うさるの厨二病な読書日記

生涯中二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好きも嫌いも全力で語るブログ。

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ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」の分かりにくい部分を、詳しく解説。【随時更新】

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ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の内容で分かりにくい箇所を、詳しく解説します。

あくまで自分の個人的な解釈になります。

テキストとしては新潮社版(原卓也訳)を使用しています。

 

「カラマーゾフの兄弟」のあらすじと登場人物も簡単にまとめたもの↓

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「カラマーゾフの兄弟」のテーマは?

「カラマーゾフの兄弟」の一番大きなテーマは、「第五編プロとコントラ」でイワンがアリョーシャに語ったことに集約されている。

「神を信じることも信じないこともできない苦しみ」だ。

 

神がいるこの世界で、なぜ子供に対する虐待が存在するのか?

わが子の迫害者と抱擁し合っている母親を眺めながら、この俺自身もみんなといっしょに『主よ、あなたは正しい!』と叫ぶようなことが本当に起こるかもしれない、でも俺はそのときに叫びたくないんだよ。

(「カラマーゾフの兄弟」(上) ドストエフスキー/原卓也訳/新潮社/P470ーP471)

正直な人間であるからには、できるだけ早く切符を返さなけりゃいけないものな。俺はそうしているんだ。

俺は神を認めないわけじゃないんだ、アリョーシャ。ただ謹んで切符をお返しするだけなんだよ。

(「カラマーゾフの兄弟」(上) ドストエフスキー/原卓也訳/新潮社/P472)

「神」というと、現代の日本人には少し理解し難いかもしれない。この辺りは自分が生きていくうえでの価値観や「良心」、「人間の善性」くらいに置き換えて、まずは考えたほうがいいかもしれない。

 

このテーマはドストエフスキーの長編のテーマとして頻繁に用いられており、「罪と罰」のラスコーリニコフ、「悪霊」のスタヴローギンは、イワンとまったく同じ悩みを抱いている。

ラスコーリニコフはイワンと同じように「神がいないのであれば、どんな罪でも赦されるのではないか」と考えて殺人を犯す。

良心を持たないスタヴローギンは、自分の欲望のままに少女を犯し、彼女が罪の意識に苛まれて自殺する姿を眺める。

ラスコーリニコフとスタヴローギンは実際に自分がやった、イワンはイワンの思想に染まったスメルジャコフが殺人を犯したという違いはあるけれど、三人とも「神がいないこと」を証明するために罪を犯す。

ラスコーリニコフにはソーニャが、イワンにはアリョーシャがいたために自白し、誰もいなかったスタヴローギンはチホンに自白をした後、自殺する。

 

それというのは『すべては許される』と考えたからです。これはあなたが教えてくださったんですよ。(中略)

もし永遠の神がいないのなら、いかなる善行も存在しないし、それにそんなものはまったく必要がないって。あなたは本気でおっしゃったんです。

(「カラマーゾフの兄弟」(下) ドストエフスキー/原卓也訳/新潮社/P239/太字引用者)

善悪を判断する神がいなければ、「善行」という概念そのものが存在しない。善と相対する悪も存在しない。だからすべては許されるはずだ。

スメルジャコフは、イワンが繰り返し語ったこの思想に心酔して、それを証明するために父フョードルを殺害する。

 

イワンもラスコーリニコフもスタヴローギンも、この時代のロシアに生きる人間として、信仰が自分の一部になっている。だからそれを否定していても、そこから逃れることができない。しかし信じることもできない。

 

第五編「プロとコントラ」でイワンがアリョーシャに語ったように、「神がいるとしたら、なぜ子供が猟犬に面白半分にかみ殺されたり、実の親に顏に大便を擦り付けられて一晩中トイレの中に押し込められたり、息もできないほど鞭でぶん殴られたりすることがこの世界にあるんだ?」ということが、どうしても納得できない。

「子供たちの涙や苦しみがこの世界の調和に必要だと言うなら、自分はそんなものはいらない」と言う。

アリョーシャはイワンの問いに対して、「罪のない身ですべての人の罪を背負って死んだキリストこそが、全ての罪を許すことができ、この世界を調和させることができる」と答える。

それに対してイワンが答えたのが、「カラマーゾフの兄弟」で最も重要な部分と言われる「大審問官」という叙事詩だ。

 

「大審問官」の意味は?

