりに平和に終えただろう。

 

結局、自由惑星同盟は帝国に占領され、アイランズはその後、抜け殻のようになってしまう。

 

自分はこのアイランズのエピソードが大好きだ。

人間というのは自分自身でさえ自分がどんな人間か分かっていないし、人間の真価というのはギリギリまで分からないと思う。

人というのは、そのときの状況や環境で百八十度変わる。

昨日までは「ろくでなしの無能、甘い汁を吸うことだけを考えて生きていた小悪党」で自分でも自分がそうだと信じていた人間が、環境が変わったとたん、思わぬ変身を遂げたりするかもしれない。

 

アイランズの一生が幸せだったのか不幸だったのかは分からない。

そして、どちらが本当のアイランズなのかは分からない。

どちらも本当のアイランズだったのだと思う。

 

でもウォルター・アイランズの名前は、

二十五年にもわたって自分自身でさえそう信じていた「トリューニヒトの腰ぎんちゃくで、利権のおこぼれを預かる寄生虫」としてではなく、

たった半年間だったけれど、自分でも自分にそんな面があるとは知らなかった「自由惑星同盟が滅亡の危機に瀕したとき、強力なリーダーシップを発揮した優れた政治家」として、ずっと歴史に残った。

 

後世の人間は「寄生虫アイランズ」のことはまったく知らず、半年間だけ覚醒したアイランズをアイランズだと信じ「専制君主国家に最後まで抵抗した、真の民主主義政治家」としてたたえ続けると思う。

 

(余談1)アニメ版のアイランズが、すごく立派な外見でびっくりした。夜中に銀食器をプレゼントしに行くタイプにはとても見えない。

(余談2)アイランズの逆パターンがレベロだと思う。

(追記)「トップ画は、レベロではないですか?」というコメントをいただきましたが、アイランズで合っているようです。

コメントを寄せて下さるのは、とてもありがたいです。ありがとうございました。

 

(余談3)ネットで「もともとは理想家で変節したのではないか」という意見もあった。自分は色々と考え合わせるとそうは思わないけれど、面白い意見だなと思う。

 

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覚醒したアイランズの大活躍?が読めるのは、5巻。みんなで応援しよう。

ラインハルトとヤンの最初で最後の会合も載っている。

銀河英雄伝説〈5〉風雲篇 (創元SF文庫)

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銀河英雄伝説 DVD-BOX SET1

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人生が学べる、福本伸行「銀と金」の好きなセリフベスト10

「銀と金」とは

「カイジ」や「アカギ」で有名な福本伸行が、1992年から1996年にかけて「アクションピザッツ」に連載していた漫画。(文庫版は全8巻)

天涯孤独で定職にもつかずふらふらしていた森田鉄雄(髪を結んだカイジ)が、平井銀二(オールバックのアカギ)という男に声をかけられ、頭脳を使って巨額の金をつかみとっていくというお話。

対象となる事件が株の仕手戦や絵画詐欺、ポーカー、殺人鬼との心理戦など多種多様である、1エピソードが比較的短めにキレイに纏まっている、などから、福本伸行の最高傑作だという声も少なくない。

 

「銀と金」は名言・名シーンの宝庫だ

「銀と金」は、作者の経験からきたのであろう人間に対する洞察や人生訓が数多く含まれている。基本的にはエンターテイメントに徹しながら、その底には作者独自の哲学が感じられる。

人生哲学が感じられる数々の名言、名シーンの中から、特に自分が好きなものをベスト10形式で紹介したい。

 10位

彼は出会った者の財産・未来・良心を喰いちらかす。この世で最も性悪な魔物。ギャンブル!(3巻)

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(引用元:「銀と金」3巻 福本伸行 双葉社) 

福本伸行作品ではお馴染みの、福本節。ギャンブルをここまでかっこよく語れるのは、福本伸行だけだろう。

  

9位 

地獄を見つめて生きるより、希望を追って死にたい。そう望む……それが人間の末期……(4巻蔵前)

 

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 (引用元:「銀と金」4巻 福本伸行 双葉社) 

「人はギリギリせっぱつまってくると、無為に耐えられないものなんだ」

「そして勇気を出す。今までの人生で使ったことのない勇気をな……。とんでもない弱虫が、限りなく死に近い決断だってするもの」

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(引用元:「銀と金」4巻 福本伸行 双葉社) 

福本伸行は本当に人間のことをよく知っているなと思う。

「何かをする」ことよりも、「何もしない」ことのほうが難しい。切羽詰まったときはなおさら「どんな結果でもいい。とにかく結果が知りたい」と思う。

他人に対しても「何もしないで見守る」ことが、一番難しい気がする。ついいらぬことを言ってしまったり、手を出してしまったり。

 

8位 

オレはただオレなんだ。それだけ……。名前は森田鉄雄。背景はない!(3巻森田)

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(引用元:「銀と金」3巻 福本伸行 双葉社)  

森田の恰好よさが炸裂するセリフ。さすが億単位のギャンブルをする男は、風格が違う。

「落ちている金は拾う主義さ」もいい。言ってみたい。

これくらいの自信が欲しい。

 

7位 

「兄さん……、おいらの唯一の友達。たった一人の優しい人……」(7巻 邦男)

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 (引用元:「銀と金」7巻 福本伸行 双葉社) 

邦男といえば「差別された」を思い浮かべる人が多いと思うが、自分はコチラのほうが印象深いので選んだ。

何故かというと、何回読んでもここで泣くから。

今もセリフを転載するために読み返していたら、涙でPC画面が見えない( ノД`)。

個人的には、神威編を読んで泣かない人は、人じゃないと思っている。

人か人じゃないかの踏み絵、それが「銀と金」の神威編。

相手がヤクザであれ誰であれ人殺しはいけないが、勝広も邦男も神威家に生まれていなければ、せめて人生のもっと前の段階で森田のような人に出会っていれば、と思わずにはいられない…。

