うさるの厨二病な読書日記

生涯中二の着ぐるみが、本や漫画、ドラマなどについて好きも嫌いも全力で語ります。【ネタバレ前提です。注意してください】

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三毛別羆事件を描いた吉村昭「羆嵐」は、ノンフィクションノベルの傑作だ。

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大正4年の冬に北海道の三毛別で起こった「三毛別羆事件」は、日本最大の獣害として名高い。

三毛別の川の支流である六線沢に体長三メートル近い巨大な羆が出現し、家の中に侵入して人を襲った事件だ。

「羆嵐」は、実際に起きたこの事件を元にしており、そこに作者が自分の想像力からの物語性を付与した「ノンフィクションノベル」だ。

このジャンルは、カポーティの「冷血」が元祖であると言われている。「冷血」も何度も繰り返して読みたくなる本だ。

 

自然の脅威に震え戦くことしかできない、人間本来の姿

「羆嵐」は、現代の人が忘れた「畏怖」という感情を思い出させてくれる。

全編を覆っているのは、未知のモノに対する「恐怖」だ。

自然という人間には理解できない理不尽で強大なものに対する無力さ、闇の中で炎の周りに固まることでしか恐怖に耐えることができない、人間の小ささを細部に至るまで描いている。

人間というのは本来、自然に対してこれほど無力で小さなものなんだ、という当たり前のことを思い出させてくれる。

 

夜、山の中の高速道路を通るとき、車の外の真っ暗な山をよく見る。

それはいま、自分が走っている灯りに照らされた高速道路とは、まったく別世界、それこそ異世界のように見える。あの山の中にいま自分が一人でいたらどれほど恐ろしいか、そういうことをよく想像する。

そういう人間が本来持っていただろう、未知のモノに対する恐怖は、夜もずっと灯りがついている都会にいたり、二十四時間コンビニが開いているような環境にいると忘れがちだ。

 

「羆嵐」は、凶暴化した熊を、本来は人間が理解できずただひたすら恐れ、その圧倒的な強大さの前になす術もなく頭を垂れて、通り過ぎてくれることを待つしかない自然の象徴として描いている。

羆という自然の前には、規律正しく武装した軍隊ですら、ただの無力な人間の集団になってしまう。

今の時代、人間は科学を発達させたけれど、もし「自分」という個人が熊と対峙するとなったらどうなるのか、何の武器も持たないあっても使い方すら分からない人間の集団など熊の前ではただの殺戮の対象ではないか。

そして「赤ん坊だけはどうか殺さないでくれ」「死者を悼む通夜の席にすら乱入する」という人間の情緒を踏みにじる…というかまったく忖度しない、圧倒的な残虐さの前で、初めて自分がどれほど無力でちっぽけな存在かを思い知らされる。

 

「自然の理不尽さに、ひたすら痛めつけられる人間」という構図は、羆が現れる前から実はずっと続いている。

せっかく育てた作物がイナゴの襲来で全てダメになったり、必死で耕してもほとんど作物が実らないような土地にしがみついていたり、そんな貧しい土地ですら一度の水害であっという間に押し流されたり、「羆嵐」に出てくる北海道の農民たちはそんな暮らしを当たり前のものとして生きている。

 

自分たちを苦しめる過酷な自然を「人間の原罪を罰する神」と解釈したように、こういう理不尽で自分たちの無力さ、無価値さを思い知らされる苦しみの中で宗教って生まれるんだろうなと思う。

 

羆撃ちの銀四郎の造形がいい

結局軍隊ですら凶暴化した羆「穴持たず」の前には無力であることを知った三毛別の区長は、近くの村の羆撃ちのプロ・銀四郎に使いを出す。

銀四郎は確かに羆撃ちとしては優れているが、酒飲みで気が荒く、少し気に障ることがあると暴れ、相手を足腰が立たなくなるまで殴ったりする。ひと言で言えばろくでなしで、村のみんなからも嫌われている。

銀四郎も羆と同じで、村人にとっては理不尽で理解できない、畏怖の対象なのだ。

 

大酒飲みで無礼で理不尽な暴力の塊のような銀四郎だが、羆撃ちとしては一流だ。

「羆は賢い生き物だから、相手が多人数ならば姿すら現さない」

「一人で夜を徹して熊より早く歩かなければ、熊を仕留められない」

「一発で仕留めなければ、コチラが一撃で叩き殺される。だから九メートルの距離で撃つ」

区長に勧められても酒も飲まず、羆を仕留めることに全神経を集中させる。

 

銀四郎は「穴持たず」を仕留めるが、ただひたすら自分を畏怖し、礼を言うだけの村人たちに怒りを爆発させる。

自然に向き合い、その理不尽さや恐ろしさ、凶暴性と対峙し続ける銀四郎は、その脅威に自分たちで向き合わず、ただ頭を垂れてやり過ごそうとする村人の態度を「ずるい」と言って罵った。そして村人の金をすべて奪いつくし、去っていく。

読んでいてやや理不尽と思われるこの銀四郎の要求を、区長は無理もないものとして受け入れる。

 

もし人間にとって、圧倒的な暴力性を持ち、理屈も論理も法則性もなく、ただただ理不尽な脅威を「神」というしかないならば、「穴持たず」も銀四郎も彼らにとっては神なのだ。

登場人物の中で銀四郎だけは「穴持たず」を熊とは呼ばず、「あいつ」と呼ぶ。

銀四郎にとっては、「穴持たず」は畏怖すべき訳の分からない脅威ではなく、人間を害した殺すべき畜生でもなく、狩るべき対象である熊でもなく、自分と対峙する一個の独立した個体なのだ。

「穴持たず」をそう見る時点で、銀四郎は他の人間とは決定的に違う。

そして自分たちが畏怖する対象である「穴持たず」と対峙できる時点で、村人にとって銀四郎も同じ人間ではなく、理解しようとすら試みれない畏怖の対象になったのだ。

 

神と神との戦いを見守る人間としては、勝った神に対してはどんな理不尽な仕打ちも暴言も頭を垂れてやり過ごすしかない。

神=自然は、そもそも人間なんて虫けらほどにも見てはいない、自分たちが道を歩いていたら何かつぶしたけれど、何だろう? まあいいか。くらいのものだ。

それが恐らく少し前の時代まで当たり前のことだったのだ。暴言を吐かれて有り金ぜんぶ持っていかれるくらいならば、御の字だ。

 

強大な存在の前に、ただひたすら翻弄され戦き震えて、成り行きを見守るしかない無力な人間の姿は、今の時代では忘れがちな畏怖の念を呼び覚ましてくれる。

「熊嵐」は、現代を生きる人間にはなかなか理解できない「訳の分からない理不尽な存在に対する恐怖」に震える人間の姿と感情を、細部に至るまで追体験させてくれる貴重な本だと思った。

羆嵐 (新潮文庫)

羆嵐 (新潮文庫)

 

 

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