 「異端審問官」である大審問官は、「人間には、真の自由な心からの信仰など耐えられない」と考えている。

この石ころをパンに変えてみるがいい、そうすれば人類は感謝に満ちた従順な羊の群れのように、お前のあとについて走り出すことだろう。もっとも、お前が手を引っ込めて、彼にパンを与えるのをやめはせぬかと、永久に震えおののきながらであるがね。

(「カラマーゾフの兄弟」(上) ドストエフスキー/原卓也訳/新潮社/P486)

人が望むのは石ころをパンに変えてくれるような奇蹟であり、奇蹟を起こせば人はキリストにひれ伏し、奇蹟を起こさなければ平気で石を投げるだろう。

人は自由な心から信仰するのではなく、信仰しなければパンや奇蹟が失われるのではないか、という恐怖ゆえに信仰する、と大審問官は考えている。

 

それに対してキリストは、「人が自分自身の自由な心から信仰すること」を望んでいる。そのために「あえて奇蹟を起こさないこと」が人々に対する信頼であり愛情である、と思っている。

しかし、異端審問官はそんなものは人々にはまったく伝わらない、と言う。

奇蹟を起こさないキリストをニセモノとして火あぶりにする異端審問官の判断を、人々は支持するだろうと指摘する。

人々がお前をからかい、愚弄して『十字架から下りてみろ、そしたらお前が神の子だと信じてやる』と叫んだとき、お前は十字架から下りなかった。お前が下りなかったのは、またしても奇蹟によって人間を奴隷にしたくなかったからだし、奇蹟による信仰ではなく、自由な信仰を望んだからだ。

お前が渇望していたのは自由な愛であって、永遠の恐怖を与えた偉大な力に対する囚人の奴隷的な歓喜ではなかった。

(「カラマーゾフの兄弟」(上) ドストエフスキー/原卓也訳/新潮社/P492/太字引用者)

 

キリストは人々を信頼し愛するがゆえに、「奇蹟などがなくても、何の利益がなくとも、人は自分自身の主体的な自由な意思と心で神を愛し、信じることができるはずだ」と考えた。

大審問官はそんなことはできないし、そういう風に「人間に過度な期待をすること、できないことを要求すること」は愛情ではない、と言い切る。

「人はただ何も考えないで、文句なく従える対象が欲しいだけだ。神が奇蹟を起こさなければ、代わりに目に見えるところで奇蹟を起こしてくれる妖術を信じてしまう。だから、奇蹟を起こさなくても人は神を信仰するはずだ、と考え人間を信じて放置するのは、愛情だろうけれども愛情とはまったく逆の効果を引き起こしてしまっている」と指摘する。

 

人間にとって良心の自由ほど魅力的なものはないけれど、同時にこれほど苦痛なものはない。ところが、人間の良心を永久に安らかにしてやるための確固たる基盤の代りに、お前は異常なもの、疑わしいもの、曖昧なものばかりを選び、人間の手に負えぬものばかりを与えたため、お前の行為はまるきり人間を愛していない行為のようになってしまったのだ。(中略)

人間の自由を支配すべきところなのに、お前はかえってそれを増やしてやり、人間の心の王国に自由の苦痛という重荷を永久に背負わせてしまったのだ。

(「カラマーゾフの兄弟」(上) ドストエフスキー/原卓也訳/新潮社/P486/太字引用者)

大審問官は、「目に見える分かりやすい奇蹟」で人々を従えるのではなく、ひとつひとつの物事を自分自身の良心に照らし合わせて考え、自分の意思で判断し、あくまで自由な心からの信仰を人々に期待するキリストを非難する。

 

