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うさるの厨二病な読書日記

生涯中二の着ぐるみが、本や漫画、ドラマなどについて好きも嫌いも全力で語ります。【ネタバレ前提です。注意してください】

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【読書】連合赤軍事件は「オタク」が起こした事件だった?  大塚英志「「彼女たち」の連合赤軍 -サブカルチャーと戦後民主主義ー」の感想 

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この本の内容

題名を見ると「連合赤軍事件関連の本かな」というイメージですが、どちらかと言えば副タイトルが表すサブカル論の比重が強いです。

サブカル論の枠組みの中で、サブカルチャーという分野が興隆する直前の時代に起こった連合赤軍事件を語るという大変面白い試みをしています。

著者の大塚英志は、漫画「多重人格探偵サイコ」の原作者として有名です。

いま見たら、24巻で完結したらしいです。7巻くらいまでしか読んでいない…。 

 

本書で大塚英志は「若者の自己実現や自己表現の手段が、学生運動からサブカルに移り変わった」というような論も展開しているのですが、主もこの意見に賛成です。

結局、「学生運動」も「共産主義思想」も、その時代の若者の自己実現の道具に過ぎなかったのではないか、そう思います。

それが今の時代はアニメや漫画、ゲームなどのサブカルにとって代わったのではないかと思います。

連合赤軍の言動を今の時代でやれば、ネットで「厨二乙www」と言われたことでしょう。

 

本書は連合赤軍事件だけではなく、オウム事件改憲運動、村上春樹エヴァンゲリオン宮崎勤永山則夫の自我形成の違いなど様々なことに言及しています。

連合赤軍事件」については、事件そのものの記載はほとんどありません。

事件の経緯を知りたいのであれば、当事者たちの書いた本のほうがおすすめです。

事件の詳細を知ったうえで興味を持った方には、たいへんおススメの本です。

主も連合赤軍事件の本は何冊も読みましたし、映画なども見ましたが、大塚英志の解釈は類をみないほど斬新な解釈だと思っています。

 

連合赤軍事件について

この事件は色々な要素を含んでおり、他の事件の類似点もいくつも指摘されています。

どんな人間でも持つ、最も根源的な悪があらわになった事件だと思いますので、必ず後世に残さなければならない事件のひとつだと思っています。

この事件であらわになった「誰もが持つ根源的な悪」というのは、

「正しいことのためらならば、他人をコントロールしても構わない」

という発想だと思います。

このコントロールの中には、「心身を傷つける」「主体の形成に(強引に)関与する」「行動を制限する」「自尊心を破壊する」などが含まれます。

 

他人をコントロールすること……ましてや行動だけではなく、他人の思想や心を暴力的にコントロールすること……これはどんな理由があれ、絶対にやってはいけないことだということが、連合赤軍事件の最も大きな教訓だと思っています。

ひるがえってみれば、昨今もそんな事件ばかりです。

ISもそう、オウムもそう、相模原の事件もそう。

「正しいことのためならば、他人を傷つけても構わない」

「正しい方向性に導くためならば、他人のことをコントロールしても構わない」

前者は極端な発想ですが、後者は日常生活でもよくあります。

 

連合赤軍事件においても事件発生前の活動の段階で、「もし、彼女が組織活動をやめると言ったら、殴ってでもとめようと思っていた」という発言をしていた人が組織内にいました。(この発言をした人は、事件には参加していません。)

事件の土壌として組織内に、「正しいことをさせるためならば、相手を殴っていうことをきかせても構わない」という発想があったということです。

 

連合赤軍事件は起こるべくして起こった事件だ、ということができると思います。

 

大塚英志連合赤軍事件論

本書での大塚英志の主張の面白いところは、時代とともに移り変わってきた女性の意識に注目している点です。

 

連合赤軍事件に参加した女性たちは、1970年代から本格的に始まる「消費社会」で「消費による自己実現を求め出す女性」のはしりであった。

それに対して、前時代の家父長的な制度の発想で生きている男性たち、(自分が正しいと思うことのためならば、殴ってでも相手に言うことをきかすという発想の男性たち)、この二者の対立ですらない……ディスコミュニケーションがまず根底にあった。

そもそもまったく言葉が通じ合うことすらない、この二者が新左翼言語で「通じ合っている」と錯覚している状態が、土台としてあった。

 

