昨夜、たまたまこんな記事を読みました。
個人的に、強く衝撃を受けました。
「この社会で、障害者の方がどのように生きていくか。そのことに対して、社会が何ができるのか」という問題は、考え続けられなければならないと思います。(施設の職員の待遇、家族のサポートの問題なども含めて。)
ただ、この事件に限っては、主因として論じるべき箇所はそこではないと、ずっと思っていました。
被害者の方ではなく、加害者の内面に、事件の原因のすべてがあると思います。この加害者は障害者施設に勤めなくても、恐らくどこかで類似の事件を起こしたのではないかと思います。
対象は誰でもいいのだと思います。そこに自分が英雄になれ、酔いしれることのできる物語を付与できるならば。イスラム教徒として生まれていたら、過激派組織に所属して無差別テロか自爆テロでも起こしていたでしょう。
自分は重度の障害を持つ方が周りにいないので、その方々の周囲で仕事をする負担や困難については話として聞いたことしかありません。話を聞いただけでも、恐らく肉体的にも精神的も大変な仕事なのだろうということは想像がつきます。
もしかしたら、その中には今回の犯人のようなことを考えた方もいたかもしれません。
しかし…実際に、こういった事件を起こしたのはこの犯人だけです。
「心の中で思うだけ」と「実際に行動を起こす」ことには天と地ほど開きがあります。「自分も同じことを考えてしまったことがあるから、この犯人と同類かもしれない」と思う必要はまったくないし、障害者施設の仕事の大変さを、この犯人に対する免罪符として語ってはならないと思います。
それはこの犯人と同じ仕事を、今この瞬間も、真剣に取り組んでいる人に対する侮辱になると自分は考えています。
(仕事の待遇や環境、職員の負担などについては、社会全体の問題として考えていく必要があると思いますが、いまはおいておきます。)
犯人は、なぜ事件を起こしたのか
裁判が始まれば徐々に明らかになるとは思うのですが、犯人の心情として、今まで聞いたどんな話も自分の中ではピンとくるものがありませんでした。
(精神鑑定をすると思うので、その結果が出るまでは、深く掘り下げることを控えているのかもしれませんが。)
「恐らくこうだと思う」というものが自分の中にあったのですが、うまく言語化できずにモヤモヤしていました。
それがこの記事の太田光の言葉を読んで、「これだ。そうだ、こういうことだ」とはっきりと形になりました。
以下は自分が感じたことなので、太田光本人の主旨とは違うかもしれないことはお断りしておきます。できれば直接、記事を読んでいただくことをおすすめします。
自分がこの事件の犯人の動機として考えているのは、
「誰かに自分の存在を認めて欲しかった」
恐らくこれだと思います。
社会のためでもない、障害者の方の家族のためでもない、崇高な信念のためでもない。
自分自身を「自分が思い描く通りに認めてもらうために」、罵倒や非難でもいいから注目を集めるために、そしてごく少数の人からでもいいから称賛されるために、ただただそのためだけにあれだけ卑劣な犯行を起こしたのだと思います。(実際に一部で、この犯人の行動に賛同するような意見も見られ、犯人の目論見通りになっていることが非常に残念です。)
この犯人が語る信念(めいたもの)は、目的ではなく手段に過ぎません。
ただこれだけならば、大小の違いはあれど、ほとんど大多数の人間が持っている欲求です。ネットの世界でも「承認欲求」という言葉が盛んに使われています。
この犯人にはもうひとつ目的があり、それを太田光が的確に痛烈に突いています。
「全身に入れ墨を彫って、ツイッターもやって、あれだけ人に分かってもらおうと自分を強烈に主張しているのに、誰一人として彼を分かろうとする人がいなかった」
これは「障害者はこの世からいなくなったほうがいい」という主張を分かろうとする人がいなかった、と言っているのではありません。
「彼の全ての言葉」「彼という存在そのもの」を誰一人として、見ようとも認めようともしなかった。全身に入れ墨を入れるというなかなか人がしないようなことをしても、ネットの世界でいくら主張しても、割と過激と思われるこういうことをしてさえ、この広い世界で誰一人として彼のことを見ようとする人がいなかったのです。(少なくとも、この犯人が望む水準では。)
