うさるの厨二病な読書日記

生涯中二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好きも嫌いも全力で語るブログ。

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初めて読んでから十年以上たって、今さら思い至った井上雄彦「スラムダンク」の本当のすごさ。

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「辺獄のシュヴェスタ」を読んだら、唐突に「スラムダンク」を思い出した。

以前、「魔法少女まどか☆マギカ」と「ベルセルク(黄金時代)」は似ているという記事を書いたのだけれど、それと同じような感覚でカテゴライズしたとき「辺獄のシュヴェスタ」と「スラムダンク」は似ているなあ、と思ったのだ。

 

「スラムダンク」の「どのあたりがすごいと思うのか」は、色々と意見があると思う。

自分にも「『スラムダンク』の本当のすごさや、他の漫画と一線を画す特徴はこの点にあるんじゃないか」ということに関して、漠然とした自分なりの考えがあった。それが上手く言語化できていなかった。

「辺獄のシュヴェスタ」を読んでいて、唐突に「ああ、ここだ」と思いついた。

 

他の漫画にはない「スラムダンク」の大きな特徴は、「登場人物を描くときに情報を付け加えていくのではなく、限定するという手法をとっている」ところだと思う。

 

「スラムダンク」の主要登場人物は、基本的に「バスケットプレイヤー」という情報しか持っていない。

家族構成、趣味、バスケ以外の人間関係、子供のころのエピソード、人生観、そういう情報をほぼ持たない。

彼らは高校生だが、教室での様子や将来への考えもほとんど出てこない。(赤点をとればインターハイに出れないなど、バスケに関連していれば出てくる。)

もっと言うならば、「今現在、バスケをしている」という情報しか持っておらず、バスケに関する情報でも何をきっかけに始めたのか、誰の影響で始めたのか、子供のころはどうだったのか、これまでの人生で挫折や苦難はなかったのか、そういう情報すらほぼない。(赤木、三井や沢北などの多少の例外はあるにせよ。)

 

「スラムダンク」の世界には、「現在進行形で進んでいるバスケに関する物事」以外のものがほぼ出てこない。「物語内では存在しない」と言っていい。

主要登場人物の多くは「現在進行形で行っているバスケットのプレイ」で自分たちの全てを表現していている。

 

普通はキャラを立てるとき、「三人兄弟の末っ子」とか「〇〇が趣味」「親がバスケをすることに反対している」とかそういう属性を付属してそのキャラクターを作っていく。現実の人間も、どのような環境で、どのような境遇で、どのようなことを経験して、どのようなことを考えて、どのような行動をとって、ということから「人格」が出来上がるからだ。

 

ところが「スラムダンク」は、逆の手法をとっている。

何かの経験や環境、属性などの情報を組み立ててキャラクターを作っていくのではなく、「彼らがバスケをする姿」という情報のみを見せることによって、読者に彼らがどういう人間かということを想像させる。しかもそれが主人公だけではなく、登場人物ほぼすべてがそうだ。

 

「登場人物が何を考えているか、どういう人間かを直接描写するのではなく、その人間の行動を描くことによってその人物の内面を想像させ、そこからその人間がどういう人物かということを、読み手に想起させる」

という手法は、「ハードボイルド」*1と呼ばれている。

たとえば『武器よさらば』の最後近くに、恋する女性が生と死の境を漂っているあいだ、不安と焦燥にかられた主人公が、病院の近くのカフェでいろんなものを食べる描写がある。ヘミングウェイは主人公の不安や焦燥についてはほとんど何ひとつ語らない。ただ彼がどんなものを食べどんなものを飲んだかということだけを緻密に、しかし簡潔に描く。(中略)それを読むことによって、主人公がどこまで精神的に追いつめられているのかを、読者はありありとフィジカルに理解することになる。

(「ロンググッドバイ」 レイモンド・チャンドラー/村上春樹訳 早川書房 あとがきより/太字引用者) 

 

「〇〇は悲しみをこらえた」「◇◇はこう考えた」「▲▲はこういう性格なのだ」と直接書くのではなく、「〇〇はふと黙って、ゆっくりと本を手にとった」という行動の描写から、〇〇が何を考えているのか、〇〇がこの状況でそう考えるということは〇〇がどういう人間なのかを読者に想像してもらう、そういう方法だ。

 

「男らしさ」という言葉の是非はおいておいて、ハードボイルドはいわゆる「男らしさ」の描写と相性がいい。

うろ覚えで申し訳ないが、「ワンピース」の作者も「ルフィは行動のみを描写し、心の声を言わせないようにしている」と言っていた記憶がある。

 

「スラムダンク」はこの「行動」という情報さえも、「バスケをしている姿」に限定している。 

仙道や牧、藤真などの敵チームのキャラは、対戦試合の内容以外の情報がほぼないにも関わらず、非常に魅力的なキャラだ。

仙道はこの二つのセリフだけでも、だいたいどういう人間か伝わってくる。

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 (引用元:「SLAM DUNK」井上雄彦 集英社)

 

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 (引用元:「SLAM DUNK」井上雄彦 集英社)

 

少年・青年向けのスポーツ漫画は、試合がメインに描かれているものが多い。それでも、ここまで登場人物の情報を意識的に限定している漫画はないと思う。

「スラムダンク」がそういった他のスポーツ漫画と比べても一線を画すところは、作者がある程度、意識的にこういう手法をとっているのではないか、と思われる点だ。

 

