山田昌弘著「希望格差社会 -「負け組」の絶望感が日本を引き裂く」を読んだ感想です。
この本の要旨
現在の社会における格差と呼ばれるもの、いわゆる「負け組」と「勝ち組」を分けるものは「希望の格差」ではないか、ということが書かれています。
「努力すれば報われる」「努力すれば、将来は今よりよい生活ができる」という「希望」が、1998年くらいから社会から失われたと著者は指摘しています。
高度成長期には、「今の努力を続ければ、給料は右肩上がりにあがるし、それに従い生活水準もあがる」という希望があった。
この時代は学歴がパイプラインの役割をはたしており、「高卒であれば、将来はこういう職業」「短大卒であれば、将来はこういう職業」「大卒であれば、将来はこういう職業」と学校に入学する段階で、おおよそ将来の道筋が見えていた。
このパイプラインがしっかりしていたからこそ、「将来、この職業、この立場になるために」人は(受験勉強などの)努力ができた。
しかし、今はこの学歴によるパイプラインが崩壊している。(医学部など一部崩壊していないラインもあるが。)
また男性であれば「しっかりした企業に勤めれば、将来は安泰」女性であれば「しっかりした企業に務める男性と結婚すれば、将来は安泰」というモデルケースも崩壊している。
どう努力すれば、「(社会的に)リスクの少ない人生」を歩めるのか、人々は分からなくなっている。
「どうすれば、自分が努力した分だけ見返りが得られるのか」そういう希望が見えないために、努力する気が起こらない。
近代社会では、現在の苦労、苦しみ、努力は将来・現世で報われることが「希望」となる。つまり近代社会とは「将来のよい状態」が到来するという意識がなければ、人々に希望を持たせにくい社会であるといえる。
資本主義社会では「たとえ、貧しいものでも、努力さえすれば、金持ちになれる」という物語が必要となっている。(本書P228)
近代では、「子供は親の職業を継ぐ」「同じ身分の者と結婚する」という目に見えぬ不自由さがあり、逆に人は分不相応の希望を抱かず、絶望することもなかった。
しかし現代は「自由」があり「努力すれば、〇〇になれる」という前提があるからこそ、「〇〇になれなかった」ときは、全て「本人の努力不足」に原因が還元されてしまう。
例えば結婚においても「自由」があるからこそ、モテる者もいればモテない者も出てきて、「本人が望んでも結婚ができない」というケースが出てきてしまう。
これは本人のもともとの能力がそれほど高くなかったり、親の経済力など環境の問題がある人間にとっては、希望が持ちづらい社会だ。
(希望がなく)報われる見通しがなきまま、「苦労」を強いられると、あるものは反発し、あるものは絶望する。(中略)そして、苦労を一時的に忘れさせてくれるものにふけるものが出てくる。(P238)
そしてこの絶望に陥った人たちが、最終的に走るのが「自暴自棄型の犯罪」である。
つまり「不幸の道連れ」。死刑になる可能性があろうとも、刑務所に入れられようともこういう犯罪が後を絶たないのは、「努力しても報われない日常こそが、絶望しかない日常こそが、彼らにとっては既に獄だから」なのだ。
自爆テロなどは、この究極の姿だと言える。
この本の感想
社会全体を見渡した視点と、自分という個人をモデルケースにして考えた視点では感想が異なります。
自分や自分の周囲といったケーススタディを考えない場合は、そうかもしれないな、と思います。
現在、二十歳前後の世代が、将来、社会がもっと良くなり豊かになるとか、自分自身も親の世代よりも豊かになれるとは考えられないのではないでしょうか。
現代社会が将来、経済的にも精神的にも今よりも豊かになるとは、主も思えません。
そして「努力すれば、現状よりも未来が良くなる」という希望を持てず、「努力しても報われない絶望」を抱えた人間は、何かにアディクションすることで「現実の絶望」を忘れようとすると著者はいいます。
このアディクションするものがギャンブルなどならまだいいですが、自爆テロなどを敢行する人間のように「正しいことのために命を捨てる英雄的な自分」などの妄想にアディクションすると大変なことになります。
現在、こういう事件は増えています。
詳しいことは分かっていませんが、恐らく相模原の事件も主因はそうではないかと考えています。
あの事件は被害者である障害者の方たちやその問題に目を向けられがちですが、そういう方たちを受け入れる器がなくなりつつある、この社会のほうが問題だと思っています。
バングラディッシュのテロ事件も「イスラム教徒は殺さず、非イスラム教徒は殺す」という選別が行われましたが、被害者の方が「非イスラム教徒であったこと」が問題の主因ではないことと同じです。
自分の中に勝手な理屈を作りあげ、その理屈をもって他人を排除する、殺すそういった人間の問題と、そういった人間を少なからず生み出している社会の問題を、真っ先に語らなければならないと思っています。
こういった「絶望した人間」を生まない社会にするにはどうすればいいのか、そういった問題提起の書として貴重な本だと思います。
一方で、自分という個人をモデルケースとして考えた場合、「男性は大企業に勤めることが、女性はそういった男性と結婚することがリスクが少なく希望に満ちた人生」とばっさり言われてしまうと、かなり感情を逆なでされます。
こういった従来のモデルケースに反発し、自分なりの生き方を模索してきたという自負があるからです。
また「平均的な能力しか持たない人間にとっては、現代のように「自由」がある社会はむしろリスクが大きい」という言い方も、感情的に反発したくなります。
「負け組」という言葉には、「努力しても豊かになれないという境遇にいるのは、自己責任ではないか。努力すれば、誰だって豊かになれるはずだ」という根強い「努力万能神話」の影を感じます。
そして社会全体がこの神話で、いわゆる「負け組」と呼ばれる人を追いつめると、彼らは「絶望した人間」になり、今度は自分が生み出した「正論」で攻撃できる対象を探し、攻撃するのではないでしょうか。
努力するしないも個人の自由であり、努力した人は「努力したぶんだけ、将来的に報われる。豊かになれる」という希望を抱ける、そんな社会にもう一度できないかな、そう思いました。