うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

【アニメ考察】「少女革命ウテナ」を全力で謎解きする。

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*2018年2月9日に「ネタバレ考察・最終考」を上げました。本記事の内容を大幅に修正しています。そちらが現在のところの最終考察になりますので、よろしければコチラも合わせてご覧いただければと思います。

www.saiusaruzzz.com

 

ずっと見たかったアニメ版「少女革命ウテナ」が、Amazonプライムビデオで配信されたので、全39話を視聴した。

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絵柄にかなり癖があるけれど、見ているうちに「その絵がいい」と思えるような面白い話だった。20年近く昔のアニメなのに、まったく古びた感じがしない。  

 

話に聞いていた通りメタフォリカルな話で、辻褄の合う解釈を見つけようとするとかなり難しい。

この話の深層に隠されているものを、自分なりに考えていきたい。

 

劇場版と漫画版は見ていない。あくまで、アニメ版だけを見た考えである。

また制作者の話や他の人の解釈などは読んでいない。もうある程度、通説があるのかもしれないが、自分なりに一から考えてみたい。

本文の中では読みやすいように断定調の文章を用いるが、あくまで自分の個人的な推測である。

 

 

ウテナとアンシーは同一人物である。

まず考察の出発点となるのは、「ウテナとアンシーは同一人物である」という発想だ。

「ウテナとアンシーが同一人物ではないか」と考える根拠はいくつかある。

 

ウテナとアンシーが同一人物である、と考える理由

ひとつめはオープニングの映像だ。

オープニングは、ウテナとアンシーがひとつの薔薇の中に入っているところから始まる。そして二人は、ウテナとアンシーに分裂する。二人は引き裂かれて、学園で再び再会する。二人はそれぞれ王子と王女の衣装をまとう。

そして決闘場で生徒会のデュエリストたちと決闘する。決闘場が崩壊すると同時に、王子であるディオスが目覚める。

その後に、二人は同じように騎士のような甲冑をまとい槍を持ち、馬にまたがるシーンがある。

物語内では「王女」「花嫁」としての属性しか持たなかったアンシーだが、ここではウテナと同じ「王子」になっている。物語内でウテナが実は「王女=女性」としての属性を持っていることが重要視されている。前期エンディングではウテナとアンシーは色違いの王女の衣装を身にまとっている。

二人は本来同一人物であるが、物語内では「王子」と「王女」に分裂しているのではないかと推測できる。

オープニングではこの後、二人は再び引き裂かれ、ウテナのみが薔薇の中に残される。

通常は、一回くらいはオープニングの曲と映像がリニューアルされるだろう。

しかし「ウテナ」は、全39話の間、オープニングはずっと同じものだ。オープニングの映像と曲も、この物語から外せない重要な一部だからではないかと思う。

 

二つ目の根拠は、9話で初めて出てきた、冬芽と西園寺が子供のころに出会った「柩に入って、永遠を見たいと望む少女」の話だ。

柩に入っていた少女はウテナである、と後に判明する。

アンシーも同じように「空に浮かぶ城にいつか行きたい。あそこには永遠のものがある」と言う。

9話で西園寺は「柩の中の少女=ウテナ」と「アンシー」をかなり混同して話している。あたかも二人が同一人物であるかのように、シームレスに思い出話と現在のアンシーへの自分の想いを語る。

 

また冬芽は、ウテナがアンシーの二人を見て「ひとりぼっちの姫君」(この「ひとりぼっちの姫君」というフレーズを、冬芽は12話でアンシーに使っている。)と言ったり、「今も彼女は柩の中に一人でいる」と言ったりする。ウテナは幼いころ棺を脱出しているが、最終回で描かれている通り、現在柩の中にいるのはアンシーである。

また暁生が「ふたご座のように仲良くしてくれ」と言ったり、物語後半では二人は円形が半円ずつずれたベッドで眠ったりと、二人が同一人物であることは手を変え品を変え示唆されている。

 

こういった根拠を基にして、とりあえず二人は同一人物であるという発想で考察を進める。

 

