篠原千絵の「海の闇、月の影」を読んでいて、「当麻克之のことが嫌いだったなあ」とひさしぶりに思い出した。
少女漫画の相手役の中で、最も受けつけないキャラだった。
「海の闇、月の影」は好きだけれど、双子で取り合うのが当麻、というのがどうも納得がいかなかった。
キャラとして好きかどうか以前に、当麻はかなり怖い奴だからだ。
当麻克之の怖いところは、人間味が感じられないところだ。
ジーンや流水も目的のためならば手段を選ばず、残酷なところがあり、そういう意味では「人間味がない」。
しかし、当麻の人間味のなさは、この二人を遥かに越えている。
さらに怖いのは、読んでいるほうから見ると「人間味がないおかしなキャラ」なのに、作中では「普通の恰好いい男」と扱われているし、本人も自分に疑問を感じていないところだ。
当麻克之というキャラは、「ヒロインの流風が好き」というただその一点だけで人間性ができている。
「少女漫画のヒロインの相手役は、そういう奴のほうが多いだろ」と思うかもしれない。
日常を背景にした恋愛漫画であれば、ヒロインを最優先にする、と言っても、「優先されないもの」は、受験や勉強、学校や夢のための時間や親の心情、同級生たちからの目などにとどまると思う。「恋に熱くなっている時期は、そういうこともあるかもな」と納得がいく。
ところが「海の闇、月の影」はサスペンスなので、人の生死が物語に関わる。
「相手役がヒロインを常に最優先にして行動する」と、その行動がとんでもなく極端になる。
キャラクター性がどうこうより、下の記事に書いたリアルラインの話が近いかもしれない。
当麻克之はヒロイン流風の姉、流水に実の両親を殺されている。
ところがその後の当麻の言動を見ていると、その事実を忘れているとしか思えない。
例えば流水は、薬で当麻の意識を朦朧とさせて流風のフリをして関係を持つ。
当麻は自分の両親を殺した相手に騙されて関係を持ってしまったが、このあと当麻が感じるのは、流風への罪悪感と「流風にバレたらどうしよう」ということだけだ。
両親をはじめ、流水に殺された数多くの人のことなどチラリとも頭にかすめない。
当麻の行動や感情は全ては、「流風を不快にさせない」という一点に集約されている。
それ以外のことは一切、考えていない。読むと分かるが、何の誇張でもなく本当に「一切、考えていない」
インターハイの優勝候補だった陸上選手としての自分の実績も、流水に殺された両親のことも、そもそも現在の状況が世界にとってどれほど脅威かということも、一切考えていない。
流風が「流水が昔の流水に戻るかもしれない」と思うようになると、「流水も、本当は流風と同じくらいいい子なんです」と言い出す。このときに、流水に殺された人間に対しては何の思いも馳せない。
この辺りはヒロインの流風も、当麻に似ている。
流水が自分に優しくしてくれると、流水がすでに何十人と人を殺しているにも拘わらず、「良かった、昔の流水に戻るかも」と言い出す。
ジーンに能力を付与されて、面白半分に人を殺してしまった真琴に対しても、「真琴ちゃんは何も分からなかったのだから」「新しい私たちの仲間。上手くやっていけそう」などと言い出す。
この辺りは「(真琴が)実の母親を含めて、何人殺したと思っているの? その意味が分かるようになる前に殺してやるのが温情」という流水の考え方のほうがよほどマトモに聞こえる。
「殺してやるのが温情」というのはかなり強い言い方だが、それくらい人を殺したということは「分からなかったから」では済まされない重いことなのだ、そしておそらく本人にとっても重荷になるだろう、ということを流水は分かっている。
流水は道徳や倫理に反したことをするが、その価値観自体は持っているし、理解している。
ところが流風と当麻は、道徳や倫理よりも自分たちの感情を常に優先させる。