それに対して主犯格の森恒夫は他の男性たちとは違い、1980年代に出現した「おたく」と呼ばれる人間に感性としては近かったのではないか。

そしてもう一人の主犯格永田洋子は他の女性たちと同じように自己実現を求めていたが、他の女性たちがバブル期に代表されるような「消費による自己実現」を潜在的に求めたのに対し、永田は少女漫画のごとき「男性に全肯定されることによる自己実現」を求めていた。

 

「消費社会で消費によって自己実現する女性たち」「戦前からの家父長制度的な発想に生きている男性たち」「オタクの森」「乙女ちっくな永田」

 

本来ならば、何ひとつ相容れず話すら通じないはずのこの四者が、新左翼言語という共通言語で話しているために、「お互い分かりあっている」と思ってしまった。

 

「オタク的感性の森」&「家父長制度による支配原理を持つ男性陣」VS「女性性を男性の力を借りずに、自己実現させる方法を模索した女性たち」

この構図に、「男性に存在を肯定されることによる自己実現を求めた永田」が加わり、男性側に加担した。

この辺りが連合赤軍事件の主因のひとつではないか、というのが大塚英志の主張です。

 

主は連合赤軍事件の主因は、小難しい共産主義思想などとっぱらえば、結局のところ、

野合した二つの組織の主導権争い、対男性を巡る女性同士の主導権争い、殺人が続いたあとはメンバー全員の相互不信が原因だと思っています。

ただ、「総括」のそもそもの発端が遠山美枝子に対する批判であったことに注目して展開された、この大塚英志の論はとても面白かったです。

 

特に永田洋子論は、とても秀逸です。

植垣康弘が「永田さんは、そのときに頼りにしている人の考えを、そのまま自分の考えのように話す」という風なことを言っていたように、「とても従順でかわいい女性」だったのではないかと思います。残虐な事件の主犯格として裁かれた人に対して、こういう言い方は何ですが。

だから革命左派時代に川島豪(革命左派の指導者)に利用されながらも何も言えず従い、「女性が妊娠したら、活動のために中絶しなくてはならない」という人権もへったくれもない組織の方針にも従い、川島のどんな理不尽な所業にも抗議しない坂口弘と結婚したのだと思います。

 

「自分の考えがない女性(パートナーの考えが、自分の考えになってしまう女性)」

 

個人的な感想ですが、こういう女性は今の時代も多いです。

だからなのでしょうか? 永田洋子の手記は坂口弘の手記などに比べて、事件への実感のようなものが薄いです。

大塚英志はそういった中で事件の主犯格になった永田に、同情のような言葉を寄せています。

 

「ぼくが永田洋子という女性をある意味であわれに思うのは、彼女が自らの中の「女性性」に強い禁忌を課し、自分で自分を抑圧してしまっている点だ。(P84)

彼女が欲しているのは、外見ではなく彼女の内なる「心や魂」を肯定してくれる男性である。(P54)

塩見(孝也)は、永田の「心や魂」の問題を「外見」(容貌)に還元してしまう。(P56)

 

 

逮捕後に「永田の自己批判を援助するために」、永田洋子に「自分が思い描く通りの自己批判書(永田の生い立ちや容貌に事件の原因を求める)」を書くように強要した塩見孝也赤軍派の幹部)を、大塚英志は強い口調で非難しています。

主もまったく同意見です。

塩見が永田に対して行ったことは、永田たちが山岳ベースで行った「総括」の論理とまったく一緒です。

 

「正しいことのためならば、相手の生命も人権も自我も自尊心も全て破壊して構わないし、暴力的な言動で、他人の主体の形成に関与して構わない」

 

事件の前から自分たちが当然のように持っていたこのような発想こそ、連合赤軍事件が起こった原因である、ということに、なぜこの人たちが気付かないのか、不思議で仕方がありません。

 

森恒夫という人物

大塚英志は、なぜ、森恒夫が後世に出現する「オタク」と呼ばれる人種に連なる人物であると考えるのか、ということを次のように語っています。

 

森恒夫における「母」の喪失とそれ故の母胎的なるものへの畏れと執着は、同じように八十年代を生きた「おたく」や「新人類」と当時名付けられた感受性のある部分と通底するように思える。

 

ここから「二次元の登場人物に性欲を向けるオタク」と、彼らは実際の女性には何もしていないのに、これを批判する「フェミニスト」とのディスコミュニケーション具合が、左翼運動を中心とした女性陣と森とのディスコミュニケーション具合に重なるという論を展開しています。

賛否はともかく、この論もなかなか面白いです。

 

