うさるの厨二病な読書日記

生涯中二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好きも嫌いも全力で語るブログ。

篠原千絵「海の闇、月の影」を読んで「当麻克之が嫌いだったなあ」としみじみ思い出した。

 

篠原千絵の「海の闇、月の影」を読んでいて、「当麻克之のことが嫌いだったなあ」とひさしぶりに思い出した。

少女漫画の相手役の中で、最も受けつけないキャラだった。

「海の闇、月の影」は好きだけれど、双子で取り合うのが当麻、というのがどうも納得がいかなかった。

 

 

キャラとして好きかどうか以前に、当麻はかなり怖い奴だからだ。

当麻克之の怖いところは、人間味が感じられないところだ。 

ジーンや流水も目的のためならば手段を選ばず、残酷なところがあり、そういう意味では「人間味がない」。

しかし、当麻の人間味のなさは、この二人を遥かに越えている。

さらに怖いのは、読んでいるほうから見ると「人間味がないおかしなキャラ」なのに、作中では「普通の恰好いい男」と扱われているし、本人も自分に疑問を感じていないところだ。

 

当麻克之というキャラは、「ヒロインの流風が好き」というただその一点だけで人間性ができている。

「少女漫画のヒロインの相手役は、そういう奴のほうが多いだろ」と思うかもしれない。

日常を背景にした恋愛漫画であれば、ヒロインを最優先にする、と言っても、「優先されないもの」は、受験や勉強、学校や夢のための時間や親の心情、同級生たちからの目などにとどまると思う。「恋に熱くなっている時期は、そういうこともあるかもな」と納得がいく。

 

ところが「海の闇、月の影」はサスペンスなので、人の生死が物語に関わる。

「相手役がヒロインを常に最優先にして行動する」と、その行動がとんでもなく極端になる。 

キャラクター性がどうこうより、下の記事に書いたリアルラインの話が近いかもしれない。

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当麻克之はヒロイン流風の姉、流水に実の両親を殺されている。

ところがその後の当麻の言動を見ていると、その事実を忘れているとしか思えない。

 

例えば流水は、薬で当麻の意識を朦朧とさせて流風のフリをして関係を持つ。

当麻は自分の両親を殺した相手に騙されて関係を持ってしまったが、このあと当麻が感じるのは、流風への罪悪感と「流風にバレたらどうしよう」ということだけだ。

両親をはじめ、流水に殺された数多くの人のことなどチラリとも頭にかすめない。

 

当麻の行動や感情は全ては、「流風を不快にさせない」という一点に集約されている。

それ以外のことは一切、考えていない。読むと分かるが、何の誇張でもなく本当に「一切、考えていない」

インターハイの優勝候補だった陸上選手としての自分の実績も、流水に殺された両親のことも、そもそも現在の状況が世界にとってどれほど脅威かということも、一切考えていない。

流風が「流水が昔の流水に戻るかもしれない」と思うようになると、「流水も、本当は流風と同じくらいいい子なんです」と言い出す。このときに、流水に殺された人間に対しては何の思いも馳せない。

 

この辺りはヒロインの流風も、当麻に似ている。

流水が自分に優しくしてくれると、流水がすでに何十人と人を殺しているにも拘わらず、「良かった、昔の流水に戻るかも」と言い出す。

ジーンに能力を付与されて、面白半分に人を殺してしまった真琴に対しても、「真琴ちゃんは何も分からなかったのだから」「新しい私たちの仲間。上手くやっていけそう」などと言い出す。

この辺りは「(真琴が)実の母親を含めて、何人殺したと思っているの? その意味が分かるようになる前に殺してやるのが温情」という流水の考え方のほうがよほどマトモに聞こえる。

「殺してやるのが温情」というのはかなり強い言い方だが、それくらい人を殺したということは「分からなかったから」では済まされない重いことなのだ、そしておそらく本人にとっても重荷になるだろう、ということを流水は分かっている。

流水は道徳や倫理に反したことをするが、その価値観自体は持っているし、理解している。

 

ところが流風と当麻は、道徳や倫理よりも自分たちの感情を常に優先させる。

流風が真琴を受け入れると決めたあと、「真琴は、とっても悪いことをしたんだね」という真琴に、「(殺人が悪いことだと)分かったんだからもういい」と当麻は言う。

いや…、もういい、ってあんた…。

まるで、受験のストレスからの出来心による悪さを許すかのごとく、大量殺人を片付ける。当麻の頭の中身はどうなっているんだろう、と読んでいて怖くなる。

ちなみに真琴も流水に殺されるが、流風が真琴の死を嘆くのは、殺された直後だけだ。誰が死んでもそうなんだけれど。

 

「海の闇、月の影」を初めて読んでいたとき、自分の周りではヒロインの流風よりも流水のほうがずっと人気があった。

「いい子ちゃんなんてつまらない。悪のほうが魅力的」という年頃だったからか、と思っていた。

大人になってから改めて読んでみると、子供のときよりもずっと流風よりも流水のほうが魅力的に見えるし、共感する。

倫理観が破たんしているのにそこに何の疑問も持たない流風や、流風の操り人形のような当麻よりも、自分のやっていることが悪、と分かる価値観を持ちながら、どうしてもそれを押さえきれない葛藤を持つ流水のほうが、むしろ自然で共感しやすいキャラだ。

 

「同じ双子でもずいぶん、反応が違うな」という水凪薫の言葉への「女が貞淑でいられるのは、自分の想いが受け入れられているときだけよ。私が流風の立場だったら、私だってカマトトぶるわ」という流水のセリフは、自分の中で個人的な名台詞だ。

流水の辛さと苦しみ、葛藤がこのセリフに凝縮されている。

そりゃあ、水凪も「あんた、可愛い女だな」と言いたくなるだろう。

水凪や京子も面白いキャラなのに、使い捨てのごとくどんどん死んでいく。

外見で言えば「丸書いてチョン」くらいの精神性しか持たない、流風や当麻のために世界がクルクル回っている。そんな不気味な世界で生きていれば、流水が若干おかしくなるのも無理はないのかもしれない。

 

篠原千絵は余りキャラを作りこむタイプの作家ではない。

自分が読んだいくつかの作品でも、主役と相手役はほとんど見分けがつかないくらい同じタイプだ。相手役は「ヒロインのことを最優先に考える」という一点しか、人間性を付与されていないことがほとんどだ。

篠原千絵の作品は、とにかくストーリーが面白いので、この方が話が動かしやすいのだと思う。

「闇のパープル・アイ」の慎ちゃんのように、本人に背景がなければ問題はないのだが(慎ちゃんの家族ってどうなっているんだろう? 息子があんなに出歩いて、しかもいきなり赤ん坊を連れてきて、何か不審に思わなかったのだろうか??)背景があると矛盾が生じやすくなる。

 

「海の闇、月の影」の最大の失敗は、流水に当麻の両親を殺させたことだと思う。

その結果、当麻を両親が殺されたことを気にしない狂気のキャラにするか、当麻の流水に対する個人的な葛藤を描写して物語の流れを悪くするかを選ばざるえなくなった。前者をとった結果、当麻は一見マトモに見えてとんでもないキャラになってしまった。

これは、流水と流風が善悪に分かれたように見えて、実は同じものを共有している、二人はやはり双子なのだ、という物語の流れにとっても障害になる。

自分の両親を殺した流水の悪の部分を流風も持っている、という文脈が語られる中で、それに対して何ひとつ悩まず葛藤もせず、ひたすら流風が好きと言い続ける当麻は、物語の始めから終わりまでおかしな人にしか見えない。

 

当麻さえいなければ起こらなかった話だが、当麻さえいなければこの話自体、もっと面白かった、という二重に罪深い存在になっている。

でもそういうところも、「海の闇、月の影」の面白いところなのかもしれない。(←強引なまとめ)

 

「海の闇、月の影」では流水と水凪が好きだけれど、「闇のパープル・アイ」の曽根原薫子も好きだった。ひどい奴だけど、自分の人生の全てを倫子を追いかけ回すことにかける執念がすごいと思う。「ひぐらし」の鷹野に似ている。

 

 

【ネタバレ感想】中野純子「ちさ×ポン」の恐るべき重みと破壊力

 

*本記事には、性行為や性被害についての内容が含まれます。そういった話が苦手な方はご注意ください。

 

kindleやネットの漫画コンテンツで「ちさ×ポン」の一巻、二巻が無料試し読みの対象になっていたので、久しぶりに全5卷を購入して読んでみた。

 

この漫画は、読んだ人の感想がそうとう分かれると思う。

初めて読んだとき、そもそもどう受け取ればいいか、どういう角度で読めばいいか分からなかった。描いていることは、どれひとつをとっても正面から受け取るには重すぎる。

この漫画の恐ろしいところは、描いていることを一切受け取らず、「可愛い女の子のエロい姿をただ楽しむだけ」という読み方も簡単にできてしまうところだ。

ヒロインの千砂は文句なくエロくて可愛い。主人公のポンタは同性からも異性からもすんなり受け入れられそうなキャラクターだ。

二人のエロくてちぐはぐな恋愛漫画というだけでも、十分以上に面白い。

 

「ちさ×ポン」は「普通のエロい恋愛漫画」のような始まり方をしている。

主人公のポンタはごく普通の男子高校生で、童貞を捨てることで頭がいっぱいだ。

友達の紹介で、ちょっと抜けているが可愛い千砂と出会う。

男友達と海に行くのに制服、スク水でくる、顔は清楚で童顔、性格は天然なのに胸は大きい、というヒロインを見ただけで「あー、はいはい」と言いたくなる。

 

二人はめでたく付き合いだす。

いよいよ本格的にエロくなるのか、ニヤニヤと思いきや、ここから物語は不穏な方向に進み出す。

千砂と早く性的な関係になりたいポンタと、ポンタのことは好きだが深い関係になるのは怖い千砂の温度差。

最初の性交渉がまったくうまくいかず、そのことに「自分の身体はどこか欠陥があるのではないか」と傷つく千砂。

なぜ好きなのに上手くいかないのか、自分の自信のなさから千砂の弱みにつけこむように行為をエスカレートさせていくポンタ。

そんなポンタとの関係に嫌だと思いつつも、はっきりと断れない千砂。

キスがしたいから人気のない木陰に誘ったのに、「人気のないところに誘ったということは、性行為をして欲しいんだ」と勘違いするポンタ、それをはっきりと拒めないまま、涙を流してその行為を受け入れる千砂のシーンなど、もうそれだけでお腹いっぱいだ、やめてくれと言いたくなる。

それでも彼にしがみついていた。彼を許そうとしている自分に絶望しながら。

余りに重いシーンだが、こういうことはありがちなのではと推測する。

 

特に若い男女にありがちな、性への意識の違いや自信のなさからくるコミュニケーションの断絶、好き合っているはずなのに分かり合えない虚しさやそこからくる絶望感をここまで詳細に描かれるのはキツイ。

なぜ、ポンタと同じ年くらい、もしくはそれよりもやや上の年齢層をターゲットにしている青年漫画で、女性の性に対する意識の複雑さや苦しみをここまで丹念に描くのか。

 

こんなに重い内容をその年齢層の異性に理解してくれ、というのも期待しすぎではないかと思ってしまう。マトモに読み取ってもらえず、エロさだけに注目されれば、それは作品の中のポンタと千砂の関係をなぞることになり、虚しさや絶望をますます増幅させるだけではないか。

そんな不安をよそに、物語は坂道を転がり落ちるようにどんどん恐ろしい方向へ進んでいく。

 

ポンタへの不信感から千砂は悪い噂がある滝川の誘いにのり、レイプされてしまう。

その描写もここまでやるか、というくらい生々しい。

千砂は公園の水道で、淡々と友達のルミに事の経緯を説明しながら股間の出血をぬぐう。血をぬぐったハンカチを洗うシーンで、突然タガが外れたように必死でハンカチを洗い出す。

 

「ちさ×ポン」ではこの手の重い描写に、作者が演出でインパクトを与えることがほとんどない。

他の出来事と同じように淡々と描かれているので、読んでいるほうも気をつけていないと「それがどれほどの意味を持つか」ということをつい見落としてしまう。

千砂はレイプされたあと、何度も何度も風呂に入るようになる。ボディソープのボトルが一週間で空になってしまう。そして知らない男の誘うままにカラオケについていき、言われるがままに上着をまくりあげ胸を触らせる。

「きっ、気持ち悪! この人の手、アブラでベトベトだ!」

このシーンも、何故か若干コメディタッチになっている。

自分はボディソープの下りや、カラオケのシーンをまったく覚えていなかった。

しかしこれはちゃんと読めば、どう考えても恐ろしいシーンだ。どれほど千砂が深く傷ついたか、強く伝わってくるシーンだからだ。

 

千砂は恋人のポンタとは痛みで性交渉がまったくできなかったのに、レイプされたときは感じてしまったことに強い罪悪感を持ち、深く傷つく。

「自分はとてつもなく不純でふしだらな汚い女なんだ。感じたんだからあれはレイプじゃないんだ。そもそもデートに応じた自分が悪いんだ」

とまで考える。

女なら誰だって自分は清純だって思っていたいよ。それが美徳だと刷り込まれて育つんだから! 

なのに現実はレイプされて感じる女だった。

千砂ちゃんの受けたショックがどれほどのものか、男のアンタに想像しろってのも無理だけれど。(略)

単に処女を奪われて傷ついているんじゃない。女性としての尊厳まで奪われているとしたら、その傷のほうが遥かに深いよ。

家庭教師の桃子は、「千砂はレイプされて感じるような女じゃない」とあくまで信じたがるポンタにそう突きつける。

桃子は高校時代、友達の彼氏とささやかな復讐心から寝てしまい、「公衆便所」と揶揄されるようになる。

確かに友達の彼氏とそういう関係になった桃子は間違っており、ルール違反を犯した。(そのことは後で、ちゃんと他の友人によって諭される。)

 

しかし「性的に奔放である女性」に対する、周りの人間の蔑み、貶め方、そしてそういう女性の尊厳を傷つけることに対しての抵抗感のなさというのは、見ていて恐ろしいほどだ。

その友達の彼氏も同罪であろうに、彼が仮に咎められることはあっても(漫画ではその描写すらなかったが)「便所」と人間の尊厳を傷つける言葉で罵られることはない。

桃子はそのあと、そのことをネタに脅され、アルバイト先の先輩に性行為を強要されるようになる。

桃子は「やらなければならないなら、その行為を楽しまなくては損」と考える。

そして恋人に自分が学校で「誰とでも寝る女」呼ばわりされていることを打ち明けるよりは、相手の脅しに屈して身体を差し出した自分を、「こいつ(脅した相手)と似合いの汚い女だ」と責める。

桃子も割りきるまでは、「性的に奔放であること=脅迫と同じくらい汚いこと」と考えている。

番外編である「そんな桃子の青い春」は、「ちさ×ポン」本編と構図がかぶっており、語られていることは同じくらい重い。

 

「女は清純であることが美徳だ」という風潮の中で、女性は自分の性的欲求や欲望とどう向き合えばいいのか。

男性は恋愛と性欲は別と割り切れるのに、なぜ女性は割り切れないのか、割り切ることを許されないのか。許されないとは、誰が許さないのか。

それは「千砂ちゃんは、レイプされて感じるような女じゃない」という、決して悪意ではないポンタの考えの中にも潜んでいるのではないか。

感じようが感じまいが、レイプはレイプだ。なぜ、そう言えないのか。

そういう風にどんどん思考が、自分が今までさほど感じていなかった性的なことに対する疑問につながっていく。

自分自身の性との向き合いかた、自分とは感覚が違う異性との向き合いかた、そして自分とは違う感覚を持つ同性との向き合いかたまで問われてくる。

普通の高校生のエロい恋愛漫画を楽しんでいただけのはずが、いつの間にかとんでもない深みに連れ込まれている。

 

加害者である滝川をできうる限り傷つけようとして、千砂は考え得る限り最も残酷な言葉を吐く。

これも「それをヒロインに言わせるか」と、目まいを起こしそうな言葉だ。

そしてその後の千砂の「何でも言うことを聞くというなら、今すぐここから飛び降りて死んでくれ」という言葉を聞いて、何のためらいもなく滝川は死のうとする。

本当に飛び降りた滝川を助けようとする千砂とポンタの描写も、かなりコメディタッチだ。

パンツ丸出しで半べそをかきながら「ポンタくん…助けてえ」という千砂がめちゃ可愛い。それまでの重い描写とかなりギャップのある描写だ。

余りにシームレスに話が続いているので、気にとめていないとコメディ描写も重い描写も同じように読み流してしまう。

 

そもそも滝川は小六のときから継母と性的関係を持っている、法律的には「性的虐待の被害者」という背景がある。

滝川が継母を本当に慕っていたのか、慕っていたとしても彼も同じように「自分の尊厳を傷つけられた」と感じていたのか、だからどこか壊れて女性をモノのように扱うようになったのか。

この辺りの滝川の話も掘り下げられることはない。

こういう重い話が背景としてポンポン出てくるが、読者が立ち止まって考えない限りは、それが背景以上の意味を持つことはない。

滝川はこの後は、物語的に狂言回しや道化のようなキャラとして使われることが多くなる。その構成も余り考えなければ笑いながら読んでいられるけれど、よくよく考えるとどこか怖い。

 

愛する彼女がレイプされ、抵抗できず感じたことに「あれはレイプではなかった」と言うほど罪悪感を抱き、深く傷ついているときに、自分はどうすればいいのか。

ポンタは必死に考え、千砂を支えるでも救うでも寄り添うでもなく、ただ傷ついた彼女を愛することに全力を尽くす。

どれほど愛していたとしても、高校生にこれをやれ、というのはかなり酷だし無理だろう。

高校生どころか大人でさえ難しい。

相手を愛すれば愛するほど、相手の傷の深さを目の当たりすれば感情的になって自分や誰かを責めてしまったり、何かをせずにいられなくなる。

現実では千砂のような立場になった女性が、こんな風に短期間で立ち直るのは難しいように思う。立ち直ったように見えても、心の奥深いところは傷ついたままで、それが様々な形で現れる、ということも多いのではないか。

専門家に任せつつ、自分は側で見守り続けるしかない。しかし「ただ見守る」「ただ愛する」ということが大人でも出来るかどうか。

家族であれば何年でも回復を待ち続けることができるかもしれないが、高校生がそれを愛ゆえにしてくれるというのは、超美形の大金持ちの俺様男子が平凡なヒロインと恋に落ちる、などという話以上に夢物語に聞こえる。

そういう意味では、ポンタは一見平凡なただの高校生に見えて「少女漫画の王子様キャラ」以上に夢のような存在だ。色々と過ちも犯すけれど、それでもあきらめずに千砂を愛し続けるポンタは、現実離れした強さとカッコよさを持っている。

 

誰かを好きなことが愛なのか、その人に何かをしてあげることが愛なのか、その人の立場になって怒ったり喜んだりすることが愛なのか。

自分がその人を好きなのはわかる。自分のこの気持ちは愛なのかもしれない。でも「愛する気持ち」から出てくる「愛するという行為」は、どういう行為なんだろう? 

