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うさるの厨二病な読書日記

生涯中二の着ぐるみが、本や漫画、ドラマなどについて好きも嫌いも全力で語ります。【ネタバレ前提です。注意してください】

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児童虐待文学なのか? 子供のころのトラウマ ジュール・ルナール「にんじん」

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先日、実家に帰って兄ちゃんと話をしていたら、

「そういえばお前、「にんじん」って覚えている?」

と聞かれた。

「俺、あれがすごいトラウマになっている」

そう言われた。

 

「にんじん」…覚えているも何も、自分は児童文学の中でも一、二を争う名作だと思っている。

 

知らない人のために説明すると、

「にんじん」はジュール・ルナールが自分の子供のころの思い出をもとにして書いた、半自伝的な物語である。

物語全体を貫くストーリーはなく、細かいエピソードが淡々と語られている。

 

「にんじん」は主人公のあだ名である。

髪の毛が赤いからそう呼ばれている。家庭内の物語なのに、主人公は本名で呼ばれず、家族から「にんじん」と呼ばれている。

この設定からして、心ある人に「え……?」と思わせる。

 

家族は別に率先して「にんじん」をいじめるわけではないが、ひどく冷淡だ。家族内カーストでは、露骨に一番下である。

特に母親のルピック夫人の態度がひどい。姉や兄は猫かわいがりなのに、「にんじん」に対しては辛くあたる。

 

エピソードのひとつひとつがエグいし、しかも「うわあ、こういうのある」というくらいやたらリアルである。

 

例えば、「にんじん」はおねしょのくせがあり、おねしょをしないために夜、必ず起きてトイレに行く。トイレに行きたくなったときのために、ベッドの下にはツボをおいておく。当時の習慣では、この中で用をたしたらしい。

ある日、母親がそのツボをうっかりベッドに入れ忘れてしまう。

「にんじん」は夜中に起きて、用を足そうとしたらベッドの下にツボがない……。

「にんじん」は様々な方法を駆使して、必死に我慢する。(また、この我慢する描写がいちいち面白い。)

しかし、努力も空しく、粗相してしまう。(確か花瓶か何か別の場所にしたような記憶がある。)

朝起きた母親は、烈火の如く怒る。

「にんじん」は、「ツボがなかったんだ」と話す。

母親は自分がベッドの下にツボを入れ忘れたことに気づいたが、素知らぬ顔をしてツボを隠し持ってきて、ベッドの中に押しこめる。

そして、「ツボがない!? ここにあるじゃないか!! 嘘つき」と、さらに「にんじん」を罵る。

 

うん、ひどい話だな。母親、クソすぎる。

 

あとは、こんなエピソードもある。

父親が狩猟で獲ってきた鳥を絞め殺す役目が、家族の中では「にんじん」の役目になっている。「にんじん」は、「記録をつけたり、羽をむしったりする方がいいな」とさりげなく言うけれども、いつも却下される。

仕方ないので、鳥を一生懸命絞め殺す。

しかし、ある一匹がなかなか死なない。

みんな、遠巻きにして見ているだけで、誰も手助けしてくれない。

どうしようもなくなった「にんじん」は、足で鳥の頭を踏みつぶす。

鳥は死んだが、家族は全員ドン引きする。

父親は「気分が悪くなった」と言って外に出ていくし、母親は「残酷な子だよ、恐ろしい」とか言い出す。

 

だんだん、書いていて頭にきた。

 

こういうのって、どうしてひどいのかということは大人になったら説明できるのだけれど、子供のころは説明できないから反論ができない。「自分は、残酷なのかな…」と思いながら、怒りや悲しみだけが積もっていくっていうパターンが多い。

 

「にんじん」はこういう、家庭内いじめみたいなエピソードが延々と続く。

 

起こっている事象だけを捕らえると、暴力こそ振るわれないものの精神的虐待に近い。ネットで検索しても、「にんじんって、児童虐待ですよね?」という声が多い。

 

