「機動戦士ガンダム鉄血のオルフェンズ」の第一期25話を、あっという間に見終わった。その感想と第二期への期待を語りたい。
前回の第一期10話までの感想はコチラ↓
色々なものがつめこまれた作品なので、あらゆる切り口で語りたいんだけどキリがないので、主に気になった点のみつらつらと語る。
家族としての鉄華団の構造と機能
「母親」ビスケットの死
第21話「還るべき場所へ」で、オルガを庇ってビスケットが死ぬ。ビスケットの死は、鉄華団の内部に大きな影響を及ぼす。
いなくなることで、これほど鉄華団の内部の構造や方向性に大きく影響を与えるのは、オルガを除いてはビスケットくらいではないかと思う。
何故かというと、ビスケットは家族としての鉄華団の中で「母親」の役割を果たしていたからだ。
鉄華団を家族として見たときに、父親であるリーダー・オルガが家族の行き先やいく末を決める。
鉄華団の中で、唯一、「父親」オルガとは別の価値観を提示できて、否定的な意見を言えたのがビスケットだ。
ビスケットはオルガの考えに対して疑問を口にすることが多く、家族である団員の命や安全を最優先にした意見を口にする。
蒔苗の護衛を引き受けるか否かの二人の口論は、どうみても夫婦喧嘩にしか見えない。
「今がチャンスなんだよ」
「あなたはそうやって仕事のことばかり。家族はどうなるの」
「これは家族のためでもあるんだ。なんでわからないんだ」
「実家に帰らせていただきます!」
よくある父親と母親の対立の構図だ。
ここに黙って父親に付き従う三日月や、父親に憧れるユージンたち「子供」は立ち入れない。オルガは「団の母親」であるビスケットと対立したときに鉄華団の誰にも相談できず、外部の大人であるメリビットしか相談相手がいない。
元々、オルガの威光が強かった鉄華団は、「母親」ビスケットの死によって、破壊と暴力で結びつき暴走し出す。
この現象は三日月において顕著で、三日月は「声で敵をとめた」クーデリアに対して、初めて暴力や破壊以外で進む方法を見出しかけていた。自分の思考のすべてをオルガに預けている三日月にとって、変革と言っていい。
それが暴力によってビスケットが死んだことにより、「戦いや破壊によって敵を排除する」という意思を強固にしてしまう。それ以外の思考はまたオルガに預けるようになり、この変革の芽をつぶしてしまう。
サヴァランの呪い
仲間である組合員を救うことができず、絶望して死を選んだビスケットの兄サヴァラン。
遺書で、自分の選んだ道を否定し、反省を弟であるビスケットに語る(押しつける)ことがビスケットの迷いの原因になる。
自分が命を落としたとしても、暴力の連鎖に巻き込まれることなく、差別なき世界を目指すには、ナボナのやり方が一番正しいと思う。
それなのに、クーデリアを差し出すことで、その場しのぎをしようとしたサヴァラン自身の方法と一緒に総括してしまう。サヴァランの「手に余った」のは自分のことなので好きに総括すればいいが、ナボナまでまとめて総括するのはどうかと思う。
さらにその反省である「堅実で幸せな人生」を弟に押しつけるなど、サヴァランは死んでなお、残った人間に呪いをかけていく。
こういう呪いのかけ方は、本人が死んでしまっただけに性質が悪いな、と見ていて思った。
アトラと鉄華団の不思議な関係
「鉄血のオルフェンズ」の面白いところのひとつは、「普通はこのキャラがこの役割を担うだろう」という予測をことごとく覆している点だ。主人公でありながら、ほとんど物語上の機能を持たないの三日月がその最たる例だが、この点ではアトラも面白い。
鉄華団内には、アトラ、クーデリア、メリビットという三人の女性がいるが、この三人は鉄華団の内部に対しては何の干渉力も持たない。
メリビットだけは鉄華団に対して干渉しようとするが、そもそも外部の人間であるために干渉力を発揮できない。
クーデリアもメリビットと同じように、仲間ではあっても外部の人間であり、だから「皆さんは皆さんの道を進んでください」という。「自分の道は鉄華団とは違う(=自分は鉄華団ではない)」と言っている。
この二人は外部の人間だから干渉力を持たないメリビット、そもそも干渉する意思のないクーデリアと明確だ。
問題はアトラだ。
彼女はもともと三日月やビスケットなど鉄華団と知りあいであり、内部の人間である。
アトラの不思議なところは、鉄華団の内部の人間でありながら、ごく限られた人間(三日月、雪之丞、ビスケット、年少組)としか接点を持っていない。個人的なつながりを持っているのは、三日月とビスケットくらいで、他の年長組とは話をしている描写すらほとんどない。
