うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

【はてなネタ】私が炎上から学んだこと。

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前回のエントリーで「炎上」に思いを巡らせていたら、過去の色々な炎上を思い出した。

当時はどれほど大きく燃え上がり延焼しても、いつかは鎮火して忘れ去られる。

でもいくつかの炎上は、自分の心の中に思い出として残っている。そして、その当時とはまた違った角度から、燃えていた過去の風景を眺めている。

当時は思いつかなかった考えや、微妙に変化した心境について語りたい。

 

ごく個人的な、その件に関する思いのようなものを書きたいと思う。

当事者の中には思い出したくないという方もいるかもしれないので、記事も貼らないし、書き手の表記はすべて「筆者」で統一する。

もしかしたら、読んでいる人たちも当時と違う感想があるかもしれない。

 

炎上の定義、特にバズとの違いだが、肯定的な反応よりも否定的な反応が多いものが「炎上」だと考えている。

これも自分の体感で区別しているので、もしかしたら読んでいる人と「炎上」の判断基準が違うかもしれないことを最初にお断りしておく。

 

 

比較的、最近のもの

「新しいゲームが生まれない世界」

絵に描いたような炎上だったが、自分はこの記事で書かれていることに非常に共感した。

コメントの中で多数を占めた内容のとおり

「新しいものを新しいと思えなくなっただけ」「感度が鈍くなっただけ」

その通りなのかもしれない。

この記事は、一見理屈っぽく書かれていながら、ノスタルジックな叙情100%の文なのではないかと思った。自分がそういう気持ちだったから、そう読めるのかもしれないが。

「いや、こういうゲームも出ているし、この前出たゲームはここが新しいじゃないですか?」

そうその通り。それは百も承知。分かっちゃいるのだけれど、初めてゲームをしたときのあの興奮、あの楽しさはもう感じることはできない。

「それは、あなたが年をとっただけでは?」

そう、その通り。その通りなんですけどね…。

 

「名前を呼んではいけないあのお方」

この記事を最初に読んだときは、かなりがっかりした。

コメントで多数指摘されている通り、今までやってきたことのブーメランだし、記事で書かれている言い分もまったく共感できない。

ただ考えてみると、「筆者」と「名前を言ってはいけない人」の知名度の差が、「筆者」の体感とこちらの体感が違うのかもしれないということに思い至った。

自分にとっては二人とも「はてなの有名人」というカテゴライズだけれど(「名前を呼んではいけない方」のはてな外の知名度については、自分はよく知らない。)「筆者」にとっては本当に知名度では「自分よりもかなり上のほうの人」という印象だったのかもしれない。

例えば自分が、「阿倍そーりとかディスったら、保守層を中心に燃えるんじゃないですか?」とツイートして、阿倍総理からいきなり「晒しますね」ときたら、確かに「え???? えええ????」と思うかもしれない。極端なたとえだけれど。

だからと言って、やっていいことではないとは思うが、最終的には他人どうこうよりも自分が気をつけようと思った。

 

「承認の積み重ねによる赦しが欲しい」

上記の関連エントリー。

理屈としてはまったく賛成できないけれど、そもそもこの記事は理屈を語っていない。

理屈では割り切れない感情を訴えているのだと思う。

はてなはこういう情(特に泣き言的なもの)が受け入れられる余地がほとんどない場所だし、そこがはてなのいいところだと自分は思っている。

ただ個人的には、こういうものをまったく受け付けず、「甘えだ」と切り捨てるところが自分という人間の幅の狭さなのかな、と後々反省した。

偏りない目で見れば、自分の心情を素直に吐露した心を打つ文章だと思う。

 

「いい記事とは」

「自分が書いたものが認められないことを、自分の実力以外のもののせいにする」ということは恥ずかしいことだと思っているので、内容については特に何も言うことはない。

ただ「良い記事」とは何だろう?ということを考えたり、色々な人の意見が読めるきっかけになったことは良かった。

「良い記事」って何だろう?

