うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

ネットが「未知の世界」ではなく「世間」になることについていけない自分は、これからの時代の負け組なのかもしれない。

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この二つの記事を読んで、自分が最近のネットについてモヤモヤしていたことがパッとつながった気がした。

 

以前書いたけれど、自分にとってネットは「リアルの自分を表現する場ではなく、リアルでは邪魔にしかならない自分の仮想人格が生きる場」だ。だからネットにはリアルの情報はほぼ出さないし、なるべく紐づけもしたくない。

少し前まではネットで顔出しや実名、自分の情報を出すのは危険なことだ、と多くの人が思っていたと思う。

ネットで自分の情報を出すことは、リスクにしかならなかった。

 

ネットは知らないもの、恐ろしいもの、すごいものがある場所で、自分の身は自分で守らなければならない危険な世界だが、一方で未知の可能性もある魅力的な世界だ、そう思っていた。

でもブログを始めて少したったころから、少し前まで当たり前だったこの感覚が変わってきたことに気づいた。

ひと言で言えば、「ネットの世界は狭い」と思うようになった。

もちろん本当は広いから、あくまで感覚の話だけれど。

感覚的には現実と一緒だ。

「世界は広いが、日常生活を送る世間は狭い」

 

自分とはまるでネットに対しての感覚が違う人たちがいることに、少し前から気づき始めた。

リアルと同じような「世間的な礼儀作法や建前」を、ネットの世界でも求める人たちだ。

 

ネットの世界はリアルのそういう垣根がなく、見たものに対していきなり意見を言えたり、年齢差や性差、そのほかリアルでの立場や環境に縛られず意見を言えること、リアルでは決して出さないようなドス黒い感情やキツイかもしれないけれど本音が読めることが特性だと思っていた。

世間並の礼儀どころか、自分の常識では計り知れないような、自分には理解しがたいような多様な人物に出くわす未知の世界、それがネットなのだと思っていた。

 

でも違うんだ。

実名や顔出し、もしくは自分の情報をある程度出して人とつながることを目的とするようになったネットは、今や「世間」になった。

「リアルで言えないことは、ネットで言うな」そういう世の中になったのだ、と気づいた。

「FF外から失礼します、って何なんだ」と思っていたけれど、「情報を交換するための場」ではなく「交流するためのツール」になったネットでは誰もが共通した常識を持っていることが前提で、世間並の礼儀を守るほうが主流になったのだろう。

 

 少し前、テレビ番組でSNSのフォロワー数や「いいね」の数が就職活動に有利に働く、という話を聞いて驚いた。

だから「いいね」を売る業者がいる、という話には失笑した。スタジオのコメンテーターたちも似た反応を示していた。

でもこれも違うのだと思う。

「価値のある情報だからシェアされる」のではなく、「シェアされた情報だから価値が生まれる」時代になりつつあるのだと思う。

 

業者から買った「いいね」であろうと、そこに数値が積み上げられればそのこと自体に価値が生まれる。

自分もこう書けば、それはおかしいのではないか、と思う。

でも実際、情報を探すときに最初に見ようと思うのはシェア数の多い記事だったり、ものだったりする。

情報の量が余りに多いので、全ての情報の価値を自分の目で判断することはできない。

ある程度、数値で判断するしかない、となると結局は自分も数値で情報の価値を判断している。

 

もしくは「何を言ったかではなく、誰が(発信媒体など)言ったか」で有用性や信用性を判断するしかなくなる。

そうすると「この人の言ったことだから価値があると思いシェアする」という発想は、それほどおかしなことではない。この発想から似た価値観を持つ者同士が寄り集まって「世間」という共同体が生まれる。

似た価値観を持っているから、外から見ていくら有用性がないと言っても、その共同体の中では、とても重要な情報だからシェアされ続ける。

 

ある自治体の「5月3日に地域の伝統祭りがあります」という情報は、それだけだとそこに住んでいない人間には有用性がない。でもその情報がシェアされ続けて、ネット上に広がり、興味を持ち、そこに行きたい見てみたいという人が増えれば、来年は何月何日に開かれるのかという情報は、多くの人にとって有用な情報になる。

 

自分もネットは、交流や意見交換も楽しいけれど、メインは情報発信や自分にとって有用な情報検索の場だと思っている。

でもそういう発想はもう古くて、似た価値観の人同士でつながってそこに価値を生み出す、という発想でネットを使っている人が主流になりつつある。将来的には完全にそうなるんじゃないだろうか。

 

「返報性の法則」にも、「ネットが世間になった」ことが色濃く表れているように思う。

自分はこういう交流を楽しめる人と、苦痛な人がいると思っていて、こういうことが苦もなくできることは才能なのだと思っている。

続けるうちに義務のように思えてきて苦痛を感じる人は、「似た価値観を持つ共同体の中で、その価値観を共有しシェアする」ということにたぶん向いていないんじゃないかな、と思う。

 

掛け値なしの本音を言えば、これからの時代の価値観を牽引するのは、この才能が優れている人だと思っている。

自分もそれが手放しで「いいことだ」とは思っていないけれど、いいか悪いかは別にして、そういう時代になりつつあると思っている。

 

自分は独自の価値観が非常に強い人間なので、人と価値観を共有したりシェアするということには、絶望的に向いていない。それだと社会でやっていけないので、その部分は切離してネットに押し込めた。

自分の知っているネットは、そういう人間の吹きだまりだったけれど、ネットも価値観を共有することが重視される「世間」になったということは、いよいよ生息地がなくなってきた。

そんな自分は、これからの時代の真の意味での負け組だと思う。

 

楽観的すぎるかもしれないけれど、こんな情報が雑多で「価値は作られるものなのかもしれない時代」にあっても、価値のあるものは必ず表舞台に押し出されると思っている。

価値観を人と共有しづらい自分は、例えそれが不完全でも、自分の価値観で情報や物事の価値を図るしかない。宝物探しのようにそういうものを探して「これはいいよ」「これにはこう思う」と言い続けていくしかないかな。ないかなというか、それしかできないし。

「世間」では何の価値もない、負け組の遠吠えかもしれないけれど。 

 

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