読もう読もうと思っていた「真説ザ・ワールド・イズ・マイン」を読んだ。
昔、最初のほうを少しだけ読んだことがある。その時は「人を殺しまくる過激さを描いているのかな」と思って面白いと感じず、読むのを止めてしまった。絵も好みじゃないし。
「ザ・ワールド・イズ・マイン」が難しいなと思うのは、登場人物がほとんど自分の考えを断片的にしか語らないからだ。
というよりは登場人物たちも、社会が破壊され機能しなくなった極限の状況で、初めてこういう問いを向き合っている。
明確に答えを語れないし、人によってはその答えが二転三転したり、状況によってまったく違うことを言い出したりする。
突きつけられた問いに対する追い詰められた人間のギリギリの葛藤と叫びが、すごくリアルだ。
モンちゃんを初めとしてヒグマドンやイヨマンテの下りなど、それを実体としてとらえていいのかメタファーとして見たほうがいいのか迷う存在も多い。
「真説」は作者のインタビューが載っているので多少、どういう物語なのかということを考える手がかりが増えている。
この物語をどう解釈するのか、自分なりの考えを述べたい。
「命の価値を決めるのは誰なのか」
「人間同士の契約を破棄した状態」を作るために社会を破壊する。
「命に価値があるのかないのか」については、作中では主に三つの立場が出てくる。
①命は平等に無価値である。(モンちゃん、飯島)
②命は時価であり、状況や相手との関係性でその価値は変動する。(由利、トシ、その他大勢)
③命には平等に価値がある。(マリア、塩見、須賀原)
恐らく多くの人が社会が正常に機能している現代で「命に価値があるのか?」と問われれば「③だ」と答える。
しかし本来は違う。赤の他人の死と身内の死、自分の死を同じように考えることはできない。
由利が看破した通り
「他人が死んでも、私は今日を眠りメシを食い、明日は笑うだろう」
それでいながら自分の死には怯え、肉親の死は嘆き悲しみ、理不尽さを呪う。それが普通の人だと思う。
しかし多くの人は本音は②でありながら、「③である」という建前を崩さない。
「命には平等に価値がある」という建前が崩れれば「社会」が守れないからだ。「人間同士の契約」である「社会」を守り生きるために、「命には平等に価値がある」という建前を言い続ける。
ではその「社会」が破壊され意味をなさなくなったとき、人は「命は平等に価値があるのか?」という問いに何と答えるのか?
「ザ・ワールド・イズ・マイン」では、この問いに「社会の一員」ではなく、個人として向き合わせるために、これほど徹底的に社会を破壊している。
モンちゃんが言う「俺は俺を肯定する」という言葉を、飯島は「神と人間の契約を破棄する言葉だ」と言った。「社会を破壊する」ことは「人間同士の契約を無効にする」ことだ。
「人が人を殺してはいけない理由は何なのか?」
青森西署を襲撃した際、トシが総理に答えを要求した問題は非常に重要である。
「宗教や法律以外で、人が人を殺してはいけない理由は何なのか?」
(引用元:「真説ザ・ワールド・イズ・マイン」1巻 新井英樹/エンターブレイン)
「法律=社会=人間の契約」「宗教=神との契約」が破壊され意味がなくなったとき、命は平等に無価値になるのではないか。
「俺は俺を肯定する」「世界は俺のもの」という言葉は、人間同士の契約と神との契約を無効にする言葉だ。だからモンちゃんは「命は平等に無価値である」と断じ、凶行を重ねる。
作品の中でこの「人間同士の契約が無効になった状態」を、読者は何度も味合わされる。
それはヒグマドンにいきなり襲われて、先ほどまでその命の大切さを説いていた教師が、猫を「餌」と言ってその眼前に突き出すことだったり、関谷潤子に対する「マリアを殺せば、お前とお前の息子の命は助けてやる」というトシの言葉だったりする。
トシの父親に同情すれば、トシに惨殺された紀子の母親から「あの中継を見て(父親に)同情した奴らは、紀子をもう一回殺している」という言葉を浴びせられる。
どれほど綺麗ごとを言っても他人の命の価値を、しょせん自分の快不快でしか判断していないことを思い知らされる。
自分が安全圏にいるときのみその綺麗ごとを喋ることに対して、モンちゃんはトシに「お前は俺より残酷でズルい」「今、お前が振りかざす気持ちも善悪も屁理屈だ」と看破している。
(引用元:「真説ザ・ワールド・イズ・マイン」1巻 新井英樹/エンターブレイン)
社会が破壊され善悪という建前をいう余裕がなくなったとき、「命には平等に価値はあるのか?」という問いに自分自身はどう答えるのか。
そういう状況を作るために、「ザ・ワールド・イズ・マイン」では、あれほど凄惨な大量殺りくが描かれている。
「神との契約」と「人間との契約」