「ちさ×ポン」は最終的には、そこに行きつく。

男性や女性、大人や高校生、恋愛やそうではない愛情ということを関係なしに、「自分の大切な人をどう愛すればいいのだろう?」「人を本当に愛するとはどういうことなんだろう?」という話なのだ。

 「ちさ×ポン」は「誰かを愛する」という重みから逃げずに、この物語なりの答えを出している。

その答えを目の当たりにして、「一体、自分はどうなのか?」ということまで、今までの過去のことまで振り返って考えさせられる。

そういうところに引きずり込まれる、恐ろしいほどの重さをもっている。

 

「ちさ×ポン」は、とても重いことを含んでいながら、そのことに対する押しつけがましさがない稀有な漫画だ。

とてつもなく重いことを語りながら「それを受け取ってもらわなくてもOK」「ただの恋愛漫画、エロ漫画として楽しんでもらってもOK」という、作者のある種のおおらかさを感じる。

そういう作者の読み手への愛を感じるから、重く深い内容でも安心して読める。

そんな中で自分とは違う異性の気持ちや、自分とは感覚が違う人の気持ちを少しだけ考えたくなってくる、そこがこの漫画の一番すごいところかもしれない。

ここまで書いておいてなんだけれど、作品としては「ヘタコイ」のほうがずっと好きだ。「ちさ×ポン」のほうがすごい漫画だとは思うんだけれど、ただ楽しむにはちょっと重すぎる。読むのに気合がいる。

 

 余談:同じテーマなら吉田秋生「ラヴァーズ・キス」もおススメ。

 個人的に「ちさ×ポン」と同じテーマが語られているのでは、と思うのは吉田秋生の「ラヴァーズ・キス」の里伽子編だ。

 

「ラヴァーズ・キス」の主人公の一人である里伽子は、子供のときに先生から性的な悪戯をされていて、そのことが深い傷になって男と遊び歩くようになる。

「女性としての尊厳を傷つけられて、その尊厳を自ら貶めるような行為に走る」というのは、千砂と同じ構図だ。

「言うことを聞かないと嫌いになっちゃうよ、と言われたから。私、先生に嫌われたくなかった」

という里伽子は、ポンタの性行為を拒めず泣きながら受け入れた千砂に重なる。

「ちさ×ポン」では千砂を愛するためにポンタはかなり試行錯誤するが、「ラヴァーズ・キス」では里伽子の傷を、同じ傷を持っているがゆえに藤井がすぐに悟る。

 

里伽子は自分と同じように「性的に悪い噂がある」藤井と、「むしゃくしゃしていたから」付き合おうと誘い寝る。里伽子のその行為に対して、藤井は「男だってモノ扱いされれば気分が悪い」と言って切れる。

結果の重大さに落差があるけれど、里伽子が藤井にやったことと、滝川が千砂にやったことは根っこのところで同じだと思う。自分を貶めるために、他の誰かを傷つけ自分と同じ地点に引きずり落とそうとする。相手を自分を貶めるための道具にしている。

 

藤井は実の母親から関係を迫られ続け、追いつめられて家から逃げ出している。この辺りは「ちさ×ポン」の滝川と継母の関係にかぶる。

滝川は、話のニュアンスから関係を持った当初は継母と愛し合っていたように描かれているけれど、「無防備な状態で心に深い傷を負わされた」という意味では千砂や里伽子、藤井と同じだ。

 

「ちさ×ポン」は性描写が多すぎてキツイ、という人で、「ラヴァーズ・キス」を読んでいない人がいればおススメしたい。名作です。

 

【ネタバレ感想】既刊3卷までを読んで、東元俊哉「テセウスの船」の犯人を考察してみた。

 

 

東元俊哉「テセウスの船」を、既刊3卷まで読んだ。 

 

主人公の父親は、主人公が生まれる直前に「小学校の児童教職員、合わせて21人を殺害した罪」で捕まっている。父親は捕まってから28年間、一巻して無罪を主張している。主人公が28年前にタイムスリップして、事件の真相を解明しようというストーリー。

「僕だけがいない街」に似ている、という感想を見たが、個人的にはこっちのほうが好きかな。まだ完結していないので、何とも言えないけれど。

 

タイムスリップものにおいて、未来を変えようとしてどんどん予想外の出来事が起こるのはお約束だ。「テセウスの船」の面白いところはそれがいいことなのか悪いことなのか、はっきりしないところだ。

「恐らく悪いほうへ向かっている」という不吉な感じがあるけれど、はっきりとしたことが分からないのでとにかく起こっている出来事に対して、登場人物たちは最善を尽くす。しかしそれが裏目に出ている……というより、裏目かどうかもよくわからない。

どんどん主人公の心(シン)が未来で知っている事件とは、別のことが起こる。最初は少しずつ、そしてその違いはどんどん拡大していく。

 

最終的には、事件そのものがまったく別物になるのでは? だから「テセウスの船」か。

このどっちに転ぶか分からない緊迫感と不安が、ずっと続いて欲しい。

「テセウスの船」という題名はもうひとつ、主人公の心が、父親が付けるはずの名前だった「正義」に名実共になる過程を表しているのだとは思う。その展開も今から想像するだけで胸熱だ。

 

3卷まで読んだ時点での犯人予想

3卷までの情報で、犯人は誰かと考えてみた。

連載している最新話でも、たぶん犯人はまだ分かってないよね? 6月22日(金)に四巻が発売されるので、情報が増えたら考え直すかもしれない。

 

とりあえず三巻までを読んだ時点では…。

うーん、子供じゃないかと思うんだわ。

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 (引用元:「テセウスの船」2卷 東元俊哉 講談社)

「ウサギ殺し」の動機を田中に言った人物が犯人とは限らないけれど、とりあえずこの言葉の人物=犯人と考える。

この時点で田中の家にいたのは、子供たちと翼だけだ。長男の正志はいたのかもしれないけれど画面には出てきていないし、「田中のお爺ちゃん」という呼び方もしないと思う。

 

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 (引用元:「テセウスの船」1卷 東元俊哉 講談社)

カセットテープの文字を見ても、子供のもののように見える。

字の下手な大人もいるので一概には言えないけれど、自分も字が下手、とよく言われるけれど、さすがにこの字よりは上手いと思う。(たぶん) 

 

また心がいない歴史(正史)では、2月5日に死亡した田中義男を「近所に住む少年」が発見したことになっている。ミステリーでは第一発見者を疑えは鉄則だけれど、この「近所に住む少年」の名前はかすれて読めない。

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 (引用元:「テセウスの船」1卷 東元俊哉 講談社)

 

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 (引用元:「テセウスの船」1卷 東元俊哉 講談社)

 

鈴が明音とおそろいのキーホルダーをつけていることは大人は余り知らないんじゃないかと思う。このキーホルダーの件で鈴と明音がもめたときに、現場にいたのは子供だけだった。

鈴のキーホルダーを落としてあったのは、佐野に鈴を疑わせるためかなと思った。それを翼が明音の死体を持って行ってしまったために、「計画が滅茶苦茶になった」のでは。

翼は「お稲荷様に怒られるからね」と言ったり、最期もお稲荷さんの前で死んだ。

一巻で心が出会った男の子が「お稲荷様」なのかな?

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(引用元:「テセウスの船」1卷 東元俊哉 講談社)

 

髪型だけを見ると佐藤陽っぽい。ただ佐藤は6月24日のお泊り会で死亡している。

オレンジジュースに毒物を入れるのは、学校に忍び込んで誰でも入れられたのだろうか? その場にいた人間じゃないと難しくないか?

出てくる登場人物の中でお泊り会で死んでいない人間となると、消去法で加藤みきおになる。お泊り会で意識不明になったけれど、一命はとりとめている。

消去法以外にも、明音が発見された山小屋に佐野と心を誘導している。

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(引用元:「テセウスの船」3卷 東元俊哉 講談社)

 

翼が「もし三日後に運よく明音ちゃんが見つかっても…」という言葉を言っているので、三日後にこうやって誘導して発見させる手はずだったのかなと思う。

ただ実際に発見されたのは二日後。このタイムラグはよく分からない。

翼が犯人の手下になっているのであれば、青酸カリは紀子→翼→犯人のルートで手に入れられる。

 

翼がなぜ「お稲荷様」を恐れるのかはよくわからないけれど、「ウサギ死んだのってお稲荷様の祟りだったりして」「お稲荷様の祟りにあった一族が」という2卷にあった子供たちの雑談が、意外と重要なのかなと思った。

ただ他の村人は、まったくお稲荷様を恐れたり信仰している感じではないから、これもよく分からない。翼が個人的に脅されていただけなのかもしれない。

 

色々と考え合わせると、今のところ、加藤みきおが有力かなという気がする。

ただまだ色々と分からないことがある。

・2月5日(日)に明音と会ったあと、鈴はどこにいたのか? 何故何も話さないのか?

・子供が犯人だとすれば、あの大雪のなか、一人で山小屋まで行くことが可能なのか?

・正史で、なぜ佐野は鈴をお泊り会に参加させなかったのか?

 

この辺りも徐々に明らかになるのかな?

というわけで6月22日発売の四巻を楽しみにしています。

 

【銀河英雄伝説キャラ語り】ロイエンタールとミッターマイヤーの関係についての考察。

 

銀河英雄伝説の「双璧」ことロイエンタールとミッターマイヤーの関係についての話。

この二人の話はちょこちょこ書いてきたのだけれど、改めて二人の関係に焦点を絞って書きたい。

突っ込んだ内容で、自分が思ったことをそのまま書くので、「この二人の友情、素敵」「ロイエンタールカッコいい」「ミッターマイヤーカッコいい」と思っている人は、読まないほうがいいかもしれない。

 

大筋は下の記事のロイエンタールの項で書いたことが中心。

www.saiusaruzzz.com

 

 

ロイエンタールは自分自身を分かりたくない。

まずは前提として、ロイエンタールがどういう人物かという話から。

上記の記事に書いた通り、自分はロイエンタールという人はいまいち「自分」が分かっていない人だと思っている。正確には「自分で自分を分かってしまうと成り立たない人」なんじゃないかと思っている。

 

ロイエンタールは、基本的にはラインハルトとオーベルシュタインに似ている。「何か」に対する強烈な感情が、人物の核になっている人だ 。

ラインハルトであれば、姉を奪ったゴールデンバウム王朝に対する憎しみ。

オーベルシュタインであれば、自分の存在を否定するゴールデンバウム王朝に対する憎しみ。

ロイエンタールであれば、母親に対する愛憎。

 

ラインハルトとオーベルシュタインは「憎しみ」だけなので、その感情のままに行動することができる。行動することによって感情を消化することができる。

ロイエンタールにはこれができない。というより、そもそも母親に「愛憎がある」と認めることもできない。

 

「ロイエンタールは母親に対する感情を認めることができない」ということが如実に表れているのは、ロイエンタールがミッタマイヤーに、母親に対するトラウマを話すシーンだ。

このシーンのロイエンタールの語りは、よく読むと不思議だ。

まず最初に、「女というものは男を裏切る存在だ」という主張から始まる。

その根拠として「いい例が俺の母親だ」と母親の話をしだす。女は男を裏切る存在だ、何故かと言えば「(女である)母親は(男である)父親を裏切って浮気をしていた」からだ。だから女は男を裏切るのだ、と言う。

その例示に対する付け加えとして「母親は浮気がバレないように、俺の片目を抉り出そうとした」という会話になっている。

 

当たり前だが、「ロイエンタールの母親が父親を裏切った」という一例を以って、「女性全てが男性を裏切る存在」の根拠にはなりえない。この理屈が無茶苦茶なことは本文の中でも、そういう文脈で語られているのでそれはひとまず置いておく。

理屈が無茶苦茶なうえに、さらにこの語りは因果が転倒している。

ロイエンタールの人生においてまずはじめに起こったことが「母親に目を抉り出そうとされたこと」で、それは「父親を裏切って浮気をしていたことがバレないために」であり、そういう記憶があるから「女性を信じられない」

これが正しい並び。

ところがロイエンタールは母親の話をするにあたって、何故か「女性というものは」という一般論から話し始める。

 

要は「母親」という対象に対する自分の感情を隠すために、対象を「女性」と一般化して話し始めている。しかしそのことを認められず、自分自身でも「あくまで対象は「女性」である」と信じるために、因果を転倒させて「女性のほうが主題ですよ。母親は例示にすぎない」と言っている。

 

ロイエンタールがある意味大変なんだろうな、と思うのは、記憶を無くすくらい酔っぱらってさえ、ここまでしか語れないし、認められないところだ。

「母親に愛憎を抱いている」と認めることは、自我が崩壊するレベルなんだろう。

 

なぜラインハルトやオーベルシュタインのように対象に対する感情が「憎しみ」だけではない、と考えるのか。二人の行動とロイエンタールの行動を、照らし合わせて考えれば分かる。

ラインハルトやオーベルシュタインは、対象であるゴールデンバウム朝を消滅させたいと考えていて、しかもそのための具体的な行動をとっている。

ロイエンタールは積極的には女性に近づいたりはしない。憎しみしかないのならば、積極的に近づいて害をなそうとするか、もしくは寄ってこられても拒絶するだろう。

しかし、くれば拒まない。受け入れてはいる。しかし最終的には受け入れきれないから、一方的に捨てる。

受け入れる→離れる、ということを繰り返している。

二股をかけない、というのは、ロイエンタールにとって付き合っているときの女性というのは、「女性」ではなく「母親」の代わりだからだ。(上記の会話で示されているように、ロイエンタールは「母親」とは正面から向き合えないために、対象を「女性」と一般化して向き合っている。)

対象を「女性」と考えると「女性と付き合っては捨てるを繰り返している。最低な男だ」となるけれど、実はロイエンタールの内面世界では全員「母親」という一人なのだと思う。

つまり、「母親」を受け入れたい、しかし距離が近づくと怖いので離れる、これを延々と繰り返している。

ということを大抵の読者は分かっていると思う。

 

本当は怖いミッターマイヤー

ところがミッターマイヤーには分からない。(一応分かってはいるけれど、本質的にはたぶん分かろうとしていない。)

これは読者にはロイエンタールの内面の声や、生い立ちを説明されているから分かる、とかそういうことではない。

上記の会話ひとつを聞いただけでも、大抵の人は「母親のことが引っかかっているんだろうな」と思うと思う。

「女性」というのはただの煙幕で、そこはほとんど問題ですらない。

ところがミッターマイヤーはロイエンタールの因果が転倒した物言いを真に受けて「妻のために女性を弁護したい気持ち」になったりしている。

さらにびっくりするのは、翌朝「まるで覚えていない」で話を終わらせてしまうところだ。

もちろん大人同士なので、お互いある領域には踏み込まない、ということはあると思う。

でもこれはロイエンタールが自分から話し出したことだ。しかも「母親に片目を抉り出されそうになった」という、かなり衝撃的で重大な話だ。

「俺でよければ、何でも聞く」とか「何かあれば言ってくれよ」とか、せめてそういう流れにならないだろうか。「まるで覚えていない」はないだろう。

ロイエンタールにも知られたくない、という思いもあっただろうけれど、「誰かに話したい。ミッタマイヤーになら」という思いもあったと思う。そうでなければ、そもそも話さない。

とりあえず「よければ聞くけれど」と水を向けてみて「いやいい」となればそれ以上触れなければいいし、その時は「話したくない」でも、そう言っておけば話したいときには話せるだろう。

 

この場面でのミッターマイヤーは、「ロイエンタールはどういう気持ちなのか」ということを考えるよりも「こういうときはこう振る舞うべき」という意識が先行しているように見える。

「お互いの内面にはあえて踏み込まない、余計なことは言わない。男同士の友情はそうあるべきだ」という感じて、そう振る舞っているように見える。

 

大人になって読み直して、ミッターマイヤーはちょっと怖い人だな、と思った。

余りに真っすぐで正しい価値観を持ちすぎていて、それ以外の価値観や人の弱さや矛盾が分からない、というより見えない人なんじゃないかと思う。

人の気持ちを想像するよりも、常に「この場面ではこうあるべき」という形式を優先させているように見える。

ミッターマイヤーの価値観が「銀英伝の世界における正しさ」と一致しているからネガティブな要素が一切見えないけれど、けっこう怖いことだなと思う。

 

ロイエンタールがなぜ反乱を起こしたか、というのも、まったくわかっていないというか、「真相は解明されつつある」とか「血の色をした夢に酔っている」とかいやいや違うだろう、そこじゃないだろうと突っ込みたくなる。