ただ、自分は兄ちゃんやネットの人たちが言う、「自分の中でトラウマになっている」という意味がよく分からなかった。

 

自分は子供のときも「そうだよなあ、にんじんの気持ち、よくわかる」と思っていたし、大人になってから読んでも、「そうだよなあ、子供のころってこんな感じだよな」と思っている。(別に虐待はされていない。)

 

「世の中というのは、理不尽なものだ」という子供ながらの諦めの念と、そんな理不尽な世の中でも、自分のやり方で気楽に生きていこう、みたいな達観した感じが、自分の子供時代の気持ちとそっくり同じだなと思っている。

 

自分は子供のころ、「世の中というのは、まあまあイヤな奴らがいるまあまあイヤなところで、そういう中で、色々なことを適当にやりくりしながら生きていく場所なんだ」と思っていた。

だから子供のときは、中小企業の中間管理職が飲み屋で愚痴を言い合うみたいに「まあそうだよねえ。お互い苦労していますねえ」くらいのテンションで「にんじん」を読んでいた。

自分とほぼ同じ境遇で育った兄ちゃんですら、まったく違う感想を抱くのだから、人間ってやっぱり色々なんだなと今さらながら驚く。

 

「蠅の王」のときも書いたけれど、大人になってから「自分が子供時代に感じていたことや見ていた世界が、周りの人と余りに違う」ことに驚くことが多い。

www.saiusaruzzz.com

 

「まあまあイヤな奴らがいるまあまあイヤな世界」で生きていた自分も、「まあまあイヤな子供」だった。

その辺りも「にんじん」そっくりだ。

 

「にんじん」は小公女セーラのや小公子セディのように、上品で明るく朗らかな子供ではない。

顔はそばかすだらけで頭はぼさぼさで、蓄膿か何かを持っているために鼻水がしょっちゅう垂れていて、それなりに色々とずる賢い。

たぶん、陰気でじとっとしている「余りかわいくない子供」なのだと思う。

この辺りも自分は、えらく気に入っていた。

自分も大人の顔色を窺い、ずる賢くあざとく立ち回り、自分が損をしないようにいつも計算しているような子供だった。(たまに失敗する。)

 

子供の世界での力関係を敏感に感じとり、うまく立ち回り、そんな人間関係に疲れたときには、一人でどこかに閉じこもり、空想したり本を読んだりしていた。

だから「にんじん」が、ウサギにメロンの皮を持っていく役目を押しつけられて、ウサギ小屋でそれなりに楽しそうにしている様子とかすごくよく分かる。

 

自分もクソみたいな奴らと高級メロン食うよりは、一人でウサギと一緒にメロンの皮をかじっていたいわ。

 

自分の中では「にんじん」は「理不尽な世の中で、その理不尽さを特に嘆くでも怒るでもなく、そういうもんだろうと思いながら、淡々と自分なりの日々を過ごす」少年の物語である。

そして、他の文学ではみられない「にんじん」という子供像をとても高く評価している。

虐待自体は許せないし、そういう事件に対して強い憤りを覚えているが、「にんじん」という物語は、「この事象が虐待か否か」ということに着目するのではなく、「生まれたときの環境という理不尽な状況で、色々なことを感じながらも淡々と生きる少年の姿」という点を最も見て欲しいな、と思っている。

 

理不尽な環境を生き、大人や世界の都合に従いながらも、自分独自の世界を作り出せることこそ、大人にはない子供のすごいところだと思うから。

 

にんじん (新潮文庫)

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 にんじんが粗相したう〇こを、母親がスープにちょっとだけまぜて食わせるなんていうエピソードもあるので、トラウマになるのも分からないでもないけど…。

 

ちなみに「にんじん」と児童文学首位の座を争うのは、「飛ぶ教室」。これも大人になってから読んでも面白かった。

飛ぶ教室 (講談社文庫)

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