 

6位 

ぼうず……それは、死人の考えや。(1巻梅谷)

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(引用元:「銀と金」1巻 福本伸行 双葉社) 

50億をドブに捨てた、丸宝総業グループのドン梅谷哲の言葉。

月の利息2500万で何もしないで安泰にただ生きていいのか。

それで本当に生きていると言えるのか。

自分ももし同じ状態になったら、「死にむかって緩慢に進む」よりも、「生きていると感じること」を望むのではないか。

そんな思考をおっさんの日常会話に組み込めるところが、福本伸行のすごいところだ。

 

自分はこの梅谷というキャラが大好きだ。梅谷の最もすごいところは、

「自分が品も何もない典型的な成り上がりで、不細工で野卑な男であり、他人にもそう思われている」という事実を認めたうえで、その事実をベースにして生きている潔さだ

 

「金は持つものや。わいなんて、金をもたにゃあサルやけんのう」

「しかし持っとるうちは、人として扱ってくれる。のー、銀行屋」

 

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(引用元:「銀と金」1巻 福本伸行 双葉社) 

梅谷と言えばこのセリフも好きだ。

「知性や品など、自分の人生には必要ない」という哲学を、知性や品を、姿にも言葉にも、「自分にひとかけらも組み込まないことによって」全身で語っている。

自分が生きる哲学を言葉で語るのではなく、自分という存在で示す梅谷はすごいと思う。

福本漫画の登場人物はみんな自分が生きる哲学を、自分の全存在をもって語っている。それが例え他人にとっては、クソみたいな哲学や生き方でも。

 自分が福本伸行の漫画が最も好きな理由は、たぶんここにある。

 

5位 

言わせておけばいい。元気がいいのも、今だけだ。いずれ、わしに許しをこう。哀れを誘う声でな。みなそうだった……。(4巻蔵前) 

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(引用元:「銀と金」4巻 福本伸行 双葉社) 

誠京の蔵前会長のありがたいお言葉。このセリフ、人生で一度くらいは言ってみたい

福本作品は、だいたい一人はこういう元気で悪魔のようなジジイが出てくる。

蔵前会長も好きだが「中間管理職トネガワ」を読んだら、兵藤会長も好きになってしまった。

「切りすぎた前髪だの、タイトなジーンズだの、ねじこむだの」

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 (引用元:「中間管理職トネガワ」1巻 萩原天晴/橋本智広/三好智樹 講談社)

 

4位 

金を得たのち、その向こう側を覗いてこないと(中略)鬼がいるのか……ひょっとして仏にでも遭えるのか。いや……案外、そこに座っているのも、やはり人かもしれない。(3巻 森田)

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(引用元:「銀と金」3巻 福本伸行 双葉社) 

 

自分の人生の道を定めて、その道を歩む。

その道を限界まで進んで極めた先には、一体なにがあるのか。

それは、限界まで突き進まないと分からない。

極めたその先に何があるのか、どんな風景が見えるのか、それともまた道が見えるだけなのか。

何も見えないかもしれないけれど、それでも何かを見るために突き進む。

道の先の深淵をのぞき込もうとしている人間の、決意のセリフ

 

3位 

いうてみいっ、森田っ! おどれは正しいのか……!! 正しさとはなんや?(中略)正しさとは都合や(中略)正しさをふりかざす奴は、それはただ、おどれの都合を声高に主張しているだけや。

わいはケチな悪党やが、口がさけても、人が間違っとるだとか正しさだとか、そんな口だけはきかんつもりや。それくらいの羞恥心は持っとる!(3巻 川田)

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 (引用元:「銀と金」3巻 福本伸行 双葉社) 

川田三成、魂の叫び。

これほどの血を吐くような叫びは、なかなかお目にかかれない。この後の「やっぱり、お前は間違っている」という森田の独白に、ただただ泣ける。

 

「やっぱり自分は間違っている」なんていうことは、川田自身も百も承知だと思う。

そして川田がそのことを誰よりも分かっている、ということを森田だって分かっている。川田も森田がすべて分かったうえで、それでも自分のために怒ってくれている、それも分かっている。

それでもなお、自分は「金がすべて」な「ケチな悪党」として生きていくことを、自分の意思で決めた。

金を稼ぐことが手段で、そのうえでその向こうを見たいと望む森田とは違う。

自分はそうではない生き方を、これからの人生で歩んでいく。

分かり合える部分もある、一緒に何事かを成し遂げた、でも、生き方が決定的に違う。そんな二人の人生の別れのシーンだ。

 

「迷えばいい人間なのか、悩めば素晴らしい人間なのか。そんなものはクソじゃないか。金が全てだろ」

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(引用元:「銀と金」3巻 福本伸行 双葉社) 

そういう川田が、誰よりも自分自身について迷い悩んだと思う。

そのことを森田も分かっているうえで、二人は理解し合った。自分たちは違う人生を歩むのだと。

これは「離れていても心はつながっている」とか、「これから一生会うことはなくても、それぞれの目標に向かって歩む」とか少年漫画などにありがちな、そういう別れではない。

生き方が違う、存在の仕方が違う、だから違う道を歩む、そういうシーン。

 

このシーンは、福本漫画屈指の名シーンだと思う。

自分とはまったく違う生き方をしていて、自分の生き方を否定していても、自分の気持ちを思いをはせて、無言で気持ちを飲み込んでくれる人がいる。

「お前が冷血漢じゃなくてホッとした」「兄弟ゲンカみたいなもの」と言ってくれる人がいる。川田が羨ましい。

 

2位 

裏に長くいると、周りは殺したい連中ばかりだよ。(中略)お前みたいなのが、一番そう思うようになるよ。殺したほうがいいダニども。でも、殺すな。オレたちは、世界を広げてなんぼの人間だ.

