2017年4月に発売した諌山創「進撃の巨人」22巻の感想及びテーマについての再考です。
テーマについては新刊が出るたびに考えていますが、新たな考えも出てきたので、改めて語りたいと思います。
20巻までの感想はコチラ↓
21巻の感想はコチラ↓
ついに「進撃の巨人」という言葉が出てくる。
22巻では巨人の正体も含め、世界の真実の姿がだいたいわかりました。
タイトルの「進撃の巨人」も、物語の中でその意味が語られました。
最近の巻では物語の謎が次第に明かされていっているのですが、それと同時にこの物語のテーマも語られています。
そのテーマというのが、かなり不思議なものというよりは、今までの少年漫画ではそのテーマ自体もその語られ方も余り見たことがないものです。
「進撃の巨人」のテーマは見たことがない。
「進撃の巨人」は、気持ちの悪い巨人が出てきて残虐なシーンも描写されていること、主要登場人物もあっさりと死んでいくことなどから、一見すると少年漫画の中では異質さを放っています。
そういう外枠を取っ払えば、中身はごくまっとうな王道の少年漫画ではないかと今まで思っていました。
でもここ最近の巻を見て、「進撃の巨人」が最も強く打ち出しているテーマ、そのテーマの語られかたを見ると、「今までの少年漫画、というよりは他の漫画にない考え」を今までにない語り口で語っているように見えます。
この特異性が、この漫画を「一見、王道の少年漫画でありながら、今まで読んだことのない漫画」にしているのではないか、と22巻を読んでいて思いました。
「進撃の巨人」で最も重要な思想
「進撃の巨人」では個人の命や人生は尊重されていない。
ジャンプに代表される少年漫画で、たいてい重要視される思想というのは「優しさ」「夢」「努力」「友情」この辺りの現代社会で「道徳的」と言われるものです。
「命の尊さ」「個人の尊厳」などもそうです。
「進撃の巨人」では、この「一人の人間の絶対的な尊さ」というものは肯定されていません。
「人間は一人一人違うのだから、その人の代わりなんていない。一人の命と大勢の命の尊さは比べられるものではない」
という現代社会的な価値観は、初期の段階からほとんど組み込まれていません。
それどころか、20巻でリヴァイがエルヴィンに「新兵を地獄に導け。夢を諦めて死んでくれ」と言った時点で、明確に否定されます。
「組織(多数)を救うために、個人を犠牲にする」
「組織(多数)を救うために、個人が死ぬことを是とする」
というのは、戦時戦前の価値観に対する反動もあり、現代社会では基本的には忌まれている考え方です。
少年漫画で、自己犠牲という形をとり「犠牲になるのは本人なんだからいい」という言い訳めいた描写のされ方をすることはたまにありますが、他人に対して、しかも弱者である新兵に対して「組織や大義のために死んでくれ」と主要登場人物が強いるのは前代未聞の描写です。
マルロを含め新兵たちの死に方は、特攻以外の何物でもないですし、読んだ人の中には嫌悪感とまではいかないまでも違和感を感じた人もいるのではないかと思います。
「フクロウ」として生きたクルーガーの人生も、「エルディア人全体のために、自分の人生を犠牲にする」という「多数のために個人を犠牲にする」という考え方に基づいています。
アルミンが大型巨人を倒すために犠牲になった描写もそうですし、グリシャが息子のジークに「エルディア人復権のために生きろ」と強いた描写もそうです。
「進撃の巨人」は「大儀やその他大勢の人のために、個人を犠牲にする」「個人の幸せよりも、大切なことがある」そういう考えが語られているのか?? それが「進撃の巨人」で最も重要なテーマなのだろうか??
特にエルヴィンの死にざまを見ていると、そんな気がしてしまいます。
でも、そうではないのです。
もし「個人の人生よりも、大勢の人生のほうが大事。そのための犠牲は尊い」というテーマならば、生き返るのはアルミンではなく、エルヴィンのはずだからです。
リヴァイやハンジがエレンとミカサを論破したように、「人類のため」という観点ならば、どう考えてもアルミンよりもエルヴィンが生き返るのがスジだからです。
なぜ、エルヴィンではなくアルミンが生き返ったのか。
ここで「単にエレンの友達だからじゃないの?」という理由でアルミンが生き返るならば、「進撃の巨人」という物語自体が破たんします。戦友であるエルヴィンに「夢を諦めて、死んでくれ」といったリヴァイが、そんな理由でアルミンを生き返らせることに同意するはずがないからです。物語の重みや、登場人物の考え方が無茶苦茶になります。
エルヴィンではなく、アルミンが生き返ったのは、主人公であるエレンとの関係がどうこうではなく、物語としてとても重要なことだと思います。
エルヴィンはいわば「個人の人生よりも、大勢の人生のほうが大事」という考え方の象徴です。エルヴィンはそのために、自分が長年追い求めた夢を諦め、自分どころか他人にまで死ねと命じて死んだ人物だからです。
エルヴィンこそが「人類を救う人物だ」ということは、最終的にはエレンもミカサも納得しています。
「人類のために、個人(私情)は犠牲になるべき」という考えが、この物語の最上位にくる考えならば、生き返るのはエルヴィンのはずです。
では、アルミンはどんな人物なんだろう??