あれは完全にラインハルトとロイエンタールの「こんな俺を分かってくれよ」合戦だろう、と思っている。

ラインハルトとロイエンタールは、こういうところもすごく似ている。我儘で甘えたがりで弱音を吐けない、「そんな俺を分かってくれ」ととことん人に甘えてくる。

ミッターマイヤーはロイエンタールの建前を常に真に受ける。「俺は野心家で、ラインハルトが自分の理想から外れたら、とって替わるかもしれない」そういわれたら、「ああそうか」と真に受ける。

そういう面がまったくないとは思わないけれど、あの反乱はどう考えてもただ単に「そっちからきてくれないかなあ」という意地の張り合いだろうと思う。

 

ロイエンタールには甘えられる人がいない。

ラインハルトには、そういう自分の甘えを許してくれるキルヒアイスがいた。キルヒアイスにはラインハルトはとことん甘えられたし、キルヒアイスはそういうラインハルトを分かったうえで受け入れていた。

これは作品の中でも、ヴェスターラントの一件で対立したときに「キルヒアイスも分かってくれてよさそうなもの」と言ったり、五巻でのヤンとの会話の中で「私はそれに甘えて、甘えきって、ついに彼の生命まで私のために失わせてしまった」とラインハルト本人が言っている。

ラインハルトは自分がキルヒアイスにすごく甘えていた、ということが分かっている。

キルヒアイスが死んで反省したのかな、と思いきや、性懲りもなくヒルダ相手にまた繰り返している。ただこういう(はっきり言ってしまえば、しょうもない)弱さみたいなものが、ラインハルトの人間的な魅力なのだと思う。

 

ところがロイエンタールは違う。甘えられる相手が誰もいない。甘える、というのは相手に心を開かなければできない。

ロイエンタールは酔っ払って母親の話をしたときに、明け透けな言い方をすれば、ミッターマイヤーが甘えられる相手かどうかを無意識下で見極めようとしたのだと思う。

ところがミッターマイヤーには、まったく通じない。「女なんて、っていうけれど、エヴァは違うぞ」なんていう頓珍漢なことを考え出す。そこじゃない。

ロイエンタールが思い切って話した母親のトラウマを、「まるで覚えていない」と一蹴する。

これはロイエンタールの「余計なことを喋ったな」という言い方も確かに悪い。そういう言い方しかできない、その裏の自分でも白黒つかない気持ちを汲み取ってくれ、というのは確かに甘えだし、そんなものは分からなくても仕方ないかもしれない。

ミッターマイヤーは自分がそういう甘え方を人にしないために、そういう甘やかし方が分からない。そういう意味での「甘え」という概念が、ミッターマイヤーの世界にはない。

ロイエンタールはそういう自分の「甘え」を認めたくないので、ミッターマイヤーの「甘え」がない世界観に心惹かれていたのだと思う。ミッターマイヤーとの最後の会話でも、「卿は俺とは違って、正道を行く人間」みたいなことを言っていた。これはロイエンタールが自分を語るときに常に使う露悪的な建前特有の恰好をつけた言い方で、本質を考えればそういう意味だと思う。(そしてその建前をミッターマイヤーは常に真に受ける。)

 

ミッターマイヤーは一緒にいて楽な人。

ミッターマイヤーは自分から見ると怖い人だけれど、ある意味一緒にいてすごく楽な人だ。裏表がないし、他人にも裏表を求めない。目に見えるもの、耳で聞こえるものが全てでそれをそのまま受け取る。

 

バイエルラインが噂話を肴にして酒を飲もうと思って、ミッターマイヤー家を訪ねたら、先にロイエンタールがいてがっかりしたというエピソードがあったと思う。

このエピソード、社会人になってから読んで、すごい面白いなと思った。

呼ばれていないのにいきなり訪ねていって、一緒に酒を飲みたいと思う上司はなかなかいない。しかも「ロイエンタールがいるなら、じゃあ三人で飲もう」とはならないところも面白い。

ただ単にバイエルラインとロイエンタールが反りが合わないだけだ、とかロイエンタールも直属の部下とはプライベートで飲んでいるかもとか(ベルゲングリューンとは仲が良さそうだったし)その辺りははっきりは分からない。

ただこの1エピソードだけで、ミッターマイヤーは部下がアポイントなしで家に遊びにくるような上司であるのに対して、ロイエンタールは尊敬できるけれど、プライベートではそれほど顔を合わせたくない、むしろ煙たいという感じが伝わってくる。

この点はオーベルシュタインも同じだろうけれど、オーベルシュタインは上司部下関係なく、そもそもプライベートで酒を飲む相手がいない。

オーベルシュタインはどこが危険かはっきり分かる人なので、仕事のみの関係と割り切れるので付き合いやすい、関係としては楽という人もけっこういるのでは、と思う。

一方、ロイエンタールは地雷原がはっきりしないので、一緒にいると疲れるという人も多そうだ。

 

ミッターマイヤーとロイエンタールが友達でいられるのは、ミッターマイヤーの人間の内面への無関心さ(よく言えば裏表のなさ)、自分の価値観以外のことは存在すら知らないところ、そういうところがロイエンタールは一緒にいてとても楽だったんじゃないかと思っている。

ミッターマイヤーは、物事には(特に人の心には)裏がある、ということをほとんど考えない。ロイエンタールが本当の自分を隠すために張り巡らせている「露悪的な建前=強がり」をそのまま受け取る。

それがおかしいな、と感じたら、「どうしてそんなに自分を悪くみせたがる?」とド直球で投げかける。そんなことをロイエンタールが答えられるわけがないことが、自分自身には裏がないミッターマイヤーには分からない。

「そんな質問、答えられるわけがないだろう」ということが分からなくて真顔で聞いてくるところが、ミッターマイヤーの怖いところだ。

 

このミッターマイヤーの「怖い」部分がロイエンタールには自分にはない強さ、正しさに見えたし、だいぶ救われていたのだと思う。

ミッターマイヤーがロイエンタールを本当の意味では理解しようとしなかったから(できなかったから)こそ、二人はずっと友達でいられたんじゃないか、と思っている。

もっと言えば、ミッターマイヤーはロイエンタールをまったく理解できないことをもって、最大の理解者だったのだと思う。

 

ミッターマイヤーがロイエンタールを理解しようとしていたら、どうなったか?は、「鉄血のオルフェンズ」に描かれている。

では、ミッターマイヤーがロイエンタールを理解しようとしていたら、そういう性格の人だったらどうだったのか? というシュミレーションが、「鉄血のオルフェンズ」のマクギリスとガエリオの関係だと思っている。

マクギリスとロイエンタールは、反乱の行き当たりばったりさも、「反乱をした」という事実を根拠にして「自分は強い、野心家だ」と信じているところもすごく似ている。「自分は強烈な野望を持った野心家である」ということを自分自身に証明するために、反乱を起こしたんじゃないかと思うくらいだ。

 

マクギリスとガエリオは、お互いを友達だと思っているし、本当は理解して欲しい、ガエリオの側においては理解したいと強烈に願っているがゆえに傷つけ合ってしまったパターンだ。

人は本当に難しい。相手がいい人なら、好感を持っていれば、相手を思いやっていれば、うまくいくとも限らない。

マクギリスとガエリオの関係はその典型だ。

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「友達だったお前やカルタも野望のために殺そうとする、こんな俺でも受け入れくれるのか?」というところまで試し行動が進む。

そういう自分さえ受け入れてくれる人の前でしか、「野望のために旧体制を力で打破しようとする自分」という仮面を脱げない。

「いやいや、お前は本当はそんな奴じゃないよね? 本音を喋ってくれ」と言っても、絶対に喋らない。受け入れられる前に本音を喋るくらいなら、本気で殺しにかかってくる。

「甘えていいよ」と言ったら、ここまで甘えてくる。

重すぎる…。

 

常に命がけの問いを突きつけてくるところこそ、このタイプの魅力。

このタイプは一緒にいると、ナチュラルに命や人生まで要求してくる。実際、キルヒアイスはラインハルトの「甘え」で命を落としている。

「お前は俺のためにどれだけのことができるんだ? 命も人生も賭けられるのか?」という発想が根底にある。

この命がけの問いにこそ、このタイプの魅力がつまっている。

キルヒアイスとガエリオはその魅力にハマってしまった人、自分が命を捨てるほどハマってしまったり、殺し合うことでしか本音を聞き出せない関係にハマってしまった人なのだと思う。危険なんだけれど、それでも一緒にいたい、何かしてあげたいと思わせるのがこの手の人の魔力的な魅力なのかもしれない。

 

自分は初めて銀英伝を読んだ中学生のとき、ロイエンタールのやることなすことの意味が分からなかった。

なぜ女性不信なのに女性と付き合うのか、なぜあんな勝算のない反乱を起こしたのか、なぜ「誤解だ」とひと言言えば済むのに、自分の部下を道連れして最後まで戦ったのか。揚げ句の果てにエルフリーデを強姦したあげく子供ができたら中絶しろ、には唖然とした。

「言っていることとやっていることがまるで違うじゃないか、何なんだ?」とずっと思っていた。

でも大人になって分かった。ああ、そうだね。こりゃあ死ぬほどモテるだろう。そして側にいる人をほぼ全員不幸にするだろう。

 

しかしこのタイプが終始鋭い刃のように発している「お前は俺のために命を捨てられるのか」という波動を、まったく感じとらないことで側にいられる、という「コロンブスの卵」的な方法があるんだ。そしてその方法をとれる人が、真っ当な銀英伝の世界でも最も真っ当なミッターマイヤーで、この二人を親友同士としたキャラクターの巧さと必然性に今さらながらすごいという言葉しか出ない。

どんな切り口からでも無限に楽しめる、やっぱり銀英伝は傑作だよなあと改めて思った。

 

 

 

山本直樹「レッド」と「普通の人たち」が引き起こした連合赤軍事件について。

 

山本直樹の「レッド」の一巻、「レッド 最後の60日間 そしてあさま山荘へ」の一巻が試し読みの対象になっていたので読んでみた。

 

 

連合赤軍事件については当事者である永田洋子、坂口弘、植垣康博、坂東国男がそれぞれ手記を出している。吉野雅邦の友人の大泉康雄も本を出している。

坂東国男の本以外は、かなり繰り返し読んでいるけれど、それらの本の印象的な部分が取り入れられているなあと思う。事件の一連の経緯も分かりやすい。

ただそれぞれの一巻を読んだ時点で、気になったことがあるのでそれを書きたい。

 

 

永田洋子(赤城)の描写が気になった。

「基本的にはあったことをそのまま書いている」が「フィクション」と銘打っているのは、作者の解釈を入れたかったからか。

個人的にはその解釈が、永田洋子に対して厳しいのが気になった。

以下、漫画の内容に言及する箇所だけ()内に漫画の人名を記載している。

 

気になった箇所をあげてみる。

坂口弘(谷川)が永田洋子(赤城)に結婚を申し込んだとき、彼女の女性としての部分を利用しようとする気持ちがあった、というのは永田も感じているけれども、坂口弘本人がそう書いていたと記憶している。

「収監される前に、女性の体を知っておきたい気持ちがあった」「彼女ならば、自分が出所するまで待っていてくれているのではないか、という気持ちがあった」と書いていたと思う。

漫画では、坂口(谷川)は永田(赤城)に好意を持ったから申し込んだのに、永田(赤城)が「あなたはこういう魂胆があるのだろう」と邪推しているように見える。

この坂口弘による永田への結婚申し込みは、当時、革命左派内で女性がどういう扱いだったかという一例になるので、ここはきちんと描いて欲しかった。

こういうことが全て、後の山岳ベース事件における総括につながってくるからだ。

このあと結局結婚したのは、永田は「坂口氏ときちんとした愛情関係を築いてみたいと思ったから」と言っていたと思う。

これを入れるのと入れないのとでも、相当永田に対する印象が変わる。

 

また他にも公判を傍聴した永田(赤城)が怪我をさせられたあと、吉野雅邦の家に厄介になるのだが、その時の印象を吉野(吾妻)の母親は「強引な人」と同時に「人なつっこい人」とふたつの印象を持っていたと思う。

それが漫画では「強引な人」という印象ばかりが強調されているように見える。

また遠山美枝子(天城)に、腫れ上がった自分の顔を見るように強要するシーンは、かなり誇張されているように感じる。

同じ遠山美枝子(天城)の総括に関する場面で、「遠山に着替えをさせる。そういう援助は必要では」という永田の言葉は、「甘い」と咎められるのではないか、と思いながらも思いきって発言したと言っている。

そういう葛藤や場の雰囲気が、漫画では反映されていないのも気になる。

こういうところを見るとどうしても、永田という人物をある一定方向に印象づけたいのかなと思ってしまう。

一巻を読んだだけでもこういう印象なので、ずっとこの調子か? と心配になる。

 

人は自分が信じた「正しさ」の構造に、たやすく閉じ込められる。

決して永田洋子にもこういう事情があったんだ、同情しろ、と言っているわけではない。

連合赤軍事件はそれぞれの記憶も主張も感じたことも、同じことを経験していながら微妙に違う。

誰の視点に立つかでだいぶ印象が変わるのだが、1979年に出た第一審判決(石丸判決)を始め、永田洋子の性格や個人的な資質に原因を求める論がかなり多い。

 

この事件の最大の責任が、森(漫画では北)と永田にあるのは間違いない。

ただ永田洋子の性格や彼女の個人的な資質に事件の主因を見出すのは、かなり安易な見方だと思っている。

本当にこの事件を描こうと思うならば、流されないように常に気をつけていないとどうしてもそちらへ流されてしまう。

何故なら「ブスで性格が悪い女が権力を握って増長し、自分に逆らう人間を殺し、自分より才色が優れた同性を嫉妬から殺した」という解釈は、聞いているほうからすれば「単純明快でわかりやすいから納得しやすく、なおかつドラマとして描くうえで面白い」論だからだ。

ちなみにこれが塩見孝也が永田に求めた総括らしい。(永田の言によれば。)

 

特定の個人の人格や行動の動機を悪意のみで解釈して事件の原因とするのは、永田たちが殺害したメンバーに強いた理屈とまったく同じだ、と思う。

「人は自分が信じた正しさの中に閉じ込められると、他人の人格や身体を破壊することさえ何とも思わなくなる」「そしてその正しさの構造に、誰もがたやすく閉じ込められてしまう」ことこそ、この事件の主因だと思っている。

だから特定の個人の人格に事件の原因の全てを見出す言葉を見るたびに、事件と同じ構造を見るようで非常に残念な気持ちになる。

そういう解釈でこの事件を描きたいと考えているならば仕方ないが、「あった事実をそのまま描く」ことを目的としているのならば、分かりやすく刺激的で手軽な「悪女、永田洋子が事件を主導した説」は意識的に避けて欲しいと思うのだ。

 

「新組織における女性リーダーの座をめぐる争い」と見られがちな永田の遠山美枝子に対する総括要求は、「新組織において両派のうち、どちらが主導権を握るか」という争いの要素のほうが大きかったと思う。

つまり永田洋子においてのみそういうものがあった、と指摘されがちな心の機微は、彼女特有のものではなく、事件に関わった全員の心の中にあり作用していた、と思うのだ。

 

森は革命左派を迎えにいかせるときに、「水筒を持ってこなかったこと」を批判するように伝えており、すでに主導権争いを仕掛けていた。

そういう赤軍派に対して革命左派の面々は不満を募らせており、「そちらが批判してくるのならば、こちらも」という潜在的な争いの中で起こったのが、永田からの遠山批判なのだと思う。

人間関係でよくある「そういうこというなら、お前だって」という構図だ。

そして何故、そういった主導権争いを森が仕掛けたのかと言えば、革命左派の持つ銃や処刑の「実績」に、森が強いプレッシャーと恐怖を感じていた、と板東国男が書いている。

 

遠山批判は、森にとっても渡り船だったのだと思う。

それまで「幹部の妻」で赤軍派では特別扱いされていた遠山には、森も遠慮せざるえなかった。植垣なども「ちょっと面倒臭くてやりづらい」心境を吐露している。

森は自分にとって目の上のたんこぶの遠山を排除しつつ、彼女をスケープゴートにすることによって革命左派との連携を強めたのではないか。

 

日常生活の延長線上にある事件

連合赤軍の山岳ベース事件で起こった色々な出来事の構図自体は、日常生活でも「あるある」なものが多い。

「日本の組織が抱える構造的な問題だ」と四角四面に考えるまでもなく、こういう微妙な人間関係の力学は、日常的に学校でも会社でもよく見る。

 

自分がこの事件を恐ろしいと思うのは、そういう自分が日常でいくらでも見てきた「こういう構図、よく見るなあ」「こういうことってあるよなあ」「こういう人っているよなあ」「自分もこういう部分があるかもしれない」と思うことが、歯止めがなくなればここまで凄惨な結果に行きついてしまうというところだ。

この事件は「異常者が起こした異常な事件」ではなく、「思想にとりつかれた未熟な若者たちが引き起こした事件」でもなく、自分も含めた普通の人が生きる日常の延長線上にある事件だと思うのだ。(あの時代の学生運動は現代から見ると異様に見えるが、当時は多くの学生にとって日常の延長だった。)

 

ある構造の中に閉じ込められている、という一点の条件を加えるだけで、日常的に経験しているものがここまで恐ろしいものになりうるのか。

そしてこの構造に何かの拍子に閉じ込められたときに、自分がその構造の外では「異常」と言われる思考や行動をしている、と気づくかどうか。

塩見孝也が永田洋子にしたこの事件の総括の「指導」や、立松和平の「光の雨」のように、自分が連合赤軍事件が起こった構図と、そっくり同じ構図を再生産していることにまったく無自覚なままこの事件を解釈しようとしている意見を見ると、ある思考やシステムに一度取り込まれると、その外に抜け出すのがいかに難しいかということを思い知らされる。

 

