NHK大河ドラマ「真田丸」の北条氏政を例にあげて、物語における人物描写について語っています。
過去記事でさんざん書きましたが、NHK大河ドラマ「真田丸」の北条氏政の描写の仕方が、どうにもこうにも納得がいきません。
「真田丸」の氏政のどこがおかしいと思うのか書いた過去記事はコチラ↓
感情移入ができない、とかそういうレベルではなく、何を考えているのかさっぱり分からないです。
「実は北条家を滅ぼしたかった」か「何も考えていないアホの子」のどちらかでないと、氏政の行動の説明がつかないです。
「実は北条家を滅ぼしたかった」
にしても、そんな説明は、今までの物語で一回もなされませんでした。
それに第23回で、「豊臣家の重臣として生き残れるのならば、降伏してもよい」
と言い出したので、これは違うということになりました。
とすると、「実は何も考えていなかった」
もう、これしかありません。
秀吉が18万の軍勢を引きつれてくる、という話を聞いても
「小田原城がある限り、負けはせぬ」
と自信満々に言い切っていたのに、いざ、やってきたとたん、入っている間に攻められるのが怖くて、
お風呂にも入れないくらいびびっているってどういうこと???
っていう話です。
あんなに強気だったのに、実際、目の当たりにしたら、想像以上の大軍で怖くなったってこと??とか、いろいろと可能性を考えたのですが、
どの理由でも、氏政がただのアホということになってしまいます。
第13回で梅が死んだときも、こんな感じでしたよね。
「梅が死ぬ」「北条は滅ぶ」という物語上の結論ありきで登場人物を行動させるから、こんなに登場人物の行動が支離滅裂になるのだと思います。
梅は端役ですからいいのですが、(本当はよくありませんが。)
「北条が滅ぶ」という物語上の都合のために、氏政をこういう「アホとしか思えない」キャラにしてしまうと、氏政のことを「戦上手」「生かした方がいい」と評価している家康のキャラまでおかしくなるという弊害が起こります。
物語における登場人物のキャラクター設定
物語に登場するキャラクターというのは、作者が物語の都合だけで動かせるものではないんですよね。
人が行動するには必ず動機があり、その動機は必ずそのキャラクターの人格から生まれ出たものです。
なので、
人格 ⇒ 動機 ⇒ 行動
この矢印がつながっていないと、読者はものすごい違和感を覚えることになります。
例えば「進撃の巨人」であれば、リヴァイは、どんな状況でも取り乱して敵に命乞いしたりしないでしょうし、
ミカサが突然「エレンのことなんてどうでもいいわ」とか言い出さないでしょう。
キャラクターが読者が認識している元の人格から予測ができない行動をとるのならば、必ず「なぜ、そうなのか」という、納得のいく説明がなされなければなりません。
そうでなければ、そのキャラクターは人格が破綻しているということになります。
人格が破綻しているということは、「その人間である」という根拠が失われることになるので、人間の関係を主軸とした、物語を描くことが難しくなります。
キャラクターのせいで、物語が展開しづらくなる
登場人物のキャラクター設定の密度を高くすればするほど、物語は展開しづらくなります。
「こういう展開にしたい」と思っても、キャラクターの設定が足かせになってしまいます。
そのいい例がアカギです。
赤木と鷲巣の対決があれほど長引いているのは、赤木の人物設定が足かせとなって、物語が展開できないからだと思います。
「アカギ」はストーリーを楽しむというよりは、赤木というキャラクターの魅力を楽しむキャラクター漫画です。
なので、赤木のキャラクターを破綻させるわけにはいかない。
赤木と鷲巣の二人の対決なので、あとは鷲巣を動かすしか物語の展開のしようがないのですが、鷲巣がうまく動かせないのだと思います。
赤木は主人公でありながら、ベースが「悪」という設定なので、ある意味、鷲巣とキャラがかぶっています。
そして「悪二人」しか出てこない物語なので、物語を展開するフィールドが、とても狭くなっています。
「アカギ」の鷲巣麻雀編が物語として破たんしたのは、これが原因だと思います。
登場人物を記号にしてしまうという逆転の発想
