うさるの厨二病な読書日記

生涯中二の着ぐるみが、本や漫画、ドラマなどについて好きも嫌いも全力で語ります。【ネタバレ前提です。注意してください】

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あの頃、金属バットをフルスイングして世界をボコボコに殴っていた。

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少し前から、「コロンバイン銃乱射事件の真実」という本を読んでいる。

コロンバイン銃乱射事件の真実

コロンバイン銃乱射事件の真実

 

 

 1999年4月に在校生だった二人の生徒が起こした事件で、12名の生徒と教師が1名が犠牲になっている。

発生した直後は「アメリカ史上最悪の銃乱射事件」と騒がれたらしい。

「スクールカースト最底辺の犯人二人が、復讐のために起こした犯行」という説が根強く流れているが、上記の本では取材に基づいてその説を否定している。

復讐説においてターゲットとされている「ジョック(主に運動部に所属している人気生徒)」を狙った様子はなく、明らかに無差別に殺害を試みている点からもその説には矛盾がある。

警察も早くからその動機の線は捨てていたのに、なぜそういう説が根強く流布するに至ったかということも検証している。

 

犯人二人、エリックとディランは両方日記などに心情を書き記している。

FBIの捜査官であるフュゼリエ博士が、それらに目を通しながら、彼らの人物像を探っている。

 

エリックが記していたのは、主に自己像の肥大化、自己顕示欲、特別感、万能感、そんな自分を認めない世界への憎悪であり、逆にディランは自己嫌悪、自己否定からくる将来への絶望感、死への渇望を書いている。

印象的な部分を抜き書きしてみると、

「このくそいまいましい世界をオレは憎む」

「愚かな奴らめ。オレに敬意を払わず、誰もがどうでもいいことに対し、どうでもいいごたくを並べたてる」

「すべてに通ずる知性という点では、オレはこのくそいまいましい世界の誰よりも高いところにいる」

(「コロンバイン銃乱射事件の真実」デイヴ・カリン/堀江里美訳/河出書房新社 p320より引用)

エリックはこんなことを書いている。彼は自分の日記を「神の書」(・・・)と呼んでいた。

 

ディランは、常に劣等感、自己否定、自殺願望に悩まされていた。

「オレはオレ自身を『清める』ためになにかしなければならない。魂とか道徳の問題だ」

「オレの存在なんてゴミだ」

「自殺について考えていると希望が湧いてくる。来世でどこに行くとしても、そこには自分の居場所があるんじゃないかと思えてくる。オレ自身や世界や宇宙との戦いからようやく解放されて、心も肉体もすべてが平和になる」

 (「コロンバイン銃乱射事件の真実」デイヴ・カリン/堀江里美訳/河出書房新社 p237-238より引用)

 

こういう文面を読んでいると、何だかとても居心地が悪くなる。

自分も十代のころは、自分以外のものに「世界」「世間」「大人」という張り紙をぺたぺた貼り付けて、言葉を金属バットに変えて滅多打ちにしていた。そのころのことを思い出すからだ。

 

何も知らないから、相手のことなど見る余裕も知る余裕もない。

自分を抑圧する、自分のことを認めない、自分の言葉を聞かない、自分のことを見てくれない、「世界」という箱の中に何もかもを投げ入れて、フルボッコにしていた。

自分、自分、自分、自分、自分、自分、自分あるのはそれだけ。

その「自分」という自意識の中で、「何者にでもなれる」という麻薬のような万能感と、「自分は人よりも劣っているのではないか」という劣等感の両極端を行ったりきたり走り回るのにただただ忙しかった。自分以外のものはろくすっぽ見ず、ただただ自分という存在を確認するためだけに世界を殴りまくり、そうすることによってどうにかこうにか「自分」というものを確立する道筋を見つけていた。

 

ネットでもこの手の言葉を見つけると、勝手に気まずい気持ちになる。そういう気持ちになるのは、あの頃の気持ちの残滓のようなものが自分の中に残っているからなのかもしれない。

このブログは、その厨二病の名残でできているんだけど。

 

その深刻さやこじらせ度がどれくらいかはともかく、よっぽど周りから認められる才能を持っていない限りは、十代のころは誰もがこういう自意識の波に呑まれているのではないか、と思う。

自分が見たものが全てで、自分が感じたことが全てで、自分以外のものはすべてよく分からない、自分とは違うということだけは分かる「世界」で想像を馳せる余裕がなく、よく知らないのに勝手に敵視して勝手に怒っていた。

想像の中だけの自分の特権を楽しみ、自分にとっては当たり前だと感じるその特権を与えない現実を憎む、自分の中だけで永遠に続く一人相撲。

 

なぜ世界は自分を認めない? なぜ世界は自分を愛さない? なぜ世界は自分を理解しない? なぜ世界は、こんなにも貴重で特別で素晴らしいオレに気づかない? 