「現在進行形で行っているバスケのプレイに関連する情報以外は、極力描かない」

これを作者がある程度、意図的にやっているのではないかと思ったのは、三井が入部するエピソードを読んだときだ。

スラムダンクの中でも一、二を争うくらい有名な「安西先生、バスケがしたいです」のセリフが出てくるエピソードだが、このエピソードを初めて読んだとき、非常に違和感があった。

いくら元々は実績や才能があった部員だったとはいえ、あれだけのことをやらかした三井のことを部員が何も言わずに迎い入れ、しかもすぐにレギュラーになっても何も文句を言わない、というのは余りにご都合主義すぎるように思えたのだ。

 

この辺りの人間の心の機微や関係性は、井上雄彦が描けないわけではない。「リアル」や「バガボンド」を読むと、むしろ得意分野じゃないかと思う。

病気が進行したときにヤマが清春に見せた悪感情や、高橋の両親に対する思いや関係性など、読んでいるだけで重苦しい気持ちになる。

三井が復部した話でも、いくらでもこういう風に描写できただろう。しかし、そういう他の部員の葛藤やわだかまりなど一切描かれていない。

 

また普通は、三井のこのエピソードのように「バスケットへの思い」「バスケをしたきっかけ」「挫折や苦難」「その乗り越えかた」などが描かれて、読者はキャラクターの内面を知り、感情移入していく。

しかしこのエピソード以後、それ以前はそれでも多少はあったバスケのプレイに直接関係ない描写が、ほぼなくなっていく。

「スラムダンク」の中で三井というキャラは、「普通の手法で描かれている」がゆえに特異なキャラになっている。

「スラムダンク」の中で、この「三井的手法=普通のキャラ造形」を多少とでもしているのは、赤木、木暮、魚住、沢北くらいである。しかもそれすら「バスケ」という分野に限定されてる。

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(引用元:「SLAM DUNK」井上雄彦 集英社)

 

「スラムダンク」の多くのキャラクターは、「三井的手法=普通のキャラ造形」とは対極の「情報を限定することによって、キャラを描く」という特異な描き方をされている。

そしてそういう「スラムダンク」のキャラの中でも、別の意味で特異なのが主人公の桜木花道だ。

 

人は普通「自分がこう思うから」「こういう行動をとる」。「なぜ自分がそう思うのか」というと「自分がこういう人間だから」「こういう風に考える」

復部するまでのエピソードが描かれた三井に象徴されるように、「スラムダンク」の多くの登場人物はそうだ。

彼らは「バスケが好きだから、バスケをする」のだ。

つまり「人格→思考(感情)→行動」こうなっている。

 

ところが桜木だけは逆だ。

「行動→思考(感情)→人格」という構造になっている。

彼は「バスケット選手(バスケが好き)だからバスケをしていた」のではない。「バスケをしたから、バスケット選手になった」のだ。

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(引用元:「SLAM DUNK」井上雄彦 集英社)

 

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(引用元:「SLAM DUNK」井上雄彦 集英社)

「スラムダンク」は、「桜木花道がバスケと出会い、バスケをすることで、バスケット選手になるまでの物語」だ。そして物語を通して桜木がなった「バスケット選手」とは何であるのか、も同時に語られている。

「バスケを通して、桜木自身が自分が何者であるのか悟る物語」なのだ。

 

BUMP OF CHICKENの「K」に衝撃を受けたので、歌詞について考えてみた。

 

この記事でも書いたのだけれど、「HUNTER×HUNTER」のキメラアント編が、メルエムにとって、自分の名前を知り(自分が何者であるかを知り)「コムギと、ある一瞬を過ごすために生まれてきた」と知る物語であったように、「スラムダンク」は桜木花道が自分が何者でありどんな人間であるか、ということをバスケをプレイすることによって知る物語だ。

「バガボンド」と基本的に同じテーマだと思う。

 

「スラムダンク」の山王戦のクライマックスはセリフがほぼなかった。今までも彼らは言葉ではなく、行動のみで自分の内面や思考、感情を語ってきたのだから、その究極の形としてこういう描写になるのは当然なのかもしれない。

「スラムダンク」の登場人物たちは、「自分が何者であるか」ということを語るときに「バスケプレイ」という非常に限られた言語しか持たない。しかしその限られた言語で、その言語を知らない人間にまで、自分がどんな人間であるかということを語り切ってしまう。  

「バスケをする」それだけの行動で、人はここまで自分というものを表現し、語れるのか。そして「バスケをする」ただそれだけで、自分が何者であるのか知ることができるのか。

 

自分が「スラムダンク」に感じた、他の漫画にはない凄みというのはたぶんそこだったんだろうなあ。

と、初めて読んでから十年以上たったいま思い至った。

登場人物では、魚住、赤木、田岡先生が好きだ~~。

 

「長いお別れ」よりも読みやすかった。あとがきが愛に溢れていていい~。

 

*1:「ハードボイルド」が正確にはどういうものを指すのかというのははっきりしていないが、今回は「叙情を排した行動によってのみで、登場人物の内面も描写する」文体の名称として使用