うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

創作物において、物語はどう作るべきか。

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小説、漫画、ドラマ、映画などの媒体を問わず、創作物において物語をどう作るべきか考えてみました。

物語を発信したことはないので、一介の読み手の意見であることをご承知いただければと思います。

 

ドラマ「そして、誰もいなくなった」の何をそんな批判しているのか?

現在、日曜日の22時半から放送されている日本テレビのドラマ「そして、誰もいなくなった」の感想記事を書いているのですが、クソみそにけなしいます。

楽しんでみている方には大変申し訳ないのですが、自分はあのドラマの物語の構成の雑さに非常な憤りを感じています。

 

最新話第6話の感想はコチラ↓ 

*批判的な内容なので、閲覧は自己責任でお願いします。

saiusaru.hatenablog.com

 

今までにさんざん批判しているのですが、今一度、ドラマ「そして、誰もいなくなった」の何にそんな不満があるのかを述べながら、創作物における物語の構造とはどういう風に作るのかということを考えてみたいと思います。

 

自分が考える物語を構成する二本の柱は、

①登場人物の造形

②物語のあらすじ

この二つです。

 

両方とも物語の両輪とも言うべき大切な要素ですが、物語全体の基盤となるのは、①のほうだと思います。

 

人物は、ひとつの人格として統合されていなければならない。

 

これが人物を描く上での、絶対条件だと思います。例え傍から見て矛盾があろうとも、人格というのはその人物の中では必ず統合されているはずです。

より正確に言うと、その矛盾も全て内包したうえで統合されているのが「人格」というものです。(これが統合されていなくて、人格的に規則性のない行動をするのが統合失調症という病気です。)

名探偵エルキュール・ポアロが言うように「どんな人間も、自分の人格にない行動はできない。自分の固有の性格から逃れることはできない」と思います。

人間の行動というのは、

 

人格 → 理由 → 行動

 

という風に、人格から生まれ出た思考なり打算なり感情なりに基づいて行動します。

その人物の全ての行動は、その人物の人格から派生したものでなければならない、ということです。

だからある程度、キャラクターが動いているのを見ていれば、「このキャラクターのこの行動は、こういう考えやこういう理由やこういう感情からだな」ということが分かり、そういう数々の言行から帰納して、人格を想像します

そしてその想像した人格から演繹して、キャラクターの行動法則が分かるようになるのです。

この作業を繰り返して「このキャラクターはこういう人格を持っているんだ」と、そのキャラクターを一人の人間として理解するのです。

 

ところが「そして、誰もいなくなった」というドラマは、登場人物の誰一人として人格を類推することができません。そのキャラクターが何が目的で、何を思ってその行動をするか分からないから、行動から人格を導き出すことができないからです。

 

例えば、

新一は何故、事件の黒幕を追求しないで唯々諾々と黒幕の要求に従っているのだろう?

日下はともかく、なぜ、馬場や砂央里と抵抗なく共同生活ができるのだろう?

なぜ万紀子にだけ、ウィルス付きの電子メールを送ったのだろう?

なぜ、馬場に小山内を殴って拉致するように頼んだのだろう?(まだ、確定ではありませんが。)

なぜ、早苗が自分の子供を身ごもっているのに、連絡しないのだろう。

 

新一の第6回の行動だけで、これだけ疑問がわいてきます。

この行動の理由を全て満たす新一の人格が、少なくとも自分は想像ができません。

分かりやすいように早苗の件だけに絞って話すと、新一が早苗を裏切ったと新一が思った根拠は、はるかに見せられた写真だけです。(五木の言動は、具体的な行動に話が及んでいないので根拠にはなりません。)

そのとき、新一ははるかが自分を陥れる片棒を担っていたのではないかと疑っていました。しかも、新一はミス・イレイズの開発をするような天才プログラマーの設定のはずです。

「自分が疑っている女から見せられた一枚の写真を鵜呑みにして、長く付き合った婚約者が裏切ったと信じて、自分の子供を妊娠しているのに話し合いどころか、連絡ひとつしないということか?」

自分の中では五木ばりに最低の男か、残念なほど頭が弱くて騙されやすい男性としか思えないのですが、新一って頭のいい天才プログラマーなんですよね????

でも、早苗も自分を陥れた一味とつながっているかもしれない、そう疑って連絡しないということですか??

そんなに疑い深い性格なら、正体不明の馬場とか砂央里とあんなに楽しそうに共同生活しねえだろうが。

 

「自分の子供を身ごもっている女性を、写真ひとつを信じてほったらかし」

「一か月前に知りあった、正体不明の奴らと共同生活して疑似家族ごっこ」

「大学時代の親友を、話もせずに暴行監禁するように頼む」

「頭がよい天才プログラマー」

「その割には、田嶋や五木の正体が見抜けない」

 

これ全部を満たす藤堂新一って、どういう人物なんですか????

