うさるの厨二病な読書日記

生涯中二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好きも嫌いも全力で語るブログ。

「平気でうそをつく人たちー虚偽と邪悪の心理学」感想 「邪悪な人」は、あなたのそばにもいるかもしれない。

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他の人の記事で何回か見かけて、気になっていた本。

 

この本では、ある方向性の特性を持つ人を「邪悪」と名付けている。

この本で書かれている「邪悪な人」とは何か? 

「自分自身が信じている自己像を守るためや自分が本来感じるべき罪悪感から逃れるために、他人をスケープゴートにする人のこと」

である。

 

 

「モンスターマザー」は、「邪悪な人」の典型例

「邪悪」の指標となるキーワードは、罪悪感だ。

彼らは良心は持っている。だから自分たちが「悪いことをしている」ということは分かっている。罪悪感もある。

だがこの罪悪感を感じないために、彼らはありとあらゆることをする。嘘をつき、事実を捻じ曲げ、他人に責任転嫁し、「自分は悪くない」という事実を作り上げようとする。

 

以前書いた記事で取り上げた「モンスターマザー」に出てくる高山さおりは、この「邪悪」の典型的な例だ。

自分の都合のいいように事実を捻じ曲げ、明らかな矛盾すら認めず、執拗に他人を攻撃し続ける、                   

「モンスターマザー 長野丸子実業「いじめ自殺事件」教師たちの闘い」で毒親をしのぐ怪物の存在を知る。

さおりは「自分が息子の裕太くんを追いつめ、自殺に追いやった」ということを認めないために、「裕太くんの自殺は、学校でいじめがあったせいだ」と主張し続ける。第三者によって事実が審理され、裁判の結果が出た今でも、彼女は「事実」を頑として認めない。

恐らく彼女自身も、自分が作り上げた事実を信じ込んでいるのだろう。

 

モンスターマザーのさおりは、まだしも第三者から見て、その外面の取り繕いかたが下手だったり、主張の仕方がお粗末なので分かりやすく、表沙汰になった。

しかし本書では、本質的にはさおりと全く同じ「邪悪さ」を持ち他者を害しているにも関わらず、やり方が非常に巧妙な例が何例も出てくる。

彼らの餌食になっている人たち(家族が多い)が追