うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

【漫画考察】「俺は俺を肯定する」20世紀最凶の衝撃作 新井英樹「ザ・ワールド・イズ・マイン」を読み解く

 

読もう読もうと思っていた「真説ザ・ワールド・イズ・マイン」を読んだ。

昔、最初のほうを少しだけ読んだことがある。その時は「人を殺しまくる過激さを描いているのかな」と思って面白いと感じず、読むのを止めてしまった。絵も好みじゃないし。

 
今回、改めて読んでみて、すごい話だと思った。よくこのテーマをこの巻数で綺麗にまとめたな、と思う。
 

 「ザ・ワールド・イズ・マイン」が難しいなと思うのは、登場人物がほとんど自分の考えを断片的にしか語らないからだ。

というよりは登場人物たちも、社会が破壊され機能しなくなった極限の状況で、初めてこういう問いを向き合っている。

明確に答えを語れないし、人によってはその答えが二転三転したり、状況によってまったく違うことを言い出したりする。

 

突きつけられた問いに対する追い詰められた人間のギリギリの葛藤と叫びが、すごくリアルだ。

 

モンちゃんを初めとしてヒグマドンやイヨマンテの下りなど、それを実体としてとらえていいのかメタファーとして見たほうがいいのか迷う存在も多い。

「真説」は作者のインタビューが載っているので多少、どういう物語なのかということを考える手がかりが増えている。

 

この物語をどう解釈するのか、自分なりの考えを述べたい。

 

「命の価値を決めるのは誰なのか」

「人間同士の契約を破棄した状態」を作るために社会を破壊する。

「命に価値があるのかないのか」については、作中では主に三つの立場が出てくる。

①命は平等に無価値である。(モンちゃん、飯島)

②命は時価であり、状況や相手との関係性でその価値は変動する。(由利、トシ、その他大勢)

③命には平等に価値がある。(マリア、塩見、須賀原)

恐らく多くの人が社会が正常に機能している現代で「命に価値があるのか?」と問われれば「③だ」と答える。

 

しかし本来は違う。赤の他人の死と身内の死、自分の死を同じように考えることはできない。

由利が看破した通り

「他人が死んでも、私は今日を眠りメシを食い、明日は笑うだろう」

それでいながら自分の死には怯え、肉親の死は嘆き悲しみ、理不尽さを呪う。それが普通の人だと思う。

 

しかし多くの人は本音は②でありながら、「③である」という建前を崩さない。

「命には平等に価値がある」という建前が崩れれば「社会」が守れないからだ。「人間同士の契約」である「社会」を守り生きるために、「命には平等に価値がある」という建前を言い続ける。

 

ではその「社会」が破壊され意味をなさなくなったとき、人は「命は平等に価値があるのか?」という問いに何と答えるのか?

 

「ザ・ワールド・イズ・マイン」では、この問いに「社会の一員」ではなく、個人として向き合わせるために、これほど徹底的に社会を破壊している。

モンちゃんが言う「俺は俺を肯定する」という言葉を、飯島は「神と人間の契約を破棄する言葉だ」と言った。「社会を破壊する」ことは「人間同士の契約を無効にする」ことだ。

 

「人が人を殺してはいけない理由は何なのか?」

青森西署を襲撃した際、トシが総理に答えを要求した問題は非常に重要である。

「宗教や法律以外で、人が人を殺してはいけない理由は何なのか?」

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(引用元:「真説ザ・ワールド・イズ・マイン」1巻 新井英樹/エンターブレイン)

「法律=社会=人間の契約」「宗教=神との契約」が破壊され意味がなくなったとき、命は平等に無価値になるのではないか。

「俺は俺を肯定する」「世界は俺のもの」という言葉は、人間同士の契約と神との契約を無効にする言葉だ。だからモンちゃんは「命は平等に無価値である」と断じ、凶行を重ねる。

 

作品の中でこの「人間同士の契約が無効になった状態」を、読者は何度も味合わされる。

それはヒグマドンにいきなり襲われて、先ほどまでその命の大切さを説いていた教師が、猫を「餌」と言ってその眼前に突き出すことだったり、関谷潤子に対する「マリアを殺せば、お前とお前の息子の命は助けてやる」というトシの言葉だったりする。

トシの父親に同情すれば、トシに惨殺された紀子の母親から「あの中継を見て(父親に)同情した奴らは、紀子をもう一回殺している」という言葉を浴びせられる。

どれほど綺麗ごとを言っても他人の命の価値を、しょせん自分の快不快でしか判断していないことを思い知らされる。

 

自分が安全圏にいるときのみその綺麗ごとを喋ることに対して、モンちゃんはトシに「お前は俺より残酷でズルい」「今、お前が振りかざす気持ちも善悪も屁理屈だ」と看破している。

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(引用元:「真説ザ・ワールド・イズ・マイン」1巻 新井英樹/エンターブレイン)

社会が破壊され善悪という建前をいう余裕がなくなったとき、「命には平等に価値はあるのか?」という問いに自分自身はどう答えるのか。

そういう状況を作るために、「ザ・ワールド・イズ・マイン」では、あれほど凄惨な大量殺りくが描かれている。

 

「神との契約」と「人間との契約」

「ザ・ワールド・イズ・マイン」では契約という概念が何度か出てくる。「命に価値があるのかないのか」という問いに対して、それぞれの考えとは別に「どの契約を重んじるか」という項目が組み込まれている。

 

①「命は平等に無価値である」 

ガタルカナル島の戦いの生き残りである飯島は、モンちゃんと同じように「命には価値がない(命など赤紙一枚の原価一銭五厘の価値しかない)」と考えている。人間同士の契約はそれほど信じておらず「たまたま法に触れることなく、俺の掟に沿って生きているだけだ」と語っている。

ただ飯島は神との契約については一応重んじている。だからモンちゃんと違い、自分の欲望や衝動のみの殺しはしない。

 

神とも人間とも契約しておらず「命は平等に無価値だ」と語るモンちゃんは、マリアと関谷潤子と子供の命を守るという契約をかわす。

 

 ②「命は時価である」

恐らく建前をなくした9割以上の人の本音がこれだと思う。

この点、人間同士の契約が生きている社会的な存在である塩見にでさえ「赤の他人が人質だから撃てというが、自分の娘だったら言うわけないだろ」と言い切る薬師寺は潔い。

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 (引用元:「真説ザ・ワールド・イズ・マイン」四巻 新井英樹/エンターブレイン)

 

案の定、塩見から批判される。後述するが塩見は③の人間であるから、この批判は成り立つ。

だが本来は②であるのに、安全圏にある時だけ「③である」ということを、この物語では「ズルい」と繰り返し批判している。

 

③「命には平等に価値がある」

人間同士の契約が破壊された状況でもなお、この主張を繰り返すのがマリア、塩見、須賀原である。

マリアと塩見は「神との契約」があるために、人間同士の契約を自ら破棄して殺戮を行うモンちゃんやトシですら殺すことができないし、殺さない。

 

須賀原は③であるが、マリアや塩見とは違い「無神論者だ」と本人が言っているとおり神とは契約はしていない。一方で「個人よりも社会」という言葉を使っていて、人間同士の契約は非常に重んじている。

「自分の身内だろうと、他人の命との間に価値の差はない」「すべての命に同じ価値があるから数量で判断する」須賀原は、「人質が自分の娘でも射殺しろと命じるだろう」と評される。

 

トシの父親に対する「人間としては正しいが、父親としては失格」という須賀原の言葉は、後の自分に対して言っているように見える。

物語の中で「他人に言っているように見えて、自分に言っているのではないか」 というセリフがいくつか出てくる。

トシがマリアに言った「自分の親が死んでホッとするなんて、どういう了見だ」も明らかに自分に重ね合わせている。

こういう部分も、何重にも屈折した登場人物の心情を理解する手がかりになっているところが面白い。

 

モンちゃんとトシ

モンちゃんは人間なのか?

物語において、モンちゃんを「人間として見るかどうか?」というのは難しい問題だ。「モンちゃんを人間として見るか」で物語に対する見方(特に結末)が大きく変わる。

 

自分は最初、モンちゃんは「物語的には」ヒグマドンと表裏一体の存在であり、熊神ではないかと考えていた。

理由はいくつかあるが、生まれたときから背中に毛が生えていたことや、暴力を振るうシーンで毛皮をまとっていることが多いこと、また飯島や初江が「人間じゃない」と言っている点だ。

物語の最後では、飯島を「なめとこ山の猟師」としてイヨマンテを行っている。 

 

ただ生い立ちが描かれていたり、マリアが「おメは人間だと。モンちゃん」と言っていること、また「真説」のインタビューで作者が

モンちゃんはマリアとの関係の中で、初めて生きることを肯定されたのだと思う。

 (引用元:「真説ザ・ワールド・イズ・マイン」四巻 新井英樹/エンターブレイン)

と暗に人間であるような発言をしている。

 

「神や人間との契約を知らない原始の人」であるモンちゃんを「人間にする」ためにマリアが行動していた、というのがサブストーリーだとすると、人間ではなく神になった結末に疑問を感じる。

 

「吐き気するほど人間のスタンダート」なトシ

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(引用元:「真説ザ・ワールド・イズ・マイン」5巻 新井英樹/エンターブレイン)

 

トシのやったことは最低な許されないことだ。

ただ自分は9割以上の人間はトシのような弱さを内包している「吐き気するほど人間のスタンダート」だと思っているので、物語外の人間としてトシに非常に同情している。

 

この物語には「赤の他人の痛みを想像できない人間」「見も知らぬ他人の死ならば、数値としか考えられない人間」が繰り返し出てくる。トシモンのやることに喝采をあげた人、トシモンに殺人依頼をした人間、ヒグマドンの被害にもっと死傷者が出ないかと言った人間、世間の多くの人間は心情的にはトシとまったく同じであり共犯者だ。

 

強盗に入った家の子どもを何の躊躇もなく殺しながら、「仲間になり個人と認識したマリア」を救いたいと願うようになったことも、トシが本来は②の価値観を持つ普通の人間であることを表している。

むしろ「自分は弱い人間だから、強い力を持ったら使いたくなる。だから持ってはいけない」と自覚していたぶん、普通の人より心が強かったのではないかとすら思う。

 

トシが気の毒だと思う点は、あれほど人を殺しておきながら、求めていたのは人だったということだ。誰かに自分を認めてもらうこと、それだけを求めていた。

自分を始めて認めてくれたのがモンちゃんだから、彼に付き従い、その力に酔った。

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(引用元:「真説ザ・ワールド・イズ・マイン」5巻 新井英樹/エンターブレイン)

 

しかし運命が導いたと信じた行動は、自分の勘違いにすぎなかった。そしてその勘違いの裏側には、自分が求めていた自分を認めてくれる人がいた。

マリアに人工呼吸をしたときに、「僕、初キスやで」というセリフは泣けた。あれほどのことをしでかしたのに、求めていたのはただ自分を認めて愛してくれる人だけだった、ということが伝わってきて辛い。

 

トシは最期、被害者の遺族によって惨たらしく殺される。これは人間同士の契約に基づくので当然だと思う。

しかし信じていた運命に裏切られ、契約を結んだ力の神に嘲笑われたことは、同じ「吐き気がするほど人間のスタンダート」としては辛い。

 

「想像力の欠如したバカ」と由利が痛烈に批判した、世の中の大多数を占める普通の人間に過ぎないトシは、

「殺したい奴を殺した訳とちゃうんや」

「どこがどおでこおなったか、まだ何もわからんのや」

「神さま」

と叫んで死んでいく。

 

トシや世の中の多くの人間が酔った「俺は俺を肯定する」という神との契約を破棄する言葉も、実存主義にかぶれた強姦魔が吐いたセリフにすぎず、「人間のスタンダート」はとことんコケにされる。

無力で平凡な人間に対して、世界は余りに強大で残酷だ。

 

総評

 「ザ・ワールド・イズ・マイン」は、人間という未熟で不完全な存在でありながら個々の命の価値を決める傲慢さ、そんな傲慢さですら社会という安全圏が崩壊したときに容易く捨て去る人間の卑小さを徹底的に批判した物語である。

 

「世界はつながっており、他者に生かされている人間は、例え相手が殺人鬼であっても、命の選別自体をしてはならない」

「その命を生かすか殺すか決めるのは、神のみの権利だ」

 作中で飯島が星野に語る

「生きたいと思う奴だけ生きたらいいべ。生かしたいと思う奴がいれば生かせばいい」「それでも死ぬときは死ぬ。そういった……もんだべさ」

人間が命に対してできることは、この理を受け入れることだけではないか、と語っている。

 

自分は、飯島やマリアや塩見のようにはどうしても思えない。トシが塩見に言ったように「(結局みんな)一緒や」ということなのだろう。

 

自分が納得できる理由なら、人を殺して構わないと思っていいのか。

テレビで悲惨な死を見ながら「明日には笑う」自分に、死ぬべき人間を選別する資格があるのか。

容疑者の両親に同情して、赤の他人の被害者のことを容易く忘れる自分に、誰かに死ぬべきだという権利があるのか。

 

自分は本当は命についてどう思っているのか?

