「最恐にして最凶のスプラッタ・ミステリー」
自分は綾辻行人の小説が大好きで、ほとんど読んでいます。
ただ、殺人鬼シリーズだけは殺害シーンがどうしても読めず、導入部分とオチだけを読みました。殺害シーンが余りに生々しくて、文章を読んでいるだけで痛みと恐怖が伝わってきます。
「小説家ってすごいな」と思うと同時に、読んだことを激しく後悔しました。
小説ではこの作品に限らず、残酷な場面が出てくることは多々ありますが、この「殺人鬼シリーズ」については、全編が趣味嗜好をこらした殺害シーンです。
物語の一番後ろには、登場人物それぞれがどのような方法で殺害されたかということが記載されています。
これは、物語のトリックに関係することなので書かれているのですが、読めば読むほど悪趣味だな……と思います。
「なぜ、この物語を執筆したのか」
自分は読み物としては「殺人鬼」を余り評価していませんが、この本のあとがきに書かれている綾辻行人の言葉には、非常に感銘を受けました。
ことほどさようにヨワムシな――もとい、心優しき平和主義者である僕ですが、ミステリやホラーは大好きです(プロレスも好き)。
ばたばたと人が殺される探偵小説や本書『殺人鬼』のような血みどろぐちゃぐちゃのスプラッター小説を平気で書いています。
何故か。
云わずもがなのことですが、現実世界における暴力とフィクションにおけるそれを、ある意味で決定的に次元の違う、異質なものとして捉えているからです。
綾辻行人『殺人鬼』 新潮文庫、1996年、305頁
一番最初にこの物語が発表されたのは、1990年です。
この前々年から前年にかけて起きた事件が原因で、スプラッタホラーを題材とした作品及びそれを愛好している人たちに対するバッシングが起きました。
「そういうものを見ている人間は、現実でもそういう行為をする可能性があるのではないか?」
「スプラッタホラーなどの作品があるから、それに影響されて現実でもそういうことをする人間が出てくるのではないか?」
そういう論調の批判が、とびかったわけです。
そのバッシングに対する批判が、綾辻行人がこの作品を書いた動機です。
「殺人鬼」の中で、「殺人鬼」は吐き気を催すような残虐な拷問まがいの方法で次々と人を殺していきます。(グロ耐性が余りないので、殺害シーンがほとんど読めませんでした。)
では、綾辻行人は現実でも、このような方法で他人を傷つけたいと思っているのか?
この作品の著者であるということをもって、
「綾辻行人は、人を傷つけることなど何とも思っていない残酷な人間である」
と言えるのか?
それはまったくの別問題である、と自分も考えます。
そして大多数の方が、
「その人がどんなフィクションを好むか、ということをもって、その人の人間性を決めることはできない」
という考えに、同意してくれると思っています。
綾辻行人が言うように、「現実とフィクションは、まったくの別物」です。
「フィクションでその分野を楽しんでいるからと言って、現実でもその分野を楽しみたいと考えているとは限らない。逆にフィクションだからこそ、楽しめるという人が大多数ではないか」
と思います。
不倫ドラマを見ている人が、全員不倫をするのか?
ミステリー小説が好きな人間が、全員トリックを使って人を殺す人間になるのか?
格闘ゲームが好きな人が、全員現実の格闘技も好きでやるのか?
逆に、スプラッタホラーを一度も見たことがない人は、死体を損壊するような残虐な事件を起こす可能性はゼロなのか?
