先日、北海道の羅臼に行ってきたら、武田泰淳の「ひかりごけ」が久しぶりに読みたくなったので、購入して読みました。
久しぶりに読んでびっくりしました。
あれっ?? 「ひかりごけ」ってこんな話だったっけ???
「ひかりごけ」は、戦争中に実際に起こった食人事件をモチーフにして書かれた小説です。
「ひかりごけ」あらすじ
筆者は、闇の中で淡く光るひかりごけという苔を、北海道の羅臼に見にきた。地元の中学校の校長が、ひかりごけが群生する洞窟に筆者を案内してくれる。
校長はそこで、戦時中に知床岬で起きたある事件を、筆者に語る。
(事件の描写は、戯曲風に書かれている。)
戦時中、軍の徴用船が厳冬の知床岬で難波した。乗組員四人は、かろうじて洞窟の中に逃げ込んだ。
しかし、外はまったく視界がきかない猛吹雪で、海は流氷で凍り付いているため、すぐに食料がなくなり、四人は飢えに苦しむようになる。
四人のうち一人が、飢えと衰弱のため死亡する。
船長は生き延びるためにその死体を食べることを主張するが、船員の八蔵と西川はそれに反対する。八蔵は死んだ五助と約束をしたため、五助の死体を食べず、ほどなく餓死する。船長と西川は五助の死体を食べたために、生き延びる。
しかし五助の死体がなくなると、船長は今度は八蔵の死体を食べることを主張する。西川は、八蔵の死体がなくなったら、今度は自分が殺されて食べられるのではないかと恐怖し、錯乱する。
そのため船長は、西川を殺す。
助かった船長は、殺人と食人の罪で裁判にかけられる。
自分を難詰する検事に、船長は「自分は人肉を食べた者か、食べられた者に裁かれたい。そうでないと本当に裁かれた気がしない」と告げる。そうして、「人肉を食べた者」の背後には、ヒカリゴケが放つような金緑色の光の輪が浮かび上がるはずだと言う。その光の輪は、人肉を食べた者には見えない。
自分の背後に浮かびあがっているはずの、その光の輪を見てくれと船長は裁判官や検事、傍聴人に訴えかける。しかし、裁判官も検事も傍聴人も、誰一人として船長の背後に浮かび上がっているはずの光の輪が見えない。
船長が「そんなはずはない」と叫ぶ中、裁判官や検事、傍聴人の背後に金緑色の光の輪が次々と浮かび上がり、やがてそれは舞台全体に広がって幕が下りる。
「ひかりごけ」は謎だらけの物語
初めて読んだときは、「食人」というショッキングな題材に興味を持って読みました。
当時の感想としては、「極限状態で犯した罪を裁ける人なんて、誰もいないということが言いたいのかな?」と思って、それ以上考えませんでした。
久しぶりにこの本を読んだら、この物語が謎だらけで不思議な物語であることに気づきました。物語すべてが謎でできていると言っていいのですが、特に不思議だと思った点をあげて、その謎を考えていきたいと思います。
①導入部で「マッカウシ洞窟」という名称だった現場が、なぜ、事件当時を描いた戯曲のときは「マッカウス洞窟」という名前に変わったのか。
②人肉を食べた船長が裁かれる場面で、「船長の顏は、導入部で筆者をマッカウシ洞窟まで案内した中学校校長の顏と酷似していなければならない」という注意書きは、何のためか。
③物語の最後で、人肉を食べたものにしか宿らないはずの光の輪が裁判長、検事、弁護士、傍聴人、全ての人に宿るのは何故なのか。
④船長が頻繁に口にする「我慢している」とは、何を意味しているのか。
ざっと思いついただけでも、これだけあります。
読者が当然持つ、これらの謎の答えが、「ひかりごけ」には一切書いてありません。
この謎の中でも、自分が特に知りたいと思うのが
④船長が頻繁に口にする「我慢している」とは、何を意味しているのか。
この船長が何度も口にする「わたしは我慢しているだけです」という言葉に、この物語の重要なテーマが隠されていると思います。
武田泰淳は、その答えを物語の中に記しませんでした。船長と同じで、これ以上語りようがなかったのかもしれません。
この言葉が何を意味しているのかを知りたくて、三回ほど読み直してみました。ネットで「ひかりごけ」の感想も読んでみました。昔はまったく素通りしていて読んだはずなのに覚えてもいなかったこの言葉が、なぜこんなにも気にかかるのだろう、なぜ、こんなにも「ものすごく大事なこと」のような気がするのだろう、と自分でも不思議でした。
食人をした船長は、不思議な人