 

そういうことを自他を極限の状況に追い詰めて喉元に刃を突きつけるようにして問いただしてくる本作は、他に似た作品を見たことがない。

こういう時代だからこその問いであり物語なので、現代の代表作として後世に残って欲しいなと思う。

 

 余談:「羆嵐」と飯島

「ザ・ワールド・イズ・マイン」には吉村昭の「羆嵐」の影響をところどころ感じる。

「羆嵐」の作中で一貫して語られている、「人間には理解しがたいものに対する畏怖の感情」をトシがモンちゃんに語っているし、畏怖の対象にただひたすら頭を垂れるだけの存在を「ズルい人間」と言うのも、両作品で共通している。

「羆嵐」の熊撃ち名人・銀四郎も飯島を連想させる。

 

自分が一番好きなキャラクターも飯島だ。

佇まい、吐く言葉、生き様のすべてがカッコいい。銃を持っていない普段は、嫁や息子にたしなめられるただの老人にしか見えないところもいい。

自分が星野でも「飯島語録」を書きとめてしまいそうだ。飯島から「マブダチ」と言われた星野が心の底から羨ましい。

星野は「モンちゃんではなく飯島に会っていたら」という、トシのもうひとつの可能性のように見える。

 

飯島語録は全部好きだけれど

「空に鳥、海に魚、山に獣がおることを、あんたらは感謝しなきゃなんねえ。いなけりゃ、あんたらが俺の獲物さ」

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(引用元:「真説ザ・ワールド・イズ・マイン」2巻 新井英樹/エンターブレイン)

 

「たまたま法に触れることなく、俺の掟に沿って生きているだけだ」

この二つが特に好きだ。

 

飯島にはモデルになった熊撃ちの人がいるようだが、久保さん? 外見が似ていないから違うかな?

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「運命に対する無力さ」を描く「親なるもの断崖」は、男性に残酷な物語なのかも。

 

この記事からの派生話題です。引き続き主語デカい系の話です。

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この話の中で「無力感や無能感に対する耐性の低さ」「無力であることは悪である」という考えは男性特有のものであり、「運命に対して受け身で無力になったときの耐性」のようなものが、よく言われる「男性にはない女性の強さ」につながっているのではないか、ということを書いた。

 

あえて言うと

「運命(敵)に立ち向かう」ときに強さを発揮するのが男性で、「運命(敵)に耐える」ときに強さを発揮するのが女性なのではないかと。

 

「親なるもの断崖」は、自分ではどうすることもできない、立ち向かうことも難しい運命に男女問わず、主要登場人物ほぼ全員が翻弄される物語だ。

主な男性キャラである大河内、直吉、聡一は、梅の運命や世の中を何とか変えようと頑張るけれど、それが果たせずに無力なまま表舞台から消えていく。

武子が死に損なった梅に言う「自分の生きざまで世に問え。おなごの深さ、強さを見せつけてやれ」は、男が死に損なうと難しいんだなと感じた。

 

「親なるもの断崖」は、女性である梅だからこそ過酷な運命に対して無力であっても「決して母を不幸と思うな」と言われるような人生を送ったわけで、聡一が梅の前から姿を消した点を見ても、無力感というのは男にとっては致命的と思える。

梅が道生の前から姿を消した理由と、聡一が梅の前から姿を消した理由の違いにそれがよく表れている気がする。

 

「女の人一人幸せにできなかった男のくやしさは、道生の悲しみの百倍はあるぞ」

「家族を残して死んでしまった親父の気持ち、おれ、同じ男だから分かるんだ」

女性向けだと、こういうことも言葉にしないと「道生と梅、かわいそう」「茂世、何やってんだよ」で終わりそうだからかな。

そういう意味では男性視点もきちんとフォローしている点は好感が持てる。「こういうことはあえて説明されるほうが辛い」ような気もするけれど。

 

道生は茂世に「お父さんだって、お母さんを幸せにできなかったくせに」って八つ当たりできるけれど、茂世は誰にも言えないし。

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(引用元:「親なるもの断崖」曽根富美子 小学館)

こういう「運命に立ち向かったけれど、どうすることもできなくて、その悔しさも自分のせいにして、一人で耐えなければいけない」という無力感と罪悪感の強烈なコンボを味合わせる、というのは男にとっては割と酷なシチュエーションだと思う。 

 

登場人物に運命を変える力があると、「運命に対して受け身で無力になる」という状況にならないので仕方がないのかもしれないけれど、過酷な運命下の女性の強さを描くということは、同時にそういう状況下の男性の無力さを描くことになるんだなと。

 

「運命に破れた無力な存在になるか」「ゲヒゲヒ言うだけのモブになるか」の二者択一を迫るこの漫画は、男性にとってこそ、残酷な物語なのかもしれない。

 

と思ったけど、少し考え直した。

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「魔法少女まどか☆マギカ」と「ベルセルク」の類似について考えた。

 

この記事の続き。

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相変わらず主語デカい系の話なので、苦手なかたはブラウザバック推奨です。

前回少し書いた「まどマギ」と「ベルセルク(黄金時代)」はすごく似ているという話。

 

「まどマギ」と「ベルセルク(黄金時代)」が似ていると思う点

自分は何の役にも立たないという認識が基点(他者評価関係なし)→自分はこれで生きていくと決める→同じ志を持つ仲間に出会う→主人公の存在を自分の存在基盤におく人が出てくる(グリフィス・ほむら)

 

「ガッツは元々、他者評価も役立たずだった」などの細かい違いはあるけれど、基本的な物語の構造は似ている。

「自分が執着するものが足かせになる」という点では、使徒と魔女はよく似ている。(執着によって魔(法少)女化する、執着を捧げないと使徒にはなれない。)

 

あくまで自分の考えだけど、

「他者評価に左右されない自己完結した世界で、惑わせる執着(味方であれ、敵であれ)を乗り越えて、自分の道を貫き、自分が理想とする自分になる」という発想が、究極の男の美学なのかなと思った。

「ベルセルク」と「まどマギ」は、この世界観を体現した物語だなと思う。

 

「強くなくてはいけない」という呪いからの解放

その世界観をあえて「少女」という本来、男性から見たら「弱い存在」に背負わせたことが、かなり画期的なことなのではないかと思う。

「ベルセルク」では弱さをキャスカという女性キャラに背負わせて、「自分=男」から切り離しているけれど、「まどマギ」では強さも弱さも同一の存在(少女)に表現させている。

これは昨今よく話に出る「男は強くなくてはならない」という呪いからの解放の過程では、と思う。

 

マミさんみたいに、「強くて優しくて頼りになる先輩」に見えて、内面は寂しさや孤独などの弱さを抱えている。それで当たり前だし、そういう面を見せることは別に悪いことではない。

むしろそういう誰にでもある当たり前の弱さを受け入れたほうが、もっと強くなれるんじゃないのか? 

物語の構造は従来の少年漫画的精神を踏襲しているけれど、あえて登場人物を少女にすることで「強さのみを良しとしない」ところがいい。

 

心折れてもいいんだよ。

瞳をうるうるさせて上目遣いで手を握って「本当に一緒に戦ってくれるの?」って言ってもいいんだよ。 

男だって(女でも)そういう自分の弱い面をダメなものと思わなくていいんだよ。

 

その後、マミったり病みさんになったりするのも、まあそれでいいんじゃないかと。(たぶん)

 

ほむらとグリフィスは似ている。

 一番初めに「まどマギ」と「ベルセルク」は似ているなと感じたのは、ほむらを見ていて唐突にグリフィスを思い出したからだ。

「自分」という存在の基盤のすべてが、たった一人の他人に依存している点でこの二人はよく似ている。

 

「グリフィスがなぜ使徒になったのか?」については意見が分かれると思うけど、ある同人誌で見た「ガッツと対等でいたかったから」という意見が自分には一番しっくりきた。

 

あの時点でグリフィスは、それまでの人生の全てを賭けてきた夢を、ガッツのために忘れてしまっている。

「幼いころからの夢以上に、ガッツと対等でいることが大事。守られるだけの無力な存在であることに耐えられない」

この辺りも「まどかに守られる私じゃなくて、守る私になりたい」というほむらと通ずるものがある。

 

無力感や無能感に対する耐性の低さ、「無力であることは悪である」という考えは男性特有のもののような気がする。グリフィスのように「無力な存在でい続けるくらいなら、仲間を全部捧げる」という発想は極端だけど、「分からないこともない」という人もいるのでは、と予想している。

逆にこういう「運命に対して受け身で無力になったときの耐性」みたいなものが、よく言われる「男性にはない女性の強さ」につながっているのではないかと思う。(「運命に対して受け身で無力になったときの、女性特有の強さ」が主題の代表的なものが「親なるもの断崖」)

 

女性の中には、グリフィスのガッツに対する感情が恋愛感情に見える人がいるようだ。ほむらのまどかに対する感情も、恋愛のように見えないこともない。 

この辺りの男性と女性の恋愛感情の違いから、グリフィスのガッツに対する感情を読み解くという試みを「ベルセルクフリークス」という同人誌でやっていた。

「男性は友人が迷惑をかけていい存在だが、女性にとって迷惑をかけていいのは恋人や配偶者で、友人は迷惑をかけてはいけない存在」

「男性にとっては相手に迷惑をかけるのが信頼で、女性にとっては迷惑をかけないのが礼儀」

「信頼と迷惑というキーワードで関係性を解釈すると、グリフィスの態度を恋愛感情と誤認する女性もいるのではないか」

このあたりは当時なるほどなと思った。

同人誌なのに作者との対談なども載っていて、すごい豪華な本だったのですが、もう手に入らないのかな。

 

*この考察の内容の紹介。現物が見つからなかったので、記憶している限りになっています。面白い考察だったので、現物の内容を確認しながら紹介したかった…。

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男性にとっての「強く生きるという美学」の中に「弱さや脆さ」を否定することなく混ぜ込んだ「まどマギ」は、現代的な物語だと思う。

社会的に「弱さを見せてはいけない」という抑圧を受けやすいけれど、同時に強さのみで生きることが難しい今の時代で、「ベルセルク」から「まどマギ」に、「自分の弱さや脆さを受け入れて生きていく」「男も自分の弱さを良しとしていい」という風に前進したのかな、だといいな、と思った。

 

続き~。

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もう誰にも頼らない

もう誰にも頼らない

 

 

「面白さ史上主義」に対抗する「真っ当さ」の物語。ゆうきまさみ「機動警察パトレイバー」

 

21世紀の新型悪役像「内海課長」

togetter.com

このまとめ記事を読んで、頷く部分が多かった。

YouTuberに限らず、「内海課長的悪」「面白ければいいじゃん主義」というのはネットで見かけるし、確実に増えていると思う。

 

自分が欲しいもの、面白いと思うことのためならば、笑顔で法を犯し、人を傷つける内海課長。

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(引用元:「機動警察パトレイバー」22巻 ゆうきまさみ 小学館)

まぁ内海課長の画期的なところ、面白さ至上主義というよりも何を面白がるかというところにある気はするよね。

あれが単に人が苦しんでるところを見るのを面白がる人だったら面白さ至上主義でも単なるサディスト扱いなわけだし

要するに「アニメみたいなロボットが対決するの面白いやん?」という共感しやすい面白さを標榜してるからこそのアレなわけだよね

秀逸だなあと思ったのは、まとめの中のこの文言。

内海課長の目的自体は、多くの人が「面白いそう」「やってみたいな」と思うことだと思う。

従来の悪役のように「人を殺したい、傷つけたい」という目的だと反発が先に立つけれど、内海課長みたいに「最強のロボットを作って、最強のロボット同士で戦わせたら面白そうじゃん」というのは、多くの人が「確かに面白そう」と感じそうだ。

少なくとも自分はそう思うし、シャフトで働いたら楽しそうだな~とも思う。

 

問題なのはその面白さのためならば、法を破ろうが人を傷つけようがおかまいなしのところだ。

人身売買で手に入れた子供をレイバーのパイロットにするために、社会性や道徳を無視した教育をする。

当のバドも幸せで楽しそうなので、一体それの何が悪いのか、ということがすごく分かりにくい仕組みになっている。

内海はまだしも法を犯しているから「悪として可視化しやすい」けれど、これが法律のグレイゾーンでやられると「みんなが面白くて楽しいのに、一体何がいけないのか」ということが非常に分かりにくくなる。

「何がどう悪いのかを指摘しづらい」から、一定の支持を集めやすい点が、この種の人の怖いところだ。

 

こういう「悪を目的としていない悪」「悪と自認していない悪」は、パトレイバーが連載していたときは漫画の中の絵空事だったけれど、ネットを見ているとそういうものがこれからどんどん増えていくんだろうなあと思わされる。

 

善悪の評価軸を持たない、結果論としての「悪」

「悪と自認していない悪」は、そもそも物事の良し悪しの判断の基準が「面白さ」など従来のものと違うものになっているから、理解し合う術がない。

「パトレイバー」の最後の野明とバドの会話には、それがよく表れている。

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(引用元:「機動警察パトレイバー」22巻 ゆうきまさみ 小学館)

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(引用元:「機動警察パトレイバー」22巻 ゆうきまさみ 小学館)


こういう会話がまさに現実のものになりつつある、のが怖い。

それと同時にこういう存在が世の中に出てくるだろうと予見していた「パトレイバー」は、やっぱりすごい物語だなと思う。

 

このまとめ記事を読んで、自分がなぜ、「パトレイバー」がすごい好きなのかということが分かった気がした。

 

「面白さ至上主義」は可視化しづらい悪ゆえに、それの何が悪いのかということを指摘することが非常に困難だ。

まとめ記事でも書かれている通り、

銀河英雄伝説のトリューニヒトなんかもその眷属でしょうか。すなわち、ドラマツルギーにのっとると倒すための筋道がなく、キャラクターの怒りやこだわりによってのみ打ち倒される。

