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うさるの厨二病日記

生涯中二の着ぐるみが、本や漫画、ドラマなどについて好きも嫌いも全力で語ります。【ネタバレ前提です。注意してください】

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善意や好意、正しさは、他人に何かを押しつけるときの免罪符にはならない。

うさるごと 黒々しく毒々しい本音

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先日、とても考えさせられる出来事に出会った。

 

Aさんが、自分の主義主張をする記事を書き、その記事に賛否両論が分かれる意見が寄せられた。

Aさんと交流があったBさんが、自分なりにAさんを擁護する記事を書いたので、「それを読んでくれたか?」と、Aさんに聞いた。

Aさんはトラウマがあり、そもそも「その話題の記事を、見ることが辛い」というのが元記事での主張だったので、Bさんに「その話題自体に触れるのが辛い」「今は読む気がしない」という旨の返信をした。

それに対してBさんが、Aさんのことを揶揄するような表現の返信を送った。

そのあとAさんはBさんが書いた記事を読んだが、内容がAさんの抱える問題を軽く見るようなものだったため、(Aさんがそう感じたために)二人の仲が非常にこじれた。

 

そういう内容のものだった。

何年も前の話だし、当事者間でキレイに決着がついているようなので、細かい内容については、今さら第三者である自分がとやかく言うようなものではない。

 

またこんな事例もあった。

 

Cさんが、自分が受け入れがたい特定のテーマのをよくネットなどで、強制的に目にさらされることが辛いということを言った。

Dさんがそれに対して、「周りの人間が不幸であるより、幸せそうにしているほうがいいじゃないか」というような返答をした。

Cさんが「自分はそういう考えではない」という主旨の反論をした。

Dさんがそれに対して、「私も昔はそうだったから気持ちは分かるけれど、人は変われる」という返答をした。

 

「それが善意や好意である」「こういってやることがその人のためになる」「これが正しいことなのだ」ということを免罪符にして、他人に自分の思う通りの思考なり行動なりを強制しようとする人間が一定数いる。

自分は「この世の中で、どんな人間が一番嫌いですか?」と聞かれたとき、こういう人間を真っ先にあげる。

まだしも自分の身勝手な欲望や悪意から、何かを強制してくる人間のほうがマシなくらいだ。(どっちも嫌いだが。)

 

前者の事例のほうは、Bさんが書いた記事を読むか読まないかはAさんの自由である。

例え、Bさんのほうで「Aさんを擁護するために書いたのに」という思いがあったとしても、その好意を受け取るか受け取らないかは、当然のことながらAさんの自由である。

 

「他人から差し出されたものを、受け取るか受け取らないかは、受け取り手が自由意思で決めることである」

 

本来、当たり前のことである。

ところがこれが「好意や善意から」と思っている場合、「受け取れよ。好意や善意を断る気か?」と「何で受け取らないんだ?」と差し出し手が圧力をかけてくることが非常に多い。

断られたときに、露骨に気分を害した表情をしたり、「なぜ受け取らないのか?」と執拗に受け取るよう迫ってくる場合もある。

 

「善意や好意ならば受け取ってもらって当然」教は、何なのだろう??

 

こういうことをされると、受け取り手は罪悪感を刺激されるので、「せっかくの好意なんだし」と受け取ってしまう場合が多い。

そして、どんどん自分にとって本意ではない思考や行動をさせられて、息苦しさを感じるようになる。

差し出し手は相手に強烈な負荷をかけておきながらそれに気づかず、「自分はいいことをした」と自己満足に浸っている場合が多い。(そういう自己満足を得ることが、こういう人間の目的であると自分は考えている。)

 

リアルでもけっこう多い。

自分が使わないものや、いらないものをやたら人に与えようとする人間がけっこういる。こちらが断ったらすぐに引っ込めるなら別にいいのだが、「いらなかったら捨てていいから」などと言い出す人間がいる。

自分が捨てればいい。

「捨てる」ときに生じる罪悪感を感じたくないからと言って、人に押しつけるなど言語道断だと思っている。

 

その底に見えかくれするのは、「せっかくあげるって言っているのに」「タダなのに、何で文句を言うんだ?」という不満である。

それを受け取るか否かを決めるのは、「その行為が、好意や善意から発生したものであるかどうか」や「タダかどうか」ではなく、ただ一点、「自分が受け取りたいかどうか」だけだ。

自分は受け取りたくないときは、はっきりそう言うことにしている。

 