昔はまったく思い至らなかったのですが、まず、この事件の主人公である船長は、とても不思議な人です。第一幕と第二幕で別人のようにガラリと変わる、ということもそうなのですが、それ以上に、この船長は他の人とまったくコミュニケーションがとれていないんです。第二幕の法廷のシーンは特にそうですが、第一幕の洞窟内のシーンもよく読むとそうです。
船員の八蔵や西川、検事、弁護士、色々な人と会話をしていて、表面上は会話が成り立っているように見えるのですが、本質的には、まったく会話が噛み合っていません。何故なら、船長は、一人だけまったく別のことを話しているからです。
この船長の話していることこそ、武田泰淳が最も言いたかったことで間違いないと思います。
この話のキーワードである「我慢している」という言葉について見てみます。
西川:(略)おめえがどんな気持ちかっつうこった。
船長:俺は我慢しているさ。我慢できねえこっても、我慢しているさ。(後略)
西川:我慢しているだけか。
船長:誰も何もしてくれるわけじゃねえ。なあもかんも、自分ひとりで我慢しなきゃなんねえさ。我慢ということの中にゃ、なあもかんも入っているさ。我慢てこた、(略)わかりやすいもんでねえさ。
西川:おら、我慢がならねえだ。
船長:我慢しねえとなったら、簡単だわさ。我慢するのは、簡単なこっちゃねえ。(略)何のために我慢しるか、わかんねえでもしるのが、我慢だからな。
西川:何のためにしるかわかんねえ我慢なんど、できるもんでねえさ。
検事:被告は現在、どんな気持ちでいるのか。(後略)
船長:私は我慢しています。
検事:何を我慢しているのか。(略)
船長:例えば、裁判を我慢しています。
検事:裁判されるのが不服だというのか。(略)
船長:不服ではありませんが、我慢しています。(略)
検事:お前は何とかして、裁判の権威をくつがえしたいんだ。
船長:いいえ、そんなつもりは、まるでありませんよ。私はただ我慢しているだけなんですから。
検事:(前略)天皇陛下に申し訳ないと思わないのか。
船長:(前略)あの方だって、我慢していられるだけじゃないでしょうか。
(引用元:武田泰淳「ひかりごけ」新潮社)
この文章を読むと分かることがあります。
①船長と他の人間では、「我慢している」という言葉の定義が違う。
②船長は、自分がいう「我慢している」という言葉の意味を説明できる言葉を、それ以上見つけることができない。
③それゆえに、船長は周りの人間に自分がいう「我慢している」ということはどういうことなのかを理解されることはない、ということが分かっている。だからこれ以上、説明しない。
じゃあ、船長=武田泰淳が言いたかった「我慢している」とは、何を指すのだろうか?ひとつ言えることは、一般的に使われている「我慢している」と同義ではないということです。
考えていて、思い至りました。
自分は、この船長のように「我慢している」人と会ったことがある。
昔、読んだときは、この「我慢している」という状態そのものを見たことがなかったので、まったくピンとこなかったのだと思います。そのあとに、「我慢している人」に出会った。
「ひかりごけ」を読んで、船長がしきりに言う「我慢している」というのがどういうことなのかと考えたときに、その人のことを思い出しました。そして、実はその人だけではなく、今の時代でもたくさんの人がこの船長がいう「我慢している」状態にあるのではないか、ということに思い至りました。
だとすると、この「ひかりごけ」という物語は、表向きの物語である「生きるために人を食べることは罪なのか」ということがテーマではないのだと思います。食人事件というのはモチーフにすぎず、武田泰淳はまったく別のことをこの物語に託したのだと思います。
そして、その本当のテーマは、「自分が死ぬかもしれないときに食人するか否か」という現代では他人事のようにしか思えないものではなく、現代にも密接に関係することなのではないかなと思います。
「ひかりごけ」の本当のテーマ(個人的な見解)
「ひかりごけ」の本当のテーマは、「人間を極限状況に追いつめる、世界や社会への違和感」と「その違和感を表明することすら許さない、社会への怒り」なのだと思います。
「ひかりごけ」の船長は別に、好きこのんで食人をしたわけではありません。命令されて軍の徴用船にのり、厳冬の知床岬で難破して、「仲間を喰わなければ餓死する」という状況に追い込まれて食人したのです。
しかしその船長に対して、世界(=社会)は厳しい糾弾を投げつけます。
「お前は人肉を食べて、あさましく生き残った極悪人だ。他の仲間は食わずに死んでいったのに」と。
