この記事からの派生話題です。引き続き主語デカい系の話です。
この話の中で「無力感や無能感に対する耐性の低さ」「無力であることは悪である」という考えは男性特有のものであり、「運命に対して受け身で無力になったときの耐性」のようなものが、よく言われる「男性にはない女性の強さ」につながっているのではないか、ということを書いた。
あえて言うと
「運命(敵)に立ち向かう」ときに強さを発揮するのが男性で、「運命(敵)に耐える」ときに強さを発揮するのが女性なのではないかと。
「親なるもの断崖」は、自分ではどうすることもできない、立ち向かうことも難しい運命に男女問わず、主要登場人物ほぼ全員が翻弄される物語だ。
主な男性キャラである大河内、直吉、聡一は、梅の運命や世の中を何とか変えようと頑張るけれど、それが果たせずに無力なまま表舞台から消えていく。
武子が死に損なった梅に言う「自分の生きざまで世に問え。おなごの深さ、強さを見せつけてやれ」は、男が死に損なうと難しいんだなと感じた。
「親なるもの断崖」は、女性である梅だからこそ過酷な運命に対して無力であっても「決して母を不幸と思うな」と言われるような人生を送ったわけで、聡一が梅の前から姿を消した点を見ても、無力感というのは男にとっては致命的と思える。
梅が道生の前から姿を消した理由と、聡一が梅の前から姿を消した理由の違いにそれがよく表れている気がする。
「女の人一人幸せにできなかった男のくやしさは、道生の悲しみの百倍はあるぞ」
「家族を残して死んでしまった親父の気持ち、おれ、同じ男だから分かるんだ」
女性向けだと、こういうことも言葉にしないと「道生と梅、かわいそう」「茂世、何やってんだよ」で終わりそうだからかな。
そういう意味では男性視点もきちんとフォローしている点は好感が持てる。「こういうことはあえて説明されるほうが辛い」ような気もするけれど。
道生は茂世に「お父さんだって、お母さんを幸せにできなかったくせに」って八つ当たりできるけれど、茂世は誰にも言えないし。
(引用元:「親なるもの断崖」曽根富美子 小学館)
こういう「運命に立ち向かったけれど、どうすることもできなくて、その悔しさも自分のせいにして、一人で耐えなければいけない」という無力感と罪悪感の強烈なコンボを味合わせる、というのは男にとっては割と酷なシチュエーションだと思う。
登場人物に運命を変える力があると、「運命に対して受け身で無力になる」という状況にならないので仕方がないのかもしれないけれど、過酷な運命下の女性の強さを描くということは、同時にそういう状況下の男性の無力さを描くことになるんだなと。
「運命に破れた無力な存在になるか」「ゲヒゲヒ言うだけのモブになるか」の二者択一を迫るこの漫画は、男性にとってこそ、残酷な物語なのかもしれない。
と思ったけど、少し考え直した。