知人である、目の不自由なAさんを含む何人かで飲みに行ったことがある。
その中に、Aさんの学生時代の友人のBさんがいた。
Bさんは、学生時代の仲間数名で登山に行った話を始めた。初心者が日帰りで行ける山だが、Aさんが普段着や普通の靴で来たので、登るのが大変だったという話だ。
その時にBさんがAさんに言った言葉が、非常に印象的だった。
「Aは、山をなめすぎなんだよ。山をなめるなよ」
自分は反射的に「Aさんは目が不自由なのに」と思った。「Aさんは目が不自由だから、障碍のない人間のように登山をするのは無理だろ」と思ったのだ。
Bさんが言ったのは、そういうことではない。「山に登るなら、それなりの準備をするのは当然だし、そうしなければ自分も周りも大変だろ」と言っているのだ。
Aさんは目が不自由なだけで、判断力も思考力も持っている大人だ。
「考えて準備する能力がある大人なのに、それを怠って周りに迷惑をかけた。本人も大変な思いをした」ことを咎められるのは当たり前だ。
自分も友人であれば、「あの時は大変だった」くらいは言うと思う。
二人のあいだではおなじみの思い出ネタらしく、Aさんは「いやあ、あの時は本当に世話になった。すまなかった」という様子で笑っていた。
自分は自分のことを、差別などしない人間だと思っていた。
でも自分はこの時、Aさんに対して「目が不自由だから、登山の準備をしないで登山をしても仕方がない」と思った。
「目が不自由なこと」と「登山の準備ができないこと」は、何の因果関係もない。実際にAさんは、身の回りの大抵のことはできる。それなのに障碍とは何の因果もなく、障碍のない友人であれば指摘することでも「Aさんは目が不自由なのだから、そういうことを言ってはいけない」と思ったのだ。
その後、Aさんと親しく話をする機会もできた。
当たり前なのだが目が不自由なこと以外は、Aさんは他の人と変わらない。酒も飲むし、冗談も言うし、ちょっとした愚痴も言う。色々なことをよく知っており、気遣いもできユーモアもあるので話をしていて楽しい。少し抜けているところがあるのか、友人Bさんからはたまに駄目出しを喰らっている。
そのことを思い出したのは、このまとめを読んだからだ。
この世の中には色々な人がいる。いい人もいれば悪い人もいる。優しい人もいれば、人の弱みに付け込むような人もいる。
それは障碍の有無とは何の関係もない。障碍者であれば悪意を持たないいい人とは限らないし、逆もまた然りだ。
思いやりや善意や優しさは、とても尊い感情だ。
その感情をどのタイミングで、誰に対して、どれだけ示すかを決定するのは本人の意思によってのみだ。
どんな時も思いやらなければならないわけではない。
どんな時でも善意や優しさを示さなければならないわけではない。
自分にとって何が優先順位にあるかを選ぶことができるのは、本人だけである。
障碍者だから、優しくしなければならないわけではない。
障碍者だから、好意を持たなければならないわけではない。
誰をどれだけ思いやり、誰にどれだけ優しくし、誰をどれだけ好きになるかは、その人だけが選ぶことができるその人固有の権利だ。
「悪意」と「好意を持てない」は違う。この二つの間には、非常に長い距離がある。
「悪意を持つ」と「悪意を言動など表に出す」も違う。この二つの間にも果てしなく長い距離がある。
相手を属性のみで判断しその偏った判断に基づく言動を表すことが差別であり、してはならないことだ。
相手を固有の人格や言動で判断し、好意を持たないことは差別ではない。逆に「この人は『障害を持っているから』嫌ってはいけない。全てを受け入れなくてはいけない」という感情のほうが差別に近い。
冒頭でAさんに対して「この人は障碍を持っているから、他の人には言うようなことでも、キツイことは一切言ってはいけない」と思った自分のように。
人を思いやる優しさはとても素晴らしいものだと思う。でもそれは、自分自身の都合や気持ちをさしおいて、「そうしなければならないこと」では決してない。
好意や善意を差し出すことは義務ではない。
そして思いやりや優しさを受けとることも義務ではない。
「思いやりや優しさという善意からの行動だから」受け取らなくてはならないわけではない。
誰にどれくらいどのタイミングで好意や思いやりを示すのかは、そして示された好意や思いやりを受け入れるか否かは、本人が自由意思で決めることだ。決して義務ではないし、それができないからと言って誰もその人を責めることはできない。
もちろん、自分で自分を責める必要もない。
ということを「自分がこう思うのは、差別ではないか」と悩む人や「相手は善意で言ってくれているのに、受け入れられない自分は間違っているのではないか」と思う人は、考慮に入れてみて欲しいなと思う。