「人を食べなければ自分が餓死する」という極限の状況に追いこんでおきながら、それに対する言い訳すら許さず、法律や倫理観、ありとあらゆるものでさらに「人の肉を食った極悪人」という立場に追い込んでいく。
社会がさらに残酷な点は、船長本人にも生まれたときから「人肉を食べることは、最低の極悪人がやることだ。それぐらいなら、潔く死んだほうがマシなのだ」という価値観を植え付けている点です。だから、船長は何ひとつ抗弁せず、自分でも「自分は最低な悪党だ」と言い続けるのです。「社会の価値観、倫理観」では、人肉を食べた人間は畜生にも劣るからです。
自分を極限の状態に追い込み、社会の価値観に沿って生きられぬ状態にしておきながら、その価値観にそぐわぬ人間は人にあらずという刻印を押す社会。
生まれたときから、こちらがその価値観内で生きられるかどうかなどということはお構いなしに、価値観で縛り上げ、自分自身にさえ自分を否定させるように仕向ける社会。
その価値観内で生きられないことを不運ではなく、努力不足だ、お前の資質のせいだとしてその中で生きられない人間に責任を押しつけてにして、つるし上げる人々。
そういう世界とその世界を形成する人々に対する、押し殺された怒りの表明が「ひかりごけ」という物語なのです。
「ひかりごけ」の船長は、社会によって「社会の価値観の中では最低の人間」という刻印を押されながら、その「価値観の檻」から逃れることはできません。生まれたときから、その檻の中にいるので、それ以外の価値観が分からないからです。その価値観と戦って、自分自身だけは自分を最低の人間と思わない、と思おうとしてもその方法論を与えられていないのです。
だから、「自分でも自分を最低の極悪人と思う」地獄から逃れられない。他人から「お前は最低の極悪人だ」と罵られても、それと戦う術を持たないのです。
でも、「人を喰わなければ、自分が死んでしまう」という極限の状況に船長を追い込んだのは、この世界なのです。船長を地獄のような状況に陥れながら、「お前の意思さえ強ければ、人肉など食わなかったはずだ」と自分の人格まで否定する、そういう世界に対して、怒りを表明する武器(=別の価値観)すら与えてくれなかった社会に対する怒り。
船長が「我慢している」と言ったのは、その怒りを通り越した絶望にたった一人で耐えながら、この地獄のような世界を生きていくことを、「我慢している」という言葉で表現したのではないかと思います。
武田泰淳は左翼活動家であり、従軍もしているので、
「人間を極限の状況下におきながら、少しでもその価値観に逆らったことをすると、すべての責任を個人に還元する社会」
に対して、強烈な憤りを持っていたのだと思います。
そういう地獄に一人の人間を無自覚に追い込む者たちこそ、罪の象徴である「ひかりごけに似た金緑色の輪を背負うにふさわしい」そう言いたいのだと思います。「無自覚の者たち」とは、この社会の価値観を無条件に肯定し、その価値観をもって他者を裁く権利があると思い込んでいる、すべての人のことです。だから、ひかりごけに似た光の輪は裁判官や検事だけではなく、舞台全体に広がるのです。
自分がこの物語を最初に読んだときに考えた「極限状態にある人間が、食人をした場合、誰も裁く権利なんてないということ?」という思考を当然だと思っていること、「船長には罪がある」そして、「自分は裁く側の人間である」と当然のように考えている主のような人間こそ、武田泰淳は「船長がいう我慢している状態に、一人の人間を平然と追い込む罪を犯している」と糾弾しているのだと思います。
武田泰淳(=船長)は、自分の罪に無自覚な人間たちにすさまじい怒りを感じながら、それをいくら叫ぼうとも決して理解されないことを知っていたのです。だからこそ、「我慢している」ということ以上のことが言えないのです。
言っても無駄だからです。
その事実に絶望しながら、なおもこの世界で生きていかなくはならない。その状態を「我慢している」と言ったのです。
「自分は、人肉を食べたことがあるものか、自分の肉を食べられたことがある人間に裁かれたい。そうでなければ、本当に裁かれた気持ちにはならない」という言葉は、この社会の価値観を武器にして自分を追いつめる人間に対する、船長のギリギリの告発です。
「お前は、その極限の状態を知っているのか。人肉を食べた最低の人間という刻印を一人の人間に背負わせた、自分自身の罪を知っているのか」
そういう叫びなのだと思います。
自分が出会った「我慢している」人も、今の社会でとても生きづらそうにしている人でした。
