うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

自己肯定感とは何なのか。漫画のキャラクターを使って解説してみる。

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自己肯定感については、前に一度書いたことがある。

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自己肯定感の話題を見ると、「自分が考えているものと少し違うな」と思うことが多い。

なので自己肯定感については、もう一度まとめて書きたいと思っていた。

あくまで自分の考えだ。

 

自己肯定感と自信は違う。

たまに混同している意見を見る。

これがごっちゃになると「自分の意見ばかりを主張して、他人の話を聞かない人間ってダメじゃないか?」のような意見が出てくる。

 

自己肯定感と自信は違う。

正確には、自己肯定感と「自分の意見や行動の正しさに対する自信」は違う。

自己肯定感は「自分という存在が存在してもいいという自信」もっと言うと、「自分も含めた他者や世界は存在してもいいという自信」と言ってもいい。

 

上記の記事ではこの辺りを切り分けていないのだが、自己肯定感=自信という定義で使う場合は、「言動の正しさに対する自信」ではなく「存在することに対する自信」と考えていい。

 

自己肯定感の強い人は、他者の存在も肯定できる。

自己肯定感の強い人間は、自分の意見ばかりを主張したりしない。他人の意見を聞かず、自分の意見を押し付けたりもしない。

自分の意見も言うし、他人の意見にも耳を傾ける。

なぜかと言うと、強く主張しなくてもすでに「肯定されている」という感覚があるからだ。自分の主張が認められるかどうかに固執する必要がない。

他人の意見は、「自分を否定するもの」ではなく、「自分とは違う存在である他人だから、違って当たり前のもの」なので耳を傾けることができる。

 

自分で自分を肯定しているので、そもそも他人から肯定してもらう必要がない。

「自分の存在を否定したことがない」ので、「存在を否定する」という発想そのものがない。だから他人の否定意見は、「自分の存在に対する否定」ではなく「自分の意見や行動に対する否定」と考えることができる。

「存在に対する否定」は存在が危機に瀕するので強い反発の感情が起こるが、「意見や行動に対する否定」は、他人と自分の価値観の相違から起こるものだと分かる、もしくは合意に向けての一段階にすぎないと分かっているので、存在を攻撃されているとは思わない。

 

自己肯定感は「外出しても撃たれることはない」と信じる感覚に似ている。

自分が考える自己肯定感は、安全な国で生まれ育った人間が「外に出たら銃撃されるかもしれない」と考えずに外出できる感覚に似ている。

自分たちが外に出るたびに「このルートは安全か」「武器は持たなくていいか」「あの角を曲がったら撃たれるんじゃないか」「この道に地雷は埋まっていないか」といちいち考えないで外出するように、自己肯定感を持っている人は「自分に自己肯定感があるかどうか」などと考えない。

自己肯定感の低い人が「こんなことを言って大丈夫か」「こんなことをしていいのか」「自分は間違っているんじゃないか」と考える感覚が、そもそも理解できない。

自分たちが紛争地帯で生まれ育った人から「なぜ、何も考えないで道を歩けるんだ?」と聞かれるのと同じ感覚だ。

そもそも「外に出たら銃撃されるなんてありえない。だから外出しても大丈夫」ということすら、外出するときに考えないと思う。

持っている人にとっては「持っている」という感覚さえないから、その得かたや成り立ちを人に聞くことはできない。だから「自己肯定感を得る」のは、非常に難しい。

 

自己肯定感は感覚だから、得るのは難しい

「外に出ても銃撃されるなんてありえない、という感覚を、あなたはどうやって得たのか。その感覚を得る方法を教えて欲しい」と言われていると考えれば、その難しさが分かる。

「日本はどことも戦争していないし、銃の所持も規制されているから」という知識を頭でわかっていても、隣人同士が殺し合ったり、道を歩いたらいきなり銃の乱射に巻き込まれるような場所からやってきた人が、知識を得た瞬間から「外を歩いても大丈夫」という感覚を得ることはできない。 

感覚は経験則からくるものなので、「外に出ても撃たれることはない」という感覚を得られるまで、何千回も外出をしても大丈夫だ、という安心(感覚)を繰り返すしかない。

 