「ザ・ワールド・イズ・マイン」では契約という概念が何度か出てくる。「命に価値があるのかないのか」という問いに対して、それぞれの考えとは別に「どの契約を重んじるか」という項目が組み込まれている。
①「命は平等に無価値である」
ガタルカナル島の戦いの生き残りである飯島は、モンちゃんと同じように「命には価値がない(命など赤紙一枚の原価一銭五厘の価値しかない)」と考えている。人間同士の契約はそれほど信じておらず「たまたま法に触れることなく、俺の掟に沿って生きているだけだ」と語っている。
ただ飯島は神との契約については一応重んじている。だからモンちゃんと違い、自分の欲望や衝動のみの殺しはしない。
神とも人間とも契約しておらず「命は平等に無価値だ」と語るモンちゃんは、マリアと関谷潤子と子供の命を守るという契約をかわす。
②「命は時価である」
恐らく建前をなくした9割以上の人の本音がこれだと思う。
この点、人間同士の契約が生きている社会的な存在である塩見にでさえ「赤の他人が人質だから撃てというが、自分の娘だったら言うわけないだろ」と言い切る薬師寺は潔い。
(引用元:「真説ザ・ワールド・イズ・マイン」四巻 新井英樹/エンターブレイン)
案の定、塩見から批判される。後述するが塩見は③の人間であるから、この批判は成り立つ。
だが本来は②であるのに、安全圏にある時だけ「③である」ということを、この物語では「ズルい」と繰り返し批判している。
③「命には平等に価値がある」
人間同士の契約が破壊された状況でもなお、この主張を繰り返すのがマリア、塩見、須賀原である。
マリアと塩見は「神との契約」があるために、人間同士の契約を自ら破棄して殺戮を行うモンちゃんやトシですら殺すことができないし、殺さない。
須賀原は③であるが、マリアや塩見とは違い「無神論者だ」と本人が言っているとおり神とは契約はしていない。一方で「個人よりも社会」という言葉を使っていて、人間同士の契約は非常に重んじている。
「自分の身内だろうと、他人の命との間に価値の差はない」「すべての命に同じ価値があるから数量で判断する」須賀原は、「人質が自分の娘でも射殺しろと命じるだろう」と評される。
トシの父親に対する「人間としては正しいが、父親としては失格」という須賀原の言葉は、後の自分に対して言っているように見える。
物語の中で「他人に言っているように見えて、自分に言っているのではないか」 というセリフがいくつか出てくる。
トシがマリアに言った「自分の親が死んでホッとするなんて、どういう了見だ」も明らかに自分に重ね合わせている。
こういう部分も、何重にも屈折した登場人物の心情を理解する手がかりになっているところが面白い。
モンちゃんとトシ
モンちゃんは人間なのか?
物語において、モンちゃんを「人間として見るかどうか?」というのは難しい問題だ。「モンちゃんを人間として見るか」で物語に対する見方(特に結末)が大きく変わる。
自分は最初、モンちゃんは「物語的には」ヒグマドンと表裏一体の存在であり、熊神ではないかと考えていた。
理由はいくつかあるが、生まれたときから背中に毛が生えていたことや、暴力を振るうシーンで毛皮をまとっていることが多いこと、また飯島や初江が「人間じゃない」と言っている点だ。
物語の最後では、飯島を「なめとこ山の猟師」としてイヨマンテを行っている。
ただ生い立ちが描かれていたり、マリアが「おメは人間だと。モンちゃん」と言っていること、また「真説」のインタビューで作者が
モンちゃんはマリアとの関係の中で、初めて生きることを肯定されたのだと思う。
(引用元:「真説ザ・ワールド・イズ・マイン」四巻 新井英樹/エンターブレイン)
と暗に人間であるような発言をしている。
「神や人間との契約を知らない原始の人」であるモンちゃんを「人間にする」ためにマリアが行動していた、というのがサブストーリーだとすると、人間ではなく神になった結末に疑問を感じる。
「吐き気するほど人間のスタンダート」なトシ
(引用元:「真説ザ・ワールド・イズ・マイン」5巻 新井英樹/エンターブレイン)
トシのやったことは最低な許されないことだ。
ただ自分は9割以上の人間はトシのような弱さを内包している「吐き気するほど人間のスタンダート」だと思っているので、物語外の人間としてトシに非常に同情している。
この物語には「赤の他人の痛みを想像できない人間」「見も知らぬ他人の死ならば、数値としか考えられない人間」が繰り返し出てくる。トシモンのやることに喝采をあげた人、トシモンに殺人依頼をした人間、ヒグマドンの被害にもっと死傷者が出ないかと言った人間、世間の多くの人間は心情的にはトシとまったく同じであり共犯者だ。