殺す人間の世界は……広がらない。必ず閉じていく……!(1巻 銀二)

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(引用元:「銀と金」1巻 福本伸行 双葉社) 

「何故、人を殺してはいけないのか?」という問いに対する答えの中で、自分が、最も共感した言葉

それがどういうことなのか、ということを話しだすと、果てしなく話が長くなる。 

ただちまたで起こっている無差別殺人は、自分を認識する他者を消すことで、自分という存在が在る「世界を閉ざして、消失させる」ということが、目的なのだと思っている。

しかしそれと同時に、無意識下にあるどんな方法であれ「他者(世界)とつながりたい」という気持ちの表現でもある。「その相手を傷つけ、殺す」という最低最悪のアプローチだが。

 

「自分をとりまく世界を破壊することで、自分を消失させたい」

「どんなアプローチであれ、とにかく世界とつながることによって存在したい」

 

この二つの相反する動機が、無差別殺人の動機なのではないか。

そんな漠然とした考えに、形を与えてくれたのが、銀二のこのセリフだ。

 

このセリフは「銀と金」という物語上でも非常に重要なセリフだ。

銀二が森田を相棒にするにあたって言ったこのセリフは、仕事をする上での森田にとって絶対的なルールになる同時に「銀と金」という物語における黄金律になるからだ。

 

例えば森田は神威秀峰を殺そうとして、逆に命を落としてしまった邦男を前にして「でも、それじゃあこいつは人を殺していた」と慟哭する。

普通に考えれば、「邦男が死ぬ」という最悪の事態よりは、

「仮に殺してしまって捕まっても、邦男が死ぬよりはいいじゃないか。とりあえず無念は、はらせたんだから」とか「秀峰を殺しても、逃亡生活をすればいいじゃないか」などの考えが浮かぶ。

 

森田がなぜそういうことを考える描写がないのかと言えば、森田にとって、「人を殺す」ということは絶対的な禁忌だからだ。殺害する相手が誰かとか、どんな事情があるなどは関係がない。

 「銀と金」という物語における「人間が人間であるための黄金律」は、「どんな相手であれ人を殺してはいけない」というものだ。

だから森田は、あれほど邦男を必死に止めたのだ。

 

1位 

信じろっ! 一度だけ人間を……オレを信じろっ! オレを……森田鉄雄を信じろっ……!(6巻森田)

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 (引用元:「銀と金」6巻 福本伸行 双葉社) 

1位は6巻で、森田が勝広言ったこのセリフ。

このセリフ、このシーンに、福本漫画の真髄がつまっている。

 

自分が福本作品で最もすごいと思っているところは、人間という存在に対する深い愛情と、その表現のしかただ。

 

他の創作物ではほめそやされる「人間(他人)に対する慈しみや深い愛情」は、福本漫画の世界ではまったく評価されない

悪党たちからは「甘い」だの「ばかばかしい」だのさんざん嘲笑されるし、森田の理解者である銀二ですら、「お前が誰かを助けたかったら……というか、贔屓したかったら……」なんてことを言う。

 

福本作品の深みや凄みは、主人公が示すこの「人間愛」という価値観が正しいように見える演出が一切なく、むしろ一見間違っているように、読者には見えるところだ。

 

悪党たちはおろか、主人公の味方や尊敬している人間でさえ、「なに、寝言を言っているんだ、ぼけ」という態度をとる。

しかも、その悪党たちや周りの人間が主張する理屈のほうが正論のように聞こえるので、主人公は言い返すことができない。

 福本作品の主人公たちは「人間愛」という価値観を言葉ではなく、すべて行動で示す。

 

同情すべき背景を持つ勝広や邦男だが、彼らは何の関係もない自分(森田)も、殺そうとしている。

それでも森田はこの二人に心の底から同情して、その信頼を得るために、マンシンガンの前に丸腰で飛び出す。

「勝広に、人生で一度でいいから、人間を信じて欲しい」

「勝広が、本来は人を殺すような人間じゃない」と思うからだ。

 そして邦男の死に際には、その手を握り締めて涙を流す。

他のどんな創作物でも、これほど深い他者への共感や無償の愛を、見たことがない。

 

しかも森田がこんなことをしても、誰もその行為を認めてくれない。

秀峰たちが改心するわけでもないし、銀二をはじめ仲間たちも森田を認めるどころか、理解すらできない。

人に認められ称賛されるとき、人は利他的な行動をとることができる。愛の大切さを語ることもできる。

しかし誰も認めてくれない、誰も褒めてくれない、それどころか「甘い」と蔑まれ、馬鹿にされ、時には裏切られるたときに、どれほどの人間が自分だけを信じて、いいと思ったことをやり続けられるだろう。

「優しさや温かさ」なんていうものが馬鹿にされ蔑まれる世界で、ただ一人、人のために涙を流し、人間愛を貫き通す森田はすごい人だと思う。

福本作品の真の凄みというのは、この辺りにあると思っている。

  

終わりに

「銀と金」は、福本伸行の最高傑作というだけではなく、人間の深い部分に触れながら、なおかつエンターテイメントとしても完成されている奇跡のような傑作だ

未読の方は絵柄で敬遠せずに、ぜひぜひ読んでみて欲しい。

 

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ドラマ化もした。2017年1月現在、絶賛放映中。

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名場面・名セリフがもりだくさん。物語も最高に面白い。

銀と金 文庫全8巻 完結セット (双葉文庫―名作シリーズ)

銀と金 文庫全8巻 完結セット (双葉文庫―名作シリーズ)

 

 

【朗報】 土曜ドラマ24「銀と金」の第一話が予想に反してすごく良かったので、原作とは違う魅力を語る。

 