またいまここにいるキリストが本物であり、本当に「復活」という奇蹟を成し遂げたのであれば、人々はまたしても「奇蹟の奴隷」となるだろう。そういう矛盾を既に抱えてしまっている。

「だから自分は『奇蹟の奴隷にはならず、自由な意思で信仰する』という重荷を一人で背負い、お前を火あぶりにする」

「人々を奇蹟の奴隷にしないためには、本物のキリストをニセモノとして火あぶりにするしかないし、実際にそうする。そういう事実を一人で背負う」

「人々にはそんなことは知らせず、パンを与え続け、「文句なく従える対象」としてあり続ける」

それが自分の愛情だ、と大審問官は言う。

 

「悪霊」では、ピョートルやシャートフ、キリーロフは無神論が支配する新しい時代の「文句なく従える対象」として、善悪の概念を持たず、古い秩序や信仰の支配下にいないスタヴローギンを崇拝する。

同じように「カラマーゾフの兄弟」では、「生まれつき神を持たない」スメルジャコフはイワンの思想に心酔する。

 

「カラマーゾフの兄弟」は、この「大審問官」の内容をそっくりなぞっている。

神を否定するために父親を殺した(殺させた)イワンは、大審問官である。彼は人々を喜ばせ考えさせないために、「父親殺し」を提供する。

父親殺しがなかったら、あいつらはみんな腹を立てて、ご機嫌斜めで家に帰るこったろうよ……とんだ見世物さ! 『パンと見世物!』か。

(「カラマーゾフの兄弟」(下)ドストエフスキー/原卓也訳/新潮社/P336)

キリストはミーチャであり、ミーチャは父親を殺していないのにキリストと同じように、「地上の全ての罪を背負うために」無実の身で父親殺しの罪を背負う。

大審問官がキリストに対して「そんなことは何の意味もない」と言ったように、イワンもミーチャに対して「讃歌なんぞ歌いはじめて」と怒りをあらわにする。

大審問官が結局キリストを殺せず逃がしたように、イワンも最終的には兄を救おうと奔走する。そして罪の意識に耐えきれず、病に倒れる。

この辺りは「善悪を超越した存在」になれず、自殺したスタヴローギンと重なる。

 

なぜ、ミーチャは無実なのに罪を背負ったのか?

カーチャをはじめ、過去に他の女性に対しても卑劣なふるまいをしたり、父親の使いできたスネリギョフを人前で、しかも幼い息子のイリューシャの目の前で引きずり回したりと、ミーチャは決して立派な人間ではない。

というよりは、事件が起こるまでは自制心をほとんど持たない、横暴で欲望にまみれた男だった。

ところがそんな彼が、突然、大審問官におけるキリストになる決意をする。

それは逮捕される直前に「童」の夢を見て、「人はみんな全ての人に対して罪がある。誰かがその罪を背負うことでしか、世界は調和されない」ということに気づいたからだ。

『なぜ童はみじめなんだ?』これはあの瞬間、俺にとって予言だったんだよ! 俺は≪童≫のために行くのさ。なぜって、われわれはみんな、すべての人に対して罪があるんだからな。すべての≪童≫に対してな。(中略)

人間はみんな≪童≫なんだよ。俺はみんなの代りに行くんだ。

(「カラマーゾフの兄弟」(下)ドストエフスキー/原卓也訳/新潮社/P160)

イワンが言及した「子供たちの苦しみ」に対しても、ミーチャは全世界の人間が(子供たちも含めて)罪がある、と考えている。そして「自分がその罪を背負うことによって、子供たちを虐げているものは虐げなくなるし、子供たちも罪によって罰せられることがなくなる」と考えている。

この辺りが「子供たちには罪がない」と考えているイワンとの違いではないかと思う。

 

キリストは「人々がお前をからかい、愚弄して『十字架から下りてみろ、そしたらお前が神の子だと信じてやる』」という人々の嘲りにも耐えた。

しかし「俺はまだ心構えができていないんだよ! 聞き流していられないんだ! ≪讃歌≫をうたおうとしてみたが、看守の貴様よばわりは耐えられない」と言っているようにただの人間にすぎないミーチャには、人々の憎悪には耐えられても嘲笑には耐えられない。

