最後の最後で梅が死にましたが、まったく泣けませんでしたし、
何の感慨もわきませんでした。
主人公の最愛の人が乳飲み子を残して、
若くして戦で命を落とすという話で白けるなんて前代未聞です。
今までは、日曜日を指折り待つくらい、楽しみにしていたのに。
今回で、かなりがっかりしました。
何なの? あれ? 命を賭けたコントのつもりだったの??
最後の場面で、泣くべきなのか笑うべきなのか、
一瞬、悩んだほどです。
三谷幸喜はおじさんを描くのはすごくうまいのですが、
若い女性を描くのは下手です。
ただ下手なだけでなく、見ていて不快になるようなポイントをうまく(?)ついてきます。
今回の梅の行動は、かなり不可解です。
子供のことも戦のことも、両方やろうとして、どちらも中途半端になっています。
しかも、見ているほうが初めから「そりゃあそうなるだろう」と分かっていることをやるので、
イライラが倍増します。
戦も子育てもしたことがないわたしが、
「あんた、戦も子育てもなめてんのか?」
と言いたくなりましたから。
案の定、足手まといになって、佐助に助けられているし。
何なのでしょうね?
製作者はああいうのを見て、
「けなげ」とか「かっこういい」とか思うとでも、思っているんですかね?
話(作者)の都合だけで、こういう行動をとっているんだろうな〜〜
ということが透けて見えると、見ているほうはいっきに白けます。
脚本家は、この梅という人物を、どういう人として描きたかったんですかね?
梅を物語を動かす駒ではなく、
一人の人として描こうという姿勢が、まったく伝わってこなかったです。
これから他の女性も出てくるし、物語上描ききれないなくて邪魔だから死んだ、
ただそれだけとしか思えない。
キリが「戦は嫌いじゃなかったの?」と問いかけたとき、
梅が「母になったら、そうも言っていられない」と返事をしていました。
このときも、ずいぶんとんちんかんなことを言っているなあと思いました。
「戦争が嫌い」と言っていたのは、「戦争が起こって欲しくない」という意味ではなく、
「自分が関わりたくない」という意味だったのね、とか。
「戦争に参加する、しない」は「好き嫌い」で決めるものじゃないだろうとか。
「母になったら、嫌いだから戦に参加しないなんて言っていられない」ということは、
言い換えれば「母になったから、戦に参加しなければ」となるが、
どうして、「母になったら、戦に参加しなければならない」んだろう?とか。
「子供のために、戦に参加するっていうこと?
子供のためには、子供のそばにいることが一番だろう」とか。
百歩譲って、「戦に参加することが、最も子供のためになること」だと思うのなら、
その「最も子供のためになること」に全力をつくせよ、とか。
もう、言っていることが滅茶苦茶すぎて、
そのあとは、梅のコントを無表情に眺めているだけでした。
悪いけど、あんなことをしていればそりゃあ死ぬよ。
こういうことが、子供のためとか誰かのためになるのですかね???
こういう死ぬ間際の矛盾が、今までどうということもなかった梅という人物を、
いっきに訳が分からないけれど不快、というキャラにしてしまいました。
それは脚本家が、梅を一人の人間として描かず、
こうすれば、子供を思いやっている風に見えるだろう、
こうすれば、心優しき女性風に見えるだろう、
という思惑で、キャラを記号のように扱っているのが分かるからです。
三谷さんが梅という人物に、心底興味がないことだけは、
よく分かりました。
もう死んだんで、どーでもいいんですが。
真田丸で、登場人物がこんな風に扱われるとは、思いもしませんでした。
(他の創作物では、作者の都合のみで動いている
人物として矛盾だらけのキャラクターなど腐るほど見ますが。)
もう二度とこういう登場人物が出てこないことと、
梅の冥福を祈ります。