「新世紀エヴァンゲリオン」についての感想です。新劇場版は見ておらず、TV版、旧劇場版をみての感想です。
昔から「エヴァンゲリオン」が苦手だった。
「面白いな」と思いますし、好きな部分もある。でも、どうしてもモヤモヤする部分があり、全面的に受け入れられない。見た当初は、なぜ、あんなにも熱狂的に人気が出たのか、理解ができなかった。
それは何故なのかということを考えたときに、長編アニメの中では自分の中では不動の一位の座にい続けている「オネアミスの翼 ~王立宇宙軍~」と比較すると分かりやすかったので、それについて書きたいと思う。
*あくまで、個人的な一解釈です。
「エヴァンゲリオン」が苦手な一番の理由
「個人の問題が、社会や世界に強い影響力を持つ」ということに対する違和感。
言葉にすると、こういうことだと思う。
「エヴァンゲリオン」の不思議なところは、「社会」が出てこないところだ。一般市民が逃げ惑ったり、普通に生活をする、そういうシーンがほとんど出てこない。
「NERV」は、設定では「社会的組織」だが、物語としての内実は主人公・碇シンジの家庭の役割を果たしている。「NERV」内の人間関係は、「シンジを中心とした」疑似家族という匂いが非常に強い。
そう考えると、「エヴァンゲリオン」には実社会では誰もが経験する「ビジネスライク(社会的)な人間関係」というものが、ほとんど出てこない。
他のアニメや漫画でも、主人公が特別な力を持ち、世界を救う(などの影響力を及ぼす)ものはたくさんある。
他の創作物と「エヴァンゲリオン」が一線を画す点は、「エヴァンゲリオン」は、
主人公と関係がない「社会(世間と言い換えてもいい)」の存在が一切、感じられない点だ。
「エヴァンゲリオン」の世界全てが、主人公シンジとの関連でのみ成り立っているように見える。
旧劇場版でゼーレの兵士がNERVに侵入してきたときに、すごい違和感があった。
「この世界に、シンジに関係ない人間が存在するんだ。」
という当たり前の事実に驚いたのだ。
固有名詞もなく「NERVに侵入する」という役割を与えられただけの存在を、「物語上の人間(人格)」と定義していいのかどうかはさておいて、あのシーンを見たとき、
「この世界は、シンジの周りの空間を切り取って密閉された空間ではなかったんだ」
ということを再認識した。
TV版のシリーズを見た限りでは、主人公シンジは、恐ろしく狭い関係(疑似家族)の中で生き、自分の存在証明という究極的に個人的な問題で使徒と戦い、そんな社会とは切断された場所で、社会とはまったく関係ない問題で悩み、戦い、傷ついている。
それが「人類の存亡」という最も巨大な社会問題と結びついている、ということに強烈な違和感を覚えるのだ。
こういう構造の物語を作っている人に対して、「自意識過剰もたいがいにしろ」と言いたくなる。
社会に出ることを拒みながら、社会に影響力を持ちたい
この辺りの精神構造が、「エヴァンゲリオン」が爆発的にヒットした理由だと思うのだが、そう思うのが非常に残念だ。
「社会に出て(他人と関わって)、否定されて傷つくのは怖い。社会(他者)から一切、否定されることなく認知されたい」
現実で疎外感を感じている若者が抱きがちな、自意識からくる未熟な願望を物語として表現したのだと思う。
自意識自体を、否定しているわけではない。「自分を重要人物と認めて欲しい」という願望は、多かれ少なかれ誰にでもある。むしろ「自分は自分にとっては特別な存在」なのだから、そのことを他者に承認して欲しい、というのは当然の欲求だと思う。
ただ「社会に出ていくことが怖い」自分と「社会(人類)を救う」自分を、何の羞恥もなく両立して並び立たせてしまうこの物語を見ると、いくら何でも弱すぎるし、図々しすぎると思ってしまう。
どんなに怖くても、社会に出て、他者と関わりを持ち、その中で生きていかなければ、社会に影響力を与えたり、ましてや動かすという対価を得ることはできない。
「他者に関わることないが、絶大な影響は与えられる。そんなに都合のいい世界はないよ」
そう思う。
これについては、「使徒との戦いが、社会で他人と接することのメタファーだ」という説も見たのですが、個人的には、これは全くメタファーになりえないと思う。
「社会で他者と接して生きていく」ことと「使徒と戦う」ことは、要求されることがまったく違うからだ。
旧劇場版のラストで、シンジは巨大化したレイに取り込まれて、集合的意識となることを拒み、アスカと共に世界に新しく生まれた。
アスカ(=他者)を殺そうとして殺さなかっただけマシだけれど、アスカもいわば、シンジの疑似家族……どころか、シンジの仮想別人格と言っていいくらいの存在だ。
社会(他者)は、相手を殺そうとしたら「気持ち悪い」くらいでは済まない。
エンディングまできても、あまり成長しないんだなあ、と思った記憶がある。(新劇場版は、この辺りはどうなのでしょうか)
「オネアミスの翼~王立宇宙軍~」は成長の物語
「エヴァンゲリオン」が「社会から隔絶された場所で生きる、非成長の物語」だとすれば、「王立宇宙軍」は「社会に出て生きることを決意した、成長の物語」だ。
主人公のシロツグは、「落ちこぼれの金喰い虫集団」と揶揄される宇宙軍に所属し、怠惰に毎日を過ごしている。
一目ぼれした女の子に、いいところを見せたくて宇宙飛行士に立候補するが、この後に社会からの洗礼が待っている。
「貴重な税金を、そんなことで消費していいのか」と言われたり、他国の暗殺者に命を狙われたり、自分がやろうとしていることを否定したり、自分を傷つける「他人」が現れる。
そこで、シロツグは悩む。
路上生活者を見て、「自分のやっていることは意味のあることなのか。ロケットの開発よりも、そのお金をこの人たちの救済に回したほうがいいのではないか」
そんな風に考えたりもする。
迷い、傷つき、考えながら、「恋をした勢いで」というきっかけで立候補しただけの計画に、真剣に打ち込み、自分自身の意思で宇宙飛行士になり宇宙にいきたいと思うようになる。
生きる目標もなく、怠惰に日々を過ごしていた21歳の若者が、真剣にうちこめる仕事を見つけ、周りの人から賛否両論様々な対応をされ、それでも自分自身の意思でその仕事をやり遂げる物語だ。
「王立宇宙軍」は物語もいいが、何よりも世界観が詳細に設定されているところが素晴らしい。本記事では、「エヴァンゲリオン」との比較が目的なので、この辺りでやめておくが、ぜひたくさんの方に見て欲しい。
「エヴァンゲリオン」についてまとめ
このような点で、自分には全面的には受け入れがたい物語だが、「エヴァンゲリオン」が多くの人を夢中にさせるアニメであることは、まぎれもない事実だと思う。人の心をとらえるものがあったから多くの人が熱狂し、社会現象にまでなったのだろう。
旧劇場版「まごころを、君に」で、自分の存在を証明するために戦うアスカの姿には、とても感動した。
その作品にしかないものを持った、時代を代表する傑作であることは間違いないと思っている。
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