 立松和平の「光の雨」は、総括の理屈を内包してしまっている。

「光の雨」は、「他人の自己実現に、自分が関与できるという欲望の発露」が総括の本質と同じだという点を、大塚英志が強く批判している。

自分も「自分の言葉は、他人の主体を変革するほど価値があり力があるはず」と考える傲慢さこそ「総括」という概念の醜悪さだと思っている。

「結果的に」「ためになった」とその相手本人が考えてくれるのはいいと思うけれど、それは言う側が「相手のためになるはずだ」と考える、ましてや相手が受け入れないときに押し付けていいものではない。

 

「光の雨」は、坂口弘がモデルになっている主人公の話に若い男女が真剣に耳を傾けて、援助交際をしていた女の子が「私、自分を大事にしようと思ったの」という結論に達するという筋だ。

これをこの事件のモチーフとして用いてしまうとは。

「自分たちの言動によって、他人が自己実現する」

この「総括」の発想をそっくりなぞって肯定的に描いているのに、そのことに無自覚なまま終わるのがこの小説の怖いところだ。

「光の雨」を読んで思ったことは、連合赤軍事件のメンバーたちが行った総括の根っこにある、「自分の関与によって他人を変えたい。その事実をもって、自分の言動の価値を感じたい」という欲望は、人間にとって抑えがたいものなのだろう、ということだ。

 

この欲望が根底にある「総括」という概念を否定するために、主人公が自分が正しいと信じた思想と犯した罪の深さを必死に訴えても、今の若い人たちは退屈そうに聞いている。いや、聞いてすらいない。

結果、「自分が正しいと信じたことをいくら訴えても、相手には伝わらないことがあるし、人と人とはそういうことがあってもいいんだ」というごく当たり前のことに気づくことが、この事件にふさわしい結論じゃないかと思っている。

 

どれだけその人にとって大切で切実で正しいことでも、他人にはあくびが出るほど退屈で聞く価値のないものであることもある。それが多様性なんじゃないかと自分は思う。

全てがそうだと寂しいけれど、「そういうことが時にあることは、人がそれぞれ違うという健全さでもある」と思うことが大切なんじゃないかと思う。

 

「結局、伝わらなかった、分かり合えなかった」それでいい

結局「総括」の構造から抜け出ないまま、この事件は終わるのかなと思っていた。

そんなとき、塩見孝也が死んだときに書かれた雨宮処凛の文章を読んだ。

塩見孝也とのコミュニケーションのとれなさ、その困惑があけすけに書かれている。

「うーん、ちょっと、こっちは世界同時革命じゃないんですよねぇ…」

 渋々そう口にすると、塩見さんはいつも心の底から驚いたように「なんでだ!」と叫んだ。「世界同時革命が目的でないことを説明する」ことに、どれほどの時間を費やしただろう。

 そんなこともあって、塩見さんの「会おう」という誘いをのらりくらりと断り続けていると、ある日、「怒りのメール」が届いた。

 そこには、「お前は左翼でもなんでもない」「だいたいマルクスも読んでいないのに左翼とは何事だ」などという言葉が書かれていた。おそらく、塩見さんにとっては最大限の罵倒だったのだろう。しかし、こっちにとっては痛くも痒くもないのだった。

 (引用元:「雨宮処凛がゆく!」第431回「革命バカ一代、塩見孝也、死す。の巻」)

 

これを読んだとき、笑ってしまった。

 

「正しさ」を受け入れられない人間は、その人格を傷つけ罵倒しても構わない。

その赤軍派の「正しさ」の構造こそ、連合赤軍事件の構造の片親であり、そこで殺し殺された人たちが閉じ込められたものだった。

そのことにあの事件から四十年以上たっても気づかず、まったく同じことを繰り返している塩見孝也に、その「正しさ」を気にもとめない言葉を言う人がいて良かった。

「マルクスも読んでいないなんて左翼でも何でもない」という言葉が最大限の罵倒であると考える価値観と、「そんなものは痛くも痒くもない」という価値観が何ひとつ分かりあえずに並ぶさま、そしてそれでいいんだと思えることが、この事件の結末に最もふさわしいと思うのだ。

この記事に書いているようなこともまったく考えず、塩見孝也が自分の思想や正しさを最後まで信じて死んだのなら「自分が正しいと考え、相手のためになると思った言葉なんて、他人には意味がないし伝わらない。そもそもろくすっぽ聞いていない」という事実を彼自身が証明したことになる。

 

それでいいと思う。

それが連合赤軍事件の結論に最もふさわしいと思う。

「どんなに正しいと思っても、それが伝わらないこともある。分かりあえないこともある。そういうこともある」

そういう考えを常に持っておくことが、「正しさ」の中に閉じ込められそうになったときのために大切なのかなと思った。

 

 連合赤軍事件関連書籍

 

革命左派側で起こったことや流れは、この二人の本を読むとだいたいわかる。

この二人は山岳ベースを退去するまでほぼ行動を共にしていたのだが、大まかな出来事はともかく、記憶や心境や観察にはかなり食い違いがある。

「川島豪が自らの奪還を指示したのか」などは事件の原因につながるので非常に重要だと思うのだが、今となっては真相を知る術がない。

 

赤軍派から参加した植垣康博の本。幹部だった上記二者の本とは、かなり雰囲気が異なる。

植垣康博はインタビューで「永田洋子は普通の人」と答えていたが、この本を読むと「普通の若者たちが起こした凄惨な事件」という印象が深まる。

 

吉野雅邦の学生時代からの友人だった大泉康雄の本。

吉野が金子と付き合う前からの友人であり、吉野と金子が付き合った経緯や、付き合ったあとにみんなで遊ぶシーンも出てくる。

大泉本人は学生運動には関わっていないので、事件の記述よりも吉野と金子の交流や人柄が中心に描かれている。

金子みちよは恋人の吉野雅邦を支えるために学生運動に加わったのだが、山岳ベースに行く前に大泉に「わたしたち、馬鹿なことをしていると思う?」と聞くなど、運動に対して冷静な目も持っていたと思う。

山岳ベースでも反対の声を上げたり、最期まで総括に屈しなかった彼女のことを思うと胸が痛い。 

二人への優しい気持ちと友情が伝わってくる本。読んだことがない人はぜひ。

 

あさま山荘に突入した警察部隊の指揮をとっていた佐々淳行の本。現場がどのような雰囲気だったか、ということがよく伝わってくる。

この本で印象的だったのは、著者の息子が学校で「警察官や自衛官の子供は立ってください」と言われて教師から色々と言われたという箇所だ。

現代だったらあり得ないことだと思うのだが、そういう時代だったということも感じとれる。

 

 「連合赤軍事件を描く上で、よりによってこのモチーフを用いるか」「山岳ベース事件以外のことが、そこに至る経緯も含めてほとんど書かれていない」という不満もあるが、それを差し引いても余りに安易な設定では……と思う。

 

 

山崎峰水「MAIL-メイル-」を読んで、「怪異の因果が分からないこと」がホラーの怖さの肝だと思った。

 

anond.hatelabo.jp

 

ブコメを見てもトラバを見ても、「あったな~~」と言い続けてしまう。

こういう話題のときにひっかかりやすいのは、「当時大人気だった」というのはどれくらいの人気で、「今は廃れた」というのは何をもって「廃れた」というのか判断するかだ。

この増田は後者については「今の若い子が存在すら知らなそう」と一定の基準を設けてくれるので考えやすかった。

「今の若い子」って何歳くらいだ? とか考えだすとキリがないけれど。

 

自分が真っ先に思いついたのは「多重人格探偵サイコ」。

流行っていたのは、自分の周りだけかもしれないが。

あとは「ヒカルの碁」。これは碁のブームを巻き起こして、新聞にも何回か載ったので「当時大人気」と呼んで差支えないと思う。

今の十代~二十代前半は知っているのかな? 

ネットでは余り目にしない気がする。そのくらいの年齢でファンの人がいたらすまんが。

今は将棋のほうが話題になっていて、碁はすっかり影に隠れてしまった印象だ。

 

「多重人格探偵サイコ」は、途中で読むのを止めてしまった。記憶もかなり曖昧なので読み直したいと思っていた。

 

当時の世相を反映したストーリー、多重人格やサイコパス、謎の組織や目の中のバーコード、殺人鬼同士の対決やカリスマアーティストにしてテロリスト、ルーシー・モノストーンの謎と、厨二の大好物設定をこれでもかとぶち込んでいる上に、田嶋昭宇のカッコ美しい作画。

 思い出したのも何かの縁、全巻読もうかなと思ってAmazonをのぞいたら、特に後半がかなり酷評されていた。弖虎が出てきた辺りから面白くなくなった……って、自分の記憶にあるのもそこくらいまでなのだが…。

多くの人がつまらないと思っても、自分には面白いと思うものももちろんあるけれど、「前半は面白かったのに…何でこうなった…」のオンパレードに心が折れた。

 

大塚英志が原作で作画を山崎峰水が担当している「黒鷺死体宅配便」がかなり好みのストーリーだったので、こちらを読んでみようかとも考えた。

レビューを見るとこちらも竜頭蛇尾のようだが、都市伝説系が好きな自分には心惹かれるストーリーだった。

ただ全23卷かあ。長い…。

 

似た雰囲気で山崎峰水が一人で描いている「MAIL」が全3卷で評判も良かったので、まずはこれを読んでみようと思い購入してみた。

 

面白かったけれど、一話完結型なので話がかなり淡泊だ。

主人公の秋葉が霊に対して無敵なので、後味が悪くない代わりに、かなりあっさりと片が着く。

個人的には何話か使って怪異の背景を深堀りして描いていたり、「強い主人公」のような物語的な安全地帯がないホラーが好みだ。

「残穢」のような掘っても掘っても怪異の正体が分からず、訳が分からないまま人が死んでいく話のほうが怖くて好きかもしれない。

「黒鷺死体宅配便」は「MAIL」よりは話が複雑、ということなので今度読んでみたい。

 

世の中で一番怖いのは「そのことの意味がわからない」「なぜそれが起こるのか分からない」ということだと思う。

「因果の消失」というか。

因果や法則性が見えないと、助かる方法が分からないからそれだけで怖い。

 

自分にとっては少なくともそうなので、「この人がいてくれれば助かる」みたいなお約束があると、それだけでホラーとしての魅力は七割減だ。

「主人公がきて助かる」を何話か繰り返して、「突然主人公が殺される」ことでより大きな絶望と恐怖に叩き込む、というホラーもあるけれど。「ずっと効いていた魔除けが突然効かなくなる」とか。

なんかあったよなあ。思い出せない…。


自分の好みとは少し違っていたけれど、「MAIL」はこういうジャンルが好きな人には十分楽しめて、満足できる漫画だと思う。

興味を持ったかたはぜひ。

 

【ネタバレ感想】「モンキーピーク」6卷。猿との総力戦であの人も犠牲に。その結末は? 

 

この記事は原作志名坂高次、作画粂田晃宏「モンキーピーク」6卷のネタバレ感想です。

未読のかたはご注意ください。

 

 

「メモは罠だ」って、何の罠だよ。

思わず突っ込んじゃったよ。

そもそも自分たちよりも圧倒的に人数が多い相手に問答無用で襲いかかってきて殺戮しまくっているのだから、罠にかける理由がないだろう。もう人数もだいぶ少なくなってきていて、体力は激減、怪我人までいる相手を罠にかける必要がない。

自分たちの手の内がバレ出して、相手も窮鼠の状態になっている。だから一人ずつおびき出して殺したい、と言ってもなあ。皆殺しにしたいのならば、遠野が言う通り、封鎖して餓死するのを待てばいい。

 

そもそも「罠にかける」のは、保身しつつ相手を殲滅したいときだけで、猿側は四十人相手に一人で襲撃をしかけている時点でそんなことを考えていないでしょう。

物事を隠蔽するために、自分たちの保身のために、巧く綺麗に殺そうとする人間の発想じゃない。

今までの経緯を考えると「罠だ」って考えること自体がナンセンスなんだよね。

 

という風に考えれば、安斎が「猿の仲間」説もどう考えてもおかしいだろう。

それなら宮田たちが出て行った時点で佐藤たちを皆殺しにしているし(猿に襲われて、一人だけ生き残れた、とかいくらでも言えるだろう。実際に猿の仲間なら、猿を引き入れて殺してもらえばいいし。)氷室や早乙女も拷問なんてしないで「怪しい」と難癖つけて殺しているだろう。

これを主張しているときの宮田は、明らかに疲労で感情的になっておかしくなっている風なので、人間追い詰められるとこうなるという描写なのは分かるけれど、八木や早乙女、林まで同調してしまうのは解せない。

 

特に林は5卷で「それに…変だと思わない? 猿たちは私達を皆殺しにしようと思えば出来たのよ。そのチャンスも方法もあった…っ。私達は生かされたのよ。その事には必ず意味がある!」って言っていたのに。

猿の行動を見ていると、たぶんこの林の考えが一番正しい。

ただ皆殺しにしたいだけならば、こんなまだるっこしい方法をとらなくても、いくらでもやり方はあるし、第一「今夜襲う」なんて宣言しないだろう。

林はこんな状況でもしっかり自分の頭で考えられる人だったのに、どうしたんだよ急に。

相手が安斎になると、急にしっかりと物事を検証して考えるのが面倒臭くなる、というのならば、それはそれでリアルな気もするけれど。

 

八木もそれくらい分かると思うのだけれど、むしろ「安斎猿の仲間説」に宮田を誘導している。

「戦っているフリ」をしていたのは、あんたじゃないのか?と言いたいところだが、薫が死んだときの様子は演技とも見えないしなあ。他の人間が見えないところでも、ショックを受けている描写もあるし。

この辺りは、八木の目的はよくわからなかった。

 

このあと、佐藤を人質にして「逃げようとしている」ことを見ても、猿の目的は皆殺しではない。ただ「目的は皆殺し」と錯覚させたい。そういうことだと思う。

動機から足がつくだろうから動機を隠蔽したい、長谷川が仲間にいるのならば、関係ない人間はなるべく殺したくないと思っている、というところなんだろうけれど、犯人視点で見るならば事ここに至ってはもう腹をくくって皆殺しにしたほうがいいような気はする。

関係のない登山者まで殺してしまっているんだから、なるべく殺しはしたくないとか絵空事にすぎないでしょう。

 

メモの目的は何なのか?

田中に対するメッセージではないか、という仮説を立てた。

田中は矢ノ口落としで実は猿に連れ去らわれていた、もしくは一緒に崖から落ちていたかで猿に脅されている。

その時に内部の情報を得て、それを話せば逃がしてやる、という取引が成立していた。あのメモを見て田中は猿にそれを話しに行き、逃がしてもらう、と見せかけて猿は田中を口封じのために殺している。

なので、当然助けはこない。

そんな感じじゃないかな? 

そもそも田中は崖から落ちて怪我ひとつなく元気、というのも不思議だったし、佐藤や遠野、南がハンガーノックに陥っていたときに、田中は特にそんな様子もなく安斎についていけていた。田中は開発室の人間で、特に身体を鍛えていそうにも見えないし、他の人間よりも年齢も上に見える。

猿に接待?されていたから、比較的元気なのではと考えた。

 

遠野の確証バイアス

「自分が信じたい結論ありき」で、その結論の根拠となりそうな事象だけを取り上げて、結論と矛盾する事象は無視してしまう。

宮田が「安斎猿の仲間説」を信じこんでしまったときは、この確証バイアスに陥っていたけれど、遠野もそっくり同じことをやっている。

追い詰められた環境下だから仕方ないのかもしれないけれど、理系としてそれはマズイのでは? と思う。実験などでは一番やっちゃいけないことじゃないのか? 