「人間の行動や思考は、ただ本人の自由意志によってだけ決定される。他者がコントロールしようとしていいものではない」

 

こういう当たり前のことを認識していない人間が、けっこう多い。

 

そして、そういった「善意や好意の強制」が受け取り手にどれほどの苦痛を与えるかまったく気づかず、悦に入っている。

断られるのがイヤであれば、最初から差し出さなければいい。

 

前者の事例のほうは、Bさんが誠意をこめて謝罪した。

その謝罪文を読んだ限りでは、BさんもAさんに自分の考えを一方的に押し付けていたということに、気づいたのではないかと思う。AさんもBさんの謝罪を快く受け入れて、事態は収束している。

 

後者の事例のほうは、前者以上にひどい。

「周りの人が不幸であるより、幸せであるほうがいいじゃないか」

これは多くの人が賛成したくなるような、倫理的な正論である。

しかし、もし、自分が不幸のどん底にいるとしたら、自分が苦しみを味わっているとしたら、そう思える人がどれだけいるのだろうか??

 

相手がどういう歴史を歩んできて、どういう環境で生きてきて、どういう状況のどんな人かも知らないのに、その人の感情や環境をまったく考慮せずに、(知ろうとすらしていないのに)口当たりのいい正論で相手の主張を封じ込めることは、暴力に等しいと自分は考えている。

 

一般論や常識で、個別の事情を封じ込める。

 

Dさんのさらにひどい点は、Cさんに対して「自分も昔はそうだった」というようなことを言ったことだ。

 

「私も昔はCさんと同じようだったから気持ちはわかるけれど、今は変わった。人は変われる」

「自分が変われたのだから、あなただって変われる。(変わることはいいことだ。)」

 

一段上からの、正しさの押し付けである。

この論法は使う人をよく見るので、言われた経験がある人も多いんじゃないだろうか??

 

こういう論法を使う人は、プライドが高い人が多く、もはや相手のことなどどうでもよく、自分のプライドを守るためだけに相手を利用して説教をしているだけである。

「今のあなたには分からないだろうけれど~~」(今のお前には分からないから、どんな反論をしても無駄)

人を殴っておいて、殴り返されそうになると、一段高みに上がったふりをして逃げ出す人間。「善意の人間」ぶって、自分が傷つきそうになると、他人を一段下に引きずり下ろす。他人のことなど、本当はどうでもいいのだ。

 

仮に昔の自分と似たような言葉を吐いていたとしても、その根っこにある感情は人それぞれまったく違うものであるはずである。歩んできた歴史が違うのだから。

そういう相手の事情をまったく理解しようとせず、自分固有の経験則から正論を作り出し、まったく違う人間であるはずの相手に押し付けて、話を収束させようとする。

最低な方法である。

 

このブログでも過去に紹介した「彼女たちの連合赤軍」の中で、著者の大塚英志がこんなことを書いている。

 

自分の言説が他人のためになる、という願望、それによってぼくたちは他者に言説を投げつけることを自分に許容する。(中略)

ここに見られるのは他人の「主体」の形成に自らが関与できる、という思想である。

                                                (大塚英志「彼女たちの連合赤軍」より)

 

 

「正しいことのためならば、他人の思考や行動をコントロールしても構わない」

というのが、連合赤軍事件の原因となった発想だ。

 

どんな善意でも、好意でも、正しさでも、美しさでも、それを受け入れるか否かを決めるのは本人の意思だけだ。

 

それを「自分が良いと思うから」あの手この手を使って他人に受け入れさせようする行為は、他者の人格や主体への侵害であり、暴力である。(中でも相手の罪悪感を刺激する方法が、最悪だと考えている。)

 

そういう暴力を人に振るっておいて、「自分は正しいことをしている」と考えている人間がこの世にはたくさんいる。

そして、そういった暴力を振るわれながら、「正しいことなのに受け入れられない、自分のほうが間違っているのではないか」と考えている人がたくさんいる。

 

自分は、そういった事象を見るたびにやりきれない気持ちになる。

「どれほど素晴らしいものだと宣伝されても、どれほど受け取らないことで相手に、傷ついたと責められても、自分がいらないと感じるのならば、受け取らなくていいのだ。受け取らない、と言う自由があなたにはある」

声を大にして、そう言いたい。

 

そしてそういうことをふと忘れて、同じように他人に対してこの種の暴力を振るいそうになる自分のことも戒めておきたい。

「彼女たち」の連合赤軍―サブカルチャーと戦後民主主義 (角川文庫)

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