PS1のゲーム「ムーンライトシンドローム」の考察記事です。
前回、第三回の記事はコチラ↓
このゲームの中で一番好きな話である「浮遊」です。
世代間ごとに関係性を切断され、大人たちに放っておかれている中学生たちが、自分たちの存在を主張するために、「ダイブ」と呼ばれる飛び降りを繰り返すというお話。
「ムーンライトシンドローム」の話の中では、一番プロットがしっかりしていて、理解しやすい話です。
「子供たちがダイブをする理由」
「寂しいから」「安心したいから」
自分たちの存在に気づいて欲しくて、中学生たちはダイブを繰り返します。
ナナがダイブをしようとする場面で、ユカリが
「誰かに見て欲しいのならば、まず、自分から相手に本気で接しなよ」
と言って説得します。
「自分から心を開かなければ、相手は心を開いてくれない。」
しごく真っ当なことを言います。
それに対してナナは、
「自分から心を開いて受け入れられないのが怖い。そんなことは、自分にはできない」
と訴えます。
中学生たちにとっては、「自分を受け入れてもらうために他人に心を開く」という行動よりも、「他人に気づいてもらうために、ダイブする」という行動のほうが、よっぽど楽なのです。
「他人に、自分から心を開く」という行動が、それほど恐ろしいのです。
というよりは、
「自分の意思で」「他人に対して何等かのアプローチをする」という行為よりも、「人に命じられて(他人の意思で)」「何かをする(自分を損なう行為であろうと)」のほうが、楽なのです。
文字にすると戦慄しますが、現実でもそういうことが多いと思います。
一体、誰に心を開いて、安らぎを得たいのか?
「大人」=「親」です。
「自分から心を開かなければ、相手は心を開いてくれない。」
このユカリの言葉が示している通り、大人たちもまた、子供に対して心を閉ざしています。だから、子供たちも親に対して心を開くことができないのです。
「ダイブ」という、異常な手段に訴えるしかないのです。
団地は世代間のつながりが切断された空間ですが、これは大人たちが意図して切断しているのだと思います。世代間の連携をとらせないことで、大人たちは自分の世界を守っているのです。
リルが言っている
「時間が分断することで、行動が整理される。人の気配が減少する。」
「壁ひとつへだてても、向こうはちがう世界。それぞれの時間が分断されて、世界も空間も分断される」
というのは、この団地には空間的にも物理的にも時間的にも行動的にも、ありとあらゆる面で関係性を切断することで、大人たちが結界を二重にも三重にも張っている、ということです。
自分の弱い心を各々の家や、自分たちの子供に封じ込め、関係性を分断することで「弱さ」が結束して、力を持たないようにしているのです。
その厳重に密閉された結界の中は、彼らが帰れる母胎です。
しかし、生きながら母胎の壁とされた子供たちは、大人たちに押し付けられた弱さで窒息する寸前です。
母親の手で守られている幼児や、外の世界に抜け出せる高校生とは違い、中学生は黄昏の時間しか居場所がないのです。
大人たちが本来、自分たちで感じなければならない「寂しさ」や「空虚さ」を押し付けられて、しかもそこから逃れる術を持たない中学生たちは、ダイブをすることによって、必死に大人たちに訴えかけます。
「いくらないものと思おうとしても、あなたの中には弱さや虚しさがあるよ。その象徴である自分たちを、認めて受け入れてくれ」と。
自分の弱さの象徴であるリルを、リルの父親は最後の最後で受け止めました。
余りにも巨大になりすぎた弱さ(=影)を受け止めたがゆえに、リルの父親は命を落とさざるえませんでした。
これは自分の負の部分から逃げ回った当然の代償であり、リルの父親がリルを受け止めて死ななければ、恐らくはもっと悲惨なことが起こっていたと思います。
「なぜ、ナナはリルのことをアリサと勘違いしたのか」
なぜ、ナナには、ダイブのために自分を迎えにきたリルが、自分を救いにきたアリサに見えたのか?
ナナが「自分の意思で助かる」よりも、「他人の命令でダイブする」ことを望んでいたからです。
「奏遇」でミトラがミカに語った
「人間は弱いから超越した存在に救いを求めて、自分たちからコントロールされたがっている」
ということと、「変嫉」で語られたテーマである
「自分の目に見える世界が、本当に真実なのか?」
ということの、繰り返しです。
結局のところ、ナナにとっては、「自分の意思で生きながらえる」ことよりも、「誰かの命令でダイブして死ぬ」ほうが、楽なのだと思います。
しかも、「アリサが自分を騙したから。自分は被害者なんだ」
仕方なく自分はこの道を選んだんだ、という言い訳もできますしね。
ナナはこの物語では、被害者として描かれていますが、こういう自分の自我を他人に預けることで、自分の身を守る人、自分の身を守るために自分から自我を手放しておきながら、いざとなったらその責任を相手に転嫁する人、むしろ責任を転嫁したいがゆえに、他人に自我を委ねる人というのは、
実生活では一番、関わってはいけない人種だと思います。
部屋に迎えに来たリルがアリサに見えたのは、ナナにとっては、そのほうが都合がいいからです。
「ムーンライトシンドローム」のような物語は、誰かに必要とされいる
「浮遊」を改めて見ると、題材が過激なだけで、その底で語られていることは、現実でも非常にありがちな、とても大切なことだと思います。
そういうことをあえて具現化してしまうところが「厨二的」とされる所以なのでしょうが、現代で起こる様々な事件を見ると、こういう「厨二的」なことを誰かが言葉にして語らなければならないのではないか、と思います。
村上春樹はオウム真理教の事件に対して、こんなことを語っていました。
「確かにオウムが語ったのは、児戯に等しいジャンクな物語だった。多くの人は、あんなインチキなものに騙されて、と鼻で笑う。でも、誰かが悩んだときに、今の世の中はその悩みに対して、有効な物語が語れるのだろうか? オウムは例えまがい物であろうとも、悩んだ人たちに対して物語を語った。それがあれほど高学歴の多数の人たちが、オウムに心酔した理由ではないだろうか?」
すみません、出典を忘れてしまったので、うろ覚えですが、主旨は確かこうだったと思います。
オウム真理教の一連の事件に関しての色々な人たちの解説の中で、唯一共感し納得したのが、村上春樹のこの言葉です。
確かに深く内省する物語は、「厨二病的」です。
でも実際に悩んでいる人たちがジャンクなまがい物に飛びつかないように、誰かが「厨二病な物語」を語らなければならないと思います。
「ムーンライトシンドローム」が、あれだけゲームとして批判されながら、一部の人の心をとらえて離さないのは、この物語を切実に必要としている人がいるからじゃないかな? と思います。
というわけで、次回は「電破」です。
飽きることなく、厨二病な物語を語り続けます。