第1回から見ているのですが、ぜんぜん分かりません。

頭がいいのかバカなのか、優しいのか冷たいのか、信じやすいのか疑い深いのか。

まったく統一性がないので、唯一の納得がいく答えが「その場のみの反射で動く節足動物に違いない」だったのです。

 

新一のみを例に上げましたが、「そして、誰もいなくなった」は主要登場人物ほぼ全員がこんな感じです。

はるかの自殺の原因はなんですか?

新一に振られたから??

でも、そんなの十年前からそうですよね?? 何で今さら?

死ぬほど好きなら、十年前振られたときにとっくに死んでませんか??

だからここに何か他の要素が加わらないと、今になって突然、新一に執着しはじめ自殺までするのはおかしいです。

 

人格が分からない人間たちの物語なんて、行動原理が分からないのですから、「何でもアリ」です。全部、昆虫と一緒です。

昆虫の物語を見せられたって、面白くないです。

 と言いたいところですが、昆虫のほうが習性があるからまだマシだと思います。

 

「人物設定」と「物語構成」どちらかを捨てる。

人物を彫り上げれば掘り下げるほど、物語を展開するのは難しくなります。

人物を掘り下げれば、その人物の「行動原理」が細かく設定されてしまうので、「この人物がこんなことを言うのはおかしい。(こんな行動をとるのはおかしい。)」という風に、その人物を使って物語を展開させるのが難しくなるからです。

そのいい例がコチラの漫画↓

アカギ?闇に降り立った天才 33

アカギ?闇に降り立った天才 33

 

 「人物設定」と「物語構成」は、物語の両輪でありながら、コチラがたてばアチラがたたずというものです。

この二つを両方、掘り下げるのは至難で、この二つとも優れている物語を生み出すということは、一部の天才のみがなしえることだと思います。

「そして、誰もいなくなった」の惨状を見るにつけ、そう思います。

 

一部の天才が作った作品例がコチラ↓

HUNTER×HUNTER モノクロ版 33 (ジャンプコミックスDIGITAL)

HUNTER×HUNTER モノクロ版 33 (ジャンプコミックスDIGITAL)

 

 

「人物」か「物語」かどちらかを捨てるという手法をとる作家もいます。

どちらかを捨てても、もう片方が高レベルを保っていれば、創作物は十分面白くなりえます。

 

例えば、「ライ麦畑でつかまえて」で有名なサリンジャーは、「物語」を作るのがうまくないので、そもそも初めから物語を作ることを放棄しています。サリンジャーの「フラニーとゾーイ」は、そもそも物語と呼びうるようなものが存在しません。

「恋人の俗っぽさに傷ついた妹を、兄が説教する話(というか場面)」これだけです。

妹に対して兄が説教するシーンをただ見せられるだけなのですが、「フラニーとゾーイ」は素晴らしい名作だと思います。

 

また綾辻行人やアガサ・クリスティーは登場人物をステレオタイプにすることで、多くのバリエーションのミステリーを生み出してきました。

特に「本格物」と呼ばれるミステリーは、「物語最優先で登場人物を記号化する」手法と相性がいいです。

この「登場人物を記号化する」ことに、エラリー・クイーンは「人間が描けていないのではないか」と悩んで、ミステリーではなく人間性を重視する作品を発表するようになります。(後期クイーン問題)

恐らく「物語最優先派」は、常にこういう葛藤と戦いながら物語を生み出していると思います。

確かに人間が描けていなければ、「底が浅い」「しょせんエンターテイメント」という批判を受けやすいと思いますが、読み手を楽しませるエンターテイメントを描けるというだけで、十分素晴らしい才能だと思います。

 

自分は色々と文句は言いますが、物語をまったくのゼロから作り上げることがどれほど大変なことかは想像がつくつもりです。

村上春樹も言っていましたが、「どれほどたいしたことがないように見える物語でも、まったくの無からひとつの物語を作り上げることは大変なことだ」自分もそう思います。

読み手としての自分の願いは、ただ面白くて素晴らしい物語を見てみたいそれだけです。

 

今までいくつもの素晴らしい物語に出会い、時には強い影響を受けたり、時には支えてもらったりしてきました。そのときの感動を忘れることができず、素晴らしい物語を見てみたいという期待が強すぎるのかもしれません。

どれほど頭にきても、この期待を捨てることはないと思いますので、これからも素晴らしい物語が見れることを願いながら、小説やドラマ、漫画を見続けたいと思っています。