ウテナとアンシーは、何を表しているのか。

これは物語で表している通り、「アンシー=花嫁=女性性(の中の受動的な部分)」である。

「薔薇の花嫁」であるアンシーは、自らの意思を持たない。非常に受動的であり、自分を勝ち取ったデュエリストの支配を受け入れる存在である。

「柩の中に入った少女」が切り捨てた「支配される性=女性性」がアンシーである。そして「女性性を捨てた柩の中の少女」がウテナである。

 

なぜ、ウテナとアンシーは分かれなければならなかったのか。

言い方を変えれば「なぜ、柩の中の少女は、女性性を捨てなければならなかったのだろうか」

彼女は何かがあって、自ら柩の中に隠れた。冬芽と西園寺に対して「開けないで」と頼み、「何で生きているのだろう。永遠のものなんてあるわけないのにね」と口走る。

「柩の中の少女」は後のウテナからは想像もつかないほど、傷つき、絶望している。彼女はアンシーを自分から切り離し魔女化することで、後の明るく無邪気なウテナになれたのだ。 

何がそれほど、彼女を絶望させているのか。両親が死んだから、ということだが、それならばなぜ、彼女が柩に隠れなければならないのか、なぜ女性性を捨てて後の天上ウテナにならなければならないのか、ということがいまいち納得がいかない。

 

ここで想像をかなり飛躍させる。

「両親が死んだ」というのは、文字通り生物学的に両親が死んだ、ということなのだろうか?「両親が死んだ」というのは、概念的な両親が死んだということなのではないだろうか。

「柩の中の少女」が切り離した人格であるアンシーは、親代わりでもある実の兄の暁生と近親相姦の関係にあることが示唆されている。

彼女の元の人格である「柩の中の少女」も同じような被害に合ったのではないだろうか。

 

彼女の父親が彼女に性的な虐待を加え、母親は見て見ぬふりをした。「子供を愛し庇護する両親」という概念的な両親は死んだ。彼女は絶望し、心の中にある柩の中に隠れた。それは「生きているのが気持ち悪い」と感じるほどの絶望だった。

「柩の中の少女」は、自分の中の「被害を受けた女性性とトラウマ」をアンシーという人格に託して、それを切離し「天上ウテナ」になった。

アンシーは自分に対する支配を全て受け入れ、痛みや主体性を持たない人格だ。彼女が「柩の中の少女」が受けた傷を全て引き受けることで、少女は生き延びることができたのだ。

物語の前口上として出てくる「両親を失って悲しみにくれる王女さまが、王子さまに憧れる余り、自らが王子さまになってしまう」話は、「本当にそれでいいの?」という言葉で締めくくられる。

それでは「良くなかった」のだ。

 

女性性を目覚めさせたウテナ

物語の中では二回、「天上ウテナ」が自らの女性性を目覚めさせる部分がある。

一回目は12話で冬芽に敗れたあとだ。冬芽には「普通の女の子に戻れるいいチャンスだ」と言われ、女の子の制服を身にまとう。

しかし、ウテナにとっての「普通」は男子の制服を身にまとった状態なのだ。

それは当然だ。何故ならば、ウテナにとっての女性部分はアンシーだからだ。冬芽に敗れアンシー(自分の女性性)を奪われたために、「ウテナ」という人格で女性部分を補わなければならなくなる。しかし、それはウテナにとっては「普通のことではない」のだ。

彼女自身が「普通=王子」であるためには、自分が守るべき女性性=アンシーが絶対に必要なのだ。

 

二回目は暁生に恋をしたときだ。

暁生はウテナが自分に恋をするように仕向け、二人はキスをしたり性的関係を結んだように描かれている。

31話で、ウテナが暁生から薬箱を受け取るとき、顔を赤らめるシーンがあるが、このシーンの直前に唐突にアンシーが消えている。後のシーンではかき氷を用意しにいったようなつなぎになっているが、正に「消えた」ような描写だ。

「ウテナの女性部分」とアンシーは、同時に存在することはできないのではないかと考えられる。

暁生の行動の目的は、ウテナを「トラウマのない女性性」にすることで、アンシーという人格と共に、トラウマを消失させることではないだろうか。

 