その時代の価値観の内側から出てくるため、善悪の評価軸で精査されづらく、すごく支持されやすい。

それの何が悪いかを指摘すると「時代遅れ」とか「ダサい」とか「空気が読めない」という言葉で封じ込まれやすいと思う。

「面白い面白い」「空気読め空気読め」と煽られたり抑圧されたりして、そういうものに対して多くの人が支持に回ると、トリューニヒトがルドルフになるのだと思っている。

 これをトリューニヒトのように合法的なシステムの枠内でやられると、どうにも対抗手段がない。

 

「パトレイバー」は「悪を目的としない悪」に対抗する物語。

そういう近い未来に必ず出てくるだろう愉快犯的悪=内海への、対抗手段としての物語が「パトレイバー」だ。

こういうものに対抗するには、言葉でも理屈でもより強い力でもなく、一人一人が真っ当な生き方をすることによって、そういうものに容易く与さない社会を作っていくしかない。「地道に生きる平凡な人の力を信じる」そういうメッセージ性がたまらなく好きだ。

 

「真っ当さ」って何だろう? と考えたときに、言葉では説明できないけれど、「パトレイバー」を読むとすぐに分かる。

「特車二課」の面々は、愉快犯的悪=内海に対峙するものとして、すごく「真っ当に」生きている。

 

「真っ当さ」というのは、「正しさ」とも違う。「常識」とも違う。

「道徳」が近いかもしれないが、自分の中ではやはり違う。「真っ当さ」としか言いようがない。

 

人身売買の犠牲者であるバドを探すことにのめりこむ野明を、遊馬や後藤隊長はたしなめる。

後藤隊長が言う「俺たちの仕事は本質的には手遅れなんだ」という言葉や、遊馬が言う「お前のやっていることは自己満足で偽善だ」という言葉は、圧倒的に正しい。

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(引用元:「機動警察パトレイバー」18巻 ゆうきまさみ 小学館)

人身売買の犠牲者の中で、自分がたまたま知りあった子供だけを、仕事の合間の休日に探している野明の行動は、どう考えても自己満足だ。

 

人身売買の捜査に取り組む捜査員のことに思いをはせたり、「自分たちの仕事は本質的には手遅れだ。それでも覚悟とプライドを持って仕事をする」後藤隊長や、「自分の目から見ると、お前のやっていることは偽善にすぎない」とはっきり指摘する遊馬は、すごく真っ当な人だと思う。

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(引用元:「機動警察パトレイバー」18巻 ゆうきまさみ 小学館)

 

でもそう言われてなお「立派な偽善ができるような立派な大人になればいいんだ」と返す野明も、すごく真っ当だ。

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(引用元:「機動警察パトレイバー」18巻 ゆうきまさみ 小学館)

このセリフすごい好き。

 

間違えても困難にぶつかっても、社会のシステムの不合理さを飲み込まれ、ときにはそういう不合理さの一部にならなくてはならないとしても、その中で自分にとって正しいと思えることを、自分のできる範囲で成し遂げようとする。

特車二課の面々の、そういう泥臭くてダサくて地味で特に英雄的でも面白くもない生き方にこそ、たぶん「真っ当さ」というものは宿るのだと思う。

 

野明は「立派な大人」である「お父さんとお母さんに育てられて、杉浦先生に救われて、後藤隊長に働き口を与えられて」今日までこれた。

それは内海から「面白さや楽しさ」しか与えられなかった、バドとの対比に思える。

「立派な大人」というのは、「子どもを幸せにできる人だ」と言う。それが「真っ当な大人」なんだ、と野明は言う。

 

言葉だけならば「でも、バドだって内海といて幸せそうだけれど?」「幸せって人それぞれじゃない?」といくらでも反論が思い浮かぶ。

「真っ当さ」というのは言葉で説明するのが難しい。

だから「真っ当さ」でしか対抗することができない「悪を目的としない悪」は、指摘するのは難しいのだ。

 

言葉で説明するのが難しい、言葉の世界では反論によって簡単に消え失せてしまう「真っ当さ」が、「パトレイバー」ではしっかり描かれている。

 

「パトレイバー」を読むと「面白さ至上主義=内海」というのは、余りに魅力的だ。「真っ当さ」なんてどうでもよくなって、面白いこと、楽しいことを生み出す内海を支持したくなる。

それに対して警察機構というのは、いかにも地味だ。

敵が出るまで何時間も待機して、新機が入るときも癒着があったのではないかとおろおろして、内輪もめやいざこざもしょっちゅうだ。

地味でつまらない「本質的には手遅れなこと」を、それでも自分が負った責任として必死で果たす、そんな「真っ当さ」を身をもって教えてくれるところが好きだ。

これからの時代に多くなるだろう、内海課長のような悪に相対するものとして、「パトレイバー」のような物語が残って欲しいなと思う。

「パトレイバー」は、最初に読んだときは、まったく面白いと思わなかった。「企業がどうの、研究がどうの地味で面白くない話だな」 と思っていたけれど、大人になってからいっき読みしてようやく面白さに気づいた。

内海を見ていると、「自分は面白さ至上主義なんて支持しない」とは言い切れない。

「新しい悪の形」として内海というキャラを生み出したのもすごいけれど、それ以上にそれに対抗する手段をきっちり描いている点が「パトレイバー」のすごさだと個人的には思う。

 

ネットは「面白さ至上主義」や「分かりやすさ至上主義」との親和性が非常に高い。情報が多いので、パッと見で分かりやすく面白いものにどうしても惹かれてしまいがちだ。

「面白さ」「分かりやすさ」以外の評価軸を手放さないことが、今後の社会ですごく大事になるんじゃないかなと思う。

難しいことだけれど。

 

続き。 

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【漫画考察】「モンキーピーク」を三巻まで読んだ時点で、「田中さん=猿説」を検証してみた。

 

本記事は、志名坂高次原作/粂田晃宏作画の漫画「モンキーピーク」の三巻までの検証記事です。

未読の方はご注意ください。

[まとめ買い] モンキーピーク

[まとめ買い] モンキーピーク

 

読んでいない方は読んでみてください♪♪

極限状態の密室劇好きのかたに、特におすすめです。

 

 

「田中さん=猿説」

この記事では、ちらほら目につく「田中さん=猿説」を中心に考えていきたい。

ちなみにこの記事では、あくまで「三巻までのみ」の情報で検証している。

 

再会直後の田中さん。

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(引用元:「モンキーピーク」3巻 志名坂高次/粂田晃宏 日本文芸社)

見たところ相当大柄で、人間離れした能力を持つ「猿」の中身が田中さん、というのはかなり意外だが、人は見かけによらない。「猿」の着ぐるみが大きければ、体型は誤魔化せるので、体型や能力で「違う」とは言い切れない。

 

三巻までの「猿」の登場シーン。

三巻までの時点で、「猿」が登場した場面は以下の通り。

 

①一泊目のキャンプ場で、鈴村さんを含む四名を殺害。(生き残り36名)

②二日目の「矢ノ口落とし」で四名殺害、及び六名が転落死。(生き残り26名)

③「矢ノ口落とし」に残った11名のメンバーを襲う。8名が死亡。(生き残り18名。田中さん行方不明)

④二泊目の岩場で、辻の死体発見直後。(生き残り17名)

⑤三日目、中岳小屋で馬場、寺内を弓矢で殺害。社長を狙撃、後に死亡(生き残り14名)

⑥三泊目、中岳小屋の裏窓。早乙女と一緒に崖から転落。(このあと早乙女が田中さんと合流)

⑦四日目、八木が持ってきた衛星電話を壊す。

⑧四日目、鎖場で宮田たちを襲う。

 

「猿」登場シーンの田中さんの動き。

①では、早乙女が猿が去っていくのを確認した直後、反対側から悲鳴が上がり、遺体を発見する。

このときに田中さんは画面内にいるので、この時点ですでに「田中さん=猿説」には無理がある。もちろん、複数犯の可能性はあるが。

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 (引用元:「モンキーピーク」1巻 志名坂高次/粂田晃宏 日本文芸社)

 

②の場面で、早乙女が押しのけたのが田中さん。

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 (引用元:「モンキーピーク」1巻 志名坂高次/粂田晃宏 日本文芸社)

 

少し間があくが、墜落した後のシーンでもいる。

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(引用元:「モンキーピーク」1巻 志名坂高次/粂田晃宏 日本文芸社)

早乙女に押しのけられたあと、上に戻り、みんなの背後に回って、猿の衣装を着てみんなを襲い、みんなが転落したあと、猿の衣装を脱いで崖側から合流。

いくらパニック状態とはいえ、バレないはずがないと思う。

この場面でも「田中さん=猿」ではない。

 

③「矢ノ口落とし」に残ったのは11名だが、6名の遺体の他にきちんと11名描写されている。一名なんで遺体と一緒に寝ているのかは分からないが、動かせなかったのかもしれない。

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(引用元:「モンキーピーク」1巻 志名坂高次/粂田晃宏 日本文芸社)

どれが田中さんなのかは分からないが、とりあえず人数的には合っている。

このあと、田中さんは行方不明になるため、「④⑤⑥」のシーンについては、「猿」の可能性はある。

 

⑦の「猿」が衛星電話を壊したシーンでは、田中さんと早乙女が既に出会っているので、この「猿」は田中さんではない。

⑧中岳山頂の宮田の足跡に、猿の血がついている。仮に田中さんが猿だとしたら、胸の傷をアウターで隠しているにしても、この血をどうやってたらしたのかが説明がつかない。

宮田が中岳山頂に到着したときから、早乙女が宮田の靴跡とそこについた猿の血を発見するまで、田中さんはずっと早乙女と一緒にいたからだ。

少なくとも宮田の靴跡についていた血は、田中さんのものではない。

 

⑧の鎖場に現れた猿が田中さんではないとは言い切れない。ただそれならば早乙女と二人きりのときに不意打ちで殺せばいいのではないか、という疑問もわくので、やはり田中さんは猿ではないとは思う。

協力者の可能性は捨てきれないけれど。

 

「猿」が内部の人間だと考えるのは難しい。

「猿」は内部の人間ではないと思う。

田中さんは④⑤⑥ならば「猿」であることが可能だが、他の人間は④⑤⑥も猿であることは不可能だ。

ただ内部の人間が相当数協力している場合は、できないこともないかもしれない。例えば⑧は部長の長谷川の可能性もある。さすがにないかなと思うけれど。

 

その他の疑問。

 (1)なぜ、辻さんは殺されたのか?

今までのところ、唯一、「猿」ではなく内部の人間に殺されたらしい辻さん。「猿」であれば皆殺しの一環と考えられるが、内部の人間の犯行となると、辻さん自身が狙われた可能性も出てくる。

辻さんの部署が経理であることも関係しているのかもしれない。

 

(2)氷室はなぜ裏口を開けたのか?

氷室に関しては、分からないことが多すぎる。

足の指二本切られても何も言わないということは、本当に何も知らない可能性もある。

なぜ「早乙女が猿の仲間だ」などとウソをついたのか? 誰かにそう信じこまされているのか?

拷問されるような環境よりも、警察を恐れるのは何故なのか?

人体実験とかそういう方面の話か? とも思うけれど、氷室は営業部長だし。横領程度なら、拷問よりは警察のほうがマシだろうという気がするけど。

 

(3)「猿」が社長たちの遺体のブルーシートをめくったのは何故なのか?