1月7日(土)に第一話が放映された、テレビ東京土曜ドラマ24「銀と金」が予想に反して、めちゃくちゃ良かったです。

文字通り、ちゃんと「ドラマ化」されていました。

www.tv-tokyo.co.jp

 

「銀と金」とは

「カイジ」や「アカギ」で有名な、福本伸行の初期の代表作です。

何の目的もない怠惰な人生を送っていた、フリーターの森田哲雄が、闇ブローカーとして裏社会で名の知れた平井銀二と出会い、株の仕手戦やギャンブル、名家の後継者争いなどに関わり、命がけの勝負に挑む物語です。

 

「ドラマ化」は、喜ぶよりも不安だった…。

「銀と金」は、福本伸行の最高傑作であるという呼び声も高いです。

自分は今まで読んだ漫画の中で、一、二を争うくらい「銀と金」が好きです。

好きな漫画はたくさんあるのですが、「自分の中でナンバー1の漫画は?」と聞かれたときにあげるのが、この「銀と金」か西原理恵子の「ぼくんち」です。

 

なので、ドラマ化と聞いたとき、喜ぶよりもとにかく不安でした。

福本伸行の漫画は、「漫画だからこその」セリフや演出、物語なので、それをそのままドラマ化されてしまうと、見るに堪えないものになってしまうのではないか、という怖さがありました。

下手したら、ただの荒唐無稽なコメディになってしまう。

ちゃんとそういうことを分かっている人が、脚本や演出をしてくれるのか。

俳優さんも、漫画的なキャラクターを違和感なくちゃんと演じてくれる人なのか。

 

余りに不安すぎて、見るのはやめようかな、と思っていました。

ひどい出来だったら、本気で立ち直れない…。

 

ただ公式ホームページで、「福本伸行の指名で、銀さんをリリー・フランキーが演じる」という情報を見て、かなり興味がわきました。

リリー・フランキーと言えば、映画「凶悪」で紳士の仮面をかぶった冷酷な悪党を演じたことで有名です。

 

「リリー・フランキーが演じる銀さんは、見てみたい」

 

そう思って、ドラマを見てみることにしました。

 

ドラマ「銀と金」には、原作とは違う魅力がある

第一話しか見ていませんが、ドラマ「銀と金」は、漫画とはまったく別モノでした。

いい意味で。

そして、いい意味で予想を裏切ってくれました!!

 

「脚本と演出」

原作は時代がバブル直後の1990年代前半なのですが、ドラマは舞台が現代になっています。

画面が昔の映画のような演出で、暗い退廃的なムードが漂っています。グッと物語に重みが増して、これはいい演出だと思いました。

 

脚本も、「漫画だといい演出だけれども、実写だとおかしく見えそう」というものや「セリフだけで、ドラマだと分かりづらいかも」という点は、上手く改変してありました。

 

銀さんが森田に殺しを依頼するときに実際に病院に行ったり、 森田が「殺しはできないけれど、仲間に入れて欲しい」というときに、土下座などの過剰な演出がなかったり、脚本や演出の改変の仕方がすごく良かったです。

 

一番いい改変だな、と思ったのがこのシーンです。

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(引用元:「銀と金」一巻 福本伸行 双葉社)

 

前の債務者に対しては「金利8%なんて、馬鹿ぬかすな。18%だ!」と銀二が恫喝したので、森田が「金利6%なんて無理に決まっている」と心の中で思うシーンです。

 

漫画だから「読者の気持ちを森田が代弁してくれる」いい演出なのであって、ドラマのセリフとしては余りに説明的すぎて、これをそのままやってしまったら、とんでもなく悲惨なことになっていたと思います。

ドラマで「心の声」を言う演出って、そもそもおかしく見えることが多いし。

 

何とこのシーンは、森田の心の声は一切ナシでした。

森田役の池松壮亮の、大げさすぎない表情の演技と、音楽で、森田の心の声を表現していました。

 

俳優がいい

銀さんやアカギみたいに底知れぬ魅力を持つ存在は、セリフや物語でも頭がいいとかすごい人だとかは分かりますけれど、それ以前にその存在感だけで「この人はすごい人だ」って納得させなければならないと思います。

ただそこにいるだけで、「この人は何か違う」

ちょっと目線を動かしだけで「怖い」

そう思わせないといけないと思うんですけれど、リリー・フランキーは想像以上にすごかったです。

 

笑わないと怖いけれど、笑うとさらに怖い

ちょっと口の端を上げて、「ふっ」と笑うだけで、怖くて鳥肌がたちました。

「こいつは、やばい。人を殺してそう」って他人に思わせるのが、すごく上手いです。

俳優じゃなくて、本当に闇ブローカーなんじゃないだろうか。

「人を、一人殺して欲しい」という言葉も、あえてサラッと言っているところが良かったです。 

 

 原作の銀二はもちろん、悪の魅力を兼ね備えたダークヒーローなんですけれど、アカギと違って、余り狂気性は感じない、と個人的には思っています。とにかく頭が切れて、その計算通りに動くという印象です。

アカギと銀二は「哲学を体現しているか、狂気性を持っているか」がキャラクターとして徹底的に違うと思います。

外見は「オールバックかそうじゃないかの違いだけ」とよく言われているけれど。(まあ、そうだけどさ)

 

でも、ドラマの銀二は漫画の銀二とも、また少し違った存在です。

「この次の瞬間、何をしだすか分からない」

理屈とか会話が通じなさそう。

そんな怖さがあります。

 

原作の銀二よりもいいんじゃないかと思いました。

リリー・フランキー、すごすぎる。

f:id:saiusaruzzz:20170108115815p:plain

 (引用元:テレビ東京公式ホームページ)

画像を見ているだけで怖い。

 

