先日、最新刊である20巻が発売された「進撃の巨人」ですが、たいへん面白かったです。
- 「進撃の巨人」との出会い
- 最初のころは熱中していて、じょじょに冷めた
- 突然また、ものすごく面白くなってきた
- 自分が思う「進撃の巨人」の一番すごいところ
- 「進撃の巨人」は登場人物が等しく無力である
- それでも生まれたからには生きなければならない
- 「進撃の巨人」のさらにすごいところ
- 終わりに
「進撃の巨人」との出会い
自分と「進撃の巨人」の出会いは、週刊少年マガジンに掲載されたリヴァイが主人公の読み切り漫画でした。
絵は下手くそ。演出は下手くそ。一般受けしにくそうな内容。ひと目で新人が書いたとわかる。
それでもこう思いました。
「これはすごい漫画だ」
兄ちゃんに大興奮して、「今週のマガジンに載っていた漫画、すごくね?!」と語ったら、奇妙な習性で動く虫を見るような眼で見られたこともいい思い出です。
最初のころは熱中していて、じょじょに冷めた
最初の数巻は、何回読んだか分からないほど繰り返して読みました。
ネットの考察サイトも読み漁って、自分でも考察したりしました。
女型巨人の正体がアニだ、と分かった時点で急激にテンションが下がり、鎧型巨人と超大型巨人がライナーとベルトルトだと判明した時点で完全に熱が冷めました。
結局、人間対人間なのか。
好みの問題だと思うのですが、巨人が未知の、人間とはまったく違う習性で理解不能な生物であって欲しかったのです。
クトゥルフ神話の神々や、作者が影響を受けたというマブラブのBETAのように、相互理解が不能な、人間の温かい情や冷静な論理などを全て無意味になぎ倒す、不気味な脅威と人間が闘う姿を期待していたのです。
これは自分の勝手な期待であり、だから「進撃の巨人」はダメだとは少しも思いません。
ただ個人的には、相互理解が可能な者同士が戦う漫画はもういいかなと思っていたのです。なので、そのあとは割と惰性で読んでいました。
コミュニケーション可能だと、どれだけ敵が無慈悲で残酷に見えても、結局は「現代社会の人間の価値観をベースにして」無慈悲さも残酷さも表現しますよね。
書いている作者が、現代社会の価値観で生きているのですから当たり前なのですが。
その価値観や倫理観を前提にして、アンチテーゼを主張されるのは、もういいかと思っていたのです。
例えば「人間にも残酷な面がある。だから滅ぼしてもいい」という主張。
「残酷なことはいけないことだ」という現代社会の倫理観を、敵役も踏襲しています。
そういう主張合戦みたいなのは、お腹いっぱいだったのです。
人間なんて老いも若きもいい人も悪い人も、才能がある人もない人もまとめてゴミみたいに簡単に殺される、
何で殺されるのかその理由もよく分からない、
自分たちの正当性を主張する暇もない、自分の存在意義なんて追求する暇もない、
そういうことが当たり前の世界で人間がどう生きていくか、という内容を勝手に期待していました。
だから「ああ、また“正しいこと”がある世界で、正当性の主張合戦をするわけね」と思って、完全に冷めきった心で「進撃の巨人」を読んでいました。
しかし!!
突然また、ものすごく面白くなってきた
どこからまた面白いと思うようになったのかは、はっきりしていています。
第69話「友人」からです。
ケニーとウーリの出会いから別れ、その後のケニーの心情を描いた物語です。
ここからまた目が離せなくなり、最新巻の20巻の余りに熱すぎる展開に全自分が大興奮しています。
自分が思う「進撃の巨人」の一番すごいところ
否定的なことを言っておいて何ですが、第69話より前の「進撃の巨人」もとても優れた漫画だと思っています。
世界観は斬新なのに破綻していていない。(世界観を破綻させないでなおかつオリジナリティを出すのは、非常に難しいと思っています。)
物語の展開は、文句なく面白い。キャラクターは魅力的。
これだけ爆発的にヒットしたことがむしろ当然と思えるような、すごい漫画だと思っています。
ただ、それだけならば他にも同じ特徴を持った漫画はあります。
自分が「進撃の巨人」だけが持っていると思っているすごい点は、
①「自分は特別な存在ではなく、存在意義など分からず死んでいく可能性が高い」という思想
②「①であっても、その集合体である人類は絶対に生き抜くべきである」という思想
この二つの思想が、まったく等価で矛盾なく作品の中に内包されているところだと思います。
①の思想を「自分」ではなく、「他の登場人物」に置き換えた場合は、ほぼ全ての漫画がそうではないかと思います。
「自分(=主人公や主要キャラクター)」は特別。いかなる危機にあっても恰好よく、最後には必ず勝って、周りから称賛される存在である。
これは創作物というものが、ある程度、読み手に自己投影させて承認欲求を満たす装置である面が強いことをを考えると、当然のことと思います。
*そういう構成の創作物が劣っていると言いたいわけではありません。そういう構成の創作物の中でも、好きな作品もたくさんあります。
「進撃の巨人」は登場人物が等しく無力である
「でも進撃の巨人も、主人公のエレンは巨人化できるし、リヴァイやミカサはアッカーマンの血を引いていて、他の奴らより強い特別な存在じゃないか」
そう思う方もいるかもしれません。
しかし人間たちの中では強く特別な存在に見えるエレンやリヴァイ、ミカサも大型巨人やサル型巨人の前では等しく無力です。
自分ひとりの力で彼らを倒せるどころか、他の人間と同じようになす術がありません。
巨人の前では、主人公であろうが主要登場人物であろうが他の人々と同じ無力な存在である、この前提が素晴らしいと思います。
「進撃の巨人」は感情移入ができそうなキャラクターたちが、見せ場もなくあっさりと死んでいきます。
リヴァイの部下だったオルオやぺトラ、調査兵団のナンバー2だったミケ、最新刊ではマルロが死にました。
一体、彼らは何のために死んだのだろう?と思えるような、無意味で残酷な死に方です。
こういう死の描写が積みあがってくると、ありがちな展開が「そもそも人間の生に意味などないのではないか?」「人類は滅んだ方がいいのではないのか?」という命題が作品内で出てくることです。
その考えに対して葛藤し、反対する主張を重ねることで、モチベーションを上げるという手法がよくとられます。(もしくは作品のテーマそのものにする。)
「進撃の巨人」が他の作品と一線を画する点は、この手法をとらないところです。
それでも生まれたからには生きなければならない
「進撃の巨人」のすごいところは、これほど人の生き死にが無意味で、残酷な世界でありながら、主要登場人物たちの「人類は生きなければならない」という意思がいささかも揺らがない点です。
これほど生きること死ぬことが意味のないことならば、生きていても意味がないのではないか?