エレンが「なぜ、生き返らせるのがエルヴィンではなく、アルミンでなければいけないのか」という理由で、はっきりと語っています。
「この壁の向こうにある海を見に行こうって」
「アルミンは戦うだけじゃない。夢を見ている」
(引用元:「進撃の巨人」21巻 諌山創 講談社)
これが、「進撃の巨人」で最も重要なテーマなのだと思います。
「個人の命」よりも「人類を救うこと」
そして「人類を救うこと」よりも「壁の外に出る、という夢を見ること」
「進撃の巨人」の不思議なところは、「個人の命や尊厳」よりも「夢を見ること。外の世界を見ること。そういう自由があること」のほうが絶対的に重要だという考えが語られていることです。
「命を捨ててでも、自由のために戦わなければならない」
アルミンの件だけだと、それは「進撃の巨人」のテーマではなく、あくまでアルミンという登場人物だけに課せられた属性ではないか、とも思いますが、22巻でグリシャが「進撃の巨人」を受け継ぐと決意する場面で、まったく同じテーマが繰り返されています。
「何も知らないで、良き夫、良き父親として平和で穏やかな一生を過ごすよりも、飛行船を見るために外の世界に出る自由を得ることが一番大切だ」
グリシャが最終的に「進撃の巨人」を継承することを決意するこの理由は、一見、尤もらしく聞こえます。
しかし、この「自由」のためにグリシャが支払った代償は余りにすさまじいです。
妹を犬に食い殺され、息子には見切りをつけられて裏切られ、仲間は崩壊し無能と罵られ皆殺しにされ、愛した妻は巨人にされ、最終的には二度目の妻を食い殺し、息子に殺される。自分は拷問を受け、指を全て斬りおとされる。
「フクロウ」となったクルーガーは何年も敵地で過ごし、仲間を拷問し、死に追いやらなければならなかった。
「進撃の巨人」で語られているのは、例えこういう凄まじい経験をしてでも、人は「穏やかで平和に生きる」よりも自由であるために戦わなければならない、そういう考え方です。
妹を犬に食い殺されても、拷問を受けて指を切り落とされても、子供に裏切られても、心ならず仲間を死に追いやり続けてでも、新兵を地獄に導いてでも、人間は自由のために戦わなければいけない。外の世界を見なければならない。
「自由」というのは、これほどの対価を支払わなければ得られないものなのだ、と当たり前のように描かれています。
「進撃の巨人」のいいところは、フロックやグリシャの父親のように「なぜ、それほどの対価を支払ってまで自由を求めなくてはいけないのか。真の自由ではないかもしれないけれど、平和で穏やかな暮らしにも十分価値はある」という対立する価値観も、まったく等価に語られていることです。
クルーガーがグリシャの父親をまったく嫌味なく「お前の父親は賢い男だった」と語ったり、フロックがエレンに対して「何だって自分が一番正しいと思ってんだろ?」と言うことで、グリシャの父親やフロックの価値観も尤もだと思わせています。
グリシャが「これが自由の代償だとわかっていたなら、払わなかった」「もう何も憎んでいない」と語ったシーンは、読み手の心を「ここまでして自由を追い求めなくてもいいのではないか」とぐらつかせます。
(引用元:「進撃の巨人」22巻 諌山創 講談社)
物語の枠内で見ても、この「自由を追い求める」というのは非常に困難ですが、枠外から見ても、仲間はどんどん死んでいき、ベルトルトやアニ、ライナーとは戦わなければならず、リヴァイやハンジという人たちとも時には殴り合うレベルで対立しなければならず、ヒロインであるミカサでさえ、ギリギリのところで自由(=アルミンを生き返らす)を諦めてしまっています。
ここまで自分の価値観を徹底的に追いつめて、「これほど苛酷なものだとしても、誰にどれほど非難されても、例え自分が特攻して死ぬ新兵の一人だったとしても、自分は自由を絶対的に追い求める」という「人間にとっては命よりも愛よりも平和よりも他の何物よりも、自由が大切なんだ」という作者の考えの強烈さが、この物語を特異なものしているのではないかと考えています。
「命があればこその自由」「家族を犠牲にしてまで、自由を追い求めて何になる」というグリシャの父親的発想も尤もだけれど、それでも自分は飛空船を見るために外に出てしまった。
だから「どれほど苛酷な目に合おうが、命ある限り自由を追い求める」
それが「進撃の巨人」なんだ、とクルーガーはグリシャに語ります。
自分も今の時代に語られている「就職しなければ自由」みたいな字面だけの自由ではなく、本当に自由でいるというのは、かなり対価を支払わなければならないと思っていますが、それにしてもここまで対価を支払っても人間は自由でいなければいけない、という発想はどころからくるのか、すごく不思議です。
すごく不思議ですが共感します。
本当の意味で自分の求める生き方をする困難さ
本当に何かのために生きるというのは生易しいことではないし、聞いているコチラもしごく真っ当だと思う非難を山ほど浴びせられるだろうし、最初は同じ考えを持っていた仲間も、途中で考えが変わったり、脱落していったりします。
本当の意味での「自由」は身を切り、対価を支払い、戦って得なければならないものだ、そうすることによって逆説的にその価値を語り続けているのが、この漫画のすごいところだと改めて思いました。
22巻でエレンが「きっと壁の外には、自由が」と語ったときに、犬に食われた死体の映像が出てきました。「壁の外の自由」が、エレンが夢見たものではない可能性があります。
そういう絶望に直面しても、エレンは自由を追い求め続けられるのか。
この先の展開が楽しみです。