さらに難しいのは、感覚というのは、一番始めに感じたものがその人の中で基準となる点だ。

自己肯定感「自分以外の世界から、無条件で受け入れられている」という感覚は、幼少期の世界との関わりが大きく左右する。

幼少期に自己肯定感が得られないと、その「存在を無条件で肯定されていない感覚」がその人の中で標準になってしまう。

そしてそれが感覚の標準になってしまうと、その標準に合わない感覚「自分という存在への無条件の肯定」に違和感や不快感、居心地の悪さを感じるようになる。

さらに「存在を肯定されていない感覚」が標準装備されてしまうと、他人のことを「条件抜きで肯定すること」が難しくなる。

 

これが「条件つきの肯定」になってしまうと、その条件をクリアしているのかどうか、たえず相手の判断を伺わなければならなくなる。存在意義において、相手に依存するようになる。

自己肯定感のない人というのは、この依存にハマりやすい。

一歩間違えると、相手からの肯定が欲しくて相手の言うがまま、どこまでも受け入れてしまったり、条件をクリアするために限界以上に頑張ってしまったり、相手から無理やり肯定を引き出そうとして付きまとってしまったり、他人に対しても条件をクリアすることを押し付けてしまったり、自分の価値を高めるために、相手の価値を下げようとしたりしてしまう。

DVやモラハラも形を変えた依存だと思うが、そういう罠にもハマりやすい。

 

自己肯定感のない人というのは、「条件をクリアしなければ、自分という存在には価値がない」と考えている。

だからその条件をクリアしているときには、自信があるように見える。

ただそれは「条件をクリアしている状態の自分に対する自信」であり、「無条件の存在に対する自信」ではない。

「条件をクリアしなければ認められない。愛されない」という感覚をどこかで刷り込まれてしまったのだ。

自分の存在価値が「条件をクリアするかどうかにかかっている」というのは、非常に苦しい。

 

ジャンプの主人公は、自己肯定感が高いキャラが多い。

自己肯定感というのは感覚なので、言葉で説明すると難しいが、他人を見ていると「この人は自己肯定感がありそうだ」「この人は低そうだ」と何となく分かる。

ジャンプの主人公は、パッと思いつくだけでも自己肯定感が高そうなキャラが多い。

「ワンピース」のルフィが代表格だが、「ドラゴンボール」の悟空も、「HUNTER×HUNTER」のゴンも、「ダイの大冒険」のダイも、作中の言動を見ても自己肯定感が高い。

 

逆に自己肯定感が低そうなのは誰か。

一番わかりやすいと思うのは、「ダイの大冒険」のヒュンケルだ。

ヒュンケルは自信と自己肯定感がどう違うのか、ということを見るうえでも非常に分かりやすい。ヒムから「自信満々の面をしている」と言われているが、それはヒュンケルが「仲間のために戦う」という、自分を肯定できる条件をクリアしているからだ。

だからヒュンケルはボロボロになろうが、戦えなくなろうが、とにかく「戦ったほうが楽だ」という。

「戦えない(条件をクリアできない)」自分には、存在価値はないと考えている。

 

 自己肯定感というのはあったほうが生きやすいのは確かなので、得られるものなら得たほうがいいが、感覚の反復によって得るしかない。

それ以外にも得られる方法が何かないか、考えてみたい。

 

自己肯定感を得る方法① 頭で自分の状態や感情を理解する。

「感覚を得る」ためには、頭が納得することも前提として大事なので、まずは自分が感じる「自己を肯定できない」感覚はどこからくるのか、どんな時に感じやすいのか、どんな相手だとわきやすいのか、頭で納得するまで考えてみるといいかもしれない。

 

恐らくこの辺りは、人それぞれ違う。

原因が幼少期の親との関わり方の場合もあるし、ヒュンケルのように何かの罪悪感、挫折感が原因の場合もある。

「自己肯定感」という字面だけを追わずに、「自分が感じている自分固有の感覚は何なのか。何からくるのか」ということを、納得がいくまで細かく切り分けることが大事だと思う。

納得がいかないのに、こういう行動をとって、そのときの感覚を再現しろというのはなかなか難しい。

 

自己肯定感を得る方法② 他人に存在を肯定する言葉を言ってみる。

自分に自分を肯定する言葉をかけるのは、もやっとするし嫌な感じがする、という人は他人、もしくは自分を赤の他人だと想定してやってみるといい。

自分の好きな人が(二次元キャラでも何でもいい)「自分なんてゴミで、何の価値もないんです」と言っていたら、どう声をかけるか。それを書き出して、今度は第三者として自分に言ってみるのもいいと思う。

 

「ゴミかもしれないけれど、私はあなたのことが好きだよ」

 