人それぞれ違うとは思うけれど。


 

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キャンプファイヤー

「50円で一日を売る」

後出しが多すぎて、炎上して当然だろうと思った案件。

理屈で負けると「あなたはそれで良心が痛まないのか」などと、相手を人格攻撃するやり方は悪質きわまりないと思った。

「いい人風」にやっているが、自分の主張が通らない理由を相手の人格に帰することは、立派なモラハラだ。個人的にはこの辺りが許しがたいと思ったが、何か言うまでもなく火だるまになっていたのでいいかと思った。

確信犯でやっているのではなくて、心の底から自分が正しいことを言っていると思っている「いい人風な人のモラハラ」は気づきにくく、指摘しづらいだけに本当に悪質だと思った。

 

「女子中学生が不倫について持論を述べた」

ベッキーの不倫問題が世間をにぎわせていたときのエントリー。

どこからか借りてきたような主張をつなぎ合わせた記事で、ところどころ論理が破たんしていた。

完全に炎上狙いだと思うが、周りがうまくのせられてしまった感があった。

その主張の引用元が自分が好きなサイトだったので、個人的にはそれが許せなかった。

  

「日本人男性と付き合わない理由」

炎上狙いの見本のような記事だが、タイトルと比べて内容は普通だったので、なぜ炎上したのかがよく分からなかった。

記事は寄稿文でタイトルだけをブログ主が変更したと聞いたが、寄稿した人はこの結果についてどう思っているのだろう?? ということが一番気になった。

 

「4℃の指輪」

タイトルからしてアレだったのですさまじく燃えていたが、そもそもクリスマスも仕事だったら会わないし、プレゼントもいらないし、アクセサリーも身につけない自分はまったく話題に乗れなかった。

 

「女の子はちょっと不細工で貧しいほうがいい」

名釣り師によって、でっかい釣り針を投げ込まれた案件。

こういうのは、釣られたら負けだと思うが釣られた……。チョロい…。

 

後味が悪かった

「京大卒で専業主婦になった」

今まで見た炎上の中で、一番後味が悪かったもの。

タイトルを見た段階で「釣りだろ」と決めつけてしまい、そのことに今でも心に引っかかりのようなものがある。

「承認の積み重ねによる赦しのようなものが欲しい」という記事があったが、権威ではなく、こういう人にこそ余白や赦しのようなものがあっていいと思う。

確かに「後釣り発言」は良くなかったが…。

タイトルですぐに「釣りだ」と思ったり、「ネットで言論を出したら、どんな結果になろうと自己責任」というネット世界の感覚を標準にして、物の見方が一辺倒になっていた自分を反省した一件。

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人の価値観を傷つけて気づかない人

「レールにのった人生は嫌だ」

2016年大人気だった記事。

大学をやめようがフリーになろうが好きにしていいと思うけれど、就職する人生を「レールにのった人生」と言うのはいかがなものかと思う。

コメントでは考え方の甘さを指摘しているものが多かったが、おそらく自分が経験していないことを想像だけで揶揄して語ったことが、多くの人の癇に触ったのだと思う。

それでいながら自分に批判が返ってくると「自分は何も悪いことは言っていないのに、他人は自分を否定したり批判したりする」と言い出すのはどうにかならないものか。

特にネットでは、どんな言葉であれ発した瞬間に、何かしら否定的な要素を含んでいるという自覚が欲しい。

本当に色々な人がいるのだから。

 

 

戦略ミスではないか

「シンゴジラを見ていて、途中で寝てしまった」

この記事は、例えば小町のような女性層が多いところならば、けっこう楽しく読まれ、賞賛されたのではないかと思う。

あえて主語をデカくして単純化して語るが、「女性よりも男性のほうが熱狂的に好きな人が圧倒的に多い」分野を、女性が揶揄を含んで語ることは非常に危険だと思う。(男性同士でも危険だが。)

過去にそういう例を何個か見たが、その見本のような記事だと思った。(最初は炎上狙いなのかと思った。)

自分が熱中している分野を小馬鹿にされたときの男性の怒りと揶揄への嫌悪感は、すさまじいものがある。

「イジり」というのは失敗すると、一斉に攻撃を喰らう難しい分野だなと思った。

 

なぜ、燃えたのかがわからない。

「この国は若者に厳しい」

思わずクリックしたくなる、タイトルがものすごく秀逸だった記事。煽り気味だが、そのため多くの人の目に留まったのだと思う。

内容はタイトルほど過激ではなく、ずっと問題になっていた非正規雇用の若者の苦しい現状を当事者の立場から訴えたものだ。あくまでこの記事に限れば、いま読んでも真っ当な内容だと思う。