 

何で「自分が役立たず」な情報ばかりを拾い集めるかな。

「外人に絡まれた同級生を助けられなかった」云々の話ひとつをとったって、そのフリーターの彼が凄いだけであって、役立たずだったのはその場にいた全員同じだろう。

その論法でいくなら絡まれたあげく、その対処を自分でできなかった奴らが一番の役立たずだろう。

何で、「自分一人がダメ」という結論になるかな。

自分の役立たずぶりを棚に上げて、他人を「役立たず」なんて責める奴らが一番どうかと思う。

 

「自分は役立たず」だという結論ありきで、そのための「自分がダメだった」ときの事象ばかりを拾い集めて、負の確証バイアスに陥って自爆行為、死に際のセリフが「理系をなめるな」ってひどすぎるだろう……。

遠野の生き方をないがしろにしすぎだと思う。

自分はこういう「いい話風にするために」キャラを粗末に扱うってすごく嫌いなので、このエピソードはかなり残念だった。

個人的には納得いかないけれど、これで佐藤が覚醒して、生き残った暁には罪を受け入れる覚悟で、前向きに生存のために戦って欲しい。

そうじゃないと、遠野…可哀相すぎる…。

 

メインの話は次回に持ち越し

展開は面白かったけれど、メインの話はほとんど進んでいないな。

日本刀は、出てこなかった。もしくは、猿の中身だったのか。

寺内の靴の行方も行き詰っているし。

とりあえず真相については、次巻以降に持ち越し。

 

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【「進撃の巨人25巻 ネタバレ感想】「自分が悪である」世界で、どう生きるのか。

 

進撃の巨人25巻を読んだ。

 

ずっと「すごいすごい」言っているけれど、どんどんすごくなるので、アホみたいにすごいと繰り返すしかない。

「進撃の巨人」のテーマについては、一巻からほぼ明確だと思う。

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テーマ自体は、それほど目新しいものではない。

むしろ、よくあるものだと思う。

驚くべきは、対価の支払い方だ。そしてそれに対して読者が共感するためのハードルの上げ方だ。エルヴィンとマルロの特攻、グリシャの味わった挫折でさすがにここが上限だろうと思っていた。

これでも十分ハードルを上げすぎだと思う。

上記の22巻の感想記事でも書いたが、自己犠牲ならばまだしも「死にたくない、という新兵に犠牲を強いる」というのは、現代だと嫌悪感を覚える人もいると思う、かなりグレーな描写だ。

 

「進撃の巨人」は、これほど人気が出るのが不思議なほど、ラディカルな価値観を主張している。

自分はこの漫画が大好きだけれど、それでもこの内容でそれほど問題にならないのは何故だろう? と首をひねることがある。

「進撃の巨人」で主張されているのは、「人は生きている限り、自由でいなければならない。自由を求めるべきだ」ということだ。

これだけならば、今の時代ではむしろメジャーな支持されやすい主張だ。

しかし「進撃の巨人」の場合は、この主張の後ろに「どんな対価を支払ってでも」という但し書きがつく。

その「対価」の内容がすさまじい。そして巻を重ねるごとに、どんどん跳ね上がっていく。読者がどこまでついてくるか、試しているのかと思うほどだ。

 

対価として「自分の命」は大前提だ。

これは一回の活動で致死率9割を超える調査兵団に主人公が入団し、仲間たちが次々とあっけなく死んでいく時点で、この物語では「自分の命<自由」だ。

次にリヴァイがエルヴィンに「夢を諦めて死んでくれ」と言い、エルヴィンは新兵たちに「特攻して死ね」と命じる。

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(引用元:「進撃の巨人」20巻 諌山創 講談社)

じっとしていても死ぬことには変わりがない局面とはいえ、彼らはその言葉を口に出すことで「仲間の命・人生<自由」という価値観を明確にする。

 

そして過去において、グリシャが様々なものを「自由」の対価として支払う。

グリシャが自由を求めた代償は、妹や妻のダイナ、同胞が支払った。

彼らは拷問にかけられ、ある者は知性のない巨人に変えられ、ある者は巨人に喰われ、嘲笑われながら仲間同士で殺し合いをさせられた。

グリシャは息子に裏切られ、妻を失い、自分自身は苛酷な拷問を受け手の指をすべて失った。

クルーガーは二十年以上、自分の家族を生きたまま焼き殺した人間の仲間のふりをし、同胞たちを拷問し、死に追いやり続けた。

「そういう対価を支払ってでも、人間は生きている限り、自由を求めなければならない」

22巻のグリシャとクルーガーの会話では、そう主張されている。

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 (引用元:「進撃の巨人」22巻 諌山創 講談社)

「お前を選んだ一番の理由は、お前がマーレを人一倍憎んでいるからじゃない。お前があの日、壁の外に出たからだ」

 

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 (引用元:「進撃の巨人」22巻 諌山創 講談社)

 

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 (引用元:「進撃の巨人」22巻 諌山創 講談社)

 

そして最新刊では、さらにそれ以上の対価を積み重ねる。

エレンは自由を得るために敵をせん滅し続ける。そのために彼は、民間人や罪のない子供も殺す。

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 (引用元:「進撃の巨人」25巻 諌山創 講談社)

ついに自由の対価として、「罪のない子供の命」まで積み上げてきた。

 

「進撃の巨人」がすさまじいと思うのは、読み手が「共感するため逃げ道」をすべて塞いでくるところだ。

「エレンたちも、子供のころからずっと虐殺される側だった」という理屈さえも封じてくる。

エレン自身が、「そうだとしても、それと同じ理屈を相手にぶつけるのは良くないし、そうするつもりはない。それが理由ではない」と言っている。(グリシャが進撃の巨人を受け継いだ理由が「憎しみではない」のと同じで、この物語の根本的なモチベーションは「怒りや憎しみ」など負の感情ではない。)

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 (引用元:「進撃の巨人」25巻 諌山創 講談社)

それがライナーに理解を示すこのシーンだ。

エレンが壁の外の人間を「民間人や子供まで含めて殺戮する」のは、「怒りや憎しみのため」ではない。復讐のためでもない。

自分もライナーと同じように、「怒りや憎しみ、敵意にかられていたけれども、壁の外のマーレで生活をして、壁の外も内も同じだと知った」と言う。「いい奴も悪い奴もいる。俺たちと同じだ。だから、俺にはお前の気持ちが分かる」と言う。

 

そして同じことを読者にも投げかけてくる。

25巻で死んだ子供の中には、ゾフィアやウドもいた。彼らはエレンが出現したことで岩に叩き潰されてあっけなく死ぬ。

ガビやファルコと仲良く過ごしていた彼らは、あっという間に死んでしまう。

 

感情移入していないモブは、ただの「他人という概念」に過ぎない。

ライナーやアニ、ベルトルトが壁内に入る前は壁内の人間を「悪魔の末裔だから殺してもかまわない」と思っていたのは、実際に会うまでは「壁内の人間」が、頭の中の「概念」に過ぎないからだ。

「他人という概念」ならば、人は相手をいくら傷つけても、どこかで死んだと聞いても、自分の選択によって死んだとしてもさほど胸が痛まない。

 

しかしライナーが壁内でエレンたちと寝食を共にするうちに、自分の記憶を改ざんするほど罪悪感を感じるようになる。それは「他人という概念ではなく、個人として存在を実感した」からだ。

「実体化した他者」を特に理由なく傷つけたり殺すのは、普通、人は強い罪悪感や抵抗感を覚える。

 

25巻では、この「実体化した他者を殺すこと」を自由の対価として要求する。

 

さらにすごいのは、「エレンたちは壁内に閉じ込められていたし、相手も攻めてくる気だから仕方ないじゃないか」という言い訳も封じてくる。

エレンは24巻で、「誰かを殺してでも自由を得ることは、自分自身で選んだことだ」と言っている。

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 (引用元:「進撃の巨人」24巻 諌山創 講談社)

「みんな何かに押されて、地獄に足を突っ込むんだ」と、そういう人々に理解を示す一方、自分は違うと言っている。

「自分で自分の背中を押した」

「その先に何が待っているか分からない。さらなる地獄が待っているかもしれないけれど、自分は自分の意思で進み続ける」

そう言っている。

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 (引用元:「進撃の巨人」24巻 諌山創 講談社)

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 (引用元:「進撃の巨人」25巻 諌山創 講談社)

 

最初のころ、「自分たちが巨人と戦う側なのに、なぜタイトルが『進撃の巨人』なのだろう?」という疑問をかなり見た。

エレンが「進撃の巨人」を継承し、巨人と戦うからか、と思っていた。

しかし、ここで物語が反転する。

彼が幼いころに巨人に町を襲われたように、今度はエレンが「進撃の巨人」として世界を襲う側になる。

「壁内のユミルの民は悪魔の末裔」というのは、壁外の住民のプロパガンダであり、主人公はあくまで迫害される側だ、彼には幼いころの巨人に大切な人を殺されたトラウマがあり、その憎しみと怒りには十分共感できる。

そんな、どこかで聞いたことがある甘い物語ではなかった。

 

自分たちの自由を邪魔するものは敵であり、無抵抗の民間人だろうと無力な子供であろうと駆逐する。

怒りでも憎しみでも復讐のためでもない。

むしろ相手のことも理解できる。

何故なら、相手は悪魔でも何でもない。自分たちと同じ、泣いたり笑ったり、いい奴も悪い奴もいるただの人間だから。

それでも自由を求めて、世界の外に出るために、そういう「自分たちと同じ人間」を殺し続ける。自分たちの意思で殺し合いをする残酷な世界に飛び込み、その地獄をただひたすら進み続ける。

 

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 (引用元:「進撃の巨人」4巻 諌山創 講談社)

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 (引用元:「進撃の巨人」4巻 諌山創 講談社)

 

「概念としての他者であれば、いくらでも殺せる」のが凡人ならば、「色々な人がいると分かっているし、理解もできる実体化した他者を殺せる」エレンたちは、確かに「悪魔」なのだろう。

自分たちの自由のために世界の全てを破壊し、子供も含めてすべての人間を殺戮する「悪」の物語、それが「進撃の巨人」なのだ。なんてこった。

もちろん善悪は相対的なものに過ぎないが、「自分たちの自由のためならば、何の罪もない人を殺しても仕方がない」という理屈は、現代の価値観ではどう考えても「悪」だ。

 

「進撃の巨人」は、初期から一貫して

「外の世界が地獄であっても、人間は生まれたからには自由でなければならない」

「そして、自由のためならば、自分の命はもちろん、『他人の命を奪う』という代償さえ支払わなくてはならない」

「だが世界というのは、無意味な場所だ」

「無意味だからこそ世界は美しい」

こういうことを繰り返し言っている。

 

なぜ、「進撃の巨人」という物語が、ここまで「自由の代償」を求めるのか分からない。

現代日本で生まれ育った(と思う)作者にとって、なぜこれほど「自由」の代償が重いのかがよく分からない。

この物語内における「自由」という概念は、それを手にいれるときにどうあっても他人と傷つけあったり、その権利を侵害せざるえないもの、のように見える。

 

前にも書いたけれど、現代の価値観では当たり前だと思われる、個の尊厳も「進撃の巨人」では否定されている。ピクシス司令の演説などでも、「より多くの人のために個は犠牲になるべき」という考えがはっきりしている。

 

そういう点からも、「進撃の巨人」は余り一般受けしなさそうに見える。

それが爆発的にヒットしたのは、現代の価値観とはまったく相容れない発想を終始一貫して訴え続ける物語に、現代価値観への違和感や揺り戻しのようなものが重なったからなのかもしれない。

「一体、どこまでやる気なんだ」

そう考えると、ちょっと怖い気もする。

 

ただそれでも、この「どんな代償を支払ってでも、生きている限りは自由を求め進み続ける物語」がどこに辿りつくのか見てみたい。

現代の価値観とはまったく相容れないことを語っているのに、現代に受け入れられた物語がどこに着地するのか、最後の最後で何を語るのか見てみたい。

 

それは「希望かもしれないし、さらなる地獄かもしれない」

それは彼らの地獄に付き合い、読み続けた者にしかわからない。

そういうことなんだろう。

 

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今までのあらすじ・設定のまとめ記事。

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河原和音「素敵な彼氏」の感想と、少女漫画の「王道」について考えたこと。

 

「高校デビュー」や「青空エール」、「俺物語」の原作で有名な河原和音が描いた「素敵な彼氏」を既刊6卷まで読んでみた。

 

 

巧みな職人芸で、「王道」を描いている。

ひと言で言えば、「少女漫画の王道」だ。

個人的には、河原和音ほど実績があり色々なジャンルが描ける漫画家が、今更なぜこれを描いたのだろうと首をひねった。

「俺物語」「青空エール」と変化球が続いたので、「今度は王道を」と思ったのかもしれない。

 

自分が受けた印象では、かなり肩の力を抜いて気楽に描いている感じがする。

「余計な設定は一切用いず、『王道』の要素だけを用いてどこまで描けるか」という縛りを楽しんでいるようにさえ見える。

タイトルからもその自信が窺える。一切の装飾がない無味乾燥なタイトルでも、中身で勝負できる。そう思っていなければ、ちょっとダサい、ほとんどこだわりがないように見えるこういう直球のタイトルにはしないだろう。

 

中身は、ベテランの職人が、新人に教えるために見せる仕事具合に似ている。

「王道」のポイントを外さず綺麗に抑えており、何をどこまで描くかという力の入れ具合をほぼ外さない。作者と作品の距離感が絶妙で、作者が入れ込みすぎて読者を引かせることもなく、かといって適当に描いている箇所もない。きっちり、自分のやるべきことを最大限出来うる限りの力で、規定通りに仕上げている。

仕事に全神経を集中させつつも、自分の仕事ぶりを見ている存在を常に意識している。

真剣だが、必死にはならない

その作品がどうこう以前に、その「巧い」仕事ぶりにまずは惚れ惚れとしてしまう。この自信と落ち着きは、経験でのみでしか得られないと思う。

 

「少女漫画の王道」とは何なのか。

「素敵な彼氏」は「少女漫画の王道の見本」のような漫画だ。 

「少女漫画の王道」とは何なのか、ということは前に書いた。

「主人公がその中心に居座る、主人公にとっての都合のいい世界でありながら、誰にも悪く思われず、誰にも攻撃されず、誰にも罪悪感を抱くことのない世界」

 

これがこの構造を持つ少女漫画が最終的に目指す、ユートピアだ。

ちなみにこの世界の外にいるモブにならば、いくら攻撃されても攻撃には入らない。なぜならば、主人公は自分が作り上げた世界によって、世界外からの攻撃から守られているからだ。

これは言葉を変えれば、「世界で唯一のプリンセスになる」ということだ。

主人公と相手役、主人公の友人、友人の相手役などで主人公を中心とした小世界が形成される。

この小世界の中で話の種が尽きるまで、延々と小エピソードが繰り返される。その中で、周囲の人間が魅力的と認める異性から選ばれることによる自己実現を目指す、叙情をメインとした物語だ。

いわゆる「プリンセス願望を満たす装置」と考えていい。

 

この構造の物語はパッと思いつくだけでも、けっこうある。

・彼氏彼女の事情

・フルーツバスケット

・君に届け

・となりの怪物くん

・ラブコン

・ハツカレ

・高校デビュー

・キス、絶交、キス

・アオハライド

 

もちろん細かい違いはあるし、「彼氏彼女の事情」や「フルーツバスケット」のように重い設定を組み込んでいる話もあるけれど、コアとなるストーリーラインはほぼ同じだ。

この中で繰り返される物語も、「片思いする」「ライバルが現れる」「すれ違いが起こる」「両想いになる」

両想いになってからのイベントが「お互いの親(家族)に会う」「お互いの誕生日」「バレンタイン」「修学旅行」「初めてのお泊り」「友達の恋愛事情」「進路の悩み」とだいたい似たことが起こる。

終着点は「結婚」など、ヒロインと相手が永遠に結ばれることが予測できる地点だ。少女漫画の王道は「ヒロインを中心とした小世界が確固としたものになること」を目的としている。

少女漫画だけではなく「少年漫画の王道」も、コアだけを取り出せば同じ構造の話が多い。ターゲットとなる読者層が感情移入しやすい設定で、なおかつ承認欲求や自己実現欲求を満たせる装置として優れているものが、「王道」と呼ばれる物語だ。

 

より広い読者からの共感を集めようとすれば、似たような物語になるのは必然と言っていい。むしろその「コアは似通った物語」でいかに「他と差別化をはかるか」「この物語ならではの魅力を読者に感じさせるか」が腕の見せ所になる。

そういう意味では、「バクマン。」でも指摘されていた通り、「王道」というのは単純で簡単なように見えて、「型」が既にあるからこそ差異化が難しい分野だと思う。

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(引用元:「バクマン。」3卷 小畑健/大場つぐみ 集英社)

 

「少女漫画の王道」では「エクスキューズ」が重要。

「君に届け」があれほど爆発的にヒットしたのは、自分の考えでは非常に「エクスキューズ」が上手い物語だからではないか、と思っている。

「エクスキューズ」というのは、自分の造語だ。

「なぜ(多くの場合)平凡で冴えない主人公が世界で一人のプリンセスになれるのか」「主人公(自分)一人がプリンセスになれてしまう都合の良さ」に対して、作者が読者のために用意する納得のいく説明、ないしその罪悪感軽減のための措置のことを指している。

 

少女漫画においてこの「エクスキューズ」は、必須と言っていい。

そうでなければ、読者はそれを絵空事としか思えず共感できない。「友達ではなく、自分がヒロインであること」が余りに露骨だと、幸福よりも居心地の悪さを感じてしまう。

具体的にはどういうことかというと、「君に届け」で言えば、爽子が人間関係の中で非常に努力している描写を入れることや、友人であるあやねや千鶴の恋愛描写もしっかりと描くこと、ライバルであるくるみとの和解と友情などだ。

「少女漫画の王道」の成否や優劣というのは、この「エクスキューズ」の配備の仕方が重要な鍵となっていると思う。

 

「君に届け」は「エクスキューズ」の描写が絶妙だ。

自分の中で「君に届け」の評価を飛躍的に高めているのは、ライバルであるくるみの人物像だ。

「王道」の中の「ライバルキャラ」では、ダントツに好きだ。

風早を好きになった理由も、「私のほうがずっと風早が好き」「可愛くても風早が好きになってくれないなら意味がない」と言う一途さも、陰険なやり口ではあったが、恋のために全知全能を振り絞って戦う姿勢も、振られたあと風早に「女を見る目がないもんね」という潔さと誇り高さも、常に爽子に対等の立場で正面からモノを言うところもすべていい。

ライバルキャラというのは「主人公にとって、どういう人物か」というのが全てのことが多く、ライバルのときはイヤな奴だったのに急にいい人になるなど、「都合のいいキャラ」であることが多い。

くるみの場合は爽子との距離感が変化しただけで、くるみ自身は一貫して彼女自身であるところがすごくいい。

 

ただすごいとは思うけれど、イマイチハマれなかったのは、他の登場人物が好きではないからだ。きちんと描かれていても、そのキャラを好きになれるか、共感できるかはまた別問題になる。(むしろ『生きたキャラ』として描かれているからこそ、好き嫌いが分かれる。)

「少女漫画の王道」は物語のコアが単純なだけに、キャラがどれだけ好きになれるか、という要素が、作品にハマれるかハマれないかに大きく関わる。

「君に届け」が王道の中の王道でありながら他の漫画と一線を画すのは、「ちゃんと生きたキャラ」になっていることが大きいのだと思う。

 

ちなみに周囲のキャラが、「主人公との関わりしかアイデンティティを持たない、主人公にとっての都合のいいキャラ化」すると、そのキャラはほぼ魅力がなくなり、物語は往々にしてご都合主義のつまらないものになる。

その最たる例が「破妖の剣」だ。(小説だが。)

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これは作者の力量不足というよりは、得手不得手が大きいと思う。

たくさんの多様なキャラを動かし、物語を作るのが得意な作家もいれば、一人の心情を深く掘り下げ読者に強烈な印象を残すことが得意な作家もいる。

前田珠子は明らかに後者だと思う。長編は放置されているものが多いが、短編は優れた作品が多い。

 

