うさるの厨二病な読書日記

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【実際にあった高校生遭難事件を描く】「空と山のあいだ -岩木山遭難・大館鳳鳴高生の五日間-」

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高校生五人が地元の山で遭難。ドラマ化もされた。

昭和39年の正月に起こった、「津軽富士」として有名な青森県にある岩木山の遭難事件を描いている。

2001年にNHKがドラマ化している。このドラマをたまたま見たことがこの事件を知ったきっかけだ。

 

遭難事故はどんなものでも悲惨だし気の毒だけれど、この遭難がすごく印象に残っているのは、

①仲のいい高校生5人組だった。

②遭難した岩木山は、「近所の気軽に登れる山」という印象だった。

③あともう少し行けば人里だったのに、という場所で亡くなった子がいた。

そういう色々な要素が重なっていたからだ。

 

岩木山は「山」といっても低山で、周りには他の山もない単独峰だ。

理屈から言えば、どの道でも半日くらい下れば下山できるはずだ。実際にそれまで「遭難」とはまったく無縁の場所だった。

小学六年生のときに勢いで頂上まで行ってしまった、というエピソードも出てくるし、遭難した高校生たちも春や夏ならば何度も登山をしており、自分たちのホームグラウンドのような山だった。

何度も何度も登ったことがある山だが、冬は登ったことがないから行ってみようということになった。

集まったのは山岳部の二年生の石田、畠山、村井、乳井、三ッ倉、一年生の金沢の六人。

 

遭難までの経緯

一月四日の早朝に大館駅で待ち合わせをしていたが、ここで行き違いがあり時間をとられた。本来の予定から三時間ほど遅れて、正午ごろ岩木山神社から「百沢ルート」で登山を始めた。

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(引用元:「空と山のあいだ-岩木山遭難・大館鳳鳴高生の五日間-」田澤拓也 角川文庫)

 四日は姥石で一泊して、五日に焼止りヒュッテで一泊する。

六日に焼止りから頂上を目指すことになった。急きょ誘われて準備が不十分だった三ッ倉は焼止りに残ることになり、五人が頂上に向けて出発する。

午後二時くらいには焼止りに戻る、と言っていた五人が二時を過ぎても、それから何時間立っても戻ってこない。

そのころには、頂上付近も焼止り周辺も猛吹雪になっていた。

 

一月六日の午後、焼止りヒュッテに弘前高校の一行が到着する。

一月七日の朝、三ッ倉は弘前高校の学生に事情を話し、一緒に頂上に連れていってくれるよう頼む。しかし吹雪がひどいことと三ッ倉の体調が思わしくないため、頂上には行かず、警察に届け出ることになった。

 

最初の待ち合わせの行き違いがなければ、四日の正午には焼止りに到着して、五日に頂上を目指すというプランだった。五日は晴天だったので、この行き違いさえなければという気持ちになる。

 

神隠しにあったかのように見つからない。

地元の山岳会、弘前大学山岳部、捜査本部などが協力して捜索を開始する。

捜索隊は吹雪のなか、一月七日の夜に岩木山の頂上に到着した。頂上の石室に残されたノートから、一月六日の午前十一時ごろ、確かに大館鳳鳴高校の五人が頂上に到着したことを知る。

風向きなどから、もともと下山予定だった「百沢ルート」のどこかで遭難したのだろうと考えて、八日の朝から五百人体制の捜索が始まる。しかし、手がかりすらまったくつかめない。

一体、五人はどこに消えてしまったのか?