皆殺しが目的に見えて、明確な標的がいるのか?と考えた。

そうすると内部の人間と常時連絡がとれるわけではないのかもしれない。

それとも他に目的があるのか。

(追記)寺内の靴がなくなっている、という描写かなと思った。

 

(4)早乙女が感じた「腕に残ったこの感触。猿の謎」とは何なのか。

これを考えると、やっぱり内部犯なのか?とも思える。

ただ早乙女が「猿」につけた「胸の傷」が誰にもないし。

 

結論としては「田中さん=猿説」には無理がある。

何人かが組んでやるならば、できないこともないが、それでも内部犯のみだと難しいと思う。誰かが死んだふりをしていた、とかはさすがに苦しいか。

 

続刊でも謎が続くようなら、引き続き考えたい。

 

関連記事

3巻までの感想も書きました。

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2017年11月発売4卷の感想。

色々と閃いたことを書いています。

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【漫画感想】陸の孤島で正体不明の殺人鬼と戦う。「モンキーピーク」が面白すぎる。

 

原作志名坂高次、作画粂田晃宏の「モンキーピーク」を読んだ。現在、既刊は三巻までで連載中だ。

余りに面白くて、三巻いっき読みしてしまった。

続きが待ち遠しくて仕方がない。

 

「モンキーピーク」は、自分が大好きな要素だけを集めたような漫画で、ここまで自分の好みにぴったりな漫画があるのか、ということにまず驚いた。

正体不明の殺人鬼に追いかけられるサバイバルホラー。

閉鎖空間に閉じ込められることによりむき出しになる人間の心理。

内部の協力者は誰なのか、殺人鬼の真の狙いは何なのかというミステリー要素。

ようやく表れた救助者が、むしろ殺人鬼より怖そうという謎が謎を呼ぶ展開。

「山」という過酷な自然をどう乗り越えるのか。

 

絵は昔の青年漫画風味なので好みが分かれると思うけれど、「絵が好みではないから」という理由で読まないのはもったいないと思う。

上記に上げた要素でひとつでも心惹かれるものがあれば、ぜひ読んでみて欲しい。

 

「モンキーピーク」あらすじ

薬害疑惑を起こした藤ケ谷製薬は、経営陣を一新して一から出直すことになる。

結束を高めるためのレクリエーションとして、社員40名で登山を行う。

無事に頂上に辿りついたその日の夜、社員たちが泊まるテントに巨大な猿が表れ、社員四名を惨殺する。

恐怖に震えながら一夜を明かした社員たちは、夜が明けるとすぐに下山しようとする。

しかし罠にはまり、どんどん山奥に誘い込まれる。

水や食料が尽きるなか、内部の人間による殺人も起き、社員たちはお互いを疑心暗鬼の目で見るようになる。

 

正体不明の殺人鬼「猿」が怖い。

強烈な殺意を持ち、何のためらいもなく、社員たちを次々と殺していく「猿」。

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(引用元:「モンキーピーク」1巻 志名坂高次/粂田晃宏 日本文芸社)

みんな「猿」「猿」と呼んでいるけれど、鉈をふるったり、弓を使ったり、水を捨てたりしているので中身は明らかに人間だ。

この「猿」が、殺戮以外の一切の意思表示をしないことが怖い。

一体、なぜ藤ケ谷製薬の社員を皆殺しにしようとしているのか、恐らく薬害疑惑にかかわる復讐か利害関係なのだろうけれど、それにしても恨み言のひとつも言わない。言わないどころか、「猿」のお面?をかぶっているため、表情すら分からない。

感情や表情など、自分の言い分を一切明かすことなく、淡々と殺戮を続ける非人間性が怖い。

 

「猿」の造形が上手くできているので、ミステリー部分もすごく面白いそうなのだけれど、犯人が人間ではない超常現象ホラーパターンも見てみたくなる。

 

極限状態の「人間」が怖い。

最初の晩に四人が殺害されて、それ以降、三十六人の社員たちが山の中で「猿」から逃げることになる。

この群像劇がすごく面白い。

 

自分の利益のために平気で他人を陥れる氷室や南、飯塚などの人間がいる一方で、瀕死の重傷を負っても社員のことを考える社長や、常に部下のことを第一に考える部長のような人間もいる。

また普段は沈着冷静なのに友達が殺された口惜しさから拷問を容認する遠野や、責任感があって公平な判断ができるけれど、正しさばかりでもない佐藤、気の弱さから卑怯な行いに加担してしまう藤柴など白黒はっきりしない人たちの描写もいい。

宮田のように、真っ当な正義感と感覚が山ではかえって仇となってしまう場合もある。

 

一番、度肝を抜かれたのは、「猿」にも対抗できるような強さと正しさを持った安斎の豹変ぶりだ。

「仲間の遺体を運ぶために、殺人鬼がいるかもしれない場所を四往復する」ような強さと正しさが、「猿の仲間の疑いがある氷室を、拷問してでも情報を得ようとする」行動の根底にあるものと同じだというのが怖い。

この世で「正しさ」を確信した人間ほど残酷で恐ろしいものはない、ということを骨の髄まで味合わせてくれる。

 

 安斎に負けず劣らず怖いのが、八木兄妹だ。

「ようやく出てきた外部からの人間」「しかも山のスペシャリストで頼りがいがありそうな存在」なだけに、この二人の怪しさと怖さが分かったときの絶望感は半端ない。

こういうポジションの人間が殺されたり、実は敵だったりしたときは、出てきたときにホッとしたぶんだけ、さらに恐ろしさが増す。

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(引用元:「モンキーピーク」3巻 志名坂高次/粂田晃宏 日本文芸社)

八木兄のこの表情は、「猿」や安斎よりも怖かった。不吉な予感しかしない。

この二人が何者なのか、真の目的は何なのか、という謎も明かされるのが楽しみだ。

 

過酷な状況下の「山」が怖い。

「モンキーピーク」は見どころが多すぎて、一番面白い要素は何かと言われると迷う。

自分が一番いいなと思ったのは、初心者が登山する気持ちが追体験できることだ。

 

山をテーマにした漫画というと、パッと思い浮かぶのが「岳」や「孤高の人」だ。

どちらも「登山のプロ」を描いた漫画で、「遭難した人を救助する」「K2を目指す」と言われると、ただひたすら「すごい」という言葉しか思い浮かばない。

 

「モンキーピーク」は登山を経験している人間も出てくるが、大半は登山素人だ。地図の読み方が分からなかったり、はしごの高さや鎖場に戸惑ったりする。

ルート確認をする様子なども、見ていて楽しい。

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(引用元:「モンキーピーク」1巻 志名坂高次/粂田晃宏 日本文芸社)

 

上司に騙されてスーツに革靴で山に来てしまった宮田は、八木に遺体から登山靴やアウターを借りるようにすすめられて断る。しかしそれが後に大きな仇となる。

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(引用元:「モンキーピーク」3巻 志名坂高次/粂田晃宏 日本文芸社)

山や自然は怖い。

そういった気持ちを登場人物たちと一緒に体験できる。

 

「モンキーピーク」の一番好きなところは、惨劇を描きながらも、根本にはその舞台となる山への愛情があることが伝わってくる点だ。

作者は本当に山が好きなんだろうな、と思う。

これだけ過酷なことばかりが描かれているのに、読んでいると何故かむしょうに登山がしたくなる。

 

4巻は2017年11月8日ごろ発売予定

3巻が非常にいいところで終わっているので、続きが読みたくて仕方がない。

4巻を待つあいだ、ネットでちょこちょこ見る「田中さん=猿説」を検証してみたい。

してみた。

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一人で「猿」をやるのは、無理じゃないかな~と思う。

内部犯だとしても何人かで交代でやっているのかな?

この辺りを、もう一度読んで考えてみたい。

 

自己肯定感とは何なのか。漫画のキャラクターを使って解説してみる。

 

自己肯定感については、前に一度書いたことがある。

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自己肯定感の話題を見ると、「自分が考えているものと少し違うな」と思うことが多い。

なので自己肯定感については、もう一度まとめて書きたいと思っていた。

あくまで自分の考えだ。

 

自己肯定感と自信は違う。

たまに混同している意見を見る。

これがごっちゃになると「自分の意見ばかりを主張して、他人の話を聞かない人間ってダメじゃないか?」のような意見が出てくる。

 

自己肯定感と自信は違う。

正確には、自己肯定感と「自分の意見や行動の正しさに対する自信」は違う。

自己肯定感は「自分という存在が存在してもいいという自信」もっと言うと、「自分も含めた他者や世界は存在してもいいという自信」と言ってもいい。

 

上記の記事ではこの辺りを切り分けていないのだが、自己肯定感=自信という定義で使う場合は、「言動の正しさに対する自信」ではなく「存在することに対する自信」と考えていい。

 

自己肯定感の強い人は、他者の存在も肯定できる。

自己肯定感の強い人間は、自分の意見ばかりを主張したりしない。他人の意見を聞かず、自分の意見を押し付けたりもしない。

自分の意見も言うし、他人の意見にも耳を傾ける。

なぜかと言うと、強く主張しなくてもすでに「肯定されている」という感覚があるからだ。自分の主張が認められるかどうかに固執する必要がない。

他人の意見は、「自分を否定するもの」ではなく、「自分とは違う存在である他人だから、違って当たり前のもの」なので耳を傾けることができる。

 

自分で自分を肯定しているので、そもそも他人から肯定してもらう必要がない。

「自分の存在を否定したことがない」ので、「存在を否定する」という発想そのものがない。だから他人の否定意見は、「自分の存在に対する否定」ではなく「自分の意見や行動に対する否定」と考えることができる。

「存在に対する否定」は存在が危機に瀕するので強い反発の感情が起こるが、「意見や行動に対する否定」は、他人と自分の価値観の相違から起こるものだと分かる、もしくは合意に向けての一段階にすぎないと分かっているので、存在を攻撃されているとは思わない。

 

自己肯定感は「外出しても撃たれることはない」と信じる感覚に似ている。

自分が考える自己肯定感は、安全な国で生まれ育った人間が「外に出たら銃撃されるかもしれない」と考えずに外出できる感覚に似ている。

自分たちが外に出るたびに「このルートは安全か」「武器は持たなくていいか」「あの角を曲がったら撃たれるんじゃないか」「この道に地雷は埋まっていないか」といちいち考えないで外出するように、自己肯定感を持っている人は「自分に自己肯定感があるかどうか」などと考えない。

自己肯定感の低い人が「こんなことを言って大丈夫か」「こんなことをしていいのか」「自分は間違っているんじゃないか」と考える感覚が、そもそも理解できない。

自分たちが紛争地帯で生まれ育った人から「なぜ、何も考えないで道を歩けるんだ?」と聞かれるのと同じ感覚だ。

そもそも「外に出たら銃撃されるなんてありえない。だから外出しても大丈夫」ということすら、外出するときに考えないと思う。

持っている人にとっては「持っている」という感覚さえないから、その得かたや成り立ちを人に聞くことはできない。だから「自己肯定感を得る」のは、非常に難しい。

 

自己肯定感は感覚だから、得るのは難しい

「外に出ても銃撃されるなんてありえない、という感覚を、あなたはどうやって得たのか。その感覚を得る方法を教えて欲しい」と言われていると考えれば、その難しさが分かる。

「日本はどことも戦争していないし、銃の所持も規制されているから」という知識を頭でわかっていても、隣人同士が殺し合ったり、道を歩いたらいきなり銃の乱射に巻き込まれるような場所からやってきた人が、知識を得た瞬間から「外を歩いても大丈夫」という感覚を得ることはできない。 

感覚は経験則からくるものなので、「外に出ても撃たれることはない」という感覚を得られるまで、何千回も外出をしても大丈夫だ、という安心(感覚)を繰り返すしかない。

 

さらに難しいのは、感覚というのは、一番始めに感じたものがその人の中で基準となる点だ。

自己肯定感「自分以外の世界から、無条件で受け入れられている」という感覚は、幼少期の世界との関わりが大きく左右する。

幼少期に自己肯定感が得られないと、その「存在を無条件で肯定されていない感覚」がその人の中で標準になってしまう。

そしてそれが感覚の標準になってしまうと、その標準に合わない感覚「自分という存在への無条件の肯定」に違和感や不快感、居心地の悪さを感じるようになる。

さらに「存在を肯定されていない感覚」が標準装備されてしまうと、他人のことを「条件抜きで肯定すること」が難しくなる。

 

これが「条件つきの肯定」になってしまうと、その条件をクリアしているのかどうか、たえず相手の判断を伺わなければならなくなる。存在意義において、相手に依存するようになる。

自己肯定感のない人というのは、この依存にハマりやすい。

一歩間違えると、相手からの肯定が欲しくて相手の言うがまま、どこまでも受け入れてしまったり、条件をクリアするために限界以上に頑張ってしまったり、相手から無理やり肯定を引き出そうとして付きまとってしまったり、他人に対しても条件をクリアすることを押し付けてしまったり、自分の価値を高めるために、相手の価値を下げようとしたりしてしまう。

DVやモラハラも形を変えた依存だと思うが、そういう罠にもハマりやすい。

 

自己肯定感のない人というのは、「条件をクリアしなければ、自分という存在には価値がない」と考えている。

だからその条件をクリアしているときには、自信があるように見える。

ただそれは「条件をクリアしている状態の自分に対する自信」であり、「無条件の存在に対する自信」ではない。

「条件をクリアしなければ認められない。愛されない」という感覚をどこかで刷り込まれてしまったのだ。

自分の存在価値が「条件をクリアするかどうかにかかっている」というのは、非常に苦しい。

 

ジャンプの主人公は、自己肯定感が高いキャラが多い。

自己肯定感というのは感覚なので、言葉で説明すると難しいが、他人を見ていると「この人は自己肯定感がありそうだ」「この人は低そうだ」と何となく分かる。

ジャンプの主人公は、パッと思いつくだけでも自己肯定感が高そうなキャラが多い。

「ワンピース」のルフィが代表格だが、「ドラゴンボール」の悟空も、「HUNTER×HUNTER」のゴンも、「ダイの大冒険」のダイも、作中の言動を見ても自己肯定感が高い。

 

逆に自己肯定感が低そうなのは誰か。

一番わかりやすいと思うのは、「ダイの大冒険」のヒュンケルだ。

ヒュンケルは自信と自己肯定感がどう違うのか、ということを見るうえでも非常に分かりやすい。ヒムから「自信満々の面をしている」と言われているが、それはヒュンケルが「仲間のために戦う」という、自分を肯定できる条件をクリアしているからだ。

だからヒュンケルはボロボロになろうが、戦えなくなろうが、とにかく「戦ったほうが楽だ」という。

「戦えない(条件をクリアできない)」自分には、存在価値はないと考えている。

 

 自己肯定感というのはあったほうが生きやすいのは確かなので、得られるものなら得たほうがいいが、感覚の反復によって得るしかない。

それ以外にも得られる方法が何かないか、考えてみたい。

 

自己肯定感を得る方法① 頭で自分の状態や感情を理解する。

「感覚を得る」ためには、頭が納得することも前提として大事なので、まずは自分が感じる「自己を肯定できない」感覚はどこからくるのか、どんな時に感じやすいのか、どんな相手だとわきやすいのか、頭で納得するまで考えてみるといいかもしれない。

 