「少女漫画の王道」では、「キス、絶好、キス」の藤原よしこが同じタイプだ。

「キス、絶好、キス」は中学生編が人気だったので、高校生編が連載になったのだと思う。高校生編も面白くないわけではないのだけれど、中学生編の神がかった叙情と比べてしまうと蛇足にしか見えない。

三巻に収録されていた「恋の病にドロップ三錠」も良かった。短編は本当に上手いと思うのだけれど、長編だとどうしても息切れしてしまう。

中学生編で一度は身を引いて、しかも彼氏ができたリカ先輩をライバルとして使いまわすなど(ひどい表現だが、こうとしか言いようがない)「エクスキューズ」も下手くそだ。

長編も何作か読んだけれど、物語がほとんど動かず余り面白いと感じなかった。

 

「王道」はほぼ「同じことを繰り返している」のがほとんどなのだが、同じことを繰り返していても、読者に同じことと感じさせてはいけない。相手との関係性が進んだ感じがしないと(少年漫画であれば、敵の強さとか)読者が飽きてしまう。

こう書くと、やはり「王道」には「王道」ならではの難しさがある。

 

自分が「王道の少女漫画」で一番好きなのは「ラブコン」だ。

主人公のリサが好きなことと、リサと相手役の大谷の関係がすごく好きだからだ。

「ラブコン」はそもそも、相手役である大谷がものすごくモテたり目立つ存在ではない、元カノは完全に大谷のことを吹っ切っている(むしろ大谷のほうに若干未練があった)など、「その相手に選ばれることによる唯一無二性」がだいぶ薄まっている。 

プリンセス要素が強くなればなるほど、「エクスキューズ」しなければならない必要性が増えるので、「プリンセス要素を薄めることによって、エクスキューズの必要性をなくす」という手法をとっている。

 

「相手役が優れた魅力的な存在である」と同性から認められていればいるほど、つまり同性からの羨望が大きければ大きいほど、「なぜ、主人公がその羨望される位置につくのか」という「エクスキューズ」が、王道においては必要になる。

なぜ「必要になるのか」と言えば、現実ではほぼ起こりえない、ということが読者には分かっているからだ。(起こりえないからこそ、こういう物語に需要がある。)

現実にはほぼ起こりえないことがなぜ物語の中で起こるのかを「エクスキューズ」しなければ、読者に物語を実感させることが難しい。

「エクスキューズ」をせずに読者を共感させなければ、読者は「自分たちの現実」に近いモブに共感し出す。

そうなるとヒロインは、読者にとって努力もせずにただ幸運を享受する敵になる。ネット風に言えば、ヒロインが読者にマウントをとる装置になってしまう。

 

北川みゆきや青木琴美の作品のヒロインが時に叩かれるのは、「エクスキューズ」を拒否しているからだ。主人公(自分)一人がプリンセスであればいい、同性は基本的には敵という物語なので、反感を持たれることが多い。王道のように見えて、実は邪道の物語だ。

この二人の作品には読んでいて首をひねることが多いが、少年漫画における「ダークヒーローもの・アンチヒーローもの」のような位置付けなので、「王道」とは違う読み方をしたほうがいいかもしれない、と思っている。

 

ということを踏まえての「素敵な彼氏」の感想

自分個人の意見としては、巧いのだけれど巧すぎる気がする。

例えば桐山→ののかへの想いが、直球で描かれるのではなく、ちょっとした表情や間で表されている。

「表情と行動で分かるだろう。ちゃんと描いているんだから」という気持ちも分かるんだけれど、せっかくの「王道」なのでもう少しベタでもいい気がする。

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(引用元:「素敵な彼氏」 河原和音 集英社)

 

迷子になったふりをしてLINEをののかだけに送るとか、「ああ桐山も頑張っているんだな」と分かるんだけれど、その意味が作内でわかる描写があったほうがテンションがあがる。

現実だったら、めっちゃテンションあがるシチュだが、ののかは全然気づいていない。ここは奨平か婚約者か、どちらかに気づいて欲しいところだ。

 

「桐山の気持ちが本気かどうかわかりにくい」というのは、作内でも再三再四描かれているが、読者にはもう少し分かりやすくてもいいんじゃないかなあと思う。

「自分の気持ちが伝わりにくいこと」への葛藤も、もうちょっと欲しい。

個人的な好みだけど。

 

と、相手役の桐山は若干物足りない「素敵な彼氏」だけれど、ヒロインのののかはすごくいい。

健気でまっすぐで素直で裏表がないがんばり屋。天然でイジラれキャラ。

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(引用元:「素敵な彼氏」 河原和音 集英社)

河原和音が描くヒロインは、「高校デビュー」の晴菜、「青空エール」のつばさ、「俺物語」の大和とこのタイプが多い。全員好きだな。

 

「素敵な彼氏」は王道の少女漫画らしく展開に意外性はないが、そのぶん安心して楽しめる。

四の五を言わずに、きゅんとできる良質な恋愛漫画を読みたいという人におすすめだ。

 

「王道の少女漫画」ひと言感想

このふたつは自分の中では似ていて、両方とも重い設定をやや持て余してしまっている感があった。作品と作者の距離の近さが伝わってくるところが苦手だ。

 

どこにでもあるような王道の漫画でありながら、どこにもないすごい漫画。

読者に「え?」と思わせることなく、主人公二人の恋愛にのめりこませてくれる。

「君に届け」の真にすごいところは、「女キャラの対等さ」だと思う。この辺りは、どこかで書きたい。

 

「となりの怪物くん」も好きだったな。

主人公二人よりも、夏目さんとササやんの関係が好きだった。両極にいて、ガンガン自分とは違う物のの見方を言い合えるところがいいなあと思う。

「『お前は楽でいいよな』とか、わたし、その人と仲良くなれそうです」

とかけっこうひどいこと言うな、と思うけれど、そういうことも言い合える関係っていい。

  

「学校一のイケメンが何故か私に?」なんていう設定だと、それだけで少し引いてしまう。

「ラブコン」は、リサと大谷が仲のいい友達という地点から始まったり、大谷は多少人気はあるけれど、勉強が苦手で背が低いコンプのある普通の男子というところなど、比較的「現実的なところ」が好きだ。

リサみたいな友達欲しい~。

 

久しぶりに読んだら面白かった。

「男子を男子としてしか見れない女子」と「女子を女子としてしか見れない男子」、異性が自分とは違う生物にしか見えない者同士のパターン。そういう人の考えや行動、距離感のリアルさが垣間見えるところも見どころのひとつ。

 

めちゃくちゃベタなんだけれど好き。

中学生編は、初恋描写の神だと思う。高校生編も面白いのだけれど、中学生編で十分だった気がする。

 

これだけ同性の癇に障る主人公を描けるのも才能だと思う。

「うじうじ悩んで何もしない、もしくは狡い選択しかしないのに、何故か周りが何でもしてくれる」というまさに生まれながらのプリンセス。

生まれついての姫には何をしても勝てない、ということをまざまざと思い知らされる。恭子、気の毒に…。

 

 

【ネタバレあり】諌山創「進撃の巨人」あらすじと重要設定を5分でおさらい(25巻まで・随時更新)

 

だいぶ世界の姿が分かってきて、話もややこしくなってきたので、一巻から改めて読み直してみました。

読み直してみると何気なく読み飛ばしていた事実があったり、初めに読んだときには理解できなかった登場人物の心情に感じ入ったりします。

ひと言でいうと

 

やっぱりおもしれええええ!!

 

と思いました。

話が壁外に移り、テンションが高まる一方です。

一巻を読んだ時点で、誰がこんな展開を予想していただろう??

 

話が込み入ってきたので途中で読むことを止めてしまった人もいると思うのですが、ぜひもう一度手にとって欲しいです。

また「読んでいるけれど、話が込み入ってきたので惰性で読んでいる」というのも、ちょっともったいないな、と思います。

自分も整理しきれていない部分があるので、これを機にこれまでのあらすじと重要な設定を、一緒にサラッとおさらいしたいと思います。

 

「進撃の巨人」25巻までのあらすじ

100年以上人類を守ってきた壁が、突然破壊される(1巻)

人類が巨人の手から逃れるために、壁を築いて中に閉じこもって102年。

知性を持つ超大型巨人と鎧の巨人が突然現れ、一番外側の壁「ウォール・マリア」が破られる。

巨人たちが侵入してきたシガンシナ区は壊滅し、母親を殺されたエレンは、幼なじみのミカサとアルミンと共に、巨人を殺す兵士になるために訓練兵団に入団する。

 

エレンは巨人化の力が、人類の希望になる。(2巻~4巻)

5年後、訓練兵となったエレンたちの前に、再び超大型巨人が現れる。

今度は二番目の壁「ウォール・ローゼ」に穴をあけられる。

同期の訓練兵たちが巨人との戦いで次々と死んでいく中、危機に陥ったエレンが15メートル級の巨人になる。巨人となったエレンが「ウォール・ローゼ」の大穴を岩で塞ぎ、防衛することができた。

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(引用元:「進撃の巨人」4巻 諌山創 講談社)

調査兵団に入団したエレンは、他の団員たちと共に五年前開けられた「ウォール・マリア」の穴を塞ぐために、巨人の領域と化してしまった壁外に出る。

 

女型巨人の正体は、同期のアニだった。(5巻~8巻)

巨人と出会うことのない索敵陣形で5年前あけられた穴を目指す調査兵団だが、突如現れた知性を持つ女型巨人によって、全滅の危機にさらされる。

女型巨人の狙いは、巨人化の力を持つエレンであることが明らかになり、女型、超大型、鎧型、三人の知性ある巨人は、エレンが巨人化したことを知る調査兵団の人間である疑いが濃くなった。

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(引用元:「進撃の巨人」8巻 諌山創 講談社)

アルミンは推理を重ね、女型巨人が自分たちの同期で、憲兵団に入団したアニであることを突き止める。

正体がバレたアニは、エレンをさらい、壁外に逃亡しようとする。が、失敗して調査兵団にとらえられ幽閉される。

 

皆はエレンの中にある、最強の巨人「始祖の巨人」の力を狙っている。(9巻~17巻)

人類を守っていた壁は巨人の硬質化能力でできており、人類を守る壁が巨人そのものであることが分かる。

事情を知る「ウォール教」のニック司祭は、頑として口を割ろうとしない。その秘密を明かすかどうかを決められるは、ある血筋の人間だけだ、と言う。

その血筋であるレイス家こそ真の王家であり、現在の王フリッツはかりそめの王だった。エレンたちの同期であるクリスタは、レイス家の当主ロッド・レイスの落胤だった。

 

五年前「ウォール・マリア」が崩壊したとき、エレンの父親グリシャがロッド・レイスの子どもたちを皆殺しにした。巨人の頂点に立つ最強の巨人「始祖の巨人」の力を、レイス家から奪うためだ。

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(引用元:「進撃の巨人」16巻 諌山創 講談社)

そしてエレンに自分を喰わせることで、「始祖の巨人」と「進撃の巨人」の力をエレンに移譲した。

 

ロッド・レイスは「始祖の巨人」の力を奪い返すために、エレンとクリスタをさらう。クリスタにエレンを喰わせることによって、「始祖の巨人」の力を奪い返そうとしていた。

クリスタはこれを拒絶し、父ロッド・レイスを倒す。

同じころ兵団がクーデターを起こして現王政を倒したため、クリスタは本名ヒストリア・レイスを名乗り、壁の中の女王として即位する。

 

ウォール・マリア奪還戦。エルヴィンが死に、アルミンが超大型巨人となる。(18巻~21巻)

エレンの父親グリシャは壁外の世界から来た人物であり、壁の外の世界の真実を、自宅の地下室に残している。

調査兵団は、エレンの家があるシガンシナ区を奪い返すために「ウォール・マリア奪還作戦」を計画する。

 

シガンシナ区では「超大型巨人=ベルトルト」「鎧の巨人=ライナー」知性のない無垢の巨人を操る力を持つ「獣の巨人」が待ち構えていた。

巨人と調査兵団は、交戦に入る。

しかしベルトルトとライナーを人間のうちに打ち取ることができず、獣の巨人との挟み撃ちにあい、調査兵団は全滅の危機に陥る。

 

アルミンの捨て身の作戦でベルトルトを打ち取ることができたが、獣の巨人とライナーをあと一歩のところで逃す。

調査兵団団長のエルヴィンは、特攻で命を落とした。アルミンはベルトルトを食らって超大型巨人の力を手に入れ、瀕死の重傷から蘇る。

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(引用元:「進撃の巨人」21巻 諌山創 講談社)

エレンたちはついに地下室に行き、父グリシャの残した手記を見つけた。

 

壁の外の世界の真実とグリシャの目的が明らかになる。(21巻~22巻)

壁の世界があるのは、パラディ島という名前の島だった。

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(引用元:「進撃の巨人」21巻 諌山創 講談社)

107年前、巨人化できる能力を持つエルディア人の一部が壁の中に逃げこんだ。

壁の外の世界は、長い間、エルディア人が迫害していたマーレ人が支配する世界だった。マーレ人は9つの巨人のうち7つを手に入れており、「巨人大戦」に勝利してエルディア人を支配下においた。

 

グリシャはマーレ支配下のエルディア人収容所に生まれ、エルディアの復権を目指す「エルディア復権派」に所属していた。

大陸に残ったエルディア王家最後の生き残りダイナ・フリッツと結婚して、ジークという息子を設ける。

 

ジークが両親を密告したためエルディア復権派は壊滅し、グリシャとダイナは「楽園送り」となる。ダイナは壁の外の世界をさ迷い人を襲う、無垢の巨人に変えられた。

グリシャは、「フクロウ」と名乗るスパイ、エレン・クルーガーに助けられる。

 

クルーガーはグリシャに自分が持つ「進撃の巨人」の力を託し、「壁の中の王から始祖の巨人の力を奪い、その力でエルディア人を救ってくれ」と頼む。

グリシャはエルディア人を救うために「始祖の巨人」をレイス家から奪い、息子であるエレンに託した。

一年後、パラディ島全体の安全を確認したエレンたち壁内の人類は、初めて海を見る。

 

壁の外の世界の話。(23巻~24巻)

そしてさらに三年の月日が流れ、マーレで暮らすジークとライナーには寿命が近づき、次の「巨人の力を受け継ぐ戦士の選考」が行われようとしていた。

戦士候補であるファルコは、自分の力が同期のガビに及ばないことに落ち込んでいたが、戦傷者病院にいたクルーガーという男に「それでも進むしかない」と励まされる。

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(引用元:「進撃の巨人」24巻 諌山創 講談社)

ファルコはクルーガーに頼まれて、ライナーを連れてきた。クルーガーの正体は、エレン・イェーガーだった。

 

一方、世界各国から高まるエルディア人への迫害意識を抑えるために、マーレは「パラディ島の始祖の巨人奪還作戦」をエルディア人が世界の人々のために戦う英雄譚に仕立てようとする。

その英雄譚の語り手として、マーレの実質的な支配者であり「戦鎚の巨人」の支配者であるタイバー家が表舞台に登場する。

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 (引用元:「進撃の巨人」24巻 諌山創 講談社)

 

全世界VS壁内の住民の戦いが始まる(25巻)

ヴィリー・タイバーは、初代の王カール・フリッツが「人類の脅威と判断されたら、自分たちユミルの民は殺戮されても構わないと思っていること。それまでのあいだ、つかの間の楽園を許してほしい」と言って、自ら進んで壁の中に引きこもったという真実を明かす。

フリッツ王の「不戦の契り」を受け継ぐ王にとって代わり、「壁内の住民のせん滅を拒否する」エレン・イェーガーが「始祖の巨人の力」を奪ったため、世界は一丸となって壁内の住民と戦うべきだと壁内の住民に対して宣戦布告する。

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(引用元:「進撃の巨人」25巻 諌山創 講談社)

この言葉を聞き、エレンは「進撃の巨人」に変化し、タイバー家の「戦槌の巨人」との戦いを始める。

エレンと共にマーレ内に侵入していたミカサやリヴァイたちも参戦し、壁内の巨人VS壁外の巨人の総力戦が始まる。

 

年代系列及び時系列

初代レイス王がパラディ島に壁を築いた年を、0年とします。壁内の出来事は赤字にしています。

 

前1740年 ユミル・フリッツが大地の悪魔と契約し、「巨人の力」を手に入れる。

前1620年 エルディア人(ユミルの民)による、他民族の民族浄化が始まる。

  0年 巨人大戦。七つの巨人の力を従えたマーレが勝利する。

  0年 145代フリッツ王がパラディ島に三重の壁を築き、国民と逃げ込む。

 65年? グリシャの妹・フェイが殺害される。  

74年くらい? グリシャとダイナが結婚。

75年くらい? ジーク誕生。

80年以後 ジークの密告により、グリシャとダイナが楽園に送られる。

  92年 エレン誕生

  99年 ジークが「獣の巨人」を継承。

  100年 ライナーが「鎧型巨人」を継承。

  102年 ウォール・マリアが超大型巨人と鎧型巨人によって突破される。(「始祖奪還計画開始」)

  107年 エレンが調査兵団に入団。

     仮の王政が倒れ、ヒストリア・レイスが即位。

     マーレと中東連合との戦争が始まる。

 108年 壁内の人類、海の存在を確認

 111年 マーレと中東連合の戦争が終結する。

 

巨人の設定

巨人化の力は、エルディア人の祖先であるユミル・フリッツが大地の悪魔と契約して手に入れた。そのため、ユミルの血を持ち「ユミルの民」と呼ばれるエルディア人しか巨人になることはできない。(エルディア人には、「ユミルの血」が流れていない「他人種系エルディア人」もいる。)

ユミルは死後、自分の魂を9つの巨人に分け与え、エルディア帝国を築いた。

この9人の巨人には知性があり、知性ない「無垢の巨人」とは性質も能力もまったく違う。

 

無垢の巨人

知性がなく意思の疎通ができない。

「人を感知し、人を追跡し、人を喰らうだけの存在」

すぐそばの人間に反応する通常種と、より多くの人間に反応する奇行種がいる。

個体差があるものの、日光がなければ活動を停止するが、ジークの脊髄液を注入した場合は月光でも活動が可能。

 

9つの巨人

知性がある巨人。無垢の巨人と化した人間が、9つの巨人を身に宿している人間を喰らうとその能力を手にすることができる。

9つの巨人の力を継承したものは、ユミルの呪いにより、その後13年しか生きられない。

9つの巨人の力が誰かに喰らわれることによって継承されなかった場合、他のエルディア人(ユミルの民)の赤ん坊に突如として継承される。この継承には、血縁も距離も関係がない。

 

始祖の巨人

(ウーリ→フリーダ→グリシャ→エレン)

巨人の頂点に立つ、最強の巨人。

エルディア人の記憶を改ざんできる、他の巨人を操れるなどの能力を持つ。

すべての巨人、すべてのユミルの民は道でつながっており、そのすべての道が交わる座標が「始祖の巨人」である。だから記憶に干渉したり、操れることができる。

「始祖の巨人」の力は、レイス家が受け継がないと真価を発揮できない。

「始祖の巨人」を継承すると、力と共に歴代の王の記憶を継承する。

「始祖の巨人」を継承したレイス家の者は、145代目レイス王が「始祖の巨人」と結んだ「不戦のちぎり」や「過去の歴史を根絶し、一糸乱れぬ平和を実現すること」「平和とは、人類が巨人に支配される世界」という思想に支配され、巨人に対して無抵抗の自死の道を選ぶ。

 

進撃の巨人

(エレン・クルーガー→グリシャ→エレン)

最長15メートルの巨人。喋れない。

 

超大型巨人

(ベルトルト→アルミン)

50メートル級の巨人。筋繊維を燃やして、周囲に高熱を発している。

 

鎧型巨人

(ライナー→ガビorファルコ?)