「ゴミじゃない」というと「(その人の定義する)ゴミではない」という条件をクリアしなければならなくなるので、「まあゴミでもいいんじゃない?」くらいの姿勢がいいと思う。

言動がゴミの場合は、言動だけを否定すればいい。

 

これについていいお手本だな、と思ったのが「進撃の巨人」16巻のヒストリアの言動だ。

父親のグリシャがレイス家の子どもたちを皆殺しにし「始祖の巨人」を盗み、自分に託したために、「たくさんの人が死んだ」とエレンが自分を責める。

「オレはいらなかったんだ。(無価値どころか有害な存在だ。)」

「だからオレを殺して、人類を救ってくれ」

エレンは元々は自己肯定感が高いが、ここで自分の存在価値を見失い、いっきに自己否定に走る。

こういう価値観が転倒する出来事でも、自己肯定感は損なわれやすい。

 

エレンの言葉を聞いて、父親に捨てられ母親にも愛されず自己肯定感が非常に低いヒストリアはこう叫ぶ。

「もうこれ以上、私を殺してたまるものか」

「巨人を駆逐するって? 誰がそんな面倒なことやるもんか。 むしろ人類なんて大嫌いだ。巨人に滅ぼされたらいいんだ!」

 「つまり私は人類の敵!! 超最低最悪の悪い子!」

「いい子にもなれないし、神さまにもなりたくない。でも、自分なんていらないなんて言って泣いている人がいたら」

「そんなことないよって伝えに行きたい」

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(引用元:「進撃の巨人」16巻 諌山創 講談社)

「エレンを殺して始祖の巨人を取り返せ」という人類の言動を否定し、「人類の敵だ」というエレンの存在を肯定する。

 

例え人類の敵だとしても、超最低最悪の悪い子だとしても「存在」は否定しない。

「いい子」でいることで他人に認めてもらおう肯定されようとしていたヒストリアは、自分にはこういう言葉を言うことができなかった。

でもエレンが「自分はいらない人間なんだ」と言ったときに、初めて「それがどんな人であれ、存在そのものを否定することは誰にもできない」という言葉を口にする。

 自分には受け入れがたい感覚も、他人に投影すると言うことができる。

 「存在を肯定する」言動と「肯定を受け入れる」感覚の両方をいっぺんにやるのはしんどい、という場合はヒストリアのように前者からやってみてもいいかもしれない。

 

自己肯定感を得る方法③ 「条件つきの肯定」の条件を意識的に引き下げてみる。

便宜的な方法だけれど「条件付きではないと肯定されない」の「条件」を意識的に引き下げてみるのもいい。

 

何せよ「これは自己肯定感が低いせいだ。高める方法を実践しなければ」「すぐに自己肯定感を得なければ」と四角四面にならなくていいと思う。

言葉は、他人同士が物事を共有したり意思の疎通をしたりするのには便利だけれど、自分の感覚や感情を理解するのには割と不便だったり、袋小路にハマりやすいものだと思う。自分の感覚の定義を外側に求めるよりも、自分で自分自身を理解しようとする姿勢が、一番自分を肯定する近道じゃないかなと思う。

理解していなければ、肯定もできないと思うので。

 

うまくできないときもあるし、へこたれるときもある。どうでもよくなって、投げ出してしまうかもしれない。

そんなダメな自分でいいじゃん、気が向いたらやればいい、くらいの気持ちになることが自分を肯定する最初の一歩かもしれない。

 

自己肯定感を得る方法④ 自己肯定感の低い状態を客観視する。

「ib-インスタントバレット-」は、自己肯定感の低い登場人物のそれぞれの苦しみが描かれた物語だ。この漫画の登場人物はほぼ全員が、驚くほど自己肯定感が低い。

そういうのを見て「他人には優しいのに、何で自分にはそんなに厳しいんだ」「何で自分には優しくできないのかな、この人たち」など考えているうちに、そういう心の仕組みに思い至ったりする。

まあ別に思い至らなくてもいいんだけど。

 

「私はよくやっている」

自己肯定感はあったほうが生きやすいのは確かだと思う。

ただ無くても、人生に行き詰ったり、生きにくかったりしていないのであれば、何が何でも得なければいけないものでもない。

結局はあるものでやっていくしかない。

そういう中で特に大きな滞りもなく生きてきたのであれば、「これがない」と考えるよりも、そういう自分を「よくやってきたし、よくやっている」と認めてあげるのが一番かもしれない。

 

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