これについては、推理作家の綾辻行人が面白いことを言っていました。
「推理小説の登場人物は、究極的には、記号でいいんだ」
推理小説は事件の謎解きを楽しむ小説なので、確かに読者が覚えられる程度の記号であれば何も問題がありません。
「女子大生・美人・気が強い・長髪」
「男子大学生・根暗・ほとんどしゃべらない」
「男子大学生・イケメン・女たらし」
「男子大学生・自由人・長髪」
「女子大生・家庭的・内気・ボブ」
こんなテンプレを作って、あとは名前だけを変えればいいと思います。
キャラクターに1ミリの魅力がなくても、
物語が面白ければ、読者を楽しませることはできます。
推理小説(特に本格推理と呼ばれるジャンル)は、その典型的なものだと思います。
そしてその反対にあるものが、キャラクターものとよばれるジャンルです。
物語が破たんしかかっていても、レイモンド・チャンドラーが書くフィリップ・マーロウが主人公のハードボイルドが人気があるのは、主人公のマーロウがとても魅力的だからです。
綾辻行人は人物描写が余りうまくなく、探偵のキャラクターを際立たせようとしたのであろう「殺人方程式」シリーズも、明日香井兄弟は余り魅力的なキャラとは思えません。
また、レイモンド・チャンドラーのフィリップ・マーロウシリーズは、「長いお別れ」以外は、ほとんど物語が破たんしています。
読んでいて、話の筋をおうのが大変です。
(短編をくっつけて長編を書いたりしているためです(-_-))
この二人は、自分の得意不得意をちゃんと分かっていて、だいたい自分の得意なジャンルで活動しているために、成功している例だと思います。
話を「真田丸」に戻すと
あくまで個人的な印象ですが、三谷幸喜という人は、「面白い場面」を作るのはとてもうまいのですが、長い物語を作るということは余り得意ではないです。
「古畑任三郎」「王様のレストラン」「清州会議」「ラヂオの時間」などの「限定された空間もの」(一話完結型)はとても面白いのですが、「長い物語」を書かなければならない、となると面白くなくなるという印象があります。
数少ない魅力的なキャラクターをからませて、面白いシーンをつくる。
そのシーンをつなぐことによって、物語をつくる。
そういうタイプの創作者です。
個人的にサリンジャー型と呼んでいます。
サリンジャー型の弱点は、
①主要な登場人物以外の登場人物の性格が破たんしやすい。
②長い物語になると、前後の展開に矛盾が出てくる
だと思います。
このしわ寄せが、今まさに北条氏政に集中してしまっています。
実際の歴史がどうこうではなく、氏政のひとつひとつの行動の動機がまったくわかりません。
「その場その場の感情で行動して、気がついたら困ったことになっていた。そういうことをまったく予測できず、打つ手が何もないので何もせず、大勢の人間の上にたつ身でありながら、神頼みするしかなくなっている」
これ以外には、考えられません。
これで滅亡しました、と言われても、
そりゃあそうでしょうとしか言いようがありません。
感情移入もクソもありません。
しかも氏政が何もしないので、小田原城攻めだけに限っていえば、物語としてもそれほど面白くありません。
三谷幸喜はプロットを作らないのか?
物語を書いているうちに、キャラクターの新たな一面が出てくるというのは往々にしてあることですが、それにして、書く前に大まかでもいいから、プロットというものを用意していないのかな?と思います。
用意していたとしても、「秀吉が18万の兵を率いて小田原城を囲む。氏政困る」
こんなものだったんだと思います。
物語を作るのがうまい人ならば、これでもいいのでしょうが、物語が作るのがうまくないと自覚しているのならば、書く前に詳細なプロットを用意すべきだと思います。
そうじゃないと物語も登場人物の設定も簡単に破綻しますし、破綻した物語を見せられたときほど、
読者(視聴者)が「なめんとんのか?」と思うことはありませんから。
今からこれでは、関ケ原とか大阪の陣が心配です。
それとも今週で、氏政関連の物語が納得がいく内容になるのでしょうか?
また、悲壮な音楽を流して誤魔化そうとしたら、切れますよ。本当に(-"-)
「物語の書き方」で検索したら、一番初めに出てきました。