アリョーシャは「そんな十字架は重すぎる」と言って、兄に脱走を薦める。

この「罪を背負うにあたって、他人からの憎しみには耐えられても嘲りには耐えられない」という考えは、「悪霊」でも出てくる。

「ぼくには持ちこたえられないというのですか? 彼らの憎悪に持ちこたえられないとでも?」スタヴローギンはうろたえた。

「憎悪だけではなく」

「ほかに何を?」

「彼らの笑いをです」

 (「悪霊」(下)ドストエフスキー/江川卓訳/新潮社/P583)

スタヴローギンはミーチャとは違い、自分が実際に犯した罪を世間に懺悔し、世間に裁かれようと考える。それに際して「自分はいくら、世間から憎まれ罵られもいい」と言う。

しかしそれを聞いたチホンは「恐らく、あなたの罪を聞いて自分にも同じような部分があると感じない人は、あなたを憎むのではなく嗤うでしょう」と答える。

「それは自分(チホン)に照らし合わせて答えているのであって、自分にはあなたの告白をどこか滑稽に感じているところがある」と答える。

 

世界が調和している姿とは?

ゾシマ長老の兄が死ぬ間際に見て、ゾシマ長老もアファナーシィを殴った瞬間に悟った世界のことだ。

太陽がかがやき、木の葉はよろこびきらめき、小鳥は神をたたえている(中略)

本当は人間はだれでも、あらゆる人あらゆるものに対して、すべての人の前に罪があるんです。人はそれを知らないだけですよ。知りさえすれば、すぐに楽園が生まれるに違いないんです!

 (「カラマーゾフの兄弟」(中)ドストエフスキー/原卓也訳/新潮社/P69-P70)

「人は全てのものに対して罪があるのを知らないから、この世界が調和し美しいことに気づかない」

「世界が美しさや調和していることに気づかないから、人に仕えてもらって当然だと思ったり、人を殴ってもいいと考えている」

ゾシマ長老やアリョーシャは、この世界のことを知っている。というよりは「世界は本当はそういう姿をしている」ということを知っている。

だからこの世界がどれほど悲惨に満ち溢れていても、「世界が調和していることに人々が気付きさえすれば」その悲惨は無くなるし、償われると信じることができる。

しかしイワンは「調和した世界」を見たことがないので、それを信じることができない。

*この「世界が調和している感覚」については、どこかで「てんかんの発作の前兆に過ぎない」という見解も書かれていたと思う。確か「白痴」だったと思うが、該当箇所を見つけたら追記する予定。

 

ゾシマ長老の「神秘的な客」について

ゾシマ長老の若いころの話に出てくる「神秘的な客」は、「自白することによって裁かれ、罪を背負いたい→罪を背負うことによって、世界を調和させたい」というミーチャやスタヴローギンの発想をそっくりなぞっている。

わたしにとって楽園が訪れることはわかっています。告白すれば、すぐに訪れるでしょう。(中略)

わたしは苦しみたい。苦悩を背負って、真の人生をはじめますよ。

(「カラマーゾフの兄弟」(中)ドストエフスキー/原卓也訳/新潮社/P88) 

ドストエフスキーの作品においては、有罪か無罪かは余り関係がなく、「『罪』という十字架を背負うこと」に意味があると考えられている。 罪を背負うことでしか、「調和した世界は訪れない」からだ。

 

スメルジャコフは、なぜ自殺したのか?

自分が信じたイワン(とその思想)を信じることができなくなったから。

「神がいない」という神を失ったから、という風に言うこともできる。

イワンとスメルジャコフの関係は、「悪霊」のスタヴローギンとピョートルの関係に似ている。

スメルジャコフとピョートルにとって、イワンとスタヴローギンは「『神はいない』という神」だった。

しかし「すべては許される」と考えていた彼らも結局は罪悪感に耐えきれなくなり、神に膝を屈したため、スメルジャコフは絶望して自殺した。

 

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