漫画版Episose8では、猫箱の底まで描かれている。
漫画版「うみねこのなく頃に散」Episode8を読了した。
「もう、うみねこはいいかな」と思っていたので悩んだけれど、「最近、漫画も読んでいないし、買うか」と思って購入した。
結論から言うと、大満足の結末だった。
ここまで猫箱を追いかけてくれた人たちを、最後の最後に、猫箱の中に招待してもよいのではないかと。(中略)漫画版EP8は、描ける限り、しっかりと猫箱の底を描いてもらってよいのではないかと
(「うみねこのなく頃に散 Episode8」原作者あとがきより引用 竜騎士07 株式会社スクウェア・エニックス)
原作者が後書きでこう書いているとおり、原作とは違い、すべての謎や疑問の答えが明示されている。
原作の結末を見て「もう、うみねこはいいよ」と思った人にこそ、読んで欲しいと思った。
うみねこは物語の構造もテーマ性も、非常に複雑な物語だ。
従来の作品にはない斬新で変則的な要素も組み込まれているうえに、作者のメッセージ性も非常に強いので、かなり癖のある作品になっている。そのせいで、評価の賛否も割れている。
その辺りも含めて、今回は漫画版Episode8をメインに、物語全体の考察や感想を述べたいと思う。
ネタバレを前提に話しています。未読のかたは、漫画を読んでいただいてから読むことを強くおススメします。
- 漫画版Episose8では、猫箱の底まで描かれている。
- 「うみねこのなく頃に」は、物語の構造もテーマも重層的。
- 主要批判1「OSSO問題」について
- 主要批判2「恋をしたことがない人には、わからない動機」
- 「うみねこのなく頃に」で語られているテーマに、非常に共感する。
「うみねこのなく頃に」は、物語の構造もテーマも重層的。
「うみねこ」は物語構造が、
「偽書の中の世界」
「偽書の中の世界をゲーム盤として構築する、魔女たちの世界(幻想世界)」
「物語内の現実世界(主に1998年の現実)」
というメタ構造の階層になっている。
(引用元:「最終考察 うみねこのなく頃に散」KEIYA 株式会社角川グループパブリッシング)
その階層が物語内でシームレスに移動することと、同じ登場人物が階層ごとに微妙に異なる設定で登場するため、「今のこのシーンは、どこの階層の話か」「この登場人物は、今はどの階層の登場人物として登場しているのか」「事実だと保証される赤文字は、どこの階層の事実を保証しているのか」ということも、読者が推測して話を組み立てなければならない。
しかもこの階層構造(物語全体の大枠)と、同じ登場人物でも階層が違えば設定が微妙に異なる(階層ごとを支配するルールが違うため)ということも、読者には最初の段階では分からない。
「これが世界のすべてなんだ」と思っていたら、それはひとつの箱庭に過ぎず、しかもその箱庭が無数にあり、その無数にある箱庭の情報から帰納して上位階層である「物語内の現実世界の事実」に辿りつく。
「うみねこ」の物語の構造としてはそうなっている。
メタ構造の物語に慣れていない読者はもちろんのこと、多少こういう構造の物語を読んだことがある人間でさえ、設定を整理しながら読まないと混乱しやすい。
「うみねこ」はまた物語の構造だけではなく、テーマも同じ重層的な構造をしている。それが物語に深みを与えていると同時に、批判を生み出しやすくなっている。
主要批判1「OSSO問題」について
突然、主人公の心情が変わり、読者が目的を見失う。
「うみねこ」の面白いところは、読者が感情移入する主要登場人物の目的がコロコロ変わる点にある。
序盤、探偵役である戦人は「魔女幻想=ファンタジー」を認めないために、六軒島殺人事件をミステリーとして成立させることを目的にしている。
Episode4から登場する縁寿は、「六軒島で何が起こったのか」その事実を追求しようとする。
Episode5からは一転して、探偵古戸ヱリカに事件を解決させないこと、つまりなぜかEpisose1から「事実を知ろう」としていた戦人が「事実を隠そう」とし出す。
それは「戦人がベアトリーチェのゲームの目的を理解したから」なのだが、読者にはベアトリーチェのゲームの目的が明かされていないので、戦人の態度が理解できない。
