赤坂アカ「ib インスタントバレット」全5巻を読んだ。最後は打ち切りになってしまったようだ。とても読み応えがある話だったのに残念だ。
「ib インスタントバレット」は、異なる能力を持つ子どもたちがそれぞれの思いを抱えて世界を破壊しようとしたり、敵対して救おうとする姿を描いている。彼らは全員、複雑な背景と癒されない孤独を抱えており、それが能力と深く関わっている。
個人的には絵は余り上手くないなあ、と思う。好みも分かれると思う。アクションシーンは何が起こっているのかよく分からないことがある。
ストーリー運び(ストーリーそのものはともかく)も手慣れておらず上手いと思わない。話の軸が定まっておらず、演出とストーリーがうまくかみ合っていないように見えることがある。
絵も物語もすごく不器用でゴツゴツとした作りだ。欠点はいくらでも指摘できる。
そういう漫画の構造自体が、欠点を抱え、試行錯誤しながら必死に生きる登場人物たちの姿を重なる。
(引用元:「ib インスタントバレット」赤坂アカ/KADOKAWA」)
感想
「愛して欲しい」という叫びを「悪意」と呼ぶ。
インスタントバレットは、人の悪意から生まれる破壊願望から生まれた能力だ。主人公のクロは、この「悪意」で世界を破壊しようとする。
「怒り」が「認めて欲しい」「助けて欲しい」「愛して欲しい」という深層意識の発露だ、というのは割と有名な話だが、「インスタントバレット」の登場人物たちは、ほぼ全編にわたってこの「怒り」を叫んでいる。そしてその「愛して欲しい」という叫びを彼らは「悪意」と呼び、自分たちは優しさを持たない普通ではない、だから疎まれて当然の存在なのだと言う。
彼らは複雑な背景を抱えており、人から愛される(認められる)とはどういうことなのかを誰からも学ぶことができなかった。
愛されたことがないから、愛しかたが分からない。そんな自分だから人から愛されなくても仕方がない。そんな自分だから周囲から疎まれる。それは自分が悪いのだから仕方がない。でも自分に愛しかたを教えてくれなかった世界が憎い。でもそれは自分の身勝手なことは十分わかっている。身勝手で自分のことしか考えられず世界を憎む自分は悪者だ。個人的な憎しみから悪意をたぎらせている自分は、疎まれて当然の存在だ。そんな自分を好きになれない。こんな自分を作り出した世界が憎い。
ハードルが高すぎる「優しさ」
彼らが定義する「優しさ」は、自分がどんなに辛い境遇にあっても他人を思いやらなければならず、それまで思いやっていたとしても、一回でも相手を傷つけしまえばそれは消えない罪になる。
彼らがこれほど完璧で、普通の人間にはとても不可能だと思うことを「優しさ」と定義するのは、彼らが人よりも傷つきやすいからだ。
傷つきやすいから、人を傷つけることを極度に恐れる。優しいから、他人の幸福よりも自分の心情を優先してしまうことが許せない。
人間では不可能な「優しさ」の定義を掲げて、それができない自分は「優しくない」「間違っている」といい、全てを自分のせいにし、抱えきれない罪悪感に苦しむ。
例えば木陰がマリア・ドラッグを提供した不良たちは、毒があることを知らされてもなお「優しい人間でありたい」と願い、マリア・ドラッグを飲み続けることを選ぶ。そして木陰がマリア・ドラッグを作らないことに決めたとき、「優しくない自分」に戻らないために死ぬことを選ぶ。
これは彼らの自由意思の選択なのだから、木陰が責任を感じる必要はない。少なくとも彼らの死は彼女の責任ではない。
それなのに木陰は彼らの死に責任を感じ、すさまじい罪悪感を抱き、自分を「人を傷つけることしかできない人間」「死ぬまで汚い心を抱えた棘にまみれた人間」だと言う。
死ぬにしても何で木陰の目の前で、しかも彼女が握ったナイフで死ぬんだ。そんなの相手が罪悪感とトラウマを抱くに決まっているのに。
と自分は不良たちに腹が立つ。
彼らが死んだのは本人たちの自由だし、むしろ心の底から彼女に感謝して死んだのだ。彼らのためにも良かった、と思ってよいと思うのだが、木陰はその死の決断に対して責任を感じ、自分を「汚い心の持ち主」と責める。
他人には「どんなにクズでも馬鹿でも生きていて欲しい」と願う木陰。これが自分に対しては「生きている資格がない」のように途端に厳しくなる。
彼らは自分に優しくしたり、自分を愛することが異常に下手くそだ。