すべてを環境や制度のせいにしているわけではなく、自分でも「努力不足の面もあるかもしれない」と語っている。

一番の問題は、雇用環境や景気が大きく変わったのに、社会制度が高度経済成長期からほとんど変わっていない点にあると思う。

日本は自己責任論の風潮が強いが、戦前は「困窮して国の世話になるくらいなら、娘を売る」人がいるくらい、自己責任論が強かったらしい。国民ですら「官のための国」だと思っているのかもしれない。

現状、どの世代もどの立場の人間も苦しいのは分かるが、声をあげた人をつぶし合うのは結局誰も得しないのでは…と思う。

 

心に残る記事

「自殺のエンタメ化はやめてくれ」

自分はこの「筆者」の記事をたまに読む程度だが、これは名文だと思う。

確かに「この文章そのものが自殺をエンタメ化している人を助長するのではないか」「筆者の影響力は大きいので、対象者を追い詰めることになるのではないか。それはどうなのか」という意見も尤もだと思う。

でもこのマグマのような怒りの前には、すべての理性や論理の力が失われるように感じる。これほどすさまじくやり場のない怒りを放出している文章を読んだのは、生まれて初めてだ。

人を殺せる文章というものがこの世に存在するならば、これが間違いなくそうだと思う。自分に向けての文章だったら、読んだ瞬間に何かの発作で息絶えそうだ。

今でもたまに読みに行くのだが、読むたびに背中がゾクゾクするような恐ろしさを覚える。

そして読み終わったあとに、行き場のない虚しさのようなものを感じる。

 

「悪意を感じる」

上記記事の反論エントリー。

「そもそも親族が自殺した、ということに関してもブログの記事だけでは、本当かは分からない」という点はとりあえずおいておいて、この二つの記事を読んで考えたのは、

「自分が痛みを持っているということが、他人を攻撃する免罪符になるのか」

「自分が持っていない痛みを持つ他人に対して、その痛みに関連するできごとにおいて意見を言うことができるのか」

ということである。

例えば毒親の問題に関して、「毒親ではない親に育てられた人間が、毒親問題に関して毒親を持つ人間の意見に反論ができるのか」ということだ。

これは実際にやると、感情面で猛反撃を喰らう。感情面の攻撃というのは、非常に反論がしづらいし、いわゆる「悪者」の立場に立たされ容赦のない批判を浴びやすい。こういう記事を書く人には、相当な勇気と覚悟がいると思う。

毒親の問題で言えば「こういう奴が毒親になるんだ」というコメントを見たし、よく聞く意見としては「死刑反対というが、お前は自分の子供を殺されてもそんなことが言えるのか」などがある。

でも自分は、当事者以外の人間が感情論で問題を考えるのは、思考停止ではないかと思っている。個別論と総体論は、常に分けて語らなければならない。

自分も個々の内容を聞けば、犯人を八つ裂きにしてもまだ足りないとは思う事件がたくさんある。

でも実際は、被害者にも遺族にもなっていない。

「被害者にも遺族にもなっていない立場」として、自分の意見は語らなければならないと思っている。

例え明日もし自分の身内が理不尽に命を奪われて、今日までとはまるで真逆のことを叫んでいるとしてもだ。

個々人が持つ痛みに関して、赤の他人が完全に理解できることなどないとは思うけれど、それでもできうる限りは理解したいと思う。

でもそれとはまったく別に「その痛みを持たない自分」として、個々の事例では当事者の痛みをできうる限り理解しようと努力しながら、その問題を巨視的に見たときの意見や考えを述べていきたい。

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まとめ

「炎上」が起こる条件をよく考える。

こうやって記事を並べると分かるような気もしてくるのだが、実際のところは「バズも炎上も生き物だな」と思う。

予期せず炎上を起こしてしまった人は、精神的な負担も大きかったと思う。

 

ただあからさまな炎上狙いは除けば、それがどんなに自分とは違う主張であっても考えさせられるものが多い。

また自分は「筆者」の主張が正しいと思うのに炎上している場合もあるので、それはそれで自分とは違う意見が多く読めるので色々考えさせられる。

今回の記事を書くにあたって取り上げた記事の中で読めるものは読み返してみたが、今読んでも色々と考えさせられるし学ぶことが多い。

 

ブログにおける炎上は、多くの人間が深い関心を寄せ、その記事の内容に引き込まれるからこそ起こるということは間違いない。

バズと炎上は紙一重であり、本質的には同じものなのではないかと個人的には思う。

 

ウェブ炎上―ネット群集の暴走と可能性 (ちくま新書)

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ソーシャルメディア炎上事件簿

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