昌幸パパの悲哀劇場の巻。
本当に前半は見ているのが辛かった……(ノД`)・゜・。
「自分の時代は終わった」
昌幸パパが肌身で感じているのは、たぶんそういう感覚だと思います。
「大名とは自分の力で勝ち取る地位だ」
「そのために、己の腕一本で知恵と力の限りを尽くして戦ってきた」
そうやって生きてきて、ふと気づいたら自分が生きてきた時代とは、まったく違う感覚の時代になっている。
新しい時代が来ていることに気づくと同時に、自分の人生も黄昏期に入っていることに気づく。
残酷すぎる~~~。
上田では、切れ者で策士で、己一個の意思で生きてきたっていう気概と誇り高さに満ち溢れていたパパが、
大阪では田舎者扱いされて、本人もどこか萎縮している感じが、見ていて辛かったです。
そしてそんな「無敵で憧れの父」に対する、息子たちの気の使い方の描写が絶妙すぎる。
大谷吉継がパパに会いに来てくれたときの、源次郎の喜びっぷりったら、逆に見ていてちょっと辛かった。
未来のお義父さんもいい人ですね。
こういうところで、細かく将来のフラグをたてておくのもうまいよなあ、と思います。
今回は源次郎が、久しぶりに主役らしく魅せましたね。
「恫喝しておりまする」
って、マジで恰好よすぎる。鳥肌たちましたよ。
今は、秀吉や家康のほうが役者が上だけれど、将来、家康を向こうに回して戦う姿の萌芽が見えました。
昌幸パパ、個人の生き方、その悲哀が垣間見えた回でした。
公人としては「わしはどこで間違えた??」と呟いてしまうパパですけれど、それに対して、「何も間違ってなどいない」って言ってくれる子供たちがいる。
もしかしたら、自分としては報われないように思えた人生だったかもしれないけれど、それでも家族がずっと一緒にいてくれたから、頑張れたんだろうな。
そういう家族がいて、自分の志を分かってくれて継いでくれる子供たちがいるのだから、何も間違ってないよ、パパと言ってあげたかったです。
間違っていなかったことを、子供たちがその生き方で証明してくれているよ。
自分は、大河ドラマでホームドラマなど邪魔だなと思うほうですが、真田家のホームドラマは大好きです。
死力を尽くして生き抜かなければならない時代の厳しさと、そんな時代の家族の絆の温かさの対比がいいです。
生ぬるいドラマの中で生ぬるいホームドラマを見せられるとイライラしますが、厳しい環境で必死で生き残ろうとする真田家の人たちに家族の絆を見せられると、ほっこりします。
こういちくんにはお姉さんがいる。
シャブ中のおっさんには、娘がいる。
今日、ぼくは分かった。ひとは一人じゃ生きられない。
(西原理恵子「ぼくんち」より)
昌幸に、娘、息子たちがいてよかったです、本当に。
松の記憶が戻ったのは、いくらなんでも唐突すぎましたが。
源三郎が吉野大夫のところで、
「俺たちは、生まれてくるのが遅すぎたかもしれない」
って言っていましたが、このテーマ、三谷さん好きですよね。
「新撰組」のときに、齊藤一が沖田に似たようなことを言っていた記憶があります。
「剣の腕が生きるわずかな時代に生きられて、剣が必要とされない時代が来る前に死ねて、お前は幸せだ」
みたいなセリフでした。(うろ覚えですみません。)
衝撃的なセリフだったので、記憶に残っています。
すごく深いセリフなんですけれど、「新撰組」の斉藤一はそういうことを「考えながら」生きているのではなく、そういうことを「感じながら」生きている人なのだと思います。
だから、
「人は、ただ生きていればそれでいいのか」
「人はいったい、何のために生きるのか」
という、考えるのがちょっと怖いような問題をサラッと言えるのだと思いました。
斉藤一に言わせれば、最終的には徳川の与力になろうが何だろうが、自分の能力の限りを尽くして、全力で戦国時代を生き抜いた昌幸パパは幸せな人なのかもしれません。
斉藤一に限らず、バカボンドの宮本武蔵とかベルセルクのガッツとかが現代日本に生まれていたら、どうなっているのだろう?
と、たまに考えます。
そのときはそのときで、剣に代わる別の生き方を見つけるのでしょうか?
実際に、そういう人っているんじゃないかな??
(この時代、この社会の中で、自分に合う生き方が見つけられない人)
そういう人は、今の時代を生きるのが大変だろうな。。。。
と、思います。(余計なお世話だと思いますが。)
このテーマは三谷脚本の中に繰り返し出てくるので、三谷幸喜みたいに自分のやりたい分野で、自分の能力を発揮できているように見える人でも、
こんなことを考えるような何かがあったのかな? (もしくはあるのかな?)と考えてしまいます。
来週は第19回「恋路」かあ……。
予告を見ても、サブタイトルを見ても、嫌な予感しかしない……。
普通に陰謀陰謀駆け引き戦い戦い、たまにホームドラマでいいんだけどなあ。