読みたい、と思うブログとは
ブログを書き始めてから、半年以上たった。
自分がブログを書き始めてから、他の人のブログもよく読むようになった。
妬ましくなってしまうくらい面白いブログもあった。
一方で、読み始めても興味が持続せず、最後まで読まずに他の記事に移ってしまうブログもあった。
いったい、何が違うのだろう??
最近よく考える。
ひとつ言えるのは、題材の問題ではない。
タイトルを見て興味がわかなければ、そもそも記事自体を開かないからだ。
タイトルを見て興味をひかれた。
読んでみようと、記事を開いた。
その記事を最後まで読むどころか、他の記事もすべて読んでしまう。
この人の他の記事も読みたいと思い、その場で読者登録までしてしまう。
そんなブログがある一方で、
タイトルに興味があるから記事を開いたのに、読んでいられない。
途中で記事を閉じてその場で忘れ去ってしまう、そんなブログもある。
いったい、この違いは何なのだろう??
辿りついた結論は「読みたい」と思うブログは、「人の心を動かす力があるのではないか」というものだ。
他人の感情を動かすのは、簡単ではない
「他人の感情を動かす」というのは、容易なことではない。
しかも一人ではなく多数の、身も知らない人間の感情を、文字だけで動かすというのは、難しいことだと思う。
ポジティブな感情とネガティブな感情では、基本的にはネガティブな方向に動かすほうがまだしも易しいとは思う。
多数の人の心をネガティブな方向へ大きく揺さぶるのが、「炎上」と呼ばれるものである。
炎上を起こすためには、「自分が所属していない、ある属性の価値観を思いきり傷つける」
方法としては、これが一番起こしやすいのではないかと思っている。
子供を持っている母親であれば「子供を産んで育ててこそ、女は一人前になれる。どんなに仕事ができても、子供を育てたことがない女は半人前」という類の主張をする。
いわゆるバリキャリの女性であれば「専業主婦は、世間知らずが多い。主婦の狭い価値観の中で生きている」そんな類の主張をするのが一番手っ取り早い。
ただ、当たり前だが確実に起こせるわけではない。
自分の利益のために他人を価値観や人格を傷つけるような人間は心の底から軽蔑しているが、それでも「確実に炎上させられる」というのならば、たいしたものだとは思う。
「(法律に触れない範囲で)どんな手を使ってもいい」という条件を付与してすら、多くの他人の感情を動かすというのは難しいことだ思っている。
反応をもらえる記事は、それだけで何かがある
「狙っていないのに、炎上してしまった」ことに落ち込んでいる人をたまに見かける。個人的には「落ち込むだけだと、ちょっともったいないな」と思う。
ネガティブな反応がくればもちろん傷つくし、落ち込むと思う。
ただ「それだけ自分の記事が多くの人の心を動かすものだった」ということも、認めていいと思う。
人間は、誰しも薄情だし自己中心的だ。
本当に興味のないものに関しては、コメントを打つどころか、読みさえしない。
ネガティブな反応は受け取るのは、確かにキツイ。
だが、見も知らない何十人という人が自分の時間をわざわざ割いて、コメントを打たせる何かがその記事にあったのだと思う。
そのコメントを書いた人たち全員が、目につく全記事にコメントを書く人ならばともかく。
人は本当に興味がないものには、いっさい反応しない。
何の反応ももらえない記事というのは、世の中に無数にある。
(このブログにだって、もちろんある。)
内容はどうあれたくさんの反応をもらったのに、悪い面だけを見るのは、ものすごくもったいないあと思う。
どうすれば人の心を動かせるのか
人間は、最終的には感情が動かなければ動かない生き物だ。
「これが欲しいな」「面白そうだな」「頭にくるな」「それは違うと思う」
そう思わせなければ、重い腰をあげてはくれない。
自分の感情が動かないものに対して、人間はひどく冷淡だ。
「多くの人の感情を動かすのには、どうすればいいか?」
そう考えるのは、何もブログには限らない。
商売をしている人ならば、全員が日夜知恵を振り絞って考えているだろう。
「他人の感情を確実に動かせる方法」は自分には分からない。
分かっていれば、このブログはもっと爆発的に有名になっているだろう。
だが「他人の感情を動かさない方法」なら分かる。
「自分の感情を動かさないこと」だ。
感情を動かさない人は、他人の感情も動かせない
想像してみて欲しい。
目の前に、あなたのことを勧誘したい、もしくはデートに誘いたい、もしくは自分がよかったと思うものの魅力を伝えたいと思う人がいたとする。
無表情で平板な声でこちらの表情や反応も見ずに、一方的に淡々と事実や知識だけを語られたら、一緒にデートに行きたい、その人が勧めるものを自分も見てみたいと思うだろうか??
無表情な抑揚のない声で語られたら、そもそも内容がどうこう以前に、聞いていること自体が退屈で困難だと思う。
ましてや、ブログは相手の身振り手振り表情すら見えない、文字だけの情報なのだ。
題材には興味があるのに読み進められない、はっきり言ってしまえばつまらないと思うブログは、だいたいこういうものが多い。
時間を割いてその記事を書いたのだから、その内容は好きなのだろう。
(「ネタが思いつかなくて無理やり書いた」場合は、読んでいると何となくわかる。)
しかしその熱意がちっとも伝わってこない、赤の他人にその熱意を伝えようという気が見られない。
無表情にただ淡々と事実が綴ってある文字のつながり。
そんな風にしか見えない。
恐らく文章にそういう癖がある人は、そもそも感情を他人に見せることが苦手なのだろう、と思う。
しかし、酷と言われるのを承知のうえで言えば、「自分から心を開かない人間の言葉に対して、心を動かす人間がいるだろうか」読んでいて、そう思う。
「あほらしい」「興味ない」「馬鹿じゃないの」
そう言われるのも覚悟のうえで、自分から「これ、面白いよ!!」「こんなことがあったよ!!」「これすごく楽しいから!!」そう叫んでこそ、心を動かされる人も出てくるのだと思う。(こういう記事は、題材に興味がなくても読んでいて楽しい。)
「書いている人間の感情や熱意が見えないせいで、こちらの心もまったく動かず、面白いと思えない」
これが自分が考えている、つまらない記事である。
人の感情を揺さぶれる内容を目指したい
そもそもなぜ、そんなことを考えたのかと言えば、自分もこういう欠点を抱えているのではないかと思ったからだ。
感情的なものが苦手で、「なんだかこの文章、お経みたいだなあ」と自分で思うことが、書いていてもけっこうある。そういう記事は、読み返していてもつまらない。
書いている当人さえ余り面白くないのだから、読んでいる人はもっとつまらないだろうなあ、そう思って書いている途中の記事を消すことがたびたびある。
「読んでいる人の感情を動かせる文章って、どんなものだろう」
そのたびに考えさせられる。
ちなみに「自分の感情を余り表に出さず(もしくは出すふりをして)、他人の感情を動かせる人」もいる。
そういう「他人の感情を揺さぶる」プロがいる。(もちろん、故意に炎上を狙ってもいない。)
そういう人の記事は抜群に面白いし、そして何記事読んでも飽きない。
願わくばそういう地点までたどり着きたいけれど、なかなか道は長く険しく難しそうだ。
そういう内容の記事が書けるようになりたい、そう願いながら、日々、キーボードを叩いている。