うさるの厨二病な読書日記

生涯中二の着ぐるみが、本や漫画、ドラマなどについて好きも嫌いも全力で語ります。【ネタバレ前提です。注意してください】

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ネットのいいところは「内容の無いコミュニケーション」がいらないところ。

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p-shirokuma.hatenadiary.com

 

このエントリーに端を発して、関連エントリーをいくつか読んだ。

「内容の無いコミュニケーション」というのは上手い言い方だな、と思う。

元記事に書いてあることにはほとんど同意で、他人の中で生きていく上で、自分から信頼と親しみを求める(そういう姿勢を相手に見せる)ということはすごく重要なことだと思う。

ここからさらに、ネットでのコミュニケーションの特性について述べていきたい。

 

「内容の無いコミュニケーション」の重要性

元記事と重なる部分が多い内容だが、自分の言葉でおさらいする。

「内容の無いコミュニケーション」の最大の目的は「自分がこれから所属したいと思っている、もしくはすでに所属しているコミュニティの一員としてコミュニティ内で認知してもらうこと」だ、と考えている。

 

「自分はあなたの敵ではない。仲間ですよ」という信号を送ることによって、コミュニティ内の人間に「コミュニティの構成員である、と認知し続けてもらうこと」

 

言葉の中身ではなく「相手に声をかけたという行為」に意味がある。

「内容の無いコミュニケーション」で最も代表的なものは挨拶である。

「内容の無いコミュニケーション」は、おおざっぱに定義すればすべて挨拶の拡大版である。

上記エントリーのブコメで「何度も同じ内容の話を聞かされるのは辛い」というコメントがあったが、根本は挨拶なので同じ話でも同じ言葉でも構わないのだ。(辛い気持ちは分かるが。)

 

内容は何でも構わない。

「こうやって笑顔でお話ししているのですから、私たちは仲間ですよね」

そういう信号を交換し合うことができれば、いいのである。

 

そうやって「親しみポイント」「共感ポイント」を積み上げることによって、お互いの存在に慣れていく。そして、お互いを共同体の構成員と認めることによって、その共同体の平和と安定を維持する。

大は国家から小は家族まで、たいていの人間は何かしらの共同体に所属しているので、基本的にはこういう形で共同体を安定させる。

 

この「共感ポイント」を積み上げられない人間が、共同体から異物としてはじき出されるのは自然なことだと思う。

共同体というのは、こういう「内と外の差」を認識することによって、内部は強固になっていく性質を持つ。異物を内にとどめておけば、共同体そのものが不安定になるので外部に排出しようとする。

(この共同体の原理が、イジメや村八分などを生み出すこともあるので、それが正しいかどうかは別の話だが。) 

 

ある共同体に所属し、その中で生きる限りは、この「内容の無いコミュニケーション」をすることは必要不可欠だと考えている。

唯一の例外が、その共同体にとって、絶対に必要で代替のきかない存在である場合だ。

代替の効かない存在なのだから、どれだけ「敵か味方か分からない存在」だろうと「信用できない存在」であろうと排除することはできない。(ただし、代替可能だと思われた瞬間に排除される可能性が高い。)

 

なので最低限、挨拶はして「自分はあなたがたに敵意はありません」という信号を常に発しておいたほうがいいと思う。

人間関係というのは生き物なので、常に手入れが必要だ。

「今日、仲良くしておいたから、この先ずっと大丈夫だろう」というわけにはなかなかいかない。

 

「内容の無いコミュニケーション」というのは、うまく積み重なっていくと自分も楽しくなっていくケースが多い。

十代二十代前半くらいまでは「世間話ができない」と思っていた人が、年をとるにつれて初対面の人とでも平気で話せるようになるケースは、このパターンが多いと思う。(年をとっても、苦手な人もいるだろうけれど。)

 

ここまでが、決して「自分ではない何者か」になれず「自分自身として何かの共同体に属さなければならない」リアルの話だ。

ではネットでのコミュニケーションではどうなのか、特に匿名でコミュニティの形成を前提としていない場所では、ということに話を移したい。

 

ネットのコミュニケーションの特性

まずはネットの場合、たいていコミュニティの存在そのものがない。

自然発生的に出来る場合もあるが、リアルの学校や家族、会社などの共同体に比べて、目的もルールも構成員の情報も極めて曖昧である。

なので共同体の輪郭がはっきりしておらず、強い縛りがない代わりに簡単に空中分解しやすい。

 