鳳学園の謎

デュエリストたち

同一人物である「ウテナ」と「アンシー」を、なぜ周りの人間は別人物として認識しているのか。それは鳳学園という世界の中は、「ウテナ」と「アンシー」が別人物の世界だからである。

この世界自体が、「柩の中の少女」の心象世界なのだ。

「鳳学園」が「柩の中の少女」の内的世界なのであれば、そこにいる人間は全てが彼女の別人格であるということができる。

 

その中でも、「薔薇の刻印」を持つデュエリストたちは「薔薇の花嫁」を手に入れ、「天上の城」に辿りつく資格を持つ。

自分から切り離した自己を手に入れることによって、彼らは初めて一人の人間になり現実に行くことができる。

デュエリストの資格を持つ人間は、皆、名前に樹木に関係がある字を持つ。

里、一、七織、瑠、若、香、美子、時。

決闘場に行くまでのゴンドラの中で、アンシーが脱ぎ捨てた制服から薔薇の樹木が発生する。アンシーの本質の象徴が薔薇の樹木であるとすると、デュエリストたちは彼女の派生人格と考えることができる。

アンシーを手に入れても完全な個とはなりえない風見達也は、デュエリストになることはできなかった。

 

冬芽の役割

「鳳学園」という世界の中で特別なデュエリストたちの中で、さらに特別なのが生徒会長である冬芽である。

彼は「世界の果て」が暁生として出てきたときは彼の片腕の役割を果たしたし、暁生が出てくる前から、「世界の果て」と頻繁にやり取りをしていた。

彼がウテナに敗れ閉じこもると「世界の果て」からの連絡が途絶え、また彼のみ「世界の果て」と電話で直接やり取りするシーンがある。遠眼鏡で、しょっちゅう他のデュエリストたちの様子を覗いているし、「ひとりぼっちの姫君」のようにメタ視点を持っているかのようなセリフも言う。

 

ここから推測できるのは、冬芽は現実の世界のことも、他の人格たちに起こっていることもある程度知っている人格ではないかということだ

彼は「柩の中の少女」が絶望したときに、彼女に永遠を見せた暁生との間を橋渡しした人格だ。

 

 「親」という存在のいない世界

物語内で、鳳学園に関係のない人物は不自然なほど出てこない。

実家に住んでいる冬芽と七実の両親は、話には出てくるが回想シーン以外は存在が全く出てこない。西園寺も学園を追い出されたあと、家に帰るという選択肢がすっぽりと抜け落ちている。

「鳳学園」という世界は、この世界のみで完結している。

例外として、幹と梢の父親と香苗の母親のみ出てくる。

 

幹と梢の父親に関しては、非常に謎の多いシーンが挿入される。電話の向こうで幹の父親といる再婚相手がアンシーなのだ。

これはもちろん、現実的なシーンではない。鳳学園において、人格のない女性性はアンシーに象徴されるという暗喩であり、鳳学園は現実の世界ではないということを補強している。

 

鳳暁生は何者なのか?

現実の精神科医説

まず考えたのが、現実の世界で「柩の中の少女」の治療を行っている精神科医説だ。

「鳳学園」という世界そのものが、彼の治療方法なのではないかという考えだ。

生徒会の様子を細工窓ごしに除く描写が頻繁に挿入されるが、暁生が人格たちの様子を覗いているという描写ではないか。

暁生は、「柩の中の少女」と同じ症状を持った根室博士に同じ治療を行ったが失敗し、根室博士は自分の中の人格を全て殺した。

御影はその治療方法のメタファーではないか、という考え方だ。

 

暁生が週に一回アンシーを呼び出し性的関係を結んでいるという描写は、アンシーという人格を呼び出し、トラウマを想起させる治療を行っている、という描写ではないだろうか。

ディオスは純粋に患者のことを思い病気と闘ったころの暁生であり、現在は人格を殺したり操ったり、駒のように扱うことで病気を克服しようとしている。

ただこの解釈だと「アンシーと俺は愛し合っている」「まだ俺を苦しめるのか」など、暁生とアンシーの個人的な思い入れの描写がうまく説明しきれない。

 