強盗に入った家の子どもを何の躊躇もなく殺しながら、「仲間になり個人と認識したマリア」を救いたいと願うようになったことも、トシが本来は②の価値観を持つ普通の人間であることを表している。
むしろ「自分は弱い人間だから、強い力を持ったら使いたくなる。だから持ってはいけない」と自覚していたぶん、普通の人より心が強かったのではないかとすら思う。
トシが気の毒だと思う点は、あれほど人を殺しておきながら、求めていたのは人だったということだ。誰かに自分を認めてもらうこと、それだけを求めていた。
自分を始めて認めてくれたのがモンちゃんだから、彼に付き従い、その力に酔った。
(引用元:「真説ザ・ワールド・イズ・マイン」5巻 新井英樹/エンターブレイン)
しかし運命が導いたと信じた行動は、自分の勘違いにすぎなかった。そしてその勘違いの裏側には、自分が求めていた自分を認めてくれる人がいた。
マリアに人工呼吸をしたときに、「僕、初キスやで」というセリフは泣けた。あれほどのことをしでかしたのに、求めていたのはただ自分を認めて愛してくれる人だけだった、ということが伝わってきて辛い。
トシは最期、被害者の遺族によって惨たらしく殺される。これは人間同士の契約に基づくので当然だと思う。
しかし信じていた運命に裏切られ、契約を結んだ力の神に嘲笑われたことは、同じ「吐き気がするほど人間のスタンダート」としては辛い。
「想像力の欠如したバカ」と由利が痛烈に批判した、世の中の大多数を占める普通の人間に過ぎないトシは、
「殺したい奴を殺した訳とちゃうんや」
「どこがどおでこおなったか、まだ何もわからんのや」
「神さま」
と叫んで死んでいく。
トシや世の中の多くの人間が酔った「俺は俺を肯定する」という神との契約を破棄する言葉も、実存主義にかぶれた強姦魔が吐いたセリフにすぎず、「人間のスタンダート」はとことんコケにされる。
無力で平凡な人間に対して、世界は余りに強大で残酷だ。
総評
「ザ・ワールド・イズ・マイン」は、人間という未熟で不完全な存在でありながら個々の命の価値を決める傲慢さ、そんな傲慢さですら社会という安全圏が崩壊したときに容易く捨て去る人間の卑小さを徹底的に批判した物語である。
「世界はつながっており、他者に生かされている人間は、例え相手が殺人鬼であっても、命の選別自体をしてはならない」
「その命を生かすか殺すか決めるのは、神のみの権利だ」
作中で飯島が星野に語る
「生きたいと思う奴だけ生きたらいいべ。生かしたいと思う奴がいれば生かせばいい」「それでも死ぬときは死ぬ。そういった……もんだべさ」
人間が命に対してできることは、この理を受け入れることだけではないか、と語っている。
自分は、飯島やマリアや塩見のようにはどうしても思えない。トシが塩見に言ったように「(結局みんな)一緒や」ということなのだろう。
自分が納得できる理由なら、人を殺して構わないと思っていいのか。
テレビで悲惨な死を見ながら「明日には笑う」自分に、死ぬべき人間を選別する資格があるのか。
容疑者の両親に同情して、赤の他人の被害者のことを容易く忘れる自分に、誰かに死ぬべきだという権利があるのか。
自分は本当は命についてどう思っているのか?
そういうことを自他を極限の状況に追い詰めて喉元に刃を突きつけるようにして問いただしてくる本作は、他に似た作品を見たことがない。
こういう時代だからこその問いであり物語なので、現代の代表作として後世に残って欲しいなと思う。
余談:「羆嵐」と飯島
「ザ・ワールド・イズ・マイン」には吉村昭の「羆嵐」の影響をところどころ感じる。
「羆嵐」の作中で一貫して語られている、「人間には理解しがたいものに対する畏怖の感情」をトシがモンちゃんに語っているし、畏怖の対象にただひたすら頭を垂れるだけの存在を「ズルい人間」と言うのも、両作品で共通している。
「羆嵐」の熊撃ち名人・銀四郎も飯島を連想させる。
自分が一番好きなキャラクターも飯島だ。
佇まい、吐く言葉、生き様のすべてがカッコいい。銃を持っていない普段は、嫁や息子にたしなめられるただの老人にしか見えないところもいい。
自分が星野でも「飯島語録」を書きとめてしまいそうだ。飯島から「マブダチ」と言われた星野が心の底から羨ましい。
星野は「モンちゃんではなく飯島に会っていたら」という、トシのもうひとつの可能性のように見える。
飯島語録は全部好きだけれど
「空に鳥、海に魚、山に獣がおることを、あんたらは感謝しなきゃなんねえ。いなけりゃ、あんたらが俺の獲物さ」
(引用元:「真説ザ・ワールド・イズ・マイン」2巻 新井英樹/エンターブレイン)
「たまたま法に触れることなく、俺の掟に沿って生きているだけだ」
この二つが特に好きだ。
飯島にはモデルになった熊撃ちの人がいるようだが、久保さん? 外見が似ていないから違うかな?