読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

うさるの厨二病な読書日記

生涯中二の着ぐるみが、本や漫画、ドラマなどについて好きも嫌いも全力で語ります。【ネタバレ前提です。注意してください】

follow us in feedly

J・D・サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の本当の恐ろしさ。

【スポンサーリンク】

 

「翻訳(ほとんど)全仕事」を読んだ。

村上春樹の「翻訳(ほとんど)全仕事」がとても面白かった。

村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事

村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事

 

 

本当に「翻訳」が好きなんだなあと伝わってくる。

「横向きに書かれた文章を、よっこらっしょとうまく横向きに代えてしまうこと。そういう作業が僕にとってはなにしろ面白くてたまらないのだ」

翻訳というものがどういう作業で、どういう点に面白さを感じているのかということを話しているのだが、「言葉にしにくい感覚を言語化すること」にかけては、村上春樹の右に出る人はいないんじゃないかと思う。

数ある言葉の中で、どれがこの表現を適切に伝えられるか、という翻訳の仕事は天職だろう。(趣味でやっているけど。)

 

巷で話題になっている「カラマーゾフの兄弟」の光文社版は誤訳かどうか問題、も語って欲しい。

原文が読めないし、センシティブな話題なので難しいかもしれないけれど。

光文社版を読んだら、自分も何か書くかもしれない。

 

この本は翻訳した本のことと、翻訳するにあたってのポリシーが語られている。

「キャッチャー・イン・ザ・ライ」についても触れられている。

「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の翻訳に関しては村上春樹と翻訳家柴田元幸の対談本「翻訳夜話2 サリンジャー戦記」に、詳しく書かれている。これもすごく面白い本で、何度か繰り返し読んでいる

 

閉じた世界で永遠に生きる物語

初めて読んだときは、意味がわからなかった。

自分も野崎孝訳の「ライ麦畑でつかまえて」で、はじめてこの物語を読んだ。

読む前は「大人社会に対する、純粋な子供の反抗を描いた本」というイメージを持っていた。

でもいざ読んでみたら、

「こんなの反抗じゃなくないか? 子供がただ筋の通らない我がままを言っているだけじゃないか」

としか思えなかった。

「大人のこういうところがイヤだ。だから大人になんてなりたくない。大人になるんだったら、子供の見守り役になりたい」

というだけで、「だから自分はこうなる」というわけでもないし、大人に対して明確に汚い部分を指摘して食ってかかるわけでもない。

 

「大人の汚い部分がイヤだ」と言いながら、自分も女の人と遊ぼうとしたり、親ときちんと話さないで逃げ回ったり「一体、こいつは何がしたいんだ?」としか思えなかった。

話としては面白いし、文章のスピード感がすごいなと思いつつも「この本は一体、何が言いたいんだ? この物語に何の意味があるんだ?」ということが、ずっとよくわからなかった。

 

でもこの物語は別に「大人や社会の偽善性に反発する少年の物語」じゃなくて、

ホールデン・コールフィールドという一人の男の子の内面的葛藤というか。「自己存在をどこにもっていくか」という個人的な闘いぶりにあったんじゃなかったのか、ということです。

(引用元:「翻訳夜話2 サリンジャー戦記」村上春樹/柴田元幸 文藝春秋)

と考えると、「あ、なるほど。辻褄が合う」と思った。

そう考えると今までよく分からなかったこと(「何で人を殺すまで影響を受ける人がいるんだろう」とか)がいっぺんに理解できる気がした。

 

「現実のその人」に興味がない人間。

改めて読んでみると、この物語は「閉じ具合」がすごく怖い。

主人公のホールデンは、色々な人と話したり、会ったりするのだけれど、「本当の意味で他人に興味があるのかな?」ということが読んでいると疑問に感じる。

ホールデンの心の内部には、死んだ弟のアリーや初恋のジェーンが生身の人間よりも生き生きと感じられるガラス張りの強固な世界があって、その外側の人間(現実の世界のほとんどの人間)は、ただガラス越しに眺めているに過ぎない。

文章も「きみ」に対して語っている態になっているけれど、そもそも語りが相手の存在を気にしている語り方じゃない。

相手のことなんて気にせず、べらべら好き勝手なことを話している感じがして、この「きみ」も内的世界の存在なんだとしか思えない。(だから精神分析医のいる病院に入れられるのだろうけれど)

 

TV版旧エヴァンゲリオンで「他人から見る自分像と、実際の自分の乖離が怖い。どっちが本当の自分か分からない」という話が出てきたと思うけれど、ホールデンという人はこの「自分が見た他人像」以上は、他人に興味を持たない人間なんだと思う。

だからジェーンも「自分の初恋のジェーン」しか必要としていなくて、今現在の現実のジェーンとは絶対に会わないし、その存在を認めない。

 

「自分が必要とする像以外の、その人自身を見ないし必要ともしない。自分が見たその人像を否定するような、実際のその人がいる場合、自分の中のその人像を修正するのではなく、実際のその人のほうを否定する」

 

文字にするとすごく怖いけれど、やってしまったことがある人も、やられたことがある人もかなり多いんじゃないかと思う。

特にネットはその人の全体像を見ることが難しいので、その人の一面だけを見て「こういう人だ」って思いこんでしまうことはあると思うし、勝手にそう思いこまれて、「あなたがそんなことを言うはずがない」と失望されたり否定されたりして嫌な思いや怖い思いをしたことがある人もいると思う。

ただ普通は「自分の思い込みと実際が矛盾した場合」は、自分の思い込みのほうを修正する。

 