存在意義を示せず、死んでいくのならば、生きることに何の意味があるのか?
「進撃の巨人」の登場人物たちは、こういう発想が一切ありません。
これほど人間の生き死にが無意味であり、無力で特別でも何でもない人間たちであっても、
この世界に生まれたからには、生きる。人類は巨人を倒して、生き残る。
自分たちは壁の外に出て、世界を見なければならない。それは、この世界に生まれたからだ。
どれほど無力でちっぽけな存在でも、人間は自由でいなければならない。
主人公たちのこの思想が一ミリたりとも揺らぐことがありません。
どれほど絶望的な状況でも終始一貫して、「巨人は倒すべきもの」であり「人類は生き残るべきもの」なのです。
これが驚異的なことだと思います。
「進撃の巨人」のさらにすごいところ
「人間は等しく、無力でゴミのような存在」
「それでも、人間は生まれたからには、絶対に生きなければならない」
この二つの思想の並列だけでも十分驚異的なのですが、最新刊の20巻で、さらにすごいことを言っています。
自分が生まれてきた意味を、後世の生まれてくるかどうかも分からない人間に託す。
どういう経験をして、どういう環境におかれたら、こんな発想が出てくるのか分かりません。もはや、悟りのレベルです。
人間というのは、みんな、自分にとって自分が特別だから、他の人にも自分が特別であることを認めてもらうために生きている部分があります。
承認欲求、自己実現欲求と呼ばれるものです。
「自分が、かけがえのないただ一人のユニークな存在であることを、認めて欲しい」
社会の中で生きる人間ならば、誰でもそうだと思います。
しかし「進撃の巨人」の世界は、人は自分の個性を発揮する暇もなく、意味もなく死んでいきます。自己実現が非常に困難な世界です。
そんな世界に対して、エルヴィンは兵士に「怒りの声をあげろ」と言います。
最新巻の20巻で、エルヴィンが「無意味に死んだ兵士たちの生に、我々が意味を与えるのだ」というセリフを言っていますが、
見も知らぬ他者の人生の意味を、自分が証明する。
自分の人生の意味を、見も知らぬ他者が証明してくれると信じる。
この発想が、もうコロンブスの卵もびっくりの発想だと思います。
「顏も見たことのない……そもそもこの世に生まれてくるかどうかも分からない他人に、自分にとってはかけがえがない唯一の存在である、自分の生命の意味を託す」
自分の子供や、信頼している恋人や親友に託すのならば、理屈としては分かります。
人は、「その相手が生きることで自分の存在意義が証明される」と思うからこそ、自己犠牲がはかれるのだと思います。
「自分が死んでも、その人が生きている限りは自分の存在は証明され続ける」
ワンピースで「人が死ぬのは、肉体が滅んだときではなく、完全に忘れ去られたときだ」というようなセリフありましたが、それはこの発想からきていると思います。
「特攻の島」でも、主人公の渡辺を生かすために友人の関口が回天に乗りました。
そのときに「貴様のために死ぬよ」と言ったのは、渡辺が笑顔の関口の絵を描いたからだ、と思わせる描写ありました。
その絵を思い浮かべて、自分の肉体は滅んでも、渡辺の中で自分の存在は生き続けると信じることができたから、関口は「渡辺のために死ぬ」と言ったわけです。
「自分の肉体が死んでも、その相手の心の中に自分が存在している限り、自分が生きてきた意味が証明されるから」自己犠牲が払えるわけです。
自分ができるかと言われればできないと思いますが、理屈としては分かります。
しかし、「進撃の巨人」で語られている思想は、そういうことではありません。
自分があったこともない、そもそもまだ存在しているかどうかも分からない、後世の人間が、自分の存在に意味を与えると信じて死ぬ。
こう言っているわけです。
顏を知っている人間を信じることすら難しいのに、顏も見たことのない人間を自分の存在意義を託すほど信じて死んでいく。
果たして、そんなことが可能なのだろうか??
「等しく無力で特別でもない人間たちが、その信頼をつないで死んでいくことで、人間は生き続けていく」
こういう考え方が当たり前のように描かれている、この一点だけをみても「進撃の巨人」は他に類をみない漫画だと思います。
終わりに
いよいよ話が佳境に入り、終わりが見えてきました。
ベルトルトの「壁の中の人間たちは、悪魔の末裔」という言葉の意味や、ジークとエレンの関係も明らかになると思います。
そのとき、主要登場人物たちの心がどのように動くのか、今から楽しみです。
21卷以降の感想。