はっきり言ってしまえば、アトラは三日月以外の鉄華団の人間に、個人として興味を持っているようには見えない。(鉄華団全体は、仲間として大切にしているだろうけれど。)
彼女が「家族だから」と連呼するのは、鉄華団の団員ではなく、何故かクーデリアに対してだ。
アトラの第一の関心は、自分とクーデリアと三日月という三人の関係性にある。アトラはこの三人をひとつの小社会(家族)と考えており、その内部の恒常性の維持に常に務める。
「クーデリアが泣いているときは、三日月に慰めろという」
「三日月が不在のときは、自分がクーデリアを守る」
「三日月が怪我をしたときは、クーデリアと二人で慰める」
三人でひとつの社会であるから、恋愛にありがちな独占欲もわかず、嫉妬も抱かない。
かなり怖い発想だが、「三人でひとつと認めることによって、一対一の恋愛にありがちな負の側面を失くす」というのは、ひとつの理想なのかもしれない。
物語に機能しない主人公・三日月
物語の主人公でありながら、三日月は「破壊と暴力」という属性しか持たない。思考はすべてオルガに預けており、何か聞かれても
「難しいことは分からないから」
「俺には分からないよ」
と繰り返す。
そして、感情もほとんど表に出さない。
それゆえ、三日月は主人公でありながら、物語の展開にほとんど関与しない。
葛藤し、決断することによって物語を動かし、見ている人間に対して自分たちの思想を語るという主人公の役割を果たしているのは、オルガだ。
物語において、テーマを深く掘り下げようとすれば、登場人物が内省することが必要になる。だが、主人公が内省し出すと、たいていの場合、物語がうまく進まなくなる。
元々、内省することがメインの物語ならばいいのだけれど、エンターテイメントの場合は、これは致命的で、このパターンの失敗例も多い。
これを避けるためには、主人公と「物語に厚みを持たせるために悩むキャラを分離する」 という方法はかなり有効だ、ということを証明したのが「進撃の巨人」だと思うのだけれど、「鉄血のオルフェンズ」でもこの方法をとっている。
「思考をオルガに預ける」というのは三日月だけではなく、鉄華団全員がそうだ。
唯一、自分の考えを持っており、オルガにも意見していたビスケットが死んだことにより、鉄華団はひとつの思想で強固にまとまっていく。
三日月がビスケットの死後、オルガに落ち込む自由さえ与えなかったように、もはやこの思想の一元化と尖鋭化は、オルガでさえどうにもできない。
一期の中でも
「人殺しを楽しんでいる」と言われたこと、
「声だけで敵をとめた」クーデリアをすごいと思ったこと
など、三日月が変わる兆しのようなものはあったが、結局、これらは生かされずに終わってしまった。
二期の開始時点でもオルガの「ビスケットはどう思っているか」という問いに「俺には分からないよ」と答えるところを見ると、一期では三日月の精神的な成長や変化はなかった、と考えていいと思う。
この辺りは二期ではどうなるか、ということも注目していきたい。
連帯できない被差別者
クーデリアは鉄華団と旅を続けるうちに、火星と地球の関係だけではなく、地球圏にも歪みが存在することに気づく。
差別・被差別の構造は、地球・火星だけのものではない。
鉄華団と激しく対立するアインは、鉄華団を抑圧するギャラルホルンの一員でありながら、ギャラルホルン内では火星人の母親を持つことから差別を受けている。
この差別の構造をまがなりにも壊そうとしてくれたのが、クランクだった。
同じように被差別者でありながら、違う構造の差別であるため、アイン、ナボナ、鉄華団は連携することができない。
被差別者同士で連携するのではなく、結局はガエリオ、タイワズ、蒔苗など抑圧者側の力を借りて個々の利害を追求せざるえない、というのが何とも皮肉だ。
クーデリアは歪みを正すと言ったが、それはどこからどこまでの歪みなのか。抑圧者側にいながら差別を受ける、アインやマクギリスのような立場の人間は入っているのか。
この辺り、どこまでどのような理想を追求するのかが、現実的に考えた場合は大切だと思うし、クーデリアにはその線引きのしかたまで期待したいのだけど、そこまではやらないかな…。
積みあがったチップの無意味さ
議会への突入を前に、「今まで死んだ仲間の命もチップとして積み上がっている。その積み上がったチップのぶんだけ、俺たちが手にするものもデカくなる。だから、死んだ仲間の命は無意味じゃない」
とオルガが演説する。
たぶんこの物語は、最終的にはこの「積み上がったチップの無意味さ」を描くんじゃないかと予想している。