なぜ、生きづらいのか、それもぜんぶ自分のせいされて、自分でもそうだと思っている、だから生きづらいことも我慢している、ずっと我慢しながら生き続けている、そういう社会に対して、そしてそれを良しとしている人間に対して、言葉にはできない、自分では認識することすらできない怒りを抱えていたのだと思います。
「ひかりごけ」という物語自体が、この「我慢している」状態の人と同じ構造をしています。
「ひかりごけ」は「食人事件」という題材の割には、とても淡々とした物語です。作者は事実だけを淡々と描写し、ほとんど何の感情表現も主張も展開しません。それは、何を聞かれてもほとんど答えず、ただ「我慢している」とのみ繰り返す船長の状態を踏襲しています。
淡々とした描写、謎だらけの物語、何の説明もなく展開が進み、唐突に終わる物語。
「何の説明もしない、何の主張もしない」物語の奥底に、一人の個人を追いつめ人格を破壊しながら、その後顧みることをしない、社会とその社会を形成する人間に対する、言葉などではとても表現しきれない、強烈な憤りが隠れているのだと思います。
今の社会が悪い、変えなければならないと言っているわけではありません。
ただ、しょせん社会の価値観なんて百年も満たずにひっくり返ったりしますので、今の社会の価値観だけをもって、「自分はダメ人間だ」などと思う必要はまったくないと思うのです。
人間の価値は、今の社会で成功したか、社会でどんな立場であるかでは決まらない。
社会なんて五十年後にはどうなっているか分からないし、その中でどんな立場にいるかのみで自分の価値を決める必要はまったくないし、ましてや他人をその価値観ではかるなんてことは滑稽を通り越して罪悪ですらある、ということだと思います。
武田泰淳がこの物語に託したのは、そういうメッセージなのだと思います。
物語という創作物の中にすら、「どうせ、そんなことは言っても無駄だろう」と主張を託せなかった武田泰淳の絶望感は、押してはかるべしだと思います。
「ひかりごけ」の中で、筆者が唯一感情をあらわにした部分は、同じカニバリズムをテーマにした作品、「野火」の主人公が言った「俺は殺したが食べなかった」という言葉に対してです。武田泰淳にとっては「人を殺す」「人肉を食べる」こと以上に、「殺さなければ、人肉を食べなければいけないような状況に他者を追い込つめることこそが、最も重大な罪悪」なのです。
そんなことを考えもせず、「人肉を食べた」と他人を声高に裁く人間に対しては、「何を言っても無駄だ」と諦めている筆者も、同じ状況であった「野火」の主人公に対しては、
自分を極限の状況に追い詰めた者に対して何故、憤らない?
そいつらの価値観を踏襲して、裁く側に回ろうとするのだ?
「自分たちを極限の状況に追い込む社会と戦うことよりも、自分より下の人間を作ることによって、自分だけは守ろうとしていること」に怒っているのだと思います。
最初、「実際の事件の船長は、死体は食べたけれども殺人は認めていないのに、殺して食べたことにしたのはひどくないか?? 作品をより過激にしたかったのか??」と思っていました。
「殺した」のは恐らく武田泰淳自身の経験だったのではないか、と思います。同じように追い詰められて「殺した自分」と「人肉を食べた船長」を重ね合わせて、「ひかりごけ」の中の船長を生み出したのです。
実際の事件の船長が抱えていた、この絶望感を武田泰淳は誰よりも理解し、「俺も絶望しているよ。あんただけじゃないよ。あんたが形にすらできない思いを、俺が形にするよ」とメッセージを託した、その点だけが「ひかりごけ」のささやかな救いだと思います。
いま読むと、「ひかりごけ」という物語の底を流れる「どうせ、お前らには分かるまい」という嘲笑にも似た諦めと絶望に寒々とします。
それでも武田泰淳は、自分だけではない、社会の価値観によって裁かれ続け、自分で自分を否定するような状況に追い込まれた人たちが、意識として認識することすらできない怒りを、その人たちのためにどうしても形にしたかったのだと思います。
誰にも理解されなくても、本人も認識すらしていなくて、それゆえ言葉にできなくても、その感情は確実に存在するものだからです。
そして、武田泰淳が「どうせ理解されまい」と考えて、謎という枠組みだけを投げてよこしたこの物語は、今の時代にもとても必要な物語なのではないかな、と個人的には思います。
百ページ足らずのとても短い物語なので、今の時代だからこそ、多くの人に読んで欲しいです。