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うさるの厨二病日記

生涯中二の着ぐるみが、本や漫画、ドラマなどについて好きも嫌いも全力で語ります。【ネタバレ前提です。注意してください】

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「物語」は、人を癒すのか? 呪うのか?

社会問題 うさるごと

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「物語」はなぜ生まれたのか? 何のためにあるのか?

 

「物語」は、文章だけではありません。

絵画や歌や音楽にも、物語性はあります。

優れた物語とは、何なのか? 

物語には人を癒す力があると同時に、強力な呪縛性を秘めている。

そんな「物語」についての話です。

 

「物語」は、何のためにあるのだろう?

大昔、科学がまだ未発達だったころ、人は何故、太陽が東から上って朝がきて、太陽が西に沈んで夜が来るのか分かりませんでした。

自分たちが分からない問いに答えるべく、ギリシャ神話では、空には太陽の神様がいて黄金の戦車に乗って東の空から西の空に猛スピードで駆け抜けるのだ、という神話を生み出しました。

ユダヤ教が生まれたエルサレムは気候が苛酷で、生きること自体が辛く大変な環境でした。

なぜ、これほど自分たちにとって生きる環境が苛酷なのか、自然は人間に猛威を振るうのか。

その答えとして、ユダヤ教は「原罪思想」を生み出しました。

人間は生まれながらにして罪を背負っており、神(=自然)に罰せられて当然の存在なのだという思想です。

 

「答えの分からない理不尽な状況」というものに、人は耐えきれません。

理不尽な状況に対して自分が納得できる答えを得るために、人は物語を生み出してきました。

「理不尽な状況に意味を与えることによって、人の心を慰め癒す」

それが「物語」が生まれた理由であり、本来の意義です。

 

科学が進歩した現代では、例に上げたような問いに対して、宇宙の仕組みや自然環境の仕組みを説明することで、「物語」を生み出さなくても納得がいく答えを得ることができます。

しかしその一方で、科学や論理では決して答えられない答えもたくさんあります。

 

例えば、大切な人を不慮の事故で失った人や、不治の病で余命を宣告された人などがそうです。

まったくの赤の他人が、「そういう可能性は誰にでもあるよ」という運命論を語ったり、「あなたの大切な人の車に追突した人は、飲酒運転の常習犯だったらしいね。もっと、厳しく取り締まるべきだ」「何の罪もない人を殺した人間は死刑にすべきだ」と解決策や物事の整合性(のようなもの)を語ることは簡単です。

 

大切な人を失った人や不治の病で余命が少ない人が発する問いは、

「誰にでも可能性があるのに、なぜ、その中でもよりによって自分が(もしくは、自分の大切な人が)そういう目に合ったのだろう」

であり、「自分自身のためだけの」答えが欲しいのです。

 

どれだけ社会が進歩しても、その人ひとりだけに対する答えを科学や論理で語ることはできません。

もっと悪いことには、社会が進歩すればするほど、こういった問いに対して「答えたつもりになる」ことが増えると思います。

「答えたつもり」は答えないこと以上に、問いを発した人間の心を傷つけ閉ざします。

 

直接的な答えは、答え手の個別性を強く反映するものなので、質問者の心に対して有効に働かないことが多いです。

言い方を変えると、質問者は「自分の物語についての回答」を聞きたいのに、直接的な答え方だと「回答者自身の物語を語ってしまう」ため、質問者を納得させないことが多いということです。

 

様々な境遇の人たちが抱く問いに対して、自分だけの答え(=物語)を見出すことができる装置であること、が「物語」の重要な意義だと思います。

 

直接的な答えにできないことがなぜ、物語にはできるのか。

 

「物語」は直接的に答えを提示するのではなく、読んだ人間が物語に自分自身を反射させて、そこから読者自身が自分に必要な答えを探し当てるからです。

物語に自分個人の問いを照射して、自分のあてた光に照らし出された物語を自分だけの答えとして受け取る。

 

どれだけ多くの人が自分の問いを照射して、納得のいく答えを受け取ることができるか、

どれだけ深い問いの照射に耐えきれて、納得のいく答えを導き出せすことができるか、

それが「その物語が物語として優れているかどうが」を判断する目安になると思います。

 

「物語性」は、絵画や歌や音楽にもあります。

「千の風になって」や「牧牛図」は、非常に優れた物語だと思います。

 

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(引用元:http://www.miraidenshi-tech.jp/blog/3671/

 

 白い物語と黒い物語

物語というのは、優れていればいるほど、「今までの人生で誰も答えてくれなかった問いに対する、自分のための答えが書かれている」と多くの読み手に思わせます。

それが「物語」の呪縛性です。

優れた物語は、書き手がまったく意図していないにも関わらず、強力な呪縛性を発揮することがあります。

有名なのは、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」でしょうか。

ジョン・レノンの殺害犯が事件直前まで、この本を読んでいたことでも有名です。

 

「物語」は、ある特定の人間の人生を変えるほど強力に作用してしまうことがあります。

本来、白でも黒でもない物語が、読み手によっては呪いとして作用し、黒い物語になってしまう典型例だと思います。

 

人を騙す道具として、黒い物語を語る人間もいます。

「ご先祖さまの供養をしていないから、あなたは今こんな状態なのですよ。だから、供養のためにこれを買いましょう」

などといって物を売りつける、商法がその典型です。

そのとき聞き手の状態が、何かの回答を求めていない状態ならば何の問題もありません。

「ずいぶん、古典的な騙しの手口だな。こんなのに引っかかる人間がいるのか?」

で終わりでしょう。

 

しかし、自分の問いに対して切実に、どんな答えでもいいから回答を求めているとき、人はこんな見え透いた手口にすら引っかかります。

またこの黒い物語に支配されると、人は「正当な無差別殺人」や「自爆テロ」など普通の倫理観や価値観では考えられないこともやります。

人は「自分の物語がない」状態に耐えられないからです。

どんなに呪いに満ちた真っ黒な物語でも、物語が何もない状態よりはマシなのです。

黒い物語を語る人間はそのことを知っているので、巧妙に物語を語り、人を支配します。

 

ネットで、「物語の語り手」が陥りやすい罠

最近、知ったのですが、以前、話題になった「京大出て専業主婦なんてもったいない、という人は、じゃあわたしが何をすれば許してくれるのか」の記事の方は、ブログをやめてしまったみたいですね。

主もこの記事を読んだ身として、色々と思うところがあります。

 

この件なども含めて、特にネットで「物語の語り手」が陥りやすい罠について語りたいと思います。

長くなりそうなので、次回の記事で書こうと思います。

ライ麦畑でつかまえて

ライ麦畑でつかまえて

 

 野崎孝訳と村上春樹訳、両方読みましたが、読んだ印象がまったく違います。

翻訳は、重要ですね。