このふたつの論が事実として成り立たない限りは、
「スプラッタホラーを見る人間が、現実でも同じ事件を起こしうる」
という因果は成り立たないはずです。
綾辻行人はそのことを証明するために、これほど前代未聞の残虐なスプラッタホラーを書いたのです。
自分は、その姿勢に深く敬意を表しています。(小説自体は読めませんが。)
「このようなバッシングは、なぜ起こるのか?」
仮にスプラッタホラーを見る人間が「現実でも同じことをしたいと考えている」としても、「考えること」自体は本人の自由だと思います。
ロリコンだろうと、ネクロフィリアであろうと、カニバリズムであろうと、ただ「頭の中で考えているだけ」ならば、そのことを他人がとやかく言う筋合いはないはずです。(むしろ、言ってはいけないと思います。)
その趣味が批判されることがあるとすれば、その趣味に即したことで、現実に他人の人権を侵害する行為に加担しているときだけです。
バッシングの原因となった事件が余りに残酷であり、犯人の言動も心情も不可解で理解しがたいものであったため、人々は、何でもいいから自分たちが可視化できる原因、結論を求めたのだと思います。
「犯人はロリコン、スプラッタホラーのビデオを所持しており、そういう趣味があったから、幼女を誘拐して殺害し、死体を損壊した」
自分たちが理解しうる、分かりやすい物語に人々は飛びつきました。
そして、その因果関係が本当に成り立つのかどうかなど見極めずに、「自分たちの」恐怖や不安から逃れるために、その趣味嗜好を攻撃したのです。
被害者の心情を本当の意味で慮るならば、それがどんなに分かりにくく困難な道のりでも、
「なぜ、彼女たちは殺されなければならなかったのか」
という真実を、考え続けるのが一番ではないか、と自分は考えます。
事件に対する「自分の」不安や恐怖を鎮めるために、分かりやすいものに勝手に原因を見出し、その周囲のものを全て攻撃する。
一人でフィクションの世界を楽しんでいるだけの人を、現実に犯罪を犯した人間と同列に扱い論じる。
そして、自分たちは正しいことのために行動した気になっている。
「自分の感情のために、他人のことを攻撃しても構わない」
それは、この事件の犯人と同じ考え方ではないか。
被害者の女の子たちは、正にそういう身勝手な考え方の犠牲になったのに。なぜ、そのことに気づかないのか、と怒りを感じます。
誰でも人には言えない趣味嗜好や、考え方はあると思います。
でもそのことを他者の権利を侵害せずに、ひっそりと楽しんでいる分には、誰もそのことを批判したり攻撃したりしてはいけないのではないかと思います。
昔、「クラダルマ」という漫画で、こんなエピソードがありました。
うろ覚えで申し訳ないのですが、こんな内容でした。
主人公が子供だったころ、父親が再婚相手として引き合わせた女性が、実は父親と交際しながら、内緒で複数の男性と乱交を楽しんでいるという人でした。
主人公は人の心を読める力を持っていたので、その女性と引き合わされたレストランで、そのことを大声で指摘します。
「この女は父さんにはいい顔をしておいて、裏でたくさんの男たちといかがわしいことを楽しんでいる」
主人公がレストラン中に響き渡る声でそう叫ぶと、父親は主人公のことをぶん殴って激怒します。
「誰にでも、人には知られたくない趣味嗜好がある。それを人前で、さも自分が正しいかのように糾弾するのは、人として最も恥ずべきことだ」
これを初めて読んだとき、自分はよく意味が分かりませんでした。
「この女性は実際、お父さんのことを裏切っているし、それを指摘した主人公が何で怒られるの???」
今なら、主人公の父親が何にそれほど激怒したのか分かります。
「クラダルマ」は、いろいろな意味でとても大人な漫画でした。
最後に、綾辻行人はあとがきでこんなことも語っています。
暴力や恐怖や死の幻想を綴った素敵な小説や映画がもっともっとたくさん創られることによって、現実世界に偏在するそれらの全部がそこに吸収され、封印されてしまえばいいのに……と、これはしばしば捉われる僕の愚かな夢想であります。
――綾辻行人『殺人鬼』 新潮文庫、1996年、307頁
自分にできることは何かを考え、それを実行している綾辻行人は、自分にとって、敬愛する作家のひとりです。
自分はまったくダメだったけれど、世の中には「別に普通だったな」という感想の人もいる模様。世の中は広い…。
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