うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

作家が「人に残された最後の職業」ならば、ブログは「人に残された最後の趣味」だと思う。

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作家は「人に残された最後の職業」。

「13歳のハローワーク」の公式サイトで、作家という職業には、こんな説明が書かれている。

「作家は人に残された最後の職業で、本当になろうと思えばいつでもなれるので、とりあえず他のことに目を向けたほうがいいですよ」

(引用元:「13歳のハローワーク」公式サイト) 

もう残された生き方は作家しかない、そう思ったときに、作家になればいい。

 (引用元:「13歳のハローワーク」公式サイト) 

www.13hw.com

 

「ごもっとも」というしかないことが書かれている。

 

作家が「人に残された最後の職業」ならば、ブログは「人に残された最後の趣味」だ。

「もう残された趣味はブログしかない、そう思ったときにブログを始めればいい」と思う。

 

ブログなんて続くわけがない。

自分は物事というのは、一定の水準を保ったまま継続されて、初めて客観的評価の対象になるものではないか、と思っている。

 

ブログ二年生が個人的ブログ論、ブログの好き嫌い、二年目の目標などを語る。

だから前々回に書いたこの記事で、「ブログも年単位で続いて初めて評価の俎上にのるものだと思っている」と書いた。

 

ただそうは言うものの、ブログというものを年単位で続けている、というだけでその人はある種の変人だと思っている。

続くはずがないと思う、本来は。

 

10代20代のころなんて、この世界に溢れる情報のインプットに夢中になる年頃だ。

20代のころの思考や感情というのは、どんなものであれ澱んでいないし腐っていない。

腐っているか腐っていないかというのは、深さ浅さの問題ではない。

どれだけ浅い経験や感情でも澱めば腐るし、どれだけ深く重い経験でも誰かが受けとめ、どこかで消化することができれば最終的には腐らない。(深ければ深いほど、消化することにものすごい困難さは伴うけれど。)

ここで言う「腐る」というのは、経験の重さや深刻さや暗さとは何の関係もない。

 

この腐ったものが降り積もると、物事をインプットすることが難しくなってくる。

長年インプットし続けて自分の中で澱んでいるものを、吐き出したくて仕方がなくなる。

だから年を取るとやたら説教したくなったり、人生訓のようなものを語りたくなる。アウトプットしたくて仕方なくなる。

 

20歳くらいのころ、自分は一回だけブログを作ったことがある。

二、三回書き込んだだけですぐに止めた。

「誰も読んでくれる人がいなかった」とかそんなこと以前に、ただ「ブログを書く」ということにすぐに飽きた。

世の中にはもっと新鮮で楽しくてキラキラした、自分が初めて目にするものがたくさんあり、それに触れれば、自分が初めて味わう感情をいくらでも味合わせてくれた。

どれほどそのときは辛く死にそうだと思っていても、それは刺激に満ち溢れていて、どんな刺激でもないよりはマシだった。


こんなすぐに楽しい刺激も悲しい刺激も、絶望的な刺激も快楽のような刺激も得られるのに、何が悲しくて見も知らない人間相手に、何の反応もないかもしれないことをやり続けなければならないのか。

だから新しいものに、目移りする。

「ただ文字を書くだけ」を「何日も何年も続ける」なんて目まいが起きる。

それが当たり前だと思う。他に楽しいことはいくらでもあるのだから。

収入だって、ブログを地味に続けるよりも、いくらでも可能性が広がっている。

 

20代でブログが年単位で続けられる人というのは、本当に限られた人だと思う。

リアル以上に承認が得られるか、得られなくても続けざる得ない何かがある人なのだと思う。

どちらにしろ、自分はそれは才能だと思っている。

普通は飽きる。

そしてそれが当然だと思うし、掛け値なしの本音を言えば「他の趣味を探したほうがいいよ」とすら思う。

 

ブログに書かれているのは、リアルで誰にも必要とされなかった言葉。

インプットしながら何の役にも立たず、誰からも必要とされず、何ひとつ消化されないまま、自分の中で少しずつ澱み腐り果てたものを、他に出す場所がないからネットに吐き出しているもの、それがブログだと思っている。(仕事でやっている人は知らない。)

それを何年も続けている人は、相当な変人だろうと思っている。(本音全開で申し訳ないが。)

なかなか、そんなにリアルの自分では消化しきれないものが年単位で溜まることなんてない。

普通は最初の半年くらい吐き出してすっきりして、「あれ? もう書く(アウトプットする)ことがない」となると思う。

 

ブログで書かれている言葉というのは、リアルでは誰からも必要とされなかった言葉なのだろうと思う。

誰からも必要とされず、だから語ることができず、長い年月をかけてその場に滞留し澱んで腐った言葉を、呪詛のように語り続けているのがブログなのだろうと、勝手に思っている。

呪詛のかけ方は人それぞれで、明るく楽しくかけている人もいるし、優しく温かくかけている人もいるし、人のためになることを願いながらかけている人もいるし、暗く重くかけている人もいるし、真摯に真正面からかけている人もいるし、斜めな目線で皮肉っぽくかけている人もいる。そこは人それぞれだ。

 

ちなみにこのブログは、社会で「うまく生きていくために」他人からも自分からも必要とされなかった部分が、亡者のようになったものが怨念をこめて書き綴っている。

ネットでしか生きられない奇形の怪物のようなものだ。

リアルを闊歩していたら、とっつかまってボコボコにされてドブに捨てられる。

 

どこにも吐き出せず、誰にも受け止めてもらえず、何年経っても消化できなかった思いが腐ってできた、自分の奥底の汚泥のような部分の醸成具合が長さが、この世界を呪詛する言葉の長さなのだと思っている。 

だからブログなんて、続かなくて当たり前だ。続くほうがおかしい。おいおい、どれだけ呪う気だ?という話だ。

 

この世界のどこにも行き場がなく、何をやっても消化されず澱んで腐ってきて、呪いにまでなった言葉を語りたいのに誰にも語れない、誰も聞いてくれない、そんなどうしようもない状態になったら、そのときはブログを始めたらどうだろうか?

 

そんなどうしようもない状態になるまでは、とりあえず「最後の趣味」としてとっておくことをおすすめしたい。


13歳のハローワーク

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