当時の雰囲気を知る著者は、「五人が神かくしにでもあってしまったかのようで怖かった」と語っている。

 

このとき捜査本部に対して「反対側の長平ルートも探してみるべきではないか」という意見が出たらしい。だが、風向きに逆らうようにして歩くことはありえないということから却下された。反対側の長平ルートは管轄が違う、という事情もあったようだ。

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(引用元:「空と山のあいだ-岩木山遭難・大館鳳鳴高生の五日間-」田澤拓也 角川文庫)

結局捜索の範囲を広げても百沢ルートでは手がかりすら見つからないため、山岳会が中心になって反対側の長平ルートを探し、十日午後に村井を発見する。

 

たった一人の生き残りが語った、遭難の経緯

この後、五人の中で唯一生存した村井の言葉から時系列を見ると、

一月六日の十一時ごろ石田、村井、畠山、乳井、金沢の五人は、頂上の石室に着く。吹雪がひどいので、頂上に戻ろうか、それとも下山しようかで意見が分かれたが下山することになる。

二日間、吹雪のなかを彷徨う。

七日夜の時点で、石田と金沢の消耗が激しく、物も言えず何も食べられないほど衰弱していた。

八日朝、乳井が「助けを呼びに行く」と言って、身ひとつで下山を始めた。石田と金沢が死亡する。村井と畠山は一緒に歩き出したが、畠山が動けなくなり「先に行ってくれ」と言うので、やむえず一人で乳井の足跡を追って歩き出す。

九日~十日午後は、ひたすら乳井の足跡を追う。十日午後に発見される。

 

乳井は捜査が打ち切られる十四日正午の二分前に、遺体で発見される。亡くなったのは九日と見られる。

 

よく知っている場所でも、自然は一変する。

生き残った村井が語ったとおり、「よく知っている山だったけれど、夏や春と冬はまったく違うということを知らなかった」ということが、遭難の最大の原因だと思う。

何十回と登ったことがある慣れ親しんだ場所でも、冬は様子が一変する。自然というのは、本当に怖い。

また高校生たちは吹雪の中での火のつけ方や雪洞の掘方など、冬山の基本的な知識がなかった。それらを知っていれば、もしかしたら結果は違っていたかもしれない。

 

それを落ち度と責めるのは、余りに酷な気がする。

岩木山は現在は八合目まで車で登れるように道が整備されていて、九合目までリフトで登れ、そこから四十分ほどで頂上に着くようだ。行ったことはないが、たぶん、軽装で気軽に山頂に登れるようになっているのだろう。

当時も恐らく「近所の慣れ親しんだ山で、気軽に登れて、スキーなどを楽しめる場所」という位置づけだったのだと思う。そんなところで命の危険にさらされるなんて、たぶん誰も思わない。

 

石田は下級生である金沢を抱きかかえるように亡くなっていた、乳井が倒れていた場所は人里から直線距離でわずか三キロほどしか離れていなかったなどと聞くと、誰でも日常でありそうな些細な気のゆるみやちょっとした冒険心で命を落としてしまった高校生たちが気の毒で仕方がない。

 

日常ではそれほど感じないけれど、人間は驚くほど些細なことで命を落とすことがありうるし、日常生活では何ていうことない、ほんの少しのミスや慢心が命を危険にさらすことがありうるのだ、ということがかなりショックだった。

それがこの事件が心に残った一番の理由だと思う。

これくらいの山で遭難して、などとは思いません。私はあの岩木山という山が大好きで、一時は毎朝起きたら岩木山が見えるところに家を建てて暮らしたいと思ったこともあるほどなんですよ。息子を奪られた山だとか、迷って死んだ山だなどとは、ちっとも思いません。やっぱり津軽の人たちが毎日『今日はいい天気だな』などと言って見上げている山なんだもの。本当にいい山ですよね。

(引用元:「空と山のあいだ-岩木山遭難・大館鳳鳴高生の五日間-」田澤拓也 角川文庫)

 

事故後に、乳井の母親が語った言葉だ。

遭難事故の話はたいていそうだけれども、「山を恨む」という人は余りおらず、家族が亡くなったとしても家族と同じように山を愛する発言をする人が多い。

岩木山も地元の人にとって特別で、大切にしている場所なんだろうなと思った。

 

このお盆休み、白神山地に行く予定で、それでこの事件のことを思い出した。

岩木山も本当は行きたかったのだけれど、時間がなさそうなので今回は見送った。五能線をぐるっと回る予定なので、天気が良ければ見えるかなと期待している。

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空と山のあいだ―岩木山遭難・大館鳳鳴高生の五日間

空と山のあいだ―岩木山遭難・大館鳳鳴高生の五日間

 

 

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