ただ主は、森に関しては大塚英志の「森=オタク論」よりも、坂口弘が自著の中で紹介していた評論家の意見のほうが的を得ているような気がします。

ソースが手元にないので意訳になりますが、

「森は、自分の作った観念の中だけで生きている人。実際の物事や実際の人間が、本当の意味で彼の関心ごとになることはない。山岳ベース事件も極論をいえば、森の観念の中でだけで起きた事件だったのだと思う」

たぶん、そういう人だっただろうと思います。

よく考えると、この評も「オタク」と呼ばれる人に多い感覚のような気もします。

 

森自身も事件後、「自分が気が狂っていたとは思えない。それどころか、(山岳ベース事件のときは)人生で一番、色々なことを考えていた」と語っています。

 

「他人の痛みなどの実際的な物事にはほとんど関心が向かない、観念の世界で生きている人間が、総括による革命戦士化という観念を思いつき、それを実行する場を得てしまった」

 

そう考えると森恒夫がトップに立たなければ、あれほど凄惨な事件はおこらなかったかもしれないとも思います。

 

 まとめ

連合赤軍事件を知った当初、一番恐怖を覚えたことは、

「自分もちょっとしたきっかけで、殺す側にも殺される側にも回ることがありうるのではないか」

「これほど残虐なリンチ殺人だが、自分の日常の延長線上でもありうる事件なのではないか」

ということです。

山岳ベースの事件の参加者の中には、普通に大学生活を送っていてたまたま呼ばれたというメンバーもいました。

そもそもこのころ行われていた「学生運動自体が、若者の自己実現の道具にすぎず、現代のサブカルと呼ばれる分野に当たるものなのではないか」という論を前提とするならば、彼らにとっては日常の少し先にこの事件が待ち構えていたという感覚だったのではないでしょうか?

永田や坂口弘が所属していた革命左派はもともとはそれほど過激な組織ではなく、川島豪がトップになってから、行動がどんどん過激化していきました。

組織を中心とした人間関係もできていたので、なかなか組織から抜ける踏ん切りがつかなかった様子、もともとはサークル活動のようだった組織運動がどんどん過激化していく様子など見ると、自分だったら既存の人間関係を断ち切ってでも組織をやめられただろうか、と考えさせられます。

 

これは連合赤軍事件と構図が良く似ている、北九州監禁殺人事件などにも言えると思います。(あちらは親族ですが。)

「危ない」と思った段階で、自分や家族を守るために、親族などの人間関係も断固として断ち切れただろうか。

そもそも「危ない」などと考える前に、気づいたら深みにはまっていることがほとんどなのではないだろうか。

平穏な日常にぽっかりと空いた黒い穴、そんなものを想起させる事件です。

 

もうひとつ、この事件の感想などを見ると「自分が下部のメンバーであったとき、やはり逆らえず殺す側に回ったのではないか」という感想を見ることが多いのですが、主は「自分が森恒夫の立場に立ったとき、同じようなことをやってしまうかもしれない」という恐怖を覚えます。

 

「自分が絶対的に正しいと信じる価値観や信念と他者の痛みが対立しているとき、後者を優先できるだろうか。正しいことなのだから仕方がない、と思わないだろうか」

 

「現実の世界のことが感じられず、観念の世界に生き、その中で正しいと思ったことを行った森」

彼は逮捕されたあと、自分が山岳ベースでメンバーたちにしたことを社会からされることによって追体験します。

このころの社会の空気を永田洋子は、「社会全体が有形無形の形で、森さんに死ぬことを強いていた」と評しました。

恐らく罪悪感からではなく、その圧力に負けて森は自死しました。

自分を取り囲む人間全てから否定されて生きられるほど、人間は強い生き物ではないことを、森自身が証明しました。

自分の全存在を否定されることがどれほど残酷なことかを、追体験したわけです。

 

これほどむごく残虐な事件が、自分たちの日常生活の少し先にある。

それを防ぐためには、どれほど正しいと思うことを言う人間に対しても、「自分をコントロールすること」を許してはいけない。

そして、自分もどれほど正しいと思う意見でも、それをもって他者をコントロールしてはならないということを感じました。

 

連合赤軍事件が起きてから50年近い月日が流れましたが、似たような事件が何度も起こっています。

そういう事件を見るたびに、いつもそう思います。

「彼女たち」の連合赤軍―サブカルチャーと戦後民主主義 (角川文庫)

「彼女たち」の連合赤軍―サブカルチャーと戦後民主主義 (角川文庫)