恐らくこの辺りは、人それぞれ違う。

原因が幼少期の親との関わり方の場合もあるし、ヒュンケルのように何かの罪悪感、挫折感が原因の場合もある。

「自己肯定感」という字面だけを追わずに、「自分が感じている自分固有の感覚は何なのか。何からくるのか」ということを、納得がいくまで細かく切り分けることが大事だと思う。

納得がいかないのに、こういう行動をとって、そのときの感覚を再現しろというのはなかなか難しい。

 

自己肯定感を得る方法② 他人に存在を肯定する言葉を言ってみる。

自分に自分を肯定する言葉をかけるのは、もやっとするし嫌な感じがする、という人は他人、もしくは自分を赤の他人だと想定してやってみるといい。

自分の好きな人が(二次元キャラでも何でもいい)「自分なんてゴミで、何の価値もないんです」と言っていたら、どう声をかけるか。それを書き出して、今度は第三者として自分に言ってみるのもいいと思う。

 

「ゴミかもしれないけれど、私はあなたのことが好きだよ」

 

「ゴミじゃない」というと「(その人の定義する)ゴミではない」という条件をクリアしなければならなくなるので、「まあゴミでもいいんじゃない?」くらいの姿勢がいいと思う。

言動がゴミの場合は、言動だけを否定すればいい。

 

これについていいお手本だな、と思ったのが「進撃の巨人」16巻のヒストリアの言動だ。

父親のグリシャがレイス家の子どもたちを皆殺しにし「始祖の巨人」を盗み、自分に託したために、「たくさんの人が死んだ」とエレンが自分を責める。

「オレはいらなかったんだ。(無価値どころか有害な存在だ。)」

「だからオレを殺して、人類を救ってくれ」

エレンは元々は自己肯定感が高いが、ここで自分の存在価値を見失い、いっきに自己否定に走る。

こういう価値観が転倒する出来事でも、自己肯定感は損なわれやすい。

 

エレンの言葉を聞いて、父親に捨てられ母親にも愛されず自己肯定感が非常に低いヒストリアはこう叫ぶ。

「もうこれ以上、私を殺してたまるものか」

「巨人を駆逐するって? 誰がそんな面倒なことやるもんか。 むしろ人類なんて大嫌いだ。巨人に滅ぼされたらいいんだ!」

 「つまり私は人類の敵!! 超最低最悪の悪い子!」

「いい子にもなれないし、神さまにもなりたくない。でも、自分なんていらないなんて言って泣いている人がいたら」

「そんなことないよって伝えに行きたい」

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(引用元:「進撃の巨人」16巻 諌山創 講談社)

「エレンを殺して始祖の巨人を取り返せ」という人類の言動を否定し、「人類の敵だ」というエレンの存在を肯定する。

 

例え人類の敵だとしても、超最低最悪の悪い子だとしても「存在」は否定しない。

「いい子」でいることで他人に認めてもらおう肯定されようとしていたヒストリアは、自分にはこういう言葉を言うことができなかった。

でもエレンが「自分はいらない人間なんだ」と言ったときに、初めて「それがどんな人であれ、存在そのものを否定することは誰にもできない」という言葉を口にする。

 自分には受け入れがたい感覚も、他人に投影すると言うことができる。

 「存在を肯定する」言動と「肯定を受け入れる」感覚の両方をいっぺんにやるのはしんどい、という場合はヒストリアのように前者からやってみてもいいかもしれない。

 

自己肯定感を得る方法③ 「条件つきの肯定」の条件を意識的に引き下げてみる。

便宜的な方法だけれど「条件付きではないと肯定されない」の「条件」を意識的に引き下げてみるのもいい。

 

何せよ「これは自己肯定感が低いせいだ。高める方法を実践しなければ」「すぐに自己肯定感を得なければ」と四角四面にならなくていいと思う。

言葉は、他人同士が物事を共有したり意思の疎通をしたりするのには便利だけれど、自分の感覚や感情を理解するのには割と不便だったり、袋小路にハマりやすいものだと思う。自分の感覚の定義を外側に求めるよりも、自分で自分自身を理解しようとする姿勢が、一番自分を肯定する近道じゃないかなと思う。

理解していなければ、肯定もできないと思うので。

 

うまくできないときもあるし、へこたれるときもある。どうでもよくなって、投げ出してしまうかもしれない。

そんなダメな自分でいいじゃん、気が向いたらやればいい、くらいの気持ちになることが自分を肯定する最初の一歩かもしれない。

 

自己肯定感を得る方法④ 自己肯定感の低い状態を客観視する。

「ib-インスタントバレット-」は、自己肯定感の低い登場人物のそれぞれの苦しみが描かれた物語だ。この漫画の登場人物はほぼ全員が、驚くほど自己肯定感が低い。

そういうのを見て「他人には優しいのに、何で自分にはそんなに厳しいんだ」「何で自分には優しくできないのかな、この人たち」など考えているうちに、そういう心の仕組みに思い至ったりする。

まあ別に思い至らなくてもいいんだけど。

 

「私はよくやっている」

自己肯定感はあったほうが生きやすいのは確かだと思う。

ただ無くても、人生に行き詰ったり、生きにくかったりしていないのであれば、何が何でも得なければいけないものでもない。

結局はあるものでやっていくしかない。

そういう中で特に大きな滞りもなく生きてきたのであれば、「これがない」と考えるよりも、そういう自分を「よくやってきたし、よくやっている」と認めてあげるのが一番かもしれない。

 

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白神山地で十二湖散策→八甲田山ロープウェイ→奥入瀬渓流を旅行したので、関連書籍と一緒にご紹介。

 

お盆休みはリゾートしらかみに乗って秋田から青森、次いで八甲田山、奥入瀬渓流を旅行してきました。

自分は旅行に行くと「電車の接続はうまくいくのか」「バスには乗れるか」「車で行ったら、駐車場に止められるか」「現地は暑いのか寒いのか、どんな服装で行けばいいか」などそういうことが気になって仕方がないタイプなので、自分と同じタイプの人のために「実際に行ったら、こんな感じだったよ」ということを書いておきたいと思います。

 

ちなみに昨年は知床に行ってきました。

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あとは実際に行くとより楽しく読めそうな関連書籍なども合わせてご紹介します。

「あの登場人物たちは、こういう場所で生活をしていたのか」「あの事件があったのは、こういう場所なのか」などと思えるのも、旅行に行ったときの大きな楽しみのひとつです。

昨年は羅臼に行きましたが、夏でも涼しい……というよりは寒かったです。知床峠の反対側の宇登呂は普通に暑かったんですが。

冬は極寒だろうな、と思いました。

羅臼と言えば「ひかりごけ」。そして「ゴールデンカムイ」

【小説】 人肉を食べた罪を裁けるのか。カニバリズムをテーマにした問題作 武田泰淳「ひかりごけ」の謎を考える。

【漫画】 人生の生き方や価値観に悩む人は、刮目して読むべし。野田サトル「ゴールデンカムイ」 

「ゴールデンカムイ」はアニメ化するみたいですね。

 

秋田からリゾートしらかみに乗る

観光地はだいたい観光にくる人のルートに合わせて、交通の接続も考えられているんですよね。なのでそのルートを巡るぶんには、そんなに不自由はなかったです。旅館も駅もバスもみんな慣れたもので、「これに乗るならこの時間のこれで」とちゃんと時刻表も至るところに貼ってありました。

春に予約を取ったのですが、リゾートしらかみはすべて山側の座席でした。オンシーズンは大手旅行会社が毎年すべて抑えてしまっているのかもしれません。

 

秋田といえば、秋田犬が主人公のこの漫画を思い出します。

銀牙―流れ星 銀― 第1巻

銀牙―流れ星 銀― 第1巻

 

秋田奥羽山脈に現れた巨大な羆・赤カブトを倒すために、犬が全国から仲間を集める物語です。

 

子供のころは、犬たちの熱い生き様にしびれながら読んでいましたが、いま読むと最初のころの羆撃ちと犬が協力して羆と戦う流れも面白いです。猟師の生態や秋田の方言や暮らしなどが細かく描いてあって、郷土愛の深さが伺えます。

羆撃ち五兵衛が恰好いいので、じっ様が主人公でもいいくらいです。少年漫画じゃなくなりますが。

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(引用元:「銀牙ー流れ星銀-」1巻 高橋よしひろ 集英社)

たぶんイマイチ人気が出なくて、犬の仲間集めの話になったんでしょうが、大輔が一人前の羆猟師になっていく物語でも名作になったのではないかと思います。

今から描いてくれないかな。

 

能代駅でバスケフリースロー体験

秋田を出たリゾートしらかみは、能代駅で十五分ほど停車しました。能代駅にはバスケゴールがあり、フリースロー体験ができます。

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老若男女問わず、みんなバスケゴールに向かってシュートしていました。入るとボールペン、はずすとステッカーがもらえます。

 

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田臥勇太の高校時代のユニフォームも飾ってありました。

栃木ブレックスがBリーグの初代チャンピオンになりましたね。ファイナルを見に行きたかったのですが、チケットが即完売してとれませんでした…。来シーズンは観戦に行きたいです。

 

能代工業高校といえば、山王のモデルです。

 山王では丸ゴリが一番好きです。

「向かってくるなら、手加減はできねえ男だ。俺は」

河田△

 

白神山地、十二湖ルートを歩く

十二湖駅で降りて、バスで白神山地に向かいました。

荷物を預けられるのか心配したのですが、駅のコインロッカーのほかに、駅前のお店が手荷物一時預かりをしていました。コインロッカーは小が300円、手荷物預かりは200円。商売上手です。

バスで十五分ほど山道を登りましたが、車でいっぱいでした。渋滞はしていませんでしたが、すれ違うときは冷や冷やします。上手い人には何ということないのかもしれませんが、自分は運転が苦手なので車で来なくてよかったと思いました。

 

天気が良かったこともあり、十二湖は暑かったです。

半袖で行ったのですが、アブがけっこう飛んでいたので、通気性のいい長袖のほうがいいかもしれません。刺されなくてよかった。

白神岳に登る人も多いのか、登山の恰好をした人が多かったです。

白神山地は色々なルートがあるし、登山もできるので、次回はぜひ他の場所も見てみたいです。

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青池。

 

青森県に入る

昭和初期、故郷青森から、北海道室蘭の遊郭に女郎として売られてきた少女たちの物語を思い出します。

重く深い泥沼のような人生をもがくようにあがくように生きる姿が美しいと思える、そんな話です。何度読み返しても、胸を打たれます。

何度も何度も「青森に帰りたい」「他に何もいいことがなくてもいいから、故郷に帰りたい」という言葉が出てきます。

絵が昔の少女漫画風なので好き嫌いが分かれると思うのですが、絵で敬遠してしまうのはもったいない。ぜひ、多くの人に読んで欲しい漫画です。

 

深浦辺りから津軽海峡が見えてくるのですが、天気が良かったこともあって絶景でした。

そして右手には岩木山が見えました。

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 次回はぜひ、頂上まで登ってみたいと思います。

 

新青森駅から八甲田山へ

新青森駅でレンタカーを借りて、八甲田山へ向かいました。

八甲田山ではロープウェイに乗って山頂へ行ったのですが、山頂はけっこう寒かったです。寒がりの人は半袖だとちょっと厳しいかな、と感じました。

八甲田ゴードラインを一時間くらい歩きました。

ここでも赤倉岳や毛無岳のほうから下りてくる人が多かったです。案内を見ると、それほどハードなコースではなさそうなので、今度、準備をしたうえで歩いてみたいなと思いました。

ただゴードラインは晴れていても、山の上のほうは雨が降っていたようです。山の天気は変化が大きくて怖いですね。

 

八甲田山といえば、「八甲田山死の彷徨」。

八甲田山死の彷徨 (新潮文庫)

八甲田山死の彷徨 (新潮文庫)

 

読んでいるとほんと冬山は怖いなと思います。

「210名のうち199名が死亡」とロープウェイのガイドのお姉さん(美人)が淡々と説明していました。すさまじい死亡率。

読んだのはだいぶ前なので、また読み返したいと思います。

 

ちなみに八甲田山を越えたら、天気が一変して大雨になりました。

 

奥入瀬渓流散策

奥入瀬渓流は休憩所のある石ヶ戸まで車を止めて、そこから主な見どころを歩いて回ろうと思っていたのですが、雨が降ったので急きょバスで回ることにしました。

バスから見ると石ヶ戸の駐車場は車が溢れていて、路駐している人も多かったので、車で行く場合は早めに行ったほうがいいかもしれません。

ちなみに宿泊したのは有名な星野リゾートです。

宿泊施設も良かったのですが、何よりも渓流散策の拠点として色々考えられているのがすごく良かったです。

ホテルから渓流を往復する(途中の雲井の滝まで)シャトルバスが一時間ごとに出ているし、傘や長靴も貸してくれます。あとは無料の飲み物の置いてあるロビーでひと心地つけたり、待ち合わせもできるので、こういうところがいいなと思いました。

 自分は室内設備や食べ物などにはそれほどこだわりはないのですが、観光拠点として施設が気軽に使えるのはとても便利でした。

 

雨の中、傘をさしてぬかるんだ道を歩いたので、景色も十分満喫できませんでしたが、いいところでした。

今度は晴れたときにきて全行程を歩きたいです。

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八戸の八食センターが面白かった

最終的には十和田湖から八戸に出たのですが、時間をつぶすために入った八戸の八食センターが面白かったです。

食べ物や飲食店、みやげもの屋が入っているのですが、海産物がどれも美味しそうでした。

店で買ったものを七輪で焼いてその場で食べられる「七輪屋」が面白そうでしたが、時間がなかったので入れませんでした。

自分の住んでいる場所にもこういうところがあると楽しそうだなと思いました。

 