もうひとつ嬉しい誤算は、森田役の池松壮亮がすごく良かったことです。

こんな上手い役者だったとは、ぜんぜん知りませんでした。

すまーぬ。

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(引用元http://www.cinra.net/news/20160318-nagaiiiwake

 

原作だと最初のほうは銀さんに喰われているのですが、損な立ち位置にも拘わらず、演技がリリー・フランキーにまったくひけをとっていませんでした。

原作の森田はやり場のない鬱屈を抱えた若者という印象ですが、ドラマの森田はそこからさらに、そんな世の中に静かな絶望を感じている雰囲気があって良かったです。

 

 物語は原作にきちんと沿ったものなのですが、演出やキャラクターの解釈の仕方で、まったく別の物語のような印象を受けます。

ただ「好きな漫画を実写で見ている」という感じではなく、まったく知らないドラマを見ているような、新鮮な気持ちになりました。

 

「ここがちょっと」と思った箇所

きちんと「ドラマ化」されている素晴らしい出来でしたが、一か所だけ、どうしても見逃せない不満箇所があります。

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(引用元:「銀と金」一巻 福本伸行 双葉社)

 

銀二が森田に殺しを依頼するシーンです。

ドラマでは、森田に「酸素マスクをはずせ」と言っているんですよね。

 

漫画で言っている

「誰もいなくなった時に、「事故」が起こる。お前は、誰か交替の付き添いが戻ると思っていたから長い食事に出た、ただそうすればいい」

「何もしないで、長い食事に出るだけで、大金がもらえる」

それでも森田が「そんなことはできない」と言って断る。

 

森田という人間を知るうえで、ここは絶対に変えてはいけない部分だと思います。

「自分がなにがしかの行動をしなきゃいけない」のと

「ただ、見ぬふりをするだけでいい」は、

天と地ほども違いますから。

 

「見ぬふり、知らぬふりをするだけで五千万という大金が手に入る」

それでも断るから、森田はすごいのだと思います。

森田の勝負強さも頭の良さも、勘の良さもぜんぶすごいんですけれど、自分は森田の一番すごいところは、こういうところだと思っています。ここが変わっていたのは(ここがはずしちゃいけないポイントだ、と思ってもらえなかったのは)すごく残念でした。

 

まとめ:少しは不満もあるものの、すごく面白かった

 まさか「原作通りだ」どころか、

「原作の主筋を追っていながら、まったく違った魅力を持つドラマ」なんていうものを見れるとは思いませんでした。

 

原作を暗記するほど読んでいる自分でも、これから先の展開が、まったく未知の物語を見るように楽しみです。 

原作未読の方も十分楽しめる内容だと思います。

 

このままの内容で続いていくことを願って、来週も楽しく視聴しようと思います。

 

*後日、ドラマの感想の続きを書きました。

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 「凶悪」の演技もすごいらしい。怖くて見れない…。

 

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「東京タラレバ娘」が「ハッピーマニア」を越えられない理由。

 

東村アキコ「東京タラレバ娘」を読んだ

今期TVドラマ化もされる、東村アキコの漫画「東京タラレバ娘」を読んだ。

昨今、よく見かけるアラサーの女性が結婚や恋愛に悩む姿を描いた漫画だ。

 

自分としては、ある程度共感して読めるのではないか、と考えたのだが、結果的にはまったく共感できなかった。

というよりも言葉を飾らずに言えば、かなり苛立ちを覚えた。

 

年代や立場は違えど、ほぼまったく同じ作りである安野モヨコの「ハッピーマニア」は、自分の中では女性漫画の中で一、二を争う名作であるにも関わらずである。

 

読んだ時点での自分の状況が違うからだろうか??

もし、「東京タラレバ娘」の登場人物たちと同じ状況のときに読んだとしたら、共感しながら読んだであろうか??

 

たぶん、違うと思う。

彼女たちのときと同じ立場のときに読んだら、「東京タラレバ娘」はそれなりに面白く読めただろう。

「うんうん、そうだよねえ」

「あはは、こういう人いる」

楽しく読み終えて、そしてそのあと、何も心に残らなかったと思う。

 

「ハッピーマニア」を同じ状況で読んだら、恐らく余りに痛くて読み進めるのが怖くなったと思う。

凍りつくようなひきつった笑いを浮かべながら、それでも自分の心をのぞき込むように、それでも繰り返し読んだと思う。

恐らく「面白い」という感想は吐けなかった。

「痛い」としか言いようがない。

そして今、「ハッピーマニア」を読み返すと、そのときに自分が感じていた「物理的な」(としか言いようがない)痛みを懐かしく思い出す。

 

両方とも「女性の幸せとは何なのか」ということを、恋愛・結婚を軸に語っていながら、この二者はまったく似て非なるものである。

 

「東京タラレバ娘」は、自分の不幸がすべて「結婚できないこと」に集約されている。

「東京タラレバ娘」の三人の主要登場人物たちの「不幸」は、「結婚できないこと」にすべて集約される。

「結婚したいけれど、相手がいない」

「結婚したいけれど、未だに元彼のセカンドに甘んじている」

「結婚したいけれど、相手は既婚で不倫をしている」

 

十年前の23歳の自分に、タイムマシーンで戻って言いたい。

「妥協して、その男にしておきなさい」と。

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(引用元:「東京タラレバ娘」 東村アキコ 講談社)

 

十年後の43歳の自分が、タイムマシーンに乗ってやってきたら、たぶんこう言う。

「少しくらいのことは我慢して、その男と結婚しなさい。みんな妥協したから、幸せになったのだ」と。

 

このエピソードを、作者は「妥協」という言葉を軸にして話を進めている。

「妥協して、そこそこの男と結婚をして幸せになった女性たち」と

「でも、その妥協がどうしてもできない主人公たち」を対比させている。

しかし、自分はこのことに強烈な違和感を覚える。

 

「妥協しないで心の底から愛した人と結婚さえすれば」、女性は幸福なのだろうか?