この辺りの「読者の感情移入先である登場人物(主人公が多い)は固定される」という多くの物語の暗黙の了解も、「うみねこ」という物語は軽々と蹴飛ばしてくる。
「感情移入先である登場人物=読者」(「うみねこ」での「探偵」の役割に近い。)というお約束から離れ、戦人は一人だけベアトリーチェのゲームの目的を理解し、「探偵」から降りてしまう。
その目的の転換がなぜ起きたのか、ということが読者には一切、明かされていないのに、余りに突然転換される。
「自分の分身として、ベアトリーチェと戦い事件の事実を追求している」と思っていた戦人が、いつの間にか「ベアトリーチェに同情し、事件の事実を必死に隠そうとする」
読者は、置いてきぼりをくらったような気分になる。
(引用元:「うみねこのなく頃に散」 夏海ケイ/竜騎士07 株式会社スクウェア・エニックス)
この辺りから「この物語は、どうも事件の真相を追求する物語ではないのではないか」ということに、うすうす気づきだす。
何故なら新しく出てきた「探偵」古戸ヱリカは、どう見ても読者の感情移入先としては無理がある登場人物だからだ。(ヱリカの感情移入が難しいキャラクター性が、作者からの「この物語は、事件の真相を追求する物語ではない」というメタメッセージになっている。)
最初は「六軒島事件の真相を知ること」という目的で始まったはずの物語が、いつの間にか「辛い事実は知らないほうがいい(魔法エンドが真実のエンド)」と言わんばかりの結末で終わる。
開始時は「事実を追い求めようとしていた」読者が、控えめに言って肩透かしのような気持ちを抱いたのも無理はないと思う。
これが「OSSO(お前がそう思うならそうなんだろ、お前の中ではな)問題」(勝手に名付けた)
「しょせん結論は、OSSOかよ。」
という「うみねこ」への主要な批判のひとつだ。
物語開始当初の目的も後書きの煽りも、真の目的に至る方法にすぎない。
なぜ、このような批判が持ちあがったのか。
原因は「うみねこ」という物語は、物語の構造だけではなく、メインテーマも重層的なメタ構造になっているからだ。
Episose1の内容はもちろん、その後書きの「この問題をミステリーとして解いてみろ。解けねえだろ」というベアトの煽りは階層を超えた読者に対するものではなく、「戦人に魔女幻想を打ち破って、自分のことを思い出して欲しい」という紗音の思いからきた言葉なのだ。
このいわゆる「階層越え」が、「うみねこ」の特異な点である。
普通、物語というのは「物語内」と「物語外(読者)」の二つの階層しかない。
だから後書きに書かれれば、それは「物語の登場人物から読者へのメッセージ」ととらえられる。
しかしうみねこでは、「幻想世界」から「物語内での現実世界」へのメッセージや暗喩であることがほとんどだ。
幻想世界そのものが、「物語内の現実世界」のメタファーだからだ。
山羊の群れは「六軒島事件」を好き勝手に推測し、その推測の内容を楽しむ世間の人間であり、批判は「物語内での現実世界」の人間たちに向けられている。そしてベアトリーチェの挑発的な煽りは、「この事件の謎を解いて、自分を見つけてくれ」という、上位階層に存在する紗音の願いなのである。
同じように物語当初の「ファンタジー(魔女幻想)を打ち破り、現実としてこの事件の真相を解明する」という目的は、実は目的ではなく上位世界のメインテーマを語るための方法にすぎない。
「うみねこ」というは最初から「ミステリーかファンタジーかを争う物語」でもないし、「六軒島事件の真相を探る物語」でもなかったのだ。
ただそのことは、上位階層が表れるまで読者は知りようがない。
「物語当初の目的は、それがメインではない。うみねこはそういう物語じゃない」ということが届ききらなかったところが「手品エンド」を支持する人が多い理由ではないか、と自分は思っている。
漫画版Episose8では、この点がきちんと整理されている。
漫画版Episose8での事実を隠そうとする戦人とベアトリーチェへの縁寿の言葉は、読者の心理を代弁させている。
「こっちに何も説明しないで、いつの間に事実を隠すほうに回っているんだよ。そうするなら、それなりの説明をしてくれ」