今回は初めて行った場所ばかりだったので、本当にさわりだけの旅行でした。今度行くときは、一個一個の場所をより深く楽しみたいと思います。

 

 

個人の思いを、「世間」や「常識」で解体して分かった気になることは罪

 

togetter.com

 

このまとめ記事を読んだだけの感想です。

 

誰でも、自分が今まで生きてきた過程の中で、自分独自のフィルターやモノサシを持っていると思います。

他人の話を、自分のフィルターを通してみたり、モノサシで測ったりするのは仕方ない、というかそうするしかないと思うんですよね。

 

問題なのは、「ぜんぜん関係ない場所」を「どこからか借りてきたモノサシではかってその数値を書きとめて」「これ、何センチですよね?」「この長さだと、今まで大変だったでしょう」「いやいや、今のあなたには分からないかもしれないけれど、これがどれほど大変かということは、将来分かりますよ」って勝手に結論づけることです。

「はあ? ふざけんな。こんなもの図る価値ねえ」ってぶっ叩かれるよりも、あるいは傷つくかもしれない。

自分であれば、後者よりも前者のほうが遥かに傷つきます。

 

「本当は相手のことなど分かる気がなくて、自分が言いたいことがあるだけなのに、相手のことを分かったふりをすること」

「分かったふりをするために、「世間」や「常識」などマクロな視点で、個人の事情を解体すること」

「君には分からないだろうけれど、先に行けば分かるよ、などと相手に関係ない場所で結論づけること」

 

自分の言っていることをまったく理解しようとしていないのに、自分とはまったく関係ない理屈で作品を解体して理解したような気になって、自分の投げかけた課題を勝手に結論づけて終わらせようとしている。

これをやられると本当にキツイなと思います。

 

この世で自分しか持たない、変な形のモノサシで測るのはいいと思うんですよ。意見や感想を言うというのは、そういうことだと思うので。

どこからか借りてきた「世間」や「常識」「誰かの知識」などのモノサシで相手を測って分かった気になって、自分自身で相手に相対しようとしないことがどうかな、と思います。

自分が分かりやすい形に手早く物事を切り分けて、多くの人に飲み込みやすい意見に落とし込むために、自分のものではないどデカいモノサシを持ってきて、他人の一挙手一投足を測って解体したくなる誘惑に駆られるときはあります。

どんなに不完全でもあくまで自分として向き合うことが、人や作品に対するときの最低限の誠意だと考えています。難しいと思うことも多々ありますが、この件を反面教師にしたいです。

 

以下余談ですが、自分のモノサシで測った作品の感想です。

その人の幸福はその人にしか分からないので、誰に何と言われようと、自分自身の幸福を追求できた人は幸せだと思います。

「その人がそんな選択に迫られない、そんな立場に陥らない社会にであれば」とは、余り感じません。

この食人された子のようなタイプの人は、前提によって生き方を変えるわけではないような気がします。こういう人たちは「こういう境遇だから、こういう生き方をせざるえなかった」のではなく、たぶんもともとこういう生き方をする人なのだと思います。

 

ただ境遇によって目に見える条件が変わるので、条件や設定によって周りの人は「それは幸福だ」「それは気の毒だ」と自分のモノサシで解釈するだろうけれど、本人の本質的な行動原理みたいなものは、変わらないんじゃないかと思います。

本人は表層的な事象(自分が食人されるとかそういうこと)には余り興味がなくて、自分の決断で自分が望むものを手に入れるということだけにひたすら熱意を傾けているのではないかと。

表層的な部分であれこれ解釈するのではなく、その人が「本当に幸せだった」というのなら、自分の考えはどうあれ、その感覚をまずは認めることが「他者を尊重する」ってことではないかな、と思います。

これを「そんなの幸せなわけないだろ!」って言うのは、それはそれで価値観の押しつけだと自分は感じます。

 

本質的には同じことを言っているのに細部の要素が違くなるだけで、賛成・反対が百八十度変わる例というのは見ていて残念だな、と最近特に思います。

ディティールが「食人」や「孤児の死」のような極端なものになると、特に本質を見失いやすくなります。(そういうことを問いたくて、極端な設定を用いているのだと思いますが。)

結局、語られていることがどうこうではなく、その細部の設定が自分が受け入れられるケースか否かで、物事に対する賛成反対が変わるのかなと。

この作品もそういうことを聞かれている面があると思います。

 

自分がこの物語で大切だと思ったのは、食人一家が「泣きながら」この子を食べた、という点です。

この子が幸せになれたのは、裕福な生活を与えられたからでも、好きな人の役に立てたからでもなく、生まれて初めて自分のことを「この世でたった一人しかいない自分」として認められたからではないでしょうか。

「誰かに、自分を自分と認められる」

ということは、人にとってすごく重要なことだと思います。 

 

 そのことについては、この記事で詳しく書きました。

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「自分を自分として認められること」の大切さも埋め込まれているのだとしたら、「その人本人をまったく見ずに、自分が正しいと思うことを語るための材料として、自分自身のものではないモノサシで作品を解体すること」は、二重の意味で罪深いです。

作品で「そういうことをしてはいけないのではないか」と語っていることを、キレイにやらかした感想が返ってきたら、自分だったら絶望の溜息しか出てこないです。

地獄だよ、ほんと。

幸せのものさし/うれしくてさみしい日(Your Wedding Day)

幸せのものさし/うれしくてさみしい日(Your Wedding Day)

 

 

突然、語りたくなったので、平松伸二「ブラック・エンジェルズ」についてうろ覚えだけど語りたい。

 

平松伸二「ブラック・エンジェルズ」は1980年代前半に、週刊少年ジャンプで連載していた漫画だ。

「ブラック・エンジェルズ」の内容には、子供のころはよく理解できなかったことがあった。その辺りのことを含めて、うろ覚えな思い出話を語りたい。

 

*この記事の内容は、筆者のうろ覚えな記憶に基づいています。記憶違いなどもあることをご了承のうえ、お読みください。またネタバレをしています。未読のかたはご注意ください。

 

「ブラック・エンジェルズ」あらすじ

主人公は高校生→フリーターの冴えない男・雪藤洋士。彼には裏の顔があり、法で裁けない悪党を、自転車のスポークを使い制裁している。決め台詞は「地獄に落ちろ」 

自転車で時速90キロ出せる。速い。自転車でバックできる。すごい。

 

最初のうちは一、二話で完結するよくある悪党を制裁する物語なのだが、この話の内容がけっこうキツかった。

覚えているなかで一番キツかったのは、夫に先立たれたお婆ちゃんが不良たちに目をつけられて、家に入りびたれて金を脅しとられる話。不良たちに虐待される描写が、無茶苦茶キツかった。

お婆ちゃんは耐えかねて自殺してしまい、雪藤が不良たちを殺す。

「ブラック・エンジェルズ」は途中で被害にあっている人間が死ぬことが多く(しかもその死に方が惨いことが多い。)悪党が死んでもまったくすっきりしない。爽快感ゼロで、憂鬱な気持ちが残る。

 

この悪党制裁の話から、胸に十字架の傷を持つ「ブラック・エンジェルズ」たちと「M計画」という関東壊滅の計画を練る謎の組織「竜牙会」との戦いの話になる。

「M計画」は防げたけれど、富士山の噴火で関東が壊滅し、北斗の拳のようなヒャッハーな世界になる。その壊滅した関東で、謎の力を持つ八枚の金貨を巡って抗争が行われる。

その後、新政府を操る謎の超能力集団「ホワイト・エンジェルズ」との戦いになる。

 

「ブラック・エンジェルズ」は謎描写が多かった。

「ブラック・エンジェルズ」は「よくよく考えると何なんだ?」という描写や設定が、特に説明もなくサラリと出てきて、特に説明もないまま終わる。

子供のころは何の知識もないので、「大人には色々な事情があるのだろう」とほとんどすべての描写を流していたけれど、大人になった今でもよく分からない描写が多い。

その謎描写について語りたい。

 

物語の謎

松田とボクサーの話

松田と仲良くなった元ボクサーが、悪党に薬を飲まされて強盗殺人を起こしていた話。

何の罪もない一家四人が、殴り殺される描写がある。

松田は警察官を辞めさせられた自分を元ボクサーに重ね合わせており、ボクサーを自らの手で殺したあとに、彼の亡骸を抱えながら「夢を見続けちゃ悪いっていうのかよ!」と雪藤に反発する。

 

ええっ!!? そこ??? そこに共感して話が終わるのか???

という気持ちが否めない。

夢を見続けるのが悪いのではなくて、何の罪もない人を殴り殺したのが悪いのでは…。ちなみに殺された一家は、老夫婦と若奥さんと四歳の女の子。

「頭蓋骨陥没、内臓破裂」など描写がやたら生々しい。

薬を打たれたからとはいえ、そんな殺人を犯した相手に共感して終わる筋立てにものすごくもやる。

 

鷹沢の言っていることが意味不明だった。

「竜牙会」のリーダー切人=「ブラック・エンジェルズ」の創始者・鷹沢神父という衝撃の事実が、「竜牙会」編最大のどんでん返しだった。

このときに鷹沢が、なぜこんなことをしたのかということを説明するのだが、

「本当は自然災害で関東は全滅するんだけれど、そんなことを神様がしていいはずがない。だから人災で壊滅させるために、M計画を起こした。でもM計画を起こすことに対する良心の呵責から、その計画を食いとめる「ブラック・エンジェルズ」を組織した」

というものだった。

子供のときは「大人ってそういうものなのかな」と思いつつ、「訳分からん」と思って流していた。

 

大人になった今でも訳わからん。

 

理屈ではわかるけれど、そんな良心の呵責がある割には人をどんどん殺しているし。

「それがわしの中の鷹沢神父と切人だ(ドヤ!)」って言いたかっただけじゃないか? と思ってしまう。二重人格というわけでもないし。

こういう形而上の理由で犯罪を犯す、というパターンは少年漫画ではほとんど見ないので、今思うとけっこう画期的だったなと思う。

そういう理念的な話を、ほとんど突っ込まずサラッと流したところが逆にすごい。初めて読んだのが大人になってからだったら、「そんな話もサラッと終わらせるのか?」というほうにびっくりしたかもしれない。

 

勇気は何で突然、邪悪になったのか?

「人間には誰でも二面性がある」と言っても、いくら何でもいきなり変わりすぎだろう。

雪藤が「勇気、いったい何がお前をそこまで変えた」って言っていたけれど、それはこっちが聞きたい。勇気本人も聞きたいに違いない。

勇気にそういう素質があったなどの伏線があればいいのだが、そんな描写は一切なく、後付けの説明すらない。

そこが「ブラック・エンジェルズ」の面白いところと言えばそうなんだけれど。

 

松田はなぜ、全裸にされたのか?

脱獄犯に、松田(男)と雪藤が山小屋に監禁される話がある。この話で松田が全裸で手錠をされるんだけれど、なぜ松田だけ全裸にされたのかが分からない。一人だけ反抗したから?? 武器を持っていないか、確認するため?? 

ちなみに加藤という松田の元同期の刑事も一緒にいたけれど、彼も服は脱がされていない。何だったんだろう???

吹雪の雪山で、全裸にコート1枚羽織っただけの姿で、脱獄犯に空手の技を繰り出す松田が無茶苦茶シュールだった。

 

武器の謎

飛鳥のトランプは、何でできているのか?

飛鳥のトランプの攻撃は子供のときによく真似をしたのだが、なぜ刺さらないのかが不思議だった。普通の紙製のトランプなんだから当たり前なのだが。

飛鳥のトランプは鋼鉄でできているとか、設定があったのだろうか?? シャッフルとかしていたような記憶があるんだけど…。

 

閻魔球は、あのまま生活していたのか?

どう見ても着脱できないよな。あのまま生活していたのか? トイレ事情が気になって仕方ない。

もしかしたら中央で割れるようになっているなどの仕組みがあるのかもしれない。見たところ継ぎ目がまったく見当たらないけれど。

 

神麗院の耳は、なぜ尖っていたのか?

つけ耳か? と思いきや、飛鳥にトランプで切られていたので本物のようだ。エルフ? 気になる。

 

男女間の謎

切人と卑弥子の関係

切人が寝ている御簾の中から卑弥子が起き上がって全裸で出てくるシーンがある。

この二人って親子だよね?? 義理の親子??(それでもどうかと思うが。)添い寝していただけなのかな…。

「お父様の力をもらいましたもの」みたいなセリフがすごく意味深だった。

気になって仕方がない。どういうこと?? そういうこと??