「パートナーが不誠実だから、既婚者だから、いいパートナーが見つからないから、自分は不幸なのだ」

つまり裏を返せば、

「自分が妥協していないパートナーが見つかって結婚さえすれば、幸福になれるばずだ」

 

「愛し愛された人と結婚さえすれば、女性は幸福である」

自分が「東京タラレバ娘」に感じた、一番の違和感は、この幻想を非常に無邪気に何の疑いもなく信じている点にある。

 

自分の幸福は自分で追求し続けるしかない

対して、「ハッピーマニア」はどうか。

「ハッピーマニア」は、一種の地獄めぐりの物語だ。

 

「いい男に出会いたい」

「専業主婦をして楽に暮らしたい」

「働きたくないから、フリーターとして適当に生きている」

「アルバイトすら、面倒くさくなるとすっぽかす」

 

そんなどこでもいる二十代半ばのダメ女、重田カヨコが、ありとあらゆる男を相手に、ありとあらゆるダメな恋愛をし続ける。

 

不倫もするし、元彼の都合のいい女にもなったし、うまくいったと思ったら、相手が突然海外に行ったり、相思相愛になったら相手がマレにみるダメ男だったり、プロポーズされても何か違うと思ったり。

人生のどこかで聞いたような話が繰り広げられ、人生のどこかで言ったことがあり言われたことがある言葉が延々と書き連ねられている。

 

「一体、自分は何が欲しいんだろう」

 

そう考えたときに、重田はこう呟く。

「震えるほどの幸福が欲しい」

「幸せって、しびれるようで、くるくるまわって、甘くて苦しくて目頭がアツくなるようで、なんかわかんないけれどそんなかんじなんだよ」

「わかるのは今のコレは、幸せじゃないってことだけ」

 

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(引用元:「ハッピーマニア」安野モヨコ 祥伝社)

 

誰かが愛してくれるのは幸せ。

誰かを愛することも幸せ。

結婚しようと言ってくれるのも幸せ。

結婚するのも幸せ。

 

でも、本当にそれが自分が追い求めている

「しびれるようで、くるくるまわって、甘くて苦しくて目頭がアツくなるようで、なんかわかんないけれどそんなかんじの」「震えるほどの幸福」なのか。

 

重田は恐ろしくいい加減な女であるが、この一点においてはまったく妥協しない。

 

自分が考える「震えるほどの幸福」を追い求めて、人を傷つけ、傷つけられ、他人の愛情を踏みつけ、自分の愛情も何度も何度も踏みつけられながら、それでもまだ見ぬ「自分だけの幸福」を追い求めて恋愛し続ける。

 

「ハッピーマニア」は物語の最後、重田のことをずっと好きだった高橋と結婚するシーンで終わる。

でも重田は、この後に及んで、結婚式の直前に何回も逃げ出す。

そして、最後に叫ぶ。

 

「あーーーーー、彼氏欲しい!!」

 

「彼氏欲しい」は、物語の始めから重田が叫び続ける、お決まりのフレーズである。

このころになると、読者はもう気付いている。

これは文字通りの「彼氏が欲しい」という意味ではない。

「自分自身で、自分だけの震えるほどの幸福を、もっと追求したい」

恐らくそういう意味だと思う。

 

自分の幸福は、自分にしか分からない。だから自分で追求し続けるしかない。

 

世間は「結婚が女の幸福」という。

だから「妥協してでも、結婚すればいい」という。

でも、「愛し愛されて結婚するのが一番の幸福だよね」という。(「東京タラレバ娘」はこの段階の話である。)

 

でも、本当にそうなのか?

愛し愛されることは確かに幸福である。

でも、それだけで自分の幸福はできているのか。

それさえ叶えば、自分は永遠に幸福なのか。

 

世間で「これが幸福だから」というから、「これが幸福なのか」

「自分が愛し、自分を愛してくれるパートナーを見つける」ただそれだけさえ叶えば、自分は幸福になれるのか。

 

自分にとっての本当の幸福とはなんなのか?

 

そういう疑問を持っているから、重田は結婚式直前の最終回になっても「彼氏、欲しい」と叫ぶのである。 

 

たとえ、どれほど傷つけられても、どれほど相手を傷つけても、「自分にしか分からない、自分だけの幸福を自分自身で」妥協なくひたすら追求するからこそ、「ハッピーマニア」はこれほどの痛みを感じさせる物語なのだと思う。

外殻のストーリーラインは、恋愛や結婚を巡る物語でありながら、これは女性の…というよりも、人生の命題の物語なのだと思っている。

 

「東京タラレバ娘」の三人はそれなりに働いている設定であるが、内面を見るとまったく自立していない。

「東京タラレバ娘」の三人が「何か誤ったこと」をやったときに、軌道修正するのは、常に本人たちではなく男である鍵谷である。

彼女たちは男である鍵谷に、自分の人生や恋愛に対する姿勢の甘さを指摘され、彼に指摘されるままにその姿勢の甘さを修正する。

六巻で香が元彼との関係を、鍵谷に言われたことによって、断ち切るシーンが象徴的である。

f:id:saiusaruzzz:20161225123113p:plain

(引用元:「東京タラレバ娘」 東村アキコ 講談社)

 

残念ながら、「(作内の流れにおける)彼女たちの誤った行動」を指摘したり正したりするのは、常に男である鍵谷である。

自分自身で正すことはおろか、女性同士で指摘したり正す力すらない。

 