「柩の中の少女」の悪しき男性性人格説

 こちらの場合は、ディオスが「世界の果て」になった理由、アンシーとディオス、暁生の関係などは、だいぶすっきり説明できる。

 

ただこの場合、時子と香苗の義母の存在がかなりネックになる。

物語に出てくる登場人物のうち、この二人は実在の人間ではないかと考えている。

時子は「時間」のメタファーである、と考えることもできるが。

 

考察を基に、組みなおした物語

それぞれのものが暗示するもの

天上ウテナ=「柩の中の少女」からトラウマと支配され傷つけられた女性性を抜き出した人格。心の奥底の柩に封じ込めた、トラウマに傷ついた自分の人格を救い受け入れて生きようとする人格。

姫宮アンシー=「柩の中の少女」のトラウマと支配され傷つけられた女性性を引き受けた人格。本体は、心の奥底の柩の中に閉じ込められている。

鳳暁生=「柩の中の少女」の中で最も強い男性性人格。最初はディオスとして全人格を守っていたが、余りに強烈なトラウマに傷つけられ「世界の果て」に変貌する。トラウマを葬りさり、生きようとする人格。

デュエリスト=人格が統合されるときに、核となりうる人格。

天上の城=現実(世界)

ディオスの力=現実を生きるための力

薔薇の門=トラウマを隠した深層意識の入り口

 

考察を基に組みなおした物語

「柩の中の少女(以下柩ウテナ)」は、父親から性的虐待を受けたことで心を閉ざし、生きる意欲を失った。

柩ウテナを生かすための人格・冬芽が生まれ、彼は柩ウテナを、彼女を守る人格であるディオスの下へ連れて行く。しかしディオス自身も度重なる虐待から心を守ってきたため、既に倒れる寸前であった。

柩ウテナは生き延びるために、トラウマと支配される女性性をアンシーという人格に閉じ込め、心の奥深くに封印する。

ディオスは暁生となり、鳳学園という時間の概念がない内的空間に柩ウテナの心を閉じ込める。

 

新しく生まれた天上ウテナは、自分のトラウマをアンシーに押しつけ生き延びることを良しとせず、彼女を守り共に生きようとする。

一方暁生は、ウテナをトラウマのない新たな女性性にすることによって、アンシーを心の奥底に閉じ込めようとする。

暁生への恋心によって、一時はお互いを疎んじ合う二人だが、柩ウテナはトラウマも含めた自分の真の女性性を救う方法を選ぶ。

鳳学園から現実に至る決闘場は崩壊する。決闘場から落下したアンシーは、自らの意思と力で鳳学園から現実に出ていく。

(なぜ、助けようとしたウテナが消え、柩ごと落下したアンシーのほうが鳳学園にいる描写になるのか。この辺りを考えると、鳳学園と決闘場、天の城が何を指すのか正確に分かりそう。)

 

疑問点や矛盾点

上記のストーリーラインで考えたときに、まずは根室教授と御影、時子の存在がうまく説明がつかない。根室記念館の部分は、すっきりとした説明が思いつかない。

もうひとつ問題になるのは、38話の屋上でのアンシーとウテナの会話だ。

アンシーはウテナに「あなたは関係ないのに」「ただ巻き込まれただけ」と語っている。

このアンシーの言葉が正しいとすると、鳳学園はウテナとは何の関係のない場所だ、ということになる。

この辺りについてや他のことでも、何か思いついたら順次追記訂正したい。

 

感想

「少女革命ウテナ」は、意味深な描写や一見では意味が分からない描写が非常に多いので、見ているとついその意味を考えたくなってしまう。

しかし別にそういうことは考えなくても、普通に見ているだけでとても面白い。シュールな描写やギャク回は笑えるし、感動するところは何度見ても感動する。

 

この物語は、主人公のウテナの存在にすべてが集約されている。

自分の心の葛藤を乗り越えて、なることのできないはずの「王子さま」に、アンシーのために必死でなろうとするウテナの姿に心打たれる。ラスト二話は何度見ても泣ける。

 ウテナの強さ、美しさ、気高さに、心が持っていかれる物語だった。