関節以外の全身を硬質化に特化した巨人。女型と違い、硬質化が常態。

 

女型巨人

(アニ)

高い機動力と持続力がある。何でもできる汎用型。

望んだ箇所を硬質化できるが、鎧型ほど恒常性はない。

叫びで無垢の巨人を操れるが、範囲は狭い。

 

獣の巨人

(ジーク→コルト?)

巨人になっても話せる。

「叫び」でエルディア人を巨人にし、操ることができる。無垢の巨人を月光で動かすことができる。この能力は「獣」のものではなく、王家の血を引くジーク固有のものであるようだ。

 

顎の巨人

(マルセル→ユミル→ポルコ・ガリアード)

強襲型。小ぶりな分、最も素早く、強力な爪と顎で大抵のものは砕ける。

 

車力の巨人

(ビーク)

並外れた持続力を持ち、長期任務が可能。 四つ足歩行で物が運べる。

 

戦鎚の巨人

 (ヴィリー・タイバーの妹?)

 

 登場人物の設定と謎

読んでいて疑問に思った点。今後おいおい明かされるのかもしれない。

 

①エルディア人以外も巨人になれるのか?

エルディア人以外は巨人になれないと思っていたが、ケニーは「始祖の巨人」になろうとしていたし、死ぬ間際「どうして薬を使って巨人化しなかった?」とリヴァイが聞いているから、薬を使えばなれるのか?

でもグロス曹長が「巨人の脊髄液を体内に吸収しただけで巨大な化け物になる。こんな生き物は、お前らエルディア帝国のユミルの民以外存在しない」と言っている。

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(引用元:「進撃の巨人」22巻 諌山創 講談社)

そもそも「エルディア人しか巨人になれない」という設定は、この物語の根幹を支える重要事項だ。(正確には「エルディア人の中のユミルの民」しか、巨人にはなれない。そうすると、ますますケニーの言動が謎だ。)

ケニーはユミルの民との混血なのかもしれない。もしくは、アッカーマン家の者は巨人にはなれないと知らなかった?

この辺りはよく分からなかった。

 

②貴族の血と奴隷用の血に分かれている?

フリッツ王政を支えていた重臣の一人が、ザックレーに対して「お前の血は我々と違って奴隷用の血だ」と言っている。

貴族がエルディア人以外なのか、エルディア人の中でさらに血が分かれているのかは不明。ユミルの民=奴隷用エルディア人?ということなのかもしれない。

エルディア人は、ユミルの血を引く「ユミルの民」とユミルの血を引かない「他人種系エルディア人」に分かている。フリッツ王や彼をとりまく貴族たちは「他人種系エルディア人」であり、始祖の巨人の力が及ぶ「ユミルの民」を「奴隷」と揶揄していると思われる。

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 (引用元:「進撃の巨人」24巻 諌山創 講談社)

 

③ウドガルド城跡で発見した缶詰の文字は何語?

9巻の「ウドガルド城跡」で、壁内の人間が読めない名前の酒があり、缶詰もあった。ライナーも読めない「にしん」という文字をユミルは読めた。

ジークがここに潜んでいたのだと思うけれど、とするとライナーが本当は読めるのに嘘をついたのだろうか?

それとも、壁内の言葉ともマーレの公用語とも違う文字でユミルが読めたのか?

恐らくライナーが正体がバレないように、嘘をついたのだと思うが。

 

④物語開始当初の「いってらっしゃいエレン」は、誰の記憶か?

このときエレンはまだ、どの巨人の力も受け継いでいないので、誰かの記憶を見ることはありえない…と思っていたけれど、22巻でエレン・クルーガーが「ミカサとアルミン」の名前を口にしていたので、巨人の記憶は時間の次元を超えるものなのかもしれない。

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(引用元:「進撃の巨人」22巻 諌山創 講談社)

エレンが「進撃の巨人」や「始祖の巨人」を継承することが未来的に確定していたので、時間を超越して誰かの記憶を見たのかもしれない。

時間も超えられるとなると、「繰り返すだけだ。同じ歴史を、同じ過ちを。何度も」というのは、ループ説の伏線か?とも思う。

初期のころ、かなり有力だったループ説が復活するかもしれない。

 

⑤「エレン・クルーガー」は「エレン・イェーガー」なのか?

どういう仕組みなのかは分からないけれど、顏も似ているし、↑のセリフも二人のエレンが同一人物なら説明はつく。

24巻でマーレに潜入したエレンが、「クルーガー」と名乗っているし。

そうすると、やはりループものなのか?

 

⑥物語開始当初の「845」「850」という数字は何なのか?

「ウォール・マリア」が突破されてから五年後、という数字と合っているので、年号であることは間違いないと思う。

恐らく壁外、マーレの年号なのではないか。

 

⑦巨人は雨の日でも動けるのか?

巨人は日光を遮断すると動けなくなるが、雨の日や曇りの日はどうなんだろう? ジークの脊髄液を注入しなければ月光でも動けなかったのだから、晴れの日の日光でないと動けなくなると思うのだが。

ただ今のところ、雨が降っている描写が四巻の訓練兵時代の時だけなので、極端に雨が少ない地域なのかもしれない。

 

⑧グリシャと一緒に楽園送りになったグライスは、ファルコとコルトの血縁なのか?

顔立ちも似ているので、血縁だと思う。(24卷で血縁と判明)

 

⑨ハンジは男なのか? 女なのか?

作者のコメントで正式に性別不明になったらしい。

場面ごとに男顔になったり女顔になったりしている。

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(引用元:「進撃の巨人」5巻 諌山創 講談社)

初期のころの女性っぽい話し方も懐かしい。

今回読み返して、ハンジがすごく好きになった。

 

 まとめ

今のところ一番気になるのは、「奴隷用の血」の部分です。ユミルの民については、もうひとつカラクリがありそうな気がします。

「始祖の巨人」の力の影響を受けないということは、貴族たちはエルディア人ではないのか、自分の力が及ばないものをなぜ貴族したのか。この辺り、何かあるのかな?と思いました。(この辺りは記事に書き加えた通り、24巻で判明しました。)

145代目レイス王が、「始祖の巨人」とかわした「不戦のちぎり」とは何なのか。なぜ、人類が巨人に支配されることが一糸乱れぬ平和だと思ったのか。

 

続刊が出たり、何か新しい発見が出てきたら、随時付け加えたいと思います。

 

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「ヒロインが、主人公ではない別の男と結婚する物語」という増田からの派生妄想。

 

anond.hatelabo.jp

この記事には、「この創作物は、上記の定義に該当すると考えられる」「こういう内容だった」というネタバレが含まれます。

一切のネタバレを回避したい方は、この時点でのブラウザバックをおススメします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ヒロインが、主人公ではない別の男と結婚する物語」は、男性が主人公の物語を想定しているのだと思う。少女漫画だとこのケースは「当て馬エンド」と呼ばれ、けっこう定期的に盛り上がる話題だと思う。

自分も「当て馬エンド」が好きなので、こういう話題があるとつい見てしまう。

 

「主人公が男」でヒロインが別の男と結婚する、となると、パッと思いついたのが「ハチミツとクローバー」だ。

最初から主人公の竹本とはぐみはくっつかないだろうなあ、と思ったけれど、まさか「別の男」まで予想の斜め上とは…。

「作者が堺雅人に萌えたから」とか色々と聞いたけれど。

物語の展開としてはそうとう不自然だと思う。どのキャラが好きとかもなかったし、メインは竹本の成長物語だし、何よりその不自然さを差し引いても「ハチミツとクローバー」は名作だと思うのでいいんだけれど。

 

ブコメでも上がっていた「バハムートラグーン」。

プレイしたことはないけれど、Wikiでシナリオを読んだときは笑った。ヒロインひどい。

ドラマでは「木更津キャッツ・アイ」が当てはまるか。

ぶっさんがモー子のことを何とも思っていないので、ヒロインというかは微妙だけれど。

 

女性主人公の当て馬エンド(「ヒロインが、主人公ではない別の男と結婚する物語」ヒロイン視点バージョン)で、よく話題にあがるのが「フルーツバスケット」

「物語開始当初から夾が本命だった派」と「由紀が本命で変更になった派」に分かれることが多い。

Amazonで検索をかけたら、子供世代の話が出てきてびっくりした。

 

男女逆で「男性主人公で、本命ヒロインじゃないほうと結ばれるエンド」で思いつくのが、「いちご100%」

「どちらもヒロインだ」という意見もあるかもしれないけれど、やっぱり物語の流れ的には東が本命じゃないかと思う。一巻の表紙も東城さんだし。つかさファンだった兄ちゃんは、西エンドに狂喜していたが。

 

少女漫画だともうひとつ毎回見るのが、「ピーチガール」

あれも「えっ? そっち?」という感じはあった。

「ピーチガール」は余り好きじゃないのでいいんだけれど、「ちはやふる」が同じ展開になるんじゃないかと思ってちょっと怖い。

 

「うさぎドロップ」は、「そっちがヒロインだったのか」感はあった。年齢差は余り気にならないけれど、物語の流れ的に微妙というのはある。

二人ともそれぞれの相手との関係をじっくり描いていたのに、急に大吉とりんの関係に恋愛が持ち込まれた感があった。

男女逆で、その方向に行きそうでいかなかったのが、先日見てきた「さよならの朝に約束の花をかざろう」

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これも「くっついたら微妙だけれど、くっつかなくてもそれはそれで微妙だな」と思っていたら、かなりしっくりくる落としどころだったのですごく良かった。

 

岡田麿里関連で、「心が叫びたがっているんだ」もあがっていた。

これは「ヒーローが、主人公ではない別の女と結ばれる物語」だけれど、これも「その意外性自体に仕掛けがある」話なので納得度が高かった。まあ別の部分に不満があったのは、感想記事で書いたけれど。

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 「ハーレム・ビート」と「あひるの空」は、「ヒロインとくっつかないけれど、新たなヒロインが出てきたパターン」だな。

「帯をギュッとね」と「モンキーターン」は二作連続で、元からいる幼なじみヒロインから自分と同じ世界に生きるヒロインに乗り換えるのかと思いきや、幼なじみを選ぶパターだった。

この辺りは読者のニーズなのか、作者の好みなのかは分からない。

ただやっぱり「その作者の好みのパターン」というのはある気はする。

 

これとまったく同じパターンなのが「獣王星」。

 「獣王星」は「当て馬ヒロインが登場。一目惚れ」→「他の男が好きなはずの当て馬ヒロインと結ばれる」→「当て馬ヒロインが死ぬ」→「幼なじみヒロインを好きになる」の流れが余りに早すぎてついていけなかった。 

「獣王星」は広げた風呂敷のたたみ方といい、色々と不満がある。トールの少年期は傑作だと思うだけに、青年期になってからが辛すぎる。

 

主人公とヒロインではないけれど、「そいつとそいつがくっつくか」というパターンで一番好きなのは樹なつみの「パッション・パレード」の零と蕾だ。

零と蕾みたいにフラグとも気づかないような小さなフラグが立って関係性が少しずつ変わって、最後に「そういうことか!」と回収されるパターンが一番好きな気がする。

こういうのを「獣王星」でもやって欲しかった。

 

似たパターンでは、「海街ダイアリー」の幸とヤスの恋愛が好きだ。メインストーリーの裏側で少しずつ進行しているというパターン。

 

この手のパターンで一番びっくりしたのが、秋里和国の「THE.B.B.B」

「主人公とヒロインが結婚した」んだけれど、うーん、そうかその手があったか。という感じ。

「鉄血のオルフェンズ」と似たパターンだ。そういえば、元増田のブコメで、公式ではクーデリアとアトラが結婚していると知ってびっくりした。

 

ここまで書いて、自分は「フラグとも気づかないような小さなフラグが立って関係性が少しずつ変わって、最後に『そういうことか!』と回収されるパターン」が一番好きなことに気づいた。

そういうパターンの話があれば、ぜひ教えて欲しい。

 

とりあえず元増田は否定的だったけれど、「アルドノア・ゼロ」に興味を持ったので見てみたいと思う。

 2話まで見たけれど面白い。

自分たちとは価値観が違う、話の通じなさそうな圧倒的に強大な敵と対峙する絶望感がたまらない。

 

【ネタバレあり】漫画版「うみねこのなく頃に」Episode8が素晴らしかったので、いいところも悪いところもまとめて語りたい。

 

漫画版Episose8では、猫箱の底まで描かれている。

 

漫画版「うみねこのなく頃に」Episode8を読了した。

 

「もう、うみねこはいいかな」と思っていたので悩んだけれど、「最近、漫画も読んでいないし、買うか」と思って購入した。

結論から言うと、大満足の結末だった。

ここまで猫箱を追いかけてくれた人たちを、最後の最後に、猫箱の中に招待してもよいのではないかと。(中略)漫画版EP8は、描ける限り、しっかりと猫箱の底を描いてもらってよいのではないかと

(「うみねこのなく頃に散 Episode8」原作者あとがきより引用 竜騎士07 株式会社スクウェア・エニックス) 

 

原作者が後書きでこう書いているとおり、原作とは違い、すべての謎や疑問の答えが明示されている。

原作の結末を見て「もう、うみねこはいいよ」と思った人にこそ、読んで欲しいと思った。

 

うみねこは物語の構造もテーマ性も、非常に複雑な物語だ。

従来の作品にはない斬新で変則的な要素も組み込まれているうえに、作者のメッセージ性も非常に強いので、かなり癖のある作品になっている。そのせいで、評価の賛否も割れている。

その辺りも含めて、今回は漫画版Episode8をメインに、物語全体の考察や感想を述べたいと思う。

 

ネタバレを前提に話しています。未読のかたは、漫画を読んでいただいてから読むことを強くおススメします。

 

 

 

 

 

 

 

 

「うみねこのなく頃に」は、物語の構造もテーマも重層的。

「うみねこ」は物語構造が、

「偽書の中の世界」

「偽書の中の世界をゲーム盤として構築する、魔女たちの世界(幻想世界)」

「物語内の現実世界(主に1998年の現実)」

というメタ構造の階層になっている。

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 (引用元:「最終考察 うみねこのなく頃に散」KEIYA 株式会社角川グループパブリッシング)

 

その階層が物語内でシームレスに移動することと、同じ登場人物が階層ごとに微妙に異なる設定で登場するため、「今のこのシーンは、どこの階層の話か」「この登場人物は、今はどの階層の登場人物として登場しているのか」「事実だと保証される赤文字は、どこの階層の事実を保証しているのか」ということも、読者が推測して話を組み立てなければならない。

しかもこの階層構造(物語全体の大枠)と、同じ登場人物でも階層が違えば設定が微妙に異なる(階層ごとを支配するルールが違うため)ということも、読者には最初の段階では分からない。

 

「これが世界のすべてなんだ」と思っていたら、それはひとつの箱庭に過ぎず、しかもその箱庭が無数にあり、その無数にある箱庭の情報から帰納して上位階層である「物語内の現実世界の事実」に辿りつく。

「うみねこ」の物語の構造としてはそうなっている。

 

メタ構造の物語に慣れていない読者はもちろんのこと、多少こういう構造の物語を読んだことがある人間でさえ、設定を整理しながら読まないと混乱しやすい。

「うみねこ」はまた物語の構造だけではなく、テーマも同じ重層的な構造をしている。それが物語に深みを与えていると同時に、批判を生み出しやすくなっている。

 

主要批判1「OSSO問題」について

突然、主人公の心情が変わり、読者が目的を見失う。

「うみねこ」の面白いところは、読者が感情移入する主要登場人物の目的がコロコロ変わる点にある。

 

序盤、探偵役である戦人は「魔女幻想=ファンタジー」を認めないために、六軒島殺人事件をミステリーとして成立させることを目的にしている。

Episode4から登場する縁寿は、「六軒島で何が起こったのか」その事実を追求しようとする。

Episode5からは一転して、探偵古戸ヱリカに事件を解決させないこと、つまりなぜかEpisose1から「事実を知ろう」としていた戦人が「事実を隠そう」とし出す。