それに対して、重田はどんな行動も最終的には自分自身で決める。

そしてそんな重田の状況に正確で鋭い突っ込みを入れ行動を厳しく叱責するのも、女友達であるフクちゃんである。

重田のすごいところは、周りにどれほど厳しいことを言われ、どれほど強く止められても、本当に「自分がこうしたい」と思ったら一切躊躇しない点である。

そしてその行動によって、後でどれほど傷つき、どれほど周りから馬鹿にされても、それを一切他人のせいにはしない。

 

自分で選び、自分で行動し、その傷も痛みもすべて自分で引き受けている重田は、どれほど外面的には馬鹿でいい加減な女性に見えても、自立した強い人間である。

誰かの強い指図がなければ、自分の行動すら決められない人間とは違う。

 

「東京タラレバ娘」では、「妥協」という言葉が繰り返し使われる。

「パートナー選びに妥協した女性は、いま幸せだ」

「自分も妥協しておけば」

「世の中には妥協できる女と妥協できない女がいる」

 

妥協したければ、妥協するのもいいと思う。

ただその際、「妥協した」ということが、自分が自分の意思で選んだ最良の選択であったと言い切る気概が欲しい。

 

「妥協した、ということが、妥協しない選択だったのだ」

 

そう思えない人間は、「妥協」という言葉を、責任を逃れたり、言い訳するための道具として使う。

そして、そういう人間だからこそ、自分ではない誰かに(「東京タラレバ娘」であれば、男である鍵谷に)人生を指示してもらわなければ生きられないのだ。

 

「妥協した」という言葉を言い訳のように口にして、人生を自分の意思で主体的に生きていない人間が、「なぜ幸福になれないのか」と言われても、それはそうだろうとしか言いようがない。

自分が「東京タラレバ娘」を読んだ感想は、最終的にはこの一点だけだ。

 

他人は自分の人生の幸福を考えてはくれない。

自分の幸福は、自分にしかわからず、だから自分自身で追求するしかない。

例え、それがどれほど辛く痛みを伴うものでも。

 

今の時代に、特に社会的に問題になりやすい、「女性の主体性と依存」という課題を乗り越えられていない、その課題が見えてすらいない物語が描かれていることが、個人的には非常に残念だった。

ただ「東京タラレバ娘」は、まだ物語が続いているので、今後どういう道筋を辿りどういう結末になるか見守りたいと思う。

 

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諌山創「進撃の巨人」21巻の感想&この物語は「世界への違和感の表明の物語」だと思う。

 

2016年12月9日(金)に発売された諌山創「進撃の巨人」21巻の感想&この漫画全体のテーマについての語りです。

 

20巻の感想のときにもさんざん語りましたが、語りたりないので語ります。

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21巻の前半 物語における登場人物の役割

サル型巨人に特攻して重傷を負ったエルヴィンと、ベルトルトに特攻して瀕死の全身火傷を負ったアルミン、どちらを巨人化の薬を使って助けるか、という話が21巻の前半の話でした。

 

最終的にはアルミンが助かります。物語的にはそれが妥当だろうと思いました。

 

「進撃の巨人」という物語で、アルミンは非常に重要な登場人物だと思います。

何故か?

アルミンだけが「巨人を倒したあとの世界」のことを考えている、唯一の登場人物だからです。

エレンが言ったとおり、アルミンだけが、

 

「こいつは戦うだけじゃない。夢を見ている」

 

からです。

あくまで物語のテーマだけで登場人物の重要さを考えると、アルミンはエレン以上に重要だと思います。

 

「虫けらみたいに人が死ぬ、こんな残酷で絶望的な世界でも、夢や希望を持つことができる」

 

これは「進撃の巨人」のテーマで、すごく重要なことだと思います。

この役割を主人公のエレンではなく、友人のアルミンが果たしている(むしろ、主人公であるエレンに教えている)ところが、「進撃の巨人」の面白いところだと思っています。

 

「進撃の巨人」は普通の物語だと主人公に集中している要素が、色々な登場人物に分散して与えられています。

特にアルミンが持っている「こんな世界でも巨人への憎悪一色に染まることなく、絶望することもなく、巨人にまったく関係ないことに興味を持ち、夢や希望を抱き続ける」という特性は、本来、主人公が持つにふさわしいものだと思います。

それを主人公でもヒロインでもなく、幼いころから主人公にくっついていた幼馴染が持っている、というのが面白いです。

 

そこに作者の考え方がよく出ているような気がします。

「主人公は別にスーパーマンでも何でもなく、人に素晴らしいものを与えられる存在でもなく、主人公だろうが誰だろうが、みんな何かを与え与えられ生きている」

 

エルヴィンも知識欲は持っているけれど、それは結局、過去につながるものなんですよね。他の登場人物でも代替することができるものです。

 

エルヴィンにはエルヴィンにしかできない、

 

「悪魔になって、新兵たちを地獄に導く」

 

という役割があるわけです。

これは、エレンにもできない、アルミンにもできない、リヴァイにもできない、エルヴィンにしかできないことです。

「自分しかできない役割を果たした登場人物は、物語上では機能を失う」ので、エルヴィンではなくアルミンが生き残るのは、物語として考えた場合は当然だと思います。

もちろん「物語内の登場人物たち」には、様々な葛藤があるでしょうが。

 

20巻の話になりますが、リヴァイがエルヴィンに言っていました。

 

「俺は選ぶぞ。夢を諦めて死んでくれ。新兵たちを地獄に導け。獣の巨人は俺が仕留める」

 

エルヴィンがこの世界に生まれてきたのは、このためです。

この瞬間に、リヴァイが獣の巨人を倒すための陽動をするために、その陽動をして死ぬことを新兵たちに強いるために生まれてきたんです。

エルヴィンもそれが分かったから、リヴァイにそう言われたときにこの表情なんですよね。

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 (引用元:「進撃の巨人」20巻 諌山創 講談社)

 

