うさるの厨二病な読書日記

生涯中二の着ぐるみが、本や漫画、ドラマなどについて好きも嫌いも全力で語ります。【ネタバレ前提です。注意してください】

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「疲れる」読み物について。

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話題になっている漫画「ど根性ガエルの娘」について、「読むと疲れる」という感想を目にした。

 

「つまらない」でもない。
「不愉快」でもない。
「ムカつく」でもない。

 

「疲れる」

 

「ど根性ガエルの娘」については、自分は「疲れる」という感覚は特にわかなかった。

ただ「読むと疲れてしまう人もいるだろうな」とは思うし、「読むと疲れる」という感覚自体は分かる。

 

世の中には重く深いテーマの創作物がたくさんあるが、「テーマが重ければ重いほど」疲れるわけでもない。テーマが重くても、「疲れる」という言葉よりは、「考えさせられる」「興味深い」という感想が先行するものはたくさんある。

「疲れる」という感想が第一にくる場合は、書き手側、読み手側にそれぞれ条件があり、それが合致したときに感じやすいのではないか、と思う。

 

「読み手を疲れさせる」書き手側の条件としては、「作者が読み物として成立させようとしているか(読み手をどれくらい意識しているか)」に比例しているような気がする。

①書き手の書きたいという欲求が、読み手への配慮を大きく凌駕している。

 

読み手側の条件としては、以下の二つが大きいのではと思う。
②読み手にとってわだかまりがある、もしくはかつてあったテーマを取り扱っている。
③読み手の現況が安定している。

 

この3つの条件が揃った状態だと、「面白い」「面白くない」以前に「疲れて」しまうのだと思う。

 

②が欠けた状態だと、どれほど深刻なテーマでも「疲れる」という感想にはならない気がする。(「重い」「興味がない」という感想になりそう。)
③が欠けた状態だと「疲れる」のではなく、すさまじいエネルギーに転化しそうだ。正の方向性にか負の方向性にかは分からないけれど。

 

「ど根性ガエルの娘」については、親に対して消化しきれていない複雑な思いを持っている場合、もしくはかつてそういう葛藤を抱えていた場合、読むのがキツい人がいるんじゃないか、と思う。(もちろん、中にはいい、読みたいという人もいると思う。)

 

対象である「読み物」を読んで疲れてしまうのは、もしくは賞賛したいような罵声を浴びせたいような複雑で割りきれない、ぐちゃぐちゃした気持ちがわいてしまうのは、書き手のせいではない。

そして(実際に罵声を浴びせていなければ)読み手のせいでもない。

組み合わせの問題だ。

この「組み合わせの問題」は、不特定多数の人に自分の書いたものを読んでもらう以上、避けられない。

 

「ど根性ガエルの娘」では疲れなかった自分だが、つい先日、疲れる物を見つけてしまった。

年をとって自分という存在が安定すればするほど、「疲れる」読み物は減っていくと思う。他人の経験談や心情の吐露で、自分の中の何かが揺り動かされることが少なくなっていく。

 

「疲れる読み物」は、個人的に引っ掛かりを感じる内容のものが多いが、それでも
「まあ、そういうときもあるよな」
「それってそうじゃなくて、こうじゃないか?」
「は? 何を言っているんだ?」
だいたいこういうことを言うだけで済ませられるようになる。
それを成長と呼ぶのか老いと呼ぶのかは分からないけれど。

 

でも少なくとも楽ではある。
心がいちいち動かない、というのは楽だ。

もう「疲れる」なんてないと思っていたのに。

 

あの頃の自分だったら、「まるで自分のことを言っているようだ」と言いそうだ。
あの頃の自分だったら、すさまじくひねくれた嫌味を飛ばしそうだ。
どちらも割りと失礼な反応だ。

 

「よく分かります」は、人の心を癒すこともあれば、傷つけることもある難しい言葉だ、ということも年をとって気がついた。

自分だったら、ああいう種類のことを書いて、「よくわかります」なんて言われたら、相手に憎悪すら覚えるかもしれない。

 

こういうことが疲れる。
こんなこと、もうぜんぶ終わったと思っていたのに。

 

今の自分は、共感の方向にせよ苛立ちの方向にせよ、心をまるごと動かすには「よっこらしょ」とかけ声をかけねばならず、そんな状態で自分の一番奥底にあるメーターを久しぶりにガリガリ削られて、疲労困憊意気消沈している。

 

だから当分は、読まない、読めない。
読まなくていい、読みたくない、ではなく。
読んだあとに、絶対に疲れるから。

 

そういうものがまだ自分にあったことに、けっこうなショックを受けている。