ネットを見ていて、ずっと疑問に思っていたことがある。
ネガティブな感情が、異常に敵視されていることだ。
「他人を不快にさせてはいけない」
「怒りは人を傷つけるから、持ってはいけない感情だ」
「ネガティブな思考なんて毒にしかならない。ポジティブにいこう」
字面だけを見ると、「それはそうだ。その通りだ」と多くの人が思うだろう。(実際、賛同する意見をよく見る。)
でも、自分はこういう言葉がすごく疑問だった。
どれだけ醜くても汚くどす黒くても、どれほど理不尽で身勝手で愚かでも、考えるだけなら死ぬほど考えていいと思う。
「あいつに嫉妬する。何であんな奴が、みんなからチヤホヤされるんだ。認められるんだ。おかしい、世の中おかしい!!」
「世の中はどうしてこんな不公平なんだ。こんな世の中、ぶっ壊れればいい」
「あいつが死ぬほどムカツク。あんな奴、死んだって誰も悲しまない。なんで生きているんだ」
「ああいやだ、もう何もやりたくない。どうでもいい。何もしたくない。何やったって、何もかも無駄だ。この世の中の何もかもに意味がない」
死ぬほど延々と考え続ければいい。
「そんな感情は何も生みませんよ」
という人もいる。
しかし自分は、いい感情がいい行動を生むとは限らない、そこは実はそれほどリンクしないのではないかと考えている。
感情の正しさと行動の正しさは、結びつかないことが多い。
感情は主観的なものだが、行動を評価するのは本人ではなく他人だからだ。
この前、久しぶりに「薔薇の名前」を読んだのだが、崇高な宗教心に燃えた人間が平気で人の自尊心を回復不能なまでに傷つけ、拷問や殺人を行う、なかなか考えさせられる小説だった。
人間は自分の思考の正しさや感情の美しさを信じているときこそ、他人に対して最も残酷になる。
感情の正しさと美しさは、行動の正しさと美しさとは何の関係もない。
いい感情からいい行動が生まれるわけではない。
善意でやったことが、他人にとってはとんでもないおせっかいだったということが往々にしてあるように。
というより、純粋な混じりけのない「いい感情」なんていうものが単体で存在することはありえないのではないかと思う。
前に、昔のネットは汚い言葉が吐き散らされるゴミためのような場所だった、という記事を書いた。
そういう文字を見たときに、最初はうんざりもするし苛立ちもするし、頭にもくるけれど、同じくらい
「こんな黒々した気持ちを抱えながら、それでも毎日、それを日常生活では表に出さずに歯を食いしばって、みんな生きているんだ」
その事実に感動したりもした。
たぶん自分自身も、時々、他人を理不尽に傷つけたくなるような、毒のような気持ちを持って生きている人間だからなのだと思う。
むかしはしょっちゅう誰かにムカついていたし、色々なことに頭にきていたし、心の中に、クソ長い「あいつ、死ねばいいのにリスト」を持っていた。
この世の中はおかしいことだらけのクソみたいなくだらねー場所で、明日滅んだらむしろお祝いしたいわ、ヒャッホーと大声で叫びたいわ、と割とナチュラルに思っていた。
そんなどこにも行き場もない気持ちを抱えながら、世の中を滅ぼすための画策をすることもなく、普通に社会の片隅でひっそりと、外面は平穏を保ちながら、割と必死に生きていたからそんな風に思うのかもしれない。
自分が毒だらけの人間だから、毒まみれの汚水が流れるドブ川のほとりに咲いているトゲだらけの雑草を、「ひでえな。クソだな」と思いながら眺めてしまうのかもしれない。
毒々しい感情を恥じる必要はないし、「それは悪いものだから、なくさなければいけない」なんて思う必要はない。
そんなもの、必死に生きていれば誰もが当然持つものだ。感情には、何の罪もない。
「お前ら、全員死ね、クソボケ」
と思いながら、それをひと言も言葉にも態度にも出さずに、必死に作り笑顔を浮かべながらこの社会で生きているなら、それだけで自分を褒めてやれと思う。
明るくポジティブになれない、他人を心の底から愛せない、人に嫉妬してうらやんでばかりいて何もしない自分はダメな人間だ。
素晴らしい感情を持った人間こそ素晴らしい人間であり、そうならなければ素晴らしい人生は歩めない。
そんな風に思う必要はまったくないと思う。
しょっちゅう頭にきて、攻撃的なネガティブな気持ちを抱えた毒々しい自分のような人間でも、まあまあ社会でうまくやっていて、人並みに他人から感謝され、人並みに好きな人たちに囲まれた平穏で平凡な人生を送っている。
他人から見たらどうでもいい、「何でそんなことで怒るんだ??」というろくでもないことに、しょっちゅう興奮して怒り狂ってばかりいるけれど。
人間である限り必ず持っている、毒みたいな気持ちを抱えながら、何とかこの社会で仲良く楽しく、時に不快になりながら、頭にきながら、傷つけあいながら、「クソ野郎が」と思い合いながら、この世界で出会ったことを呪ったり祝福したりしながら、それなりに適当にやっていけているならば、それだけで十分、立派だ。
自分の心には汚水が流れていて、毒を持ちながら生きていると思っている人はけっこう好き。
— うさる (@usaruzzz) 2016年12月30日
みんなそうだと思うし。
多少、汚染しあうのはお互い様かなと。
問題は、自分は毒なんて持っていないと信じこんでいて、無自覚に撒く人間だと思う。
そういう人、好きになれない。
@usaruzzz
— うさる (@usaruzzz) 2016年12月30日
逆に自分を、毒そのものと思い込んでいるふしの人もいる。
誰があなたにそう思わせたかは知らないけれど、毒を持っているのもみんな一緒で、あなたは毒そのものじゃないよ、と言ってあげたくなる。
まあ、完全に余計なお世話だろうけど。
ぬーん…。。
人間はみんな同じくらい、理不尽で、自己中で、他人を傷つけて、そしてその存在を許し合いながら生きている。
毒を持たない人間もいない。毒そのものの人間もいない。
時々、死ぬほど頭にきても、自分はそんな汚水が流れる毒々しい、そしてその片隅でひっそりと小さな花が咲くようなこの世界が、たぶん大好きなのだろう。
そんな自分が愛するクソみたいなこの世界が、今年も平和でありますように。
毒を持ちながら、それでも必死に生きている、大好きな人たちが、みんな幸せでありますように。
今年もよろしくお願いします。
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