この世界は馬鹿で醜い人間ばかりだ。だから滅んでもいいんだ。そして自分もそんな人間の一人なんだ。

 

「馬鹿で醜い人間」をどれだけ自分が見ようとしたか、話そうとしたかは考えない。「自分が認められる」以前に、自分から相手を見ようなんて発想は一切、思い浮かばない。

意識の中には「自分」と、想像の産物でしかない影法師のような「他人」しかいない。

 

うーーーーん、絵に描いたような厨二だ。

 

あの頃、自分が立っていたライン上のずっと先にこの犯人たちが立っていた。果てしなく長い距離はあったけれど、それは同一のライン上だ。

そのラインをずっと先まで走っていてしまえば、他人の生命や尊厳でさえ、自分の自尊心を満たすために傷つけるような、想像力の欠落からしか行えない最低の行為が待っているんだろう。

 

今、思えばそのラインに立つこと自体は、何の才能もない平凡な人間が、その年齢に一度は通る通過儀礼のようなものだったと思う。

自分は成人して、社会人になって、どこにでもいる取り立てて特徴もない、ごくありふれた人間になった。そのことを悔しく思うでもなく、むしろ納得して満足している。あの頃は、そんなものにだけは絶対になりたくない、と思っていたけれど。

誰からみてもどこにでもいる普通の人だけど、自分にとってはただ一人の「自分」になれた。これが大人になるということかな、と思う。

あのころ自分の中に存在した、金属バットを無茶苦茶に振り回したくなるような怒りも、声をからして「自分」という存在を叫び続けたエネルギーも、どこかに行かなければならないと思った焦燥もみんなどこかに消えてしまった。年をとった。

 

犯人たちのやった犯罪は決して許せない。犠牲になった同年代の子たちのことや、後遺症に苦しむ子のことも本に出てくるが、そういう記述を読むたびに愚かで卑劣な行為に抑えがたい怒りを感じる。

 

そういう気持ちとは別に、この手の本を読んでいつも思うのは、こういう行為に走った犯人たちの心境は、異常で自分たちとは異質な理解できないものではなく、ごく一般的な誰にでも身に覚えがあるような感情の果てにあるのではないか、ということだ。自分がいた場所から、ずっとライン上を走っていったら、もしかしたらどこかで境界を踏み越えてしまうポイントがあるのかもしれない。

 

当たり前だが、心の中で「世界中の人間をぶっ殺したい」と思うことと、実際にそういう行動をすることの間には、果てしなく長くて深い、対岸が霞んで見えないような谷がある。

その谷を飛び越えさせてしまうものは、個人の気質もあるが、環境とすら呼べない、本当にちょっとしたことの積み重ねなのかもしれないと思うのだ。

自分ただ周りに恵まれていて、運が良かっただけかもしれない。

もしかしたら少しよろめいた程度でも、とんでもないことをしでかした可能性はあったのかもしれない。誰もがそういう罠に、足を取られる可能性はあるのかもしれない。

 

そう思ったからこそ、その谷間を飛び越えさせるものは一体何なのか、ということを知りたい。自分ももしそれに背中を押されていたら、どうなっていたのか分からないのかどうかが知りたい。

だからこの本を手にとったのだが、ここまで読んだ感じだと、それは藪の中で終わりそうだ。

もしかしたら、それは余りに微細すぎて人の目には見えないものなのかもしれない。

その微細なものが自分の中には積み重ねられず、自分も他人も大きく損なうことなくこれたのは、実はただ運が良かっただけなのかもしれないな、と思った。

犯人の一人、ディランの母親が書いた本も合わせて購入した。

本自体の感想はまた改めて書きたい。 

 

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