 

ジュディと牙の関係

「あのジュディという女、俺はてっきり雪藤の女だと思っていたがな」

同感だ。

読者のほとんどが同じことを思ったと思う。どうしてクライマックスにこういういらない恋愛描写をいきなりぶっこんでくるんだろう。

余りに唐突すぎてポカンとした。

 

「ブラック・エンジェルズ」の根底にある考え方

相手が悪党でも、殺人は悪。

大人になってから読み直して気づいたのは、「ブラック・エンジェルズ」では「どんな悪党でも殺人は良くない」というメッセージが繰り返し出てくることだ。

「ブラック・エンジェルズ」に出てきて制裁の対象となる悪党は、小悪党レベルではない。人間の皮をかぶった鬼畜としか思えない悪党が山のように出てくる。一分一秒でも早く地獄に落ちてくれと言いたくなるような悪党ばかりなのだが、そんな悪党でも殺せば松田や露口、飛鳥と言った面々は、殺した雪藤を「殺人者」と罵る。

決して「奴らは殺されて当然。いいことをした」という風にはならない。

亜里沙は雪藤を「ブラック・エンジェルズ」にすることを非常に嫌がるし、雪藤は「どんなきれいごとを言っても、自分たちはしょせん殺人者」という姿勢を一貫させている。

「死んで当然だ」と思うような悪党に対する殺人でも、きちんと「殺すこと」への嫌悪感や葛藤を描いている。

 

悪党が反省も改心もしない。

「ブラック・エンジェルズ」には様々な悪党が出てくる。街のチンピラから国家の裏で暗躍する大悪党、たいした力のない奴から、強大な力でブラック・エンジェルズを苦しめる強敵まで出てくるが、全員に共通していることが、誰一人として改心しないということだ。

彼らは改心どころか反省もしない。読者が少しは感情移入しそうな、悲惨な境遇や不幸な生い立ちのような裏話もほとんどしない。

最初は敵でも味方になったり、事情がある敵が出てきたり、最後は分かり合えたりする描写が多い漫画が多い中で、これはかなり珍しい。

 

牙と飛鳥の仲間だった武蔵も、他の少年漫画であれば少しは背景事情や心の弱さなどを描きそうなものだが、何で裏切ったのかぜんぜんわからないまま死んだ。

風剣と恋人だった魔導沙は、昔の情をカケラも残していない。割り切りがすごい。風剣が色々と過去を思い出す描写が切ない。 

唯一、幽姫と幽魔だけは改心はしないけれど肉親の情を見せたために、雪藤が許している。ただこれは同じように肉親を手先として使った女性、妖姫との差別化を図っただけな気もする。

勇気は特に理由もなく伏線もなく、突然悪になったけれど、むしろそこがいいのかもしれない。

悪は理由もなく仮借もなくただ徹頭徹尾、悪としてそこに存在する。

「ただの殺人者」であるブラック・エンジェルズの正しさは、そういう悪に対する「相対的な正しさ」にしかなりえない。

という構造も、いま読むと作者の考えを感じる。

 

男性が一途で女性がフラフラしている。

「ブラック・エンジェルズ」の男性陣は、非常に一途だ。自分の好きな女性以外には、一切目をくれない。浮気をしない云々レベルではなく、性的な反応自体を好きな女性以外に一切しない。

例えば雪藤は、麗羅の胸がはだけようが、太ももが見えようが無反応。ジュディが相手だと、「添い寝しようよ」と言われたくらいで滅茶苦茶照れているのに。

水鵬の麗羅に対する尽くしぶりもすごい。

 

それに対して女性陣は、余りはっきりした意思がない。

麗羅は水鵬が自分に気があるのは明らかなのに、きちんと突き放さないで尽くされるがままになっているし、ジュディは牙といつのまにかいい関係になっていて「あなたと雪藤どっちを選べばいいのか」などと言い出す。

 

男性陣はそういうフラフラしている女性に対して特に何か言うでもなく、黙って受け入れている。

「都合のいい男」ではなく、「相手がどうあろうと、そういう相手を自分は自分の意思で好きなだけ」というスタンスだ。

「相手が自分を好きになってくれなければ、見返りをくれなくては、自分も相手を愛さない」という、結局「自分の愛情は相手次第」という愛しかたとは一線を画している。

 

「北斗の拳」のトキやジュウザもそうだけれど、自分の好きな女性の意思をきちんと尊重しており、自分も普段はその女性とは離れた場所で自由に生きている。でも、いざ相手の女性がピンチに陥ったら、相手が自分のことを好きとか好きじゃないとか、他の男が好きとかはまったく関係なく、見返りなく駆けつける。

それが犠牲だとも損だとも思わない。自分は自分の意思で、その人のことを愛しているだけだから。

こういう愛し方ができる人は、最高に格好いい。

このころの少年漫画は「こういう生き方や愛し方をする男が格好いい」というメッセージを伝えているものが多かった。

 自分もこの頃の少年漫画の女性キャラは、お色気要員やお飾りみたいな扱われ方をしているだけかな、と思っていたし、そういう面があることも否定はできないけれど、敵はともかく主要男性キャラクター陣は女性という他者をきちんと尊重している。

過激描写ばかりではなく、こういう面からの影響も見て欲しい。

  

「悪」に対する哲学。

「ブラック・エンジェルズ」は読み返してみると、大人になってからこそ色々と考えさせられることが多い。

どんな悪に対しても私的制裁というのは、相対的な正しさにしかなりえない。

「悪」によって「より大きな悪」を打ち消すことはできるのか。果たしてそれは正しいのか。

「ブラック・エンジェルズ」がやっていることが、「より大きな悪」であるM計画を倒し、そのM計画が自然災害の「悪」を打ち消すことができるのか、など。

勇気のように、理解の余地のない「悪」は、誰の心にも生まれることがある。そういうものとどう向き合うのか。

そもそも物語のモチーフに「天使」「切人」「神父」「神」「悪魔」など、キリスト教の概念が頻繁に出てくる。

最後に雪藤をキリストになぞらえて、ブラック・エンジェルズの罪や宿命を一人で背負わせているところを見ても、単に物語のモチーフとして利用したというよりは、作者の考えが色濃く反映されている気がする。

 

話がやや複雑だし、理解しづらい描写も多いので子供のころはそんなに面白いとは思わなかったけれど、大人になってから読み返したらとても面白かった。子供のころはわからなかった、雪藤や松田、牙などの格好よさにも気づいた。

 

 読んだことがない人も、「そういえばそんな漫画があったな」と思う人も、ぜひ手にとってみて欲しい。

 一番好きなキャラは水鵬。生きざま死にざま戦いかた、すべてが格好いい。

妖姫や卑弥子も好きだ。本気でぶん殴りたくなる女性の極悪キャラは珍しい。

 

【漫画感想】世界を壊したいほどの孤独と悲しみを描く 赤坂アカ「ib インスタントバレット」

 

赤坂アカ「ib インスタントバレット」全5巻を読んだ。最後は打ち切りになってしまったようだ。とても読み応えがある話だったのに残念だ。

 

「ib インスタントバレット」は、異なる能力を持つ子どもたちがそれぞれの思いを抱えて世界を破壊しようとしたり、敵対して救おうとする姿を描いている。彼らは全員、複雑な背景と癒されない孤独を抱えており、それが能力と深く関わっている。

 

個人的には絵は余り上手くないなあ、と思う。好みも分かれると思う。アクションシーンは何が起こっているのかよく分からないことがある。

ストーリー運び(ストーリーそのものはともかく)も手慣れておらず上手いと思わない。話の軸が定まっておらず、演出とストーリーがうまくかみ合っていないように見えることがある。

絵も物語もすごく不器用でゴツゴツとした作りだ。欠点はいくらでも指摘できる。

 

そういう漫画の構造自体が、欠点を抱え、試行錯誤しながら必死に生きる登場人物たちの姿を重なる。

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(引用元:「ib インスタントバレット」赤坂アカ/KADOKAWA」)

 

感想

「愛して欲しい」という叫びを「悪意」と呼ぶ。

インスタントバレットは、人の悪意から生まれる破壊願望から生まれた能力だ。主人公のクロは、この「悪意」で世界を破壊しようとする。

「怒り」が「認めて欲しい」「助けて欲しい」「愛して欲しい」という深層意識の発露だ、というのは割と有名な話だが、「インスタントバレット」の登場人物たちは、ほぼ全編にわたってこの「怒り」を叫んでいる。そしてその「愛して欲しい」という叫びを彼らは「悪意」と呼び、自分たちは優しさを持たない普通ではない、だから疎まれて当然の存在なのだと言う。

彼らは複雑な背景を抱えており、人から愛される(認められる)とはどういうことなのかを誰からも学ぶことができなかった。

 

愛されたことがないから、愛しかたが分からない。そんな自分だから人から愛されなくても仕方がない。そんな自分だから周囲から疎まれる。それは自分が悪いのだから仕方がない。でも自分に愛しかたを教えてくれなかった世界が憎い。でもそれは自分の身勝手なことは十分わかっている。身勝手で自分のことしか考えられず世界を憎む自分は悪者だ。個人的な憎しみから悪意をたぎらせている自分は、疎まれて当然の存在だ。そんな自分を好きになれない。こんな自分を作り出した世界が憎い。

 

ハードルが高すぎる「優しさ」

彼らが定義する「優しさ」は、自分がどんなに辛い境遇にあっても他人を思いやらなければならず、それまで思いやっていたとしても、一回でも相手を傷つけしまえばそれは消えない罪になる。

彼らがこれほど完璧で、普通の人間にはとても不可能だと思うことを「優しさ」と定義するのは、彼らが人よりも傷つきやすいからだ。

傷つきやすいから、人を傷つけることを極度に恐れる。優しいから、他人の幸福よりも自分の心情を優先してしまうことが許せない。

人間では不可能な「優しさ」の定義を掲げて、それができない自分は「優しくない」「間違っている」といい、全てを自分のせいにし、抱えきれない罪悪感に苦しむ。

 

例えば木陰がマリア・ドラッグを提供した不良たちは、毒があることを知らされてもなお「優しい人間でありたい」と願い、マリア・ドラッグを飲み続けることを選ぶ。そして木陰がマリア・ドラッグを作らないことに決めたとき、「優しくない自分」に戻らないために死ぬことを選ぶ。

 

これは彼らの自由意思の選択なのだから、木陰が責任を感じる必要はない。少なくとも彼らの死は彼女の責任ではない。

それなのに木陰は彼らの死に責任を感じ、すさまじい罪悪感を抱き、自分を「人を傷つけることしかできない人間」「死ぬまで汚い心を抱えた棘にまみれた人間」だと言う。

 

死ぬにしても何で木陰の目の前で、しかも彼女が握ったナイフで死ぬんだ。そんなの相手が罪悪感とトラウマを抱くに決まっているのに。

と自分は不良たちに腹が立つ。

 

彼らが死んだのは本人たちの自由だし、むしろ心の底から彼女に感謝して死んだのだ。彼らのためにも良かった、と思ってよいと思うのだが、木陰はその死の決断に対して責任を感じ、自分を「汚い心の持ち主」と責める。

 

他人には「どんなにクズでも馬鹿でも生きていて欲しい」と願う木陰。これが自分に対しては「生きている資格がない」のように途端に厳しくなる。

彼らは自分に優しくしたり、自分を愛することが異常に下手くそだ。

「ただ一人だけでも愛してくれる人がいればよかった」

「だけどその一人がどうやっても見つからない」

「自分を好きになりたかった」

自分を好きだと言ってくれる人がいれば、自分のことを好きになれるのに。

ただ、こういう人はいくら「好きだ」と言っても受け取らない。余りに傷つきやすくて弱くて、相手の「好き」を信じることができない。正確には、どれほど他人が認めてくれても、自分の価値を受け取ることができない。

そういう姿が見ていてもどかしい。

 

「悪」に生まれてしまったら、どうすればいいのか。

自分が作中で最も感情移入したのが瀬良だったので、打ち切られてしまったのが非常に残念だった。

 

純粋な1個の悪意が、他人に甚大な被害を及ぼすということは実は余りないと思う。

アイヒマンの例を引くまでもなく、「悪」とは能動的なものではなく、平凡な人間たちの、他人に対する少しの想像力の欠如が積み重なったときに、恐るべき巨大な「悪」になると思っている。

「悪の行動」の原因になるのは「悪」よりも、「正しさ」のほうが多いのではないか。人間が尤も他人に対して残酷になるのは、何等かの免罪符を用いて自分の正しさを確信したときだと思う。

人間はそんなに強い生き物ではないので、他人に害を為す場合は何等かの言い訳「社会のため」だの「上からの命令」だの「みんなやっている」だの「自分の不幸な境遇」だのが必要だ。そしてその中で最も強力な言い訳が「正しさ」だと思う。

 

どんな正しさであれ、それが行動の重大性の免罪符にならないように、行動が正しいものならば、その動機が仮に悪であっても、もしくはその正しさを実行した人物の心の中がどれほど悪意に満ち溢れていても、問題はない。

ただ心の中で思うだけならば、どれだけ残虐なことを考えていても、どれほど卑猥な妄想にふけっていても自由だ。それが外部に漏れ出ず、誰にも影響を与えないのならば、心の中は自由なはずだ。

 

瀬良のように人として当たり前の倫理が理解できない、人の感情が理解できない、むしろ他人の苦痛に喜びを感じてしまうという人間に生まれたことは、相当孤独だと思う。

 

彼女が考えていることが分かれば、人は「正しさ」の名の下に彼女を疎外し、袋叩きにするだろう。このとき、自分がやっている「他人を疎外する」「他人を多数で袋叩きにする」という行為の悪質さは、「相手が悪である」という言い訳の下、簡単に免罪される。そして自分が「悪」であることを知っている瀬良も、それを当然だと思う。

何故なら、自分は悪だから。人の心が理解できないから。人を傷つけて喜びを感じるような人間は、袋叩きにされて当然だから。

自分はこういう、人を殴るという行為すら言い訳を見つけて正当化する、もしくは黙認してしまうことの積み重ねからこそ、本当の「悪」は生まれると思う。

 