流風が真琴を受け入れると決めたあと、「真琴は、とっても悪いことをしたんだね」という真琴に、「(殺人が悪いことだと)分かったんだからもういい」と当麻は言う。
いや…、もういい、ってあんた…。
まるで、受験のストレスからの出来心による悪さを許すかのごとく、大量殺人を片付ける。当麻の頭の中身はどうなっているんだろう、と読んでいて怖くなる。
ちなみに真琴も流水に殺されるが、流風が真琴の死を嘆くのは、殺された直後だけだ。誰が死んでもそうなんだけれど。
「海の闇、月の影」を初めて読んでいたとき、自分の周りではヒロインの流風よりも流水のほうがずっと人気があった。
「いい子ちゃんなんてつまらない。悪のほうが魅力的」という年頃だったからか、と思っていた。
大人になってから改めて読んでみると、子供のときよりもずっと流風よりも流水のほうが魅力的に見えるし、共感する。
倫理観が破たんしているのにそこに何の疑問も持たない流風や、流風の操り人形のような当麻よりも、自分のやっていることが悪、と分かる価値観を持ちながら、どうしてもそれを押さえきれない葛藤を持つ流水のほうが、むしろ自然で共感しやすいキャラだ。
「同じ双子でもずいぶん、反応が違うな」という水凪薫の言葉への「女が貞淑でいられるのは、自分の想いが受け入れられているときだけよ。私が流風の立場だったら、私だってカマトトぶるわ」という流水のセリフは、自分の中で個人的な名台詞だ。
流水の辛さと苦しみ、葛藤がこのセリフに凝縮されている。
そりゃあ、水凪も「あんた、可愛い女だな」と言いたくなるだろう。
水凪や京子も面白いキャラなのに、使い捨てのごとくどんどん死んでいく。
外見で言えば「丸書いてチョン」くらいの精神性しか持たない、流風や当麻のために世界がクルクル回っている。そんな不気味な世界で生きていれば、流水が若干おかしくなるのも無理はないのかもしれない。
篠原千絵は余りキャラを作りこむタイプの作家ではない。
自分が読んだいくつかの作品でも、主役と相手役はほとんど見分けがつかないくらい同じタイプだ。相手役は「ヒロインのことを最優先に考える」という一点しか、人間性を付与されていないことがほとんどだ。
篠原千絵の作品は、とにかくストーリーが面白いので、この方が話が動かしやすいのだと思う。
「闇のパープル・アイ」の慎ちゃんのように、本人に背景がなければ問題はないのだが(慎ちゃんの家族ってどうなっているんだろう? 息子があんなに出歩いて、しかもいきなり赤ん坊を連れてきて、何か不審に思わなかったのだろうか??)背景があると矛盾が生じやすくなる。
「海の闇、月の影」の最大の失敗は、流水に当麻の両親を殺させたことだと思う。
その結果、当麻を両親が殺されたことを気にしない狂気のキャラにするか、当麻の流水に対する個人的な葛藤を描写して物語の流れを悪くするかを選ばざるえなくなった。前者をとった結果、当麻は一見マトモに見えてとんでもないキャラになってしまった。
これは、流水と流風が善悪に分かれたように見えて、実は同じものを共有している、二人はやはり双子なのだ、という物語の流れにとっても障害になる。
自分の両親を殺した流水の悪の部分を流風も持っている、という文脈が語られる中で、それに対して何ひとつ悩まず葛藤もせず、ひたすら流風が好きと言い続ける当麻は、物語の始めから終わりまでおかしな人にしか見えない。
当麻さえいなければ起こらなかった話だが、当麻さえいなければこの話自体、もっと面白かった、という二重に罪深い存在になっている。
でもそういうところも、「海の闇、月の影」の面白いところなのかもしれない。(←強引なまとめ)
「海の闇、月の影」では流水と水凪が好きだけれど、「闇のパープル・アイ」の曽根原薫子も好きだった。ひどい奴だけど、自分の人生の全てを倫子を追いかけ回すことにかける執念がすごいと思う。「ひぐらし」の鷹野に似ている。