積み上がったチップがいかに無意味か、ということが分からないと「やられたらやり返す」「自分たちの邪魔をするものは、ぜんぶ敵(個人として認識すらしない)」という暴力の連鎖を断ち切れない。
ということを、痛みがない人間が外から紛争や対立を眺めて言うのはとても簡単なんだけれど、自分や自分の家族や友人が殺されたり傷つけられたりしたときも、暴力や報復を否定できるのか、ここが一番の問題だと思う。
「自分たちが傷つけられたときには、自分や親しい人間を個人と考え報復を正当化し、敵は属性で捉え、まとめて攻撃する」
これが暴力の連鎖の根本にある考えだ。
鉄華団もアインもガエリオも、みなこの考えにハマり、暴力を正当化している。一期で、この考えにハマっていない人間は、クーデリア、マクギリス、ナボナの三人だけだ。
「やられたらやり返す」暴力の連鎖に加担することを自ら決意したことによって、「鉄華団は、もっと強大な暴力によって無残に殺されるだろう」というフラグが立つことになる。
この辺りは一見、彼らの決断を肯定的に描いているように見えるが、恐らくこの暴力の連鎖に加担した彼らの決断を二期で徹底的に否定するのではないか。
そして、「自分や親しい人が傷つけられても、なお暴力による報復を否定できるのか」ということを、主要登場人物たちに感情移入させることによって問うているのが、この物語の最大のテーマなのかな、と思った。
個人の命や事情や尊厳はすべて無価値になる。
暴力や戦争が最も否定されなければならない点は、そこだと思う。
どんな事情であれ、暴力の連鎖は許されない、暴力で世界が変えられるという発想を認めない。だからそれに加担した人間は、主要登場人物だろうと何だろうと無意味に死ぬ可能性がある。
自分や自分の親しい人が死んだときだけ、そこに意味を持たせるために「報復」や「暴力」「破壊」を繰り返すのか、それとも自分や自分の親しい人が傷ついたときでも暴力や争いを否定し続けるのか。
できるのかと言われれば難しいし、だから、今でも世の中には紛争が起きているのだと思う。
自分は、見ている人間が感情移入するような登場人物でも、モブと同じように無意味に死んでいく、そういう読者にも疑似的に痛みを与える物語でしか、人間がなぜ争うのかということは語りきれないと思っているので、この物語がそういう物語であることを期待したい。
みんながみんなそういう物語なのも味気ないけれど、読者にカタルシスを与えないことによって戦争の虚しさや暴力の無意味さを語る物語があってもいいと思う。
好きなキャラクターなど
オルガとクーデリアが特に好きだ。
フミタンという家族を殺されてなお、暴力の連鎖に巻き込まれず、被抑圧者の希望になることを決意したクーデリアはすごいと思う。
オルガとクーデリアは、自分の背負えるだけのものを背負って他人のぶんまで責任を果たそうとするところが応援したくなる。
確かに暴力に暴力で答える鉄華団のやり方は、メリビットが言うように間違っているし、鉄華団のように「思想が異なる人間は家族じゃない」という発想は「こんなの家族じゃない」とは思うのだけれど、(生き方や思想が異なって時には対立しても、受け入れられるのが家族だと思う。)オルガだってそんなことは分かっていると思う。
それがわかるから、間違っていてもギリギリのところで頑張っている姿がツラい。
「間違っているやり方をせざるえない人間」……オルガだけじゃなく、マクギリスやアインのような人間が、少しでも違う選択肢を選べる世界を作ってくれるのかどうか。
二期のクーデリアには、そこを期待したい。
他に好きなのは、アトラとアイン。
クランクがアインにとっては「公平」の象徴なのだとしたら、その手を振り払った鉄華団に「ふざけんな」と思うのは分かる。
あくまでアインの内的世界ではだが、鉄華団が差別の構造を容認している、というところが面白い。救いがないけれど。
「降りかかる火の粉を払う」だけだと、世界は変えられないどころか今の社会を肯定することになってしまう、というのが分かるところが何とも皮肉。
トドと蒔苗のように、ずる賢くてしたたかな大人も好き。結局は、こういう人がいないと世の中が回らない。
嫌いなキャラはあんまりいないけれど、三日月をはじめ、鉄華団の思考停止具合は見ていて怖いなと思う。
この辺りも二期で少し変化があるといいな、と思う。
まとめ
色々語ったけれど、複雑でいながらスピード感がある展開で、面白くてあっという間に見終わってしまった。
二期はちらちら目にしてしまったネタバレでは、もしかしたら自分の好きな展開かもしれないとは思う。
でもまあ、あまり期待しすぎず、先入観も持たずに見ようと思う。
Amazonプライムビデオで視聴中。