そしてその声に答えて「なぜ、戦人がいきなり、事実を暴く側から事実を隠す側に回ったのか。そこにはどんな事情があったのか」ということを、物語内で丁寧に追っていく。
「ベアトリーチェ=紗音が事件に至るまでの心情を、読者に感情移入させつつ、丁寧に追っていく」
「戦人がそんな紗音に対して、どれほど申し訳なく思ったかを描写する」
「事実と向き合う覚悟があるとあれほど強く言い切った縁寿が、自分が想像する以上に過酷な事実には耐えきれなかった描写を行う」
「しかし、それでも縁寿に生きていてほしいと願った戦人が、「一なる真実の書」を事実と認めたうえで他の真実を見ろという」
「縁寿が黄金の真実を使えるようになる」
「縁寿が白い魔法を使えるようになり、真実の魔女となる」
ここまで描写して、ようやく「これがうみねこが追い求めてきた、白い魔法による魔法エンドか」と納得することができる。
そしてこういう描写を積み重ねて、魔法エンドに辿りつけば(読者各々の信念がどうあれ)「うみねこ」という物語には「魔法エンド」が最もふさわしいと恐らく誰もが納得すると思う。
「手品エンド」は手品ではなく、黒い魔法。
こういう描写をすっ飛ばして、読者に「もう分かるでしょう?」と言わんばかりに「手品」か「魔法」かを選ばせるのは、余りに雑だったと思う。
「一なる真実の書」を見せまいとして、自分を礼拝堂に閉じ込めたベアトリーチェに対する縁寿の怒りの声は、読者の叫びとほぼ重なる。
「よく言うわ。こうして日記を礼拝堂に隠して、あんた達の望む未来へ誘導するつもりだったくせに! そんなのは選択じゃない! 押しつけだわ!」
こういう批判があったのでは、と思う。
自分も結末を最初に知ったとき、なぜ「手品」エンドの内容がこの内容なのか、という疑問があった。
自分が信じたい「絵羽犯人説」に合致した情報しか認めない、というエンドは、「事実を認める」というイメージを与える「手品」という名称はふさわしくないし、これを「手品」と呼ぶのはフェアではない。
自分の考えでは、これは「黒い魔法エンド」だ。
「手品エンド」と言うのならば、「事実」である「留弗夫・霧江犯人説」をきちんと認めるエンドにして欲しかった。
「事実を認める手品エンド」と比べても、なぜ「魔法エンド」のほうがいいのか、ということを、自信を持って描いて欲しかった。
「うみねこ」が批判される原因のひとつは、「作者が持っていきたい方向への、アンフェアな誘導」を行っている点にあると思う。(縁寿が作内で指摘している通り。)
なぜ、「絵羽犯人説」と「殺人などなかった」の二択になってしまうのか。
事実に最も近いと思われる「留弗夫・霧江犯人説」を、なぜ作者の意図で外してしまうのか。それほど意図的に誘導したうえで、「読者に選ばせるようなふりをするために」「フェアであるふりをするために」二択にする。
こういう「Episode8の戦人的発想」も読者を苛立たせた原因ではないか、と思う。
自分は「うみねこ」は「白い魔法の力」を描く物語だと思っていたので、元から「魔法エンド」支持だったが、それでも「手品エンド」支持派にも一理あると思っている。
こういう雑な誘導のされ方をされれば、誘導されたほうに行きたくなくなるし、それのどこが心を大切にしているのか、と言いたくなる。
自分の考えでは、
「絵羽犯人説」=「黒い魔法エンド」
「留弗夫・霧江犯人説」=「手品エンド」
「(一なる真実の書を読んでも、なお)何もなかったと信じる」=「白い魔法エンド」
である。
今までの物語や読者を信じて、この三択で選ばせて欲しかった。
「うみねこ」をずっと読んできたならば、「うみねこ」という物語にふさわしいエンドは「留弗夫・霧江犯人説」を事実と認めて、
「でも、両親は自分にとってはそれだけの人ではなかった」
「事実はその通りだとしても、黄金の真実は違う」
自分を思う戦人がかけてくれた白い魔法にかかり、白い魔女として生きていくエンドだろう、と思う。
「うみねこ」という物語が語っているのは、終始一貫してこの「白い魔法の力」についてだからだ。その力は、事実がどれほど残酷だとしても失われることはない。
漫画版Episose8は、その「白い魔法の力」を読者に信じさせてくれるに十分な内容だったと思う。
主要批判2「恋をしたことがない人には、わからない動機」