現実と内的世界を、同時に生きる方法

「ライ麦畑」の怖いところは、現実と矛盾しているはずの内的世界を、現実を生きながら永遠に続けられる方法を見つけてしまっているところだ。

この「実際と自分の内的世界」が矛盾しそうになったときに、実際を受け入れることもなく自分の内的世界を修正することもなく、うやむやでやり過ごすことで「ガラス張りの内的世界」を続けることができる。

それがジェーンと会わないことだったり、アントリーニ先生がした行為の意味を深く考えないことだ。

 

「サリンジャー戦記」の中でも「アントリーニ先生って不思議なキャラですよね」ということが語られている。

ホールデンは「自殺した生徒を服が汚れるのも構わず抱き上げた、大人の中でも純粋さを持った人」という「自分の中のアントリーニ先生像」を修正しなくてはならない要素が出てきたとき、それを事実と認めず「何だかよくわからない」と済ますことによって、自分の内的世界を守ったのだろうと思う。

そういう意味では、尊敬していて好意的な気持ちを持っているアントリーニ先生でさえ、ホールデンにとっては「本当はどういう人か」ということは興味の対象にならない。

 

自分の理想(思い込み)と現実がぶつかったときに、現実のほうを認めなければいい。

そうすれば自分の内的世界は、永遠に守られるし、永遠に循環し続ける。

 自分にとって心地のいい、閉ざされた世界で永遠に生き続けられる。

 

「サリンジャー戦記」でも触れられているけれど、この物語の始めと終わりでホールデンは成長どころか、まったく変化していない。こんなに長々と語っているのに、この物語自体が、主人公のホールデンにどんな風にも影響していないし、作用してもいない。

ラストからもう一度、始めに戻ってもまったく違和感がない。

この本一冊で、永遠に循環し続けられる。

 

普通だったらそんな変化も刺激も影響もない、ただグルグル回り続ける世界が面白いはずがない。

どこかで刺激を求めて現実を受け入れる方向に向かうと思うけれど、この本は余りに語りが上手くて、考える暇がないくらい心地よくその内部世界を循環させてくれるので、永遠にグルグル回っていることが可能になってしまう。

 

自分の心を守る方法論を、物語として作り上げた。

自分は出だしは「ライ麦畑でつかまえて」のほうが圧倒的に好きなのだけれど、リズム感あるマシンガントークがすごい。

 

もしも君が、ほんとうにこの話を聞きたいんならだな、まず、僕がどこで生まれたとか、チャチな幼年時代がどんなだったのかとか、僕が生まれる前に両親が何をやってたとか、そういった「デーヴィッド・カパーフィールド」式のくだんないことから聞きたがるかもしれないけどさ、実をいうと僕は、そんなことはしゃべりたくないんだな。第一、そういったことは僕には退屈だし、第二に、僕の両親てのは、自分たちの身辺のことを話そうものなら、めいめいが二回ずつくらい脳溢血を起こしかねない人間なんだ。

(引用元:「ライ麦畑でつかまえて」J・D・サリンジャー/野崎孝訳 白水社)

 

 サリンジャーがなぜ、こういう「現実を生きながら外部からの影響を受け付けず、閉じた内的世界を永遠に循環し続ける物語」を書いたかについては、従軍経験が大きいし、自己治療的な意味合いもあったのかもしれない、という説も読んだ。

実際、精神疾患の中には、自己防衛のためにこういった状態が引き起こされるものもある。

この方法論を、どんな環境下でも有効に機能してしまう「物語」にしてしまった点が、この本の怖いところだ。

 

「対大人、対社会への反抗」どころか、「現実を生きながら、他人が一人も存在しない内的世界を永遠に循環させる方法」を見つけてしまい、それが万人が使えるある種のマニュアルになってしまったとても怖い小説だと思う。

だからこの小説を読んで「自分の内的世界と現実がぶつかったら、現実のほうを修正すればいいんだ」と思って、相手を殺そうという発想になるんだと思う。(それは、この本が悪いわけではない。)

 

安易に真似すると、怖い小説

ネットという世界も「自分の見たくないものは見なくていい」世界なので、こういう内的世界を作りやすい。

自分の好きなときに好きなタイミングで相手の状態を気にせず発信ができるし、気に喰わなければミュートもブロックも非表示にもできる。

嫌なものは見ずにすむ、他人すら「ないこと」に出来る、そういう世界だ。

仕事でもないのに自分の好きでもない相手に付き合う必要はないので、機能は有効に活用すればいいし、自分にとって害になる言葉は無視して構わないんだけれど、「自分に都合の悪い他者の存在自体を認めない。否定する。消してしまう」というのは、怖い発想だなと思う。 

ネットの場合は、「リアルはそうではない」という前提があるからいいんだけれど、こういう発想をリアルにまで持ち込むととんでもないことになってしまう。

 

この本で語られている方法論は、過酷な現実に心を殺されそうになった人にとって、自分を守るためのギリギリのものだったのだと思う。

そういう方法論を物語として立ち上げて多くの人に読まれる小説にしてしまったのがサリンジャーのすごいところなんだけれど、それだけに読めば読むほど怖い小説だなと思う。

 

ライ麦畑でつかまえて

ライ麦畑でつかまえて

 

 

キャッチャー・イン・ザ・ライ

キャッチャー・イン・ザ・ライ

 

 

翻訳夜話2 サリンジャー戦記 (文春新書)

翻訳夜話2 サリンジャー戦記 (文春新書)

 

 「キャッチャー・イン・ザ・ライ」かサリンジャーか翻訳か村上春樹か、どれかひとつでも好きな人は、絶対に面白いと思います~。