自分は、この事実から目を背けるために、犯人は今回の事件を起こしたのだと思います。
「全身に入れ墨を彫ってさえ、過激な主張をしてさえ、誰にも顧みてもらえないほど、自分はつまらない存在である」
恐らく、この事実に耐えきれなかったのだと思います。
この事実を認めるくらいであれば、あれほどの大事件を起こしたほうが犯人にはまだしもマシだったのだと思います。
太田光が犯人を評したこの言葉は、確実に犯人の人格の核のようなものを傷つけるものだと思います。面と向かっていったら、その場で殺されるかもしれません。
「自分の存在意義を問われることが耐えられないがために、他人の存在意義を断罪する」
よくある構図なのですが、人間は他人を攻撃しているときだけ、自分のことを見なくて済みます。
なので、この事件を障害者問題を主軸として語ると、かりそめの信念で身を固めた犯人に傷ひとつ負わすことはできないでしょう。(このテーマでこの事件が語られることが、犯人の望んでいることだと思います。自分の主張が俎上にのって、注目を集めるから)
自分はこの犯人は、
「誰からも相手にされなかったため、満たされなかった承認欲求を満たすためという、自分の勝手な欲望で事件を起こした男」
「英雄になってちやほやされたかったけれども、何の能力もなかったために殺人を起こすしかなかった男」
として断罪されて欲しいと思います。
「意思の疎通ができないのは、どっちだ?」
もうひとつ、印象に残っているのはこのくだりです。
「意思の疎通ができない人間が、生きていても意味がない」
犯人が語ったこの言葉に、太田光は「未だに、すごくひっかかっている」と言います。
「意思の疎通ができないのは、どっちだ?」
「言葉が喋れないからと言って、それがコミュニケーションをとれないことになるのか?」
この太田光の言葉には、自分もハッとしました。
人は色々な方法で、コミュニケーションをとることができます。表情や眼差し、動きや言葉にならないうめき声、叫び声なども受け取る側が分かれば、それはコミュニケーションになる。
「コミュニケーションは双方向のものであり、受け取る側の問題もある」
自分には意味の分からないうめき声だとしても、誰かにとってはひとつひとつ意味の違うものとして聞こえるかもしれない。
「自分だけがその人と意思の疎通がとれないだけで、他の人はとれている可能性もある」
「だから、意思の疎通ができないと断じるのはおかしいし、コミュニケーションをとれないとしても、それは受け取り手であるお前の側の問題でもある」
太田が言いたいのは、そういうことだと思います。
「そもそもお前のほうが、周りの人間に分かってもらえてなかったじゃん」
という、犯人への痛烈な批判につながっていきます。
「仮に意思の疎通ができない人間が生きている意味がないというならば、誰にも主張を理解されなかったお前のほうこそそうなんじゃないの?」
という特大のブーメランのような犯人への批判になっています。
今までは「面白いけれど、空気を読まなくて危なっかしい人だなあ」くらいしか思っていませんでしたけれど、この記事を読んで「この人はすごい人だな」と思いました。
最後に
この事件は被害者のご家族の方の言葉に、非常に強い印象を受けたり、自分にとっても強い衝撃を受けた事件でした。
障害者の方が犠牲になった事件なので、どこか触れにくい部分もありました。
けれども、事件の本質は、障害者問題など関係なく「犯人自身の身勝手な欲望や欲求のために、他人を犠牲にする行為」だったと思います。
「誰にも相手にされないために、自分の存在意義を感じられない」という恐怖に耐えきれなかった、器が小さく身勝手な人間が起こした卑劣な事件。
自分にとって、この事件はそういったものであり、裁判の過程で犯人のかりそめの主張や信念という装飾をすべてはぎとって欲しいと思います。「自分は自身の強い信念を成し遂げた英雄である」という幻想を叩き潰し、「他人を攻撃しなければ自我を保てないほど、弱く卑小な存在」ということを分からせたうえで、断罪することを強く願います。