「恋をしたことがない人には理解ができない動機」という歴史的迷言まで飛び出した、六軒島殺人事件の動機。
これが「OSSO問題」に並ぶ「理解できないのは、お前らが恋を知らないのが悪い問題」だ。
「近親相姦の末生まれ、崖から突き落とされて子供を産めない体になった少女・安田紗代。初恋の男には忘れ去られ、もう一度恋をしようと愛した相手とは叔母甥の関係のため、結ばれることはかなわない。自らの人生に絶望し、親族たちを皆殺しにして自分も死ぬ計画を立てる」
字面だけ見ると、同情はするが理解はさっぱりできない。
これを理解できないのが「お前らが恋をしたことがないからだ」と言われても、多くの人が困惑するだろう。
漫画版Episose8では、この辺りのヤスの心情も非常に丁寧に追っている。
なぜ、金蔵や夏妃など恨みがある人間だけではなく、親族全員を道連れにしようとしたのかも「嘉音としての自分に恋心を向ける朱志香を見て、どこまでも内に内に向かう右代宮家の血筋そのものに嫌悪感を感じたから」などと説明されている。
理屈としてはなるほどとは思う。
自分はこういう「自分の頭の中だけで、他人を巻き込んで物事を進行させていく人間」というのが嫌いだが、それでもEpisose8のヤスにはそれなりに同情した。
境遇が悲惨なことはもちろん、幼いころから閉鎖的な環境だったので、多様な思考が思い浮かばない、相談する相手がいない、思考が内向しやすいのは、本人ばかりのせいでもない気がする。
それでも余りに勝手すぎると思うけれど。
この点で一番面白いと思ったのは、「人間は自分の大切な人に、自分自身ですらの受け入れがたい部分を受け入れてもらえるかということを知るよりは、他人を殺すほうが楽だし簡単なのだ」という思想が当たり前のように語られている点である。
これは吉田修一の小説「怒り」でも出てきた発想だが、自分もこれは真理だと思う。
それくらい人というのは、「自分の大切な人に自分を受け入れてもらえないかもしれない」ということに恐怖を抱いている。
普通は「それでも関係ない人も含めて、親族使用人全員を殺すのはどうかな」というニュアンスが感じられるものだが、「うみねこ」ではむしろ「恋をしたら、それくらい当然でしょう?」と語られている。
ヤスのおかれた境遇は非常に辛いものなので、こういうことを言いかたはあるいは酷かもしれないが、
「自分の弱さの責任を、何の罪悪感もなく当たり前のように他人に転嫁する人間」
こういう人間は、ある一定数いる。(ヤス自身はそういう発想に罪悪感を持っているが、物語の語り口が「ヤスの発想が仕方のないもの」というニュアンスになっている。)
こういう人間がこの世で一番キライな自分でも、Episose8のヤスには同情の念を禁じ得なかった。動機については納得はできないけれど、漫画版Episose8を読む前よりはヤスの気持ちも理解できるようになった。
「うみねこのなく頃に」で語られているテーマに、非常に共感する。
どんな事象であれ、「その事象を、完全に客観的に解釈し判断できる」人間などこの世に皆無だと思う。
「うみねこ」の作品内の例は非常に極端に見えるかもしれないが、人間は誰しも「事実」を自分の心を通して解釈し、判断している。
「自分が解釈した事実」を真実と信じて生きている。
「うみねこ」で描かれていることは、実はそういう当たり前のことだ。
事実を変えることはできないけれど、解釈を変えることができる。
自分次第で、いくらでも世界を変えることはできる。
事実と真実は違う。
黄金の真実や白い魔法の力があれば、どれほど過酷な現実も耐えることができるのではないか。人間には、そういう強い力が備わっているのではないか。
気恥ずかしいくらいの人間賛歌だけれども、自分も人はそういうものだと信じている。
「うみねこ」は複雑な設定の面白い物語というだけではなく、その奥底に人間の強さへの信頼と賛歌という強いメッセージ性を秘めた作品だと思っている。
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この考察書はすごく面白い。かなり繰り返し読んだ。
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