そしてコミュニケーション上、重要になる「非言語的コミュニケーション」がほぼない。相対したコミュニケーションの場合の情報量は、この非言語の部分が圧倒的に多くを占める。

「バカ」という言葉ひとつをとっても、交際相手が恥ずかしそうな顔をして言うのと、友達が笑いながら言うのと、上司が怒気をみなぎらせて怒鳴るのとでは意味合いがまったく違う。

表情、声音、間合い、姿勢、こういったものから言葉の何倍もの情報を本来のコミュニケーションは受け取るが、ネットではそれができない。

 

情報が少ないので、共感ポイントの積み重ねが、リアルのコミュニケーションよりも圧倒的に少ない。

「内容の無いコミュニケーション」はネットでは圧倒的に威力を失うし、仮に積みあがったとしても、簡単に空中分解する。

 

ただこの「相手の(反応の)情報量が少ない」ということが欠点ではなく、むしろネットの最大の利点だと思っている。

なぜかというと、特に匿名やり取りの場合、相互コミュニケーションではなく、一方的な発信に比重を置いている場合が多いからだ。

情報を発信する側としては、受信者の情報が少ないほうが気を使う要素が少なくなる。発信する垣根が低くなるし、近づくのも離れるのも罪悪感や負担を感じにくい。

これはコミュニケーションを仕掛ける側にとっては、非常に楽な条件だ。

ネットでは挨拶もなくいきなり要件に入れるのも、現実では一度も発したことのないような深い話や罵声が言えるのも、この垣根の低さによるものだと思う。

 

自分の言葉の先にいる他人の情報(反応)を受け取らなくてもいいので、自分本位の一方的なコミュニケーションが可能。

 

本来であれば自分が所属する共同体に気を使って、恐らく一生発しないであろう言葉も発することが可能だ。

ネットでは匿名になることで「共同体の構成員ではない自分」になることが可能だし、自分がその気になれば発信するだけで受信は一切しないことが可能だからだ。

 

この前提にたって、相手の情報を受信しない自由を確保しつつ、お互いが相手の状態を想像しない一方的な発信をし続けているのが、基本的なネットのコミュニケーションである。

だからこそ、リアルでは自分が傷つくリスクがあるために決して言えないようなことが、ネットでは言えるのだ。

 

ネットはそういう特性を持つものと思っていたので、前からちらほら聞く「自分の発信を、リアルのように善意に解釈してもらえないのは何故なのか?」というニュアンスの言葉の意味が分からなかった。

自分の言葉を最大限、好意と善意でもって解釈して欲しいならば、リアルのように相手の事情をよく知り、共感ポイントを積みあげなければ難しい。

そうではなくて、「共感ポイント無視」の本音を言い合いたいから、もしくはそれが面倒くさくてすっとばしたいから、受信相手の氏素性すら情報を受け取らなくて済む、ネットで発信しているんじゃないのか?  そう思っていた。

最近ようやく気づいたのは、

「自分の言葉を、最大限、善意と好意で解釈してもらうのが当然、そういうコミュニティに共感ポイントを積み上げる手間をかけずに所属したい」

ということを目的にして、ネットで意見を発信している人がいるのではないか、ということだ。

すごい発想だな。うまくいくといいですね(棒)

 

ネットのコミュニケーションの面白さは、「共感ポイントの積み上げ」をすっとばせる代わりに、どんな反応がとんでくるか分からないところだ。

「どの共同体の構成員でもない自分」という、リアルでは決してなれないものにもなれる。

「内容の無いコミュニケーション」による加点も減点もない言葉が、リアルよりも圧倒的に聞きやすい。

「内容の無いコミュニケーション」が苦手、という人にとっては多少不本意な目に合うことがあっても、そのコミュニケーションが強い力を持つリアルに比べればいい場所ではないかと思う。

 

「共感ポイント」の下駄を履いていない、

周りの目線を気にしなくていい、

「内容の無いコミュニケーション」をしなくても、相手にいきなり近づくことができる。

この辺りが、リアルにはないネットの特性だと思う。

それを利点と見るか欠点と見るかは人それぞれだと思うけれど、少なくとも自分はそれがネットにしかないいいところだと解釈し、リアルでは決して話さないだろう、こういう内容を延々と話し続けたい。

  

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