死ぬことも、夢を諦めることも、ましてや自分の部下で、実戦経験の浅い新兵たちに「必ず死ぬ」と分かる特攻を強いることは辛いことです。

フロックには「エルヴィン隊長は悪魔だ」と言われていますし。

幼いころから夢見てきた、「この世界の謎を知りたい」という願い、それがようやく実現するところまできた。それでも、

 

人間には誰しも役割があり、死ぬべきときがきたら死ななければならない。

 

エルヴィンはこの理を悟り、リヴァイの言葉を受け入れました。

 

「自分が何のために死ぬのか」と理解することは、「自分が何のために生きたのか」を理解することと表裏一体だと思います。

それを心の底から理解できた、そしてリヴァイという赤の他人にも理解してもらえたエルヴィンは幸運だと思います。

 

後半は世界の謎が解明される、グリシャの過去編

それに対して後半の展開は、個人的には少し微妙でした。

元々、壁の外にも人類がいて、エレンたちが住んでいる壁の中はエルディアの王族を隔離する場所にすぎなかった。

壁の外は、マーレ人がエルディア人を支配する世界だった。巨人の力を利用して長く大陸を支配してきたエルディア人は、他民族に対する民族浄化などを長く行っており、そのために「悪魔の末裔」と呼ばれている。

 

というのが、長く謎だった、この世界の真実の姿です。

 

アニ・ライナー・ベルトルトの三人は、エルディアの王が持つ「始祖の巨人」の力を奪うために壁内に潜入した「マーレの戦士」であり、ジークもその一員でした。

ユミルは、何等かの理由で「楽園送り」になり、巨人化してずっと壁外をさまよっていたようです。

 

二民族間の憎悪の歴史というのは、長く追い求めてきた世界の謎にしては、ちょっと平凡すぎるなあと思いました。

若い日のグリシャにも、イマイチ共感しづらかったです。

妹がマーレ人に面白半分に殺された、というのは気の毒ですけれど、展開としてはありがちすぎます。

一巻でエレンの母親・カルラを食い殺した巨人が、グリシャの前の奥さんのダイナという事実は「おおっ」と思いましたけれどね。何という運命。

色々な事実が判明したので、また一巻から読み返したくなりました。

 

最も重要なテーマは、「世界への違和感の表明」だと思う

「進撃の巨人」は、「自分が生きる世界への違和感の表明」の物語だと思っています。

 

「進撃の巨人」の世界は、「この世界が生きる人にとって、苛酷であり残酷であることが明確な」世界です。

 

「この世界の違和感、おかしさ」が「人間を虫けらのように無差別に殺戮する、不気味で意思の疎通のできない、人間と同じ倫理観どころか意思や感情すら持たない」巨人たちに集約されています。

「この世界に生まれてきたのに、巨人に無意味に殺されなければならないなんておかしい」

「この世界は理不尽だ。そして、自分はその理不尽さをどうしても受け入れることができない。だから戦う」

「進撃の巨人」は、そういう物語です。

 

あくまで自分の勝手な想像ですが、作者はこの「違和感」を、自分が生きる現代社会に対して持っているのではないかと思います。

 

この現代社会の「違和感」は、「進撃の巨人」の巨人たちほど明確でもないし、可視化もできません。

自分は明らかにおかしい、と感じるのに、「おかしくない」と考える人のほうが多数いることなんてざらにあります。

 

「進撃の巨人」の登場人物たちが感じている「世界への違和感」「理不尽な世界への怒り」20巻でエルヴィンが言っていた、

「(この残酷な世界に抗うために)兵士よ、怒れ。兵士よ、叫べ。兵士よ、戦え」

この言葉に、すさまじい共感を覚えました。

 

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 (引用元:「進撃の巨人」20巻 諌山創 講談社)

 

自分自身がそういう気持ちを抱えてこの世界で生きているからです。

 

この社会で生きていると

「それはちょっと、おかしいのではないか」

「自分はそうは思わない。たとえ、世界中の人間がそうだと言っても、自分はそれは違うと思う」

という違和感を表明したくなることが、たびたびあります。(実際にしているし。)

 

この社会で、ありとあらゆる局面で感じる、

「当然、こうでしょう? 当然こう思うよね。これが正しいのが、当然でしょう?」

社会・時代という巨人の、真綿でくるむような無言の圧力に対して、

「自分は違う。自分が言いたいことはそういうことじゃない。自分の言いたいことを勝手に決めるな」

潜在的にそういうすさまじい怒りを抱いて生きているのが、恐らくは自分という人間なんだろうと思います。

 

社会や時代というものに左右されない、自分独自の価値観というものを守り抜きたい。

そんなことは自分には不可能だと分かっていても、そういう人間を目指すために、思考停止を強いてくるようなものに対しては、怒りの声を上げ続けたい。

 

自分が感じている、この世界に対する違和感を、常に叫び続けたい。

 

エレンのように、アルミンのように、リヴァイのように、ミカサのように。

例え、どれほど巨人が無慈悲で恐ろしい存在でも、例え、この世界の現実がどれほど残酷で、人間がちっぽけな存在でも。

この世界の理不尽さを認めることはできない。

どれほど苛酷で絶望的な環境でも「それが運命だ、仕方ない」と屈さず、戦うことによって「違和感」を表明し続けるエレンたちに激しく共感します。

 

理不尽に個人の思いを淘汰するような、「社会や時代の正しさ、価値観、論理」という巨人と戦い続けたい。

そう思っているから、「進撃の巨人」は自分にとって強い共感を覚える物語なのだと思います。

 

 世界の謎も解明され、いよいよ物語は佳境に入りました。

この世界の戦いの物語を、最後まで見届けたいと思います。

 

余談:「進撃の巨人」を読んでいるとき、いつも「ワンダと巨像」の「開かれる道」が頭に流れます~~♪♪

 

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