 

それは「戦人がベアトリーチェのゲームの目的を理解したから」なのだが、読者にはベアトリーチェのゲームの目的が明かされていないので、戦人の態度が理解できない。

 

この辺りの「読者の感情移入先である登場人物(主人公が多い)は固定される」という多くの物語の暗黙の了解も、「うみねこ」という物語は軽々と蹴飛ばしてくる。

「感情移入先である登場人物=読者」(「うみねこ」での「探偵」の役割に近い。)というお約束から離れ、戦人は一人だけベアトリーチェのゲームの目的を理解し、「探偵」から降りてしまう。

 

その目的の転換がなぜ起きたのか、ということが読者には一切、明かされていないのに、余りに突然転換される。

「自分の分身として、ベアトリーチェと戦い事件の事実を追求している」と思っていた戦人が、いつの間にか「ベアトリーチェに同情し、事件の事実を必死に隠そうとする」

読者は、置いてきぼりをくらったような気分になる。

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 (引用元:「うみねこのなく頃に散」 夏海ケイ/竜騎士07 株式会社スクウェア・エニックス)

 

この辺りから「この物語は、どうも事件の真相を追求する物語ではないのではないか」ということに、うすうす気づきだす。

何故なら新しく出てきた「探偵」古戸ヱリカは、どう見ても読者の感情移入先としては無理がある登場人物だからだ。(ヱリカの感情移入が難しいキャラクター性が、作者からの「この物語は、事件の真相を追求する物語ではない」というメタメッセージになっている。)

 

最初は「六軒島事件の真相を知ること」という目的で始まったはずの物語が、いつの間にか「辛い事実は知らないほうがいい(魔法エンドが真実のエンド)」と言わんばかりの結末で終わる。

開始時は「事実を追い求めようとしていた」読者が、控えめに言って肩透かしのような気持ちを抱いたのも無理はないと思う。

 

これが「OSSO(お前がそう思うならそうなんだろ、お前の中ではな)問題」(勝手に名付けた)

「しょせん結論は、OSSOかよ。」

という「うみねこ」への主要な批判のひとつだ。

 

物語開始当初の目的も後書きの煽りも、真の目的に至る方法にすぎない。

なぜ、このような批判が持ちあがったのか。

原因は「うみねこ」という物語は、物語の構造だけではなく、メインテーマも重層的なメタ構造になっているからだ。 

 

Episose1の内容はもちろん、その後書きの「この問題をミステリーとして解いてみろ。解けねえだろ」というベアトの煽りは階層を超えた読者に対するものではなく、「戦人に魔女幻想を打ち破って、自分のことを思い出して欲しい」という紗音の思いからきた言葉なのだ。

このいわゆる「階層越え」が、「うみねこ」の特異な点である。

 

普通、物語というのは「物語内」と「物語外(読者)」の二つの階層しかない。

だから後書きに書かれれば、それは「物語の登場人物から読者へのメッセージ」ととらえられる。

しかしうみねこでは、「幻想世界」から「物語内での現実世界」へのメッセージや暗喩であることがほとんどだ。

幻想世界そのものが、「物語内の現実世界」のメタファーだからだ。

山羊の群れは「六軒島事件」を好き勝手に推測し、その推測の内容を楽しむ世間の人間であり、批判は「物語内での現実世界」の人間たちに向けられている。そしてベアトリーチェの挑発的な煽りは、「この事件の謎を解いて、自分を見つけてくれ」という、上位階層に存在する紗音の願いなのである。

 

同じように物語当初の「ファンタジー(魔女幻想)を打ち破り、現実としてこの事件の真相を解明する」という目的は、実は目的ではなく上位世界のメインテーマを語るための方法にすぎない。

「うみねこ」というは最初から「ミステリーかファンタジーかを争う物語」でもないし、「六軒島事件の真相を探る物語」でもなかったのだ。

 

ただそのことは、上位階層が表れるまで読者は知りようがない。

「物語当初の目的は、それがメインではない。うみねこはそういう物語じゃない」ということが届ききらなかったところが「手品エンド」を支持する人が多い理由ではないか、と自分は思っている。

漫画版Episose8では、この点がきちんと整理されている。

 

漫画版Episose8での事実を隠そうとする戦人とベアトリーチェへの縁寿の言葉は、読者の心理を代弁させている。

「こっちに何も説明しないで、いつの間に事実を隠すほうに回っているんだよ。そうするなら、それなりの説明をしてくれ」

そしてその声に答えて「なぜ、戦人がいきなり、事実を暴く側から事実を隠す側に回ったのか。そこにはどんな事情があったのか」ということを、物語内で丁寧に追っていく。

 

「ベアトリーチェ=紗音が事件に至るまでの心情を、読者に感情移入させつつ、丁寧に追っていく」

「戦人がそんな紗音に対して、どれほど申し訳なく思ったかを描写する」

「事実と向き合う覚悟があるとあれほど強く言い切った縁寿が、自分が想像する以上に過酷な事実には耐えきれなかった描写を行う」

「しかし、それでも縁寿に生きていてほしいと願った戦人が、「一なる真実の書」を事実と認めたうえで他の真実を見ろという」

「縁寿が黄金の真実を使えるようになる」

「縁寿が白い魔法を使えるようになり、真実の魔女となる」

 

ここまで描写して、ようやく「これがうみねこが追い求めてきた、白い魔法による魔法エンドか」と納得することができる。

そしてこういう描写を積み重ねて、魔法エンドに辿りつけば(読者各々の信念がどうあれ)「うみねこ」という物語には「魔法エンド」が最もふさわしいと恐らく誰もが納得すると思う。

 

「手品エンド」は手品ではなく、黒い魔法。

こういう描写をすっ飛ばして、読者に「もう分かるでしょう?」と言わんばかりに「手品」か「魔法」かを選ばせるのは、余りに雑だったと思う。

「一なる真実の書」を見せまいとして、自分を礼拝堂に閉じ込めたベアトリーチェに対する縁寿の怒りの声は、読者の叫びとほぼ重なる。

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 (引用元:「うみねこのなく頃に散」 夏海ケイ/竜騎士07 株式会社スクウェア・エニックス)

こういう批判があったのだろうな、と思う。

 

自分も結末を最初に知ったとき、なぜ「手品」エンドの内容がこの内容なのか、という疑問があった。

自分が信じたい「絵羽犯人説」に合致した情報しか認めない、というエンドは、「事実を認める」というイメージを与える「手品」という名称はふさわしくないし、これを「手品」と呼ぶのはフェアではない。

自分の考えでは、これは「黒い魔法エンド」だ。

「手品エンド」と言うのならば、「事実」である「留弗夫・霧江犯人説」をきちんと認めるエンドにして欲しかった。

「事実を認める手品エンド」と比べても、なぜ「魔法エンド」のほうがいいのか、ということを、自信を持って描いて欲しかった。

 

「うみねこ」が批判される原因のひとつは、「作者が持っていきたい方向への、アンフェアな誘導」を行っている点にあると思う。(縁寿が作内で指摘している通り。)

なぜ、「絵羽犯人説」と「殺人などなかった」の二択になってしまうのか。

事実に最も近いと思われる「留弗夫・霧江犯人説」を、なぜ作者の意図で外してしまうのか。それほど意図的に誘導したうえで、「読者に選ばせるようなふりをするために」「フェアであるふりをするために」二択にする。

こういうEpisode8の戦人的発想」も読者を苛立たせた原因ではないか、と思う。

 

自分は「うみねこ」は「白い魔法の力」を描く物語だと思っていたので、元から「魔法エンド」支持だったが、それでも「手品エンド」支持派にも一理あると思っている。

こういう雑な誘導のされ方をされれば、誘導されたほうに行きたくなくなるし、それのどこが心を大切にしているのか、と言いたくなる。

 

自分の考えでは、

「絵羽犯人説」=「黒い魔法エンド」

「留弗夫・霧江犯人説」=「手品エンド」

「(一なる真実の書を読んでも、なお)何もなかったと信じる」=「白い魔法エンド」

である。

今までの物語や読者を信じて、この三択で選ばせて欲しかった。

 

「うみねこ」をずっと読んできたならば、「うみねこ」という物語にふさわしいエンドは「留弗夫・霧江犯人説」を事実と認めて、

「でも、両親は自分にとってはそれだけの人ではなかった」

「事実はその通りだとしても、黄金の真実は違う」

自分を思う戦人がかけてくれた白い魔法にかかり、白い魔女として生きていくエンドだろう、と思う。

「うみねこ」という物語が語っているのは、終始一貫してこの「白い魔法の力」についてだからだ。その力は、事実がどれほど残酷だとしても失われることはない。

 

漫画版Episose8は、その「白い魔法の力」を読者に信じさせてくれるに十分な内容だったと思う。

 

主要批判2「恋をしたことがない人には、わからない動機」

「恋をしたことがない人には理解ができない動機」という歴史的迷言まで飛び出した、六軒島殺人事件の動機。

これが「OSSO問題」に並ぶ「理解できないのは、お前らが恋を知らないのが悪い問題」だ。

 

「近親相姦の末生まれ、崖から突き落とされて子供を産めない体になった少女・安田紗代。初恋の男には忘れ去られ、もう一度恋をしようと愛した相手とは叔母甥の関係のため、結ばれることはかなわない。自らの人生に絶望し、親族たちを皆殺しにして自分も死ぬ計画を立てる」

字面だけ見ると、同情はするが理解はさっぱりできない。

これを理解できないのが「お前らが恋をしたことがないからだ」と言われても、多くの人が困惑するだろう。

 

漫画版Episose8では、この辺りのヤスの心情も非常に丁寧に追っている。

なぜ、金蔵や夏妃など恨みがある人間だけではなく、親族全員を道連れにしようとしたのかも「嘉音としての自分に恋心を向ける朱志香を見て、どこまでも内に内に向かう右代宮家の血筋そのものに嫌悪感を感じたから」などと説明されている。

理屈としてはなるほどとは思う。

 

自分はこういう「自分の頭の中だけで、他人を巻き込んで物事を進行させていく人間」というのが嫌いだが、それでもEpisose8のヤスにはそれなりに同情した。

境遇が悲惨なことはもちろん、幼いころから閉鎖的な環境だったので、多様な思考が思い浮かばない、相談する相手がいない、思考が内向しやすいのは、本人ばかりのせいでもない気がする。

それでも余りに勝手すぎると思うけれど。

 

この点で一番面白いと思ったのは、「人間は自分の大切な人に、自分自身ですらの受け入れがたい部分を受け入れてもらえるかということを知るよりは、他人を殺すほうが楽だし簡単なのだ」という思想が当たり前のように語られている点である。

これは吉田修一の小説「怒り」でも出てきた発想だが、自分もこれは真理だと思う。

それくらい人というのは、「自分の大切な人に自分を受け入れてもらえないかもしれない」ということに恐怖を抱いている。

普通は「それでも関係ない人も含めて、親族使用人全員を殺すのはどうかな」というニュアンスが感じられるものだが、「うみねこ」ではむしろ「恋をしたら、それくらい当然でしょう?」と語られている。

 

ヤスのおかれた境遇は非常に辛いものなので、こういうことを言いかたはあるいは酷かもしれないが、

「自分の弱さの責任を、何の罪悪感もなく当たり前のように他人に転嫁する人間」

こういう人間は、ある一定数いる。(ヤス自身はそういう発想に罪悪感を持っているが、物語の語り口が「ヤスの発想が仕方のないもの」というニュアンスになっている。)

 

こういう人間がこの世で一番キライな自分でも、Episose8のヤスには同情の念を禁じ得なかった。動機については納得はできないけれど、漫画版Episose8を読む前よりはヤスの気持ちも理解できるようになった。

 

「うみねこのなく頃に」で語られているテーマに、非常に共感する。

どんな事象であれ、「その事象を、完全に客観的に解釈し判断できる」人間などこの世に皆無だと思う。

「うみねこ」の作品内の例は非常に極端に見えるかもしれないが、人間は誰しも「事実」を自分の心を通して解釈し、判断している。

「自分が解釈した事実」を真実と信じて生きている。

「うみねこ」で描かれていることは、実はそういう当たり前のことだ。

 

事実を変えることはできないけれど、解釈を変えることができる。

自分次第で、いくらでも世界を変えることはできる。

事実と真実は違う。

黄金の真実や白い魔法の力があれば、どれほど過酷な現実も耐えることができるのではないか。人間には、そういう強い力が備わっているのではないか。

 

気恥ずかしいくらいの人間賛歌だけれども、自分も人はそういうものだと信じている。

「うみねこ」は複雑な設定の面白い物語というだけではなく、その奥底に人間の強さへの信頼と賛歌という強いメッセージ性を秘めた作品だと思っている。

 

関連書籍

 

最終考察 うみねこのなく頃に Witch-hunting for the Episode 1-4

最終考察 うみねこのなく頃に Witch-hunting for the Episode 1-4

 

 この考察書はすごく面白い。かなり繰り返し読んだ。

 

 夏海ケイの作画・改編共に素晴らしかった。

ただ、出てくる女性キャラクターのスカートが、やたら短いことが気になった。他の作画担当のかたの絵だと、ここまで短くないような…。いいんだけど。

 

【ネタバレあり】有田イマリの「はっぴぃヱンド。」を読んで、ループものの新たな可能性を感じた。

 

 現在、二巻まで発売中!

有田イマリの「はっぴぃヱンド。」を既刊2巻まで読んだ。

 

「登場人物の誰かがループしていること」「登場人物のうちの誰がタイムリープしているか」という他のループものでは物語の鍵になっていることが多い情報が、この漫画では一巻のあらすじや初期の段階で明らかにされている。

 最初にあらすじを読んだときは、「またループものか」と思った。

しかし読んでみて、「初期の段階でタイムリープしていることが分かっている」というのは、「ループもの」というジャンルをまったく別の角度から見せることが可能なんだな、ということに気づかされた。

 

「はっぴぃヱンド。」あらすじ

中学二年生の相田茜は両親の仕事の都合で、姉が教師をしている生徒数10人の田舎の学校に転校してきた。

転校初日、茜は姉から学級日誌を渡され、「必ず毎日つけるように」言われる。

6月4日に引っ越してきた茜はクラスメイトとも打ち解け、楽しい日々を送る。

しかし一か月余りたった7月10日、姉から突然「東京の両親の下に帰るように」言われれ、急きょ東京に戻ることになる。

すっかり今の暮らしに馴染んでいた茜は突然のことにショックを受け、10日のぶんの日誌を書くことを忘れてしまう。

明くる11日、クラスメイトたちが茜のためにバーベキューを開催してくれる。

そこで茜は姉に「お前、昨日日誌を書かなかっただろう?」と言われる。

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(引用元:「はっぴぃヱンド。」1巻 有田イマリ/スクウェア・エニックス)

茜がうなずいた瞬間、姉が突然豹変する。

 

設定はあの作品に似ている。しかし…。

田舎の学校に転校してきた、周りはほとんど女の子、馴染んで楽しく過ごしていると突然雰囲気が豹変する。実はよそ者の自分には知らない色々な秘密がありそう。そして登場人物のうちの誰かがループしていて(知っていて)、そのループから脱出しようとする。

設定だけを並べると「まんまアレじゃないか!」と言いたくなる。

 

ところがある一点でこの漫画は、他のループものと一線を画している。

それは「ループしている事実」を、戦略的に利用しているところだ。

他のループものの登場人物たちは「そのループから、常に脱出しようと試みていること」が多い。

もちろん「失敗回」の条件を積み上げて生存ルートを探そうとするのだが、基本的に彼らはどの回においても生存を目指している。

ところが「はっぴぃヱンド。」でループからの脱出を試みているさやかは、「その回ごとにどの情報を知るか」ということを定めて「その回で知ったことを少しずつ積み上げて」自分が閉じ込められた世界の構造を知ろうとしている。

最初から「このループ回は、これを知るために費やそう」と定めて最終的には死亡することを前提に少しずつ真相を探っている。

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(引用元:「はっぴぃヱンド。」2巻 有田イマリ/スクウェア・エニックス)

この試みがすごく面白く感じられた。

 

「失敗ルート」では必ず凄惨な死が待っているからのだから、「失敗を前提にして」行動するのは並大抵の覚悟ではない。また「何度死んでも、次回も必ずループする」という保障はないのだから、「今回は失敗してもいい」などと思えないのも当然だと思う。

仮に「必ずループする」という保障があったとしても、それは気の遠くなるような作業だ。「今回はドアを開けるところまで」「今回はドアを開けて何分後に閉まるかまで」など本当に少しずつしか進まない、その中で何回も何回も殺されるさやかの苦しみと葛藤もちゃんと読者に伝わってくる。

そういうことも描かれているからこそ「少しずつでも情報を探り出し、このループの構造を知る」という発想は面白いと思った。

読み味としては条件が似ている既存の作品よりも「デスノート」を思わせるので、今後もこの方向で話が進むことを期待したい。

 

好みが分かれる絵だけれど、それで敬遠するのはもったいない。

個人的には絵は余り好みではない。

登場人物の見分けもつきにくい。ただでさえ同い年の女の子が多いのに描き分けもイマイチなので、髪の色や服装で見分けるしかない。

もう少し日常パートを長くして、物語で人物を掘り下げたほうがより感情移入できるんじゃないか、とは思う。ただこの話は展開の速さが魅力のひとつであることも確かなので、この辺は難しい。

こういうのを見ると「こんな奴いるか」と思いつつも、奇抜な服装や口癖でキャラ付けするという方法は有効なんだなあと思う。

 

ニコニコ静画で一巻の途中まで読める

seiga.nicovideo.jp

ニコニコアカウントを持っていれば、現在二話までは無料で読める。

「ミステリーやサスペンスが好き」

「ループものが好き」

「健気な女の子が好き」

「残酷描写は平気」

この辺りが当てはまる人は、十分楽しめるんじゃないかと思う。