「ただ一人だけでも愛してくれる人がいればよかった」
「だけどその一人がどうやっても見つからない」
「自分を好きになりたかった」
自分を好きだと言ってくれる人がいれば、自分のことを好きになれるのに。
ただ、こういう人はいくら「好きだ」と言っても受け取らない。余りに傷つきやすくて弱くて、相手の「好き」を信じることができない。正確には、どれほど他人が認めてくれても、自分の価値を受け取ることができない。
そういう姿が見ていてもどかしい。
「悪」に生まれてしまったら、どうすればいいのか。
自分が作中で最も感情移入したのが瀬良だったので、打ち切られてしまったのが非常に残念だった。
純粋な1個の悪意が、他人に甚大な被害を及ぼすということは実は余りないと思う。
アイヒマンの例を引くまでもなく、「悪」とは能動的なものではなく、平凡な人間たちの、他人に対する少しの想像力の欠如が積み重なったときに、恐るべき巨大な「悪」になると思っている。
「悪の行動」の原因になるのは「悪」よりも、「正しさ」のほうが多いのではないか。人間が尤も他人に対して残酷になるのは、何等かの免罪符を用いて自分の正しさを確信したときだと思う。
人間はそんなに強い生き物ではないので、他人に害を為す場合は何等かの言い訳「社会のため」だの「上からの命令」だの「みんなやっている」だの「自分の不幸な境遇」だのが必要だ。そしてその中で最も強力な言い訳が「正しさ」だと思う。
どんな正しさであれ、それが行動の重大性の免罪符にならないように、行動が正しいものならば、その動機が仮に悪であっても、もしくはその正しさを実行した人物の心の中がどれほど悪意に満ち溢れていても、問題はない。
ただ心の中で思うだけならば、どれだけ残虐なことを考えていても、どれほど卑猥な妄想にふけっていても自由だ。それが外部に漏れ出ず、誰にも影響を与えないのならば、心の中は自由なはずだ。
瀬良のように人として当たり前の倫理が理解できない、人の感情が理解できない、むしろ他人の苦痛に喜びを感じてしまうという人間に生まれたことは、相当孤独だと思う。
彼女が考えていることが分かれば、人は「正しさ」の名の下に彼女を疎外し、袋叩きにするだろう。このとき、自分がやっている「他人を疎外する」「他人を多数で袋叩きにする」という行為の悪質さは、「相手が悪である」という言い訳の下、簡単に免罪される。そして自分が「悪」であることを知っている瀬良も、それを当然だと思う。
何故なら、自分は悪だから。人の心が理解できないから。人を傷つけて喜びを感じるような人間は、袋叩きにされて当然だから。
自分はこういう、人を殴るという行為すら言い訳を見つけて正当化する、もしくは黙認してしまうことの積み重ねからこそ、本当の「悪」は生まれると思う。
瀬良は自分という存在が「悪そのもの」であることを自覚しながら、それでも必死に正しくあろうとする。父親が昔教えてくれた「正義の味方」であろうとする。
それは「人のことを思いやることが正しいことだ」と考える前に、心の底から当たり前だと感じられる人間には考えられないような大変さだと思う。
(引用元:「ib インスタントバレット」赤坂アカ/KADOKAWA」)
そして「悪でも正しくありたい」と願う瀬良のために、クロは「僕はお前より間違っている」存在になる。
みんなが叩かれる側に回らず、叩く側に回るために必死で「正しさ」を掲げるような現代では驚異的なことだと思う。
自分の本能を押さえつけ、自分には理解できない概念である「正しさ」を必死で追求する瀬良は、それだけで十分「正しい」。
そして瀬良のために、他人から否定され叩かれる「間違った悪」になるクロは十分に優しい。
人は誰しも間違うし、ろくでもないことで他人を傷つけてしまうこともある。相手にそんなつもりがなくとも、勝手に傷ついてしまうこともある。醜く卑怯でとんでもないことを考えてしまうこともある。いつも正しくはいられないし、自己中で身勝手で、地球の裏側で人がたくさん死んでいることが頭ではわかっていても、涼しい部屋でアイスを食べて幸福を感じてしまうのが人間だ。
そういうことに罪悪感を持つだけでも、人を愛することができているし十分優しい。
バカ高いハードルを設けて「自分は間違っている。優しくない。悪意の塊だ。疎まれて当然だ」と言い出す人がいたら、何百回でも「違うよ」と言ってやりたい。