瀬良は自分という存在が「悪そのもの」であることを自覚しながら、それでも必死に正しくあろうとする。父親が昔教えてくれた「正義の味方」であろうとする。

それは「人のことを思いやることが正しいことだ」と考える前に、心の底から当たり前だと感じられる人間には考えられないような大変さだと思う。

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(引用元:「ib インスタントバレット」赤坂アカ/KADOKAWA」)

 

そして「悪でも正しくありたい」と願う瀬良のために、クロは「僕はお前より間違っている」存在になる。

みんなが叩かれる側に回らず、叩く側に回るために必死で「正しさ」を掲げるような現代では驚異的なことだと思う。

 

自分の本能を押さえつけ、自分には理解できない概念である「正しさ」を必死で追求する瀬良は、それだけで十分「正しい」。

そして瀬良のために、他人から否定され叩かれる「間違った悪」になるクロは十分に優しい。

 

人は誰しも間違うし、ろくでもないことで他人を傷つけてしまうこともある。相手にそんなつもりがなくとも、勝手に傷ついてしまうこともある。醜く卑怯でとんでもないことを考えてしまうこともある。いつも正しくはいられないし、自己中で身勝手で、地球の裏側で人がたくさん死んでいることが頭ではわかっていても、涼しい部屋でアイスを食べて幸福を感じてしまうのが人間だ。

そういうことに罪悪感を持つだけでも、人を愛することができているし十分優しい。 

 バカ高いハードルを設けて「自分は間違っている。優しくない。悪意の塊だ。疎まれて当然だ」と言い出す人がいたら、何百回でも「違うよ」と言ってやりたい。

 

物語世界の謎を解くことを楽しむ「世界解明系の物語」 みんなのおススメ作品リスト

 

 

「世界の謎を解く物語」でおススメのものを聞いてみた。

先日、「世界解明系の物語が読みたい」という記事を書きました。

www.saiusaruzzz.com

 

「世界解明系の物語」とは自分の造語で、

「主人公や読者が知らない法則で世界が動いており、主人公が「どんな理由で起こっているのか分からない物事」からその法則性を解き明かしていくことを主たる目的としている物語」

と定義しています。

自分が例としてあげたのは「進撃の巨人」「ひぐらしのなく頃に」「SIREN」などです。こういう系統の物語が読みたいのですが、何か面白いものはありませんか、といったところ色々とおススメのものを教えていただきました。

コメントを寄せていただいた方々にお礼を申し上げます。ありがとうございます。

 

ジャンルが不明確なので探しづらかった。

なぜ記事を書いたかと言うと、「世界解明系の物語」を読みたいと思っても探す方法が思いつかなかったからです。

「ラブコメ」「サイコホラー」「ダークファンタジー」など、細分化したジャンルでも検索すると探せるのですが、こういう物語は定義する言葉もないし、どうすれば探せるのか。キーワードを変えて色々と検索してみましたが、なかなか思うように探せませんでした。

「世界の謎を解明する物語」という言葉自体がネタバレになる可能性があるので、「こういう物語です」とレビューにも書きにくいということもあると思います。

 

「世界解明系物語」愛好家のためにリストにした。

当初は「教えてもらったものを読んでみよう」くらいの気分だったのですが、思ったよりもたくさん情報をいただけたので、自分一人で楽しむにはもったいないと思いリスト化することにしました。

「話の本筋にさえ触れなければ、その点はネタバレされても構わないので、こういう物語を探しあてられる方法があるといいのに」

という自分のような人間のためにも、ひとつくらいこういうものがあるといいかもしれないと思ったことが理由です

いただいた情報の中で「ある程度このジャンルとして認知されているのでは」「このジャンルとは考えにくい」と思ったものは自分の判断で外させていただきました。 

 

以下の点を留意したうえで、こういった物語を選ぶための参考にしていただければと思います。

①「上記の定義に沿っている物語と考えられる」という点に関しては、ネタバレされてもいい。

②上の定義を上げたうえで、色々な人から推薦してもらった作品である。中身がその定義に沿っているかどうかは、保障はできない。 

③ジャンルはあらすじを読んだり、紹介文に書かれたカテゴリーを手掛かりに、好みのものを探しやすいように便宜的につけた分類である。厳密な分類ではない。

 

「世界解明系の物語」みんなのおススメ作品リスト

小説(日本SF)

「驚愕の曠野」(筒井康隆/1977) 

「ドリームバスター」(宮部みゆき/2001)

「導きの星」(小川一水/2002)

「天冥の標」(小川一水/2009)大長編です。

「神は沈黙せず」(山本弘/2003)

「新世界より」(貴志祐介/2008)推薦者が一番多かったです。

新世界より 文庫 全3巻完結セット (講談社文庫)

新世界より 文庫 全3巻完結セット (講談社文庫)

 

 

小説(日本ホラー)

「リング」シリーズ (鈴木光司/1991)

「酔歩する男」(「玩具修理者」に所収/小林泰三/2002)

表題作「玩具修理者」は第二回日本ホラー大賞短編賞受賞作です。

玩具修理者 (角川ホラー文庫)

玩具修理者 (角川ホラー文庫)

 

 

小説(ライトノベル)

「スクラップド・プリンセス」(榊一郎/1999)二票獲得。

「幽霊には微笑を、生者には花束を」(飛田甲/2004)

「鋼穀のレギオス」(雨木シュウスケ/2006)

「人類は衰退しました」(田中ロミオ/2007)

「とある飛空士シリーズ」(犬村小六/2008)

「【映】アムリタ」(野崎まど/2013)

第16回電撃小説大賞メディアワークス文庫賞受賞作。

「マギクラフト・マイスター」(秋ぎつね/2013 )

「オカルティック・ナイン」(志倉千代丸/2014)

「セルフ・クラフト・ワールド」(芝村裕吏/2015)

スクラップド・プリンセス 捨て猫王女の前奏曲 (富士見ファンタジア文庫)

スクラップド・プリンセス 捨て猫王女の前奏曲 (富士見ファンタジア文庫)

 

 

小説(海外SF)

「星を継ぐもの」(ジェイムズ・P・ホーガン/1977)

「白銀の聖域」(マイケル・ムアコック/1996)

「クロックワーク・ロケット」(グレッグ・イーガン/2015)

星を継ぐもの (創元SF文庫)

星を継ぐもの (創元SF文庫)

 

 

漫画

「11人いる!」(萩尾望都/1975)

「孔子暗黒伝」(諸星大二郎/1988)

「百万畳ラビリンス」(たかみち/2015)

 

映画

「ミッション:8ミニッツ」(2011年/アメリカ)

ダンカン・ジョーンズ監督の二作目。一作目の「月に囚われた男」も謎を解き明かすスリラーのようです。

「ホット・ファズ ー俺たちスーパーポリスメン!-」(2007年/イギリス)

タイトルは微妙(失礼)ですが、あらすじを読むと面白そうです。

ミッション:8ミニッツ (字幕版)

ミッション:8ミニッツ (字幕版)

 

 

アニメ

「交響詩篇エウレカセブン」(2005年)

「ゼーガペイン」(2006年)

ゼーガペインADP

ゼーガペインADP

 

 

ゲーム

「シュタインズ・ゲート」(2009年)

STEINS;GATE

STEINS;GATE

 

  

管理人うさるのおススメ

「ひぐらしのなく頃に」(竜騎士07/2002/ゲーム・アニメ・漫画)

「うみねこのなく頃に」(竜騎士07/2007/ゲーム・アニメ・漫画)

「匣の中の失楽」(竹本健治/1983/小説/)

「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」(村上春樹/2013/小説)

「ムーンライトシンドローム」(ゲーム/1997)

「SIREN」(ゲーム/2003)

 

新しいものを見つけたら順次、リストに加えていきたいと思っています。

 

 関連記事

以前にも謎解きコンテンツへの愛を語っていました。

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ドラマ「銀と金」第13話「殺人鬼有賀編」が色々と残念だったので、その理由を書きたい。

 

Amazonプライムビデオでドラマ「銀と金」の第13話「有賀編」を視聴しました。

第13話

第13話

 

 

地上波で放送されたドラマが満足の出来だったので楽しみにしていましたが、非常に残念な内容でした。制作スタッフは同一のようなので、一体、なぜこうなってしまったのかよく分かりません。

「良かった」というかたには申し訳ないのですが、個人的にはだいぶひどいと思いましたし、不満が多いです。

どういうところが気になったか、具体的に書いていきたいと思います。

 

森田のすごいところがすべて削られている。

一番、ひどいと思ったのがここです。

森田は普通の青年に見えて、鋭い嗅覚や判断の素早さ、いざというときの度胸などすごいところがたくさんあります。

原作の「有賀編」は、一人で仕事を請け負うことで、その「普通に見えて常人離れしているところ」「なぜ、銀二が森田を仲間にしたのか」という森田のすごさを読者に説明する編でもあります。

 

扉の開け閉めの回数で、部屋から出てきたのが有賀と分かる。

有賀に罠をしかけて、不意をつく。

有賀に「逃げていいよ」と言われても「逃げないで戦う」と言う。

 

これらがほとんど削られている。

そして「窮地を切り抜けるために判断し戦う」という役割のほとんどが、ドラマのオリジナルキャラクターで、しかもこの回にしか出てこない女殺し屋??に割り振られています。

「女殺し屋」という現実離れした設定は実写で出すのは厳しいと思うのですが、それを押して出したのだから何か目論見があるのかと思いきや、特に何もなかったです。

「逃げない」という森田のセリフを強奪し、ただ撃たれて死にました。

何だったんだ???

 

伏線の使い方や回収のしかたがおかしい

これは「銀と金」には関係なく、物語の構成としておかしいと思った箇所です。

有賀が「子どものころ火事に巻き込まれている」ということを森田が知る、という伏線から、「有賀は火を怖がるのではないか」ということを森田が思いつく点です。しかしこれは、火が風で消えてしまったために、物語の展開としては何の意味もないものになりました。

展開に影響を与えない描写を伏線まで張って入れるというのは、物語の描きかたとしては拙いと思います。単なる尺稼ぎに見えてしまうし。

 

あともうひとつ、撃たれたときに女暗殺者が実は生きている、という描写があったのですが、これも最終的には死んでいるうえに理屈ではなく情緒に回収されるので、あんなに意味深に描写する必要がないです。

伏線というのは「物語が大きく展開し」「読者がああそういえばそれを遠因となる描写があった」と思わせるための装置です。

読者が十分想定できるストーリーラインで物語を展開させているのであれば、伏線というのはいらない描写です。

物語がレールに沿って走っていれば、切り替え装置はいりません。むしろ「何で切り替えたんだ?」「切り替えたあとも、元のレールに沿ったまんまなんだけれど?」という疑問が湧くだけです。

「でも、女暗殺者が船田に電話をかけたから、船田が駆けつけられたのでは?」と思う向きもあると思います。この展開、設定について遡って色々と言いたいのですが、ものすごく長くなるのでやめておきます。

 

そもそもなぜこんな出す必要のないオリキャラを出したのか、ということが分かりません。

物語の展開には関与しない、意味のない、それでいながら世界観を壊しかねない非現実的な設定、主人公森田の役割を奪いとって原作のファンをがっくりさせ、それでいながらほとんど自分のキャラは立たずに死ぬ、という悪夢のような登場人物でした。

 

ドラマ制作陣は、森田に興味がないのか?

テレビ放映されたドラマを見ていたときから、自分はドラマの森田に非常に違和感を持っていました。

原作の森田は「一見、どこにでもいる普通の青年」でいながら「いざというときは優れた判断力を発揮する」

そして一番の特徴は、情が深いところです。

少し前まで自分を殺そうとした人間でも、その境遇に同情して涙を流すし、自分を殺そうとした人間を助けるために、マシンガンの前に丸腰で飛び出す、そういう深い人間愛が森田の一番すごいところです。

ところがドラマの森田からは、そういう「熱いところ」「深い情愛」みたいなものがほとんど感じられません。

「ただクールで頭が切れる男」という印象です。

 

第13話ではそういった森田の「人よりも情が深いところ」「普通の青年らしいところ」が描写されていたのですが、そうすると今度は有賀に「逃げていいよ」と言われたらすぐに逃げようとしたり、炎が消えて慌てふためいたりする小物臭満載になってしまって、がっくりしました。

 

俳優の演技はとても良かった。

このドラマは相変わらず、俳優の選択だけは間違いがありません。

今回、有賀を演じた手塚とおるさんも素晴らしい演技でした。

「銀と金」を見ていて思うのは、俳優というのは本来、このレベルのことができて当たり前なんだな、ということです。笑い方、表情、言葉の抑揚の付け方、間の取り方、そういうもののひとつひとつをどうすれば、見ている人が驚くか、怖いと思うか、どういう感情を抱くか、全部熟知している印象です。

 

船田のカッコよさは異常。

原作では出番どころか、セリフもほぼなかった船田ですが、ドラマでは大活躍しています。今回もカッコよかったです。

 

まとめ

テレビで放映されたぶんは、原作の大ファンである自分も十分楽しみ満足できたので、最後の最後でこれ、というのは非常に残念でした。

あの女殺し屋を主人公にした物語を描きたくて、「銀と金」の話に無理矢理組み込んできたのでは、と邪推してしまいます。そういうことがやりたければ、オリジナルドラマでやって欲しいです。

安田、巽、船田の三人のスピンオフでもいいと思いますよ。

 

この感じで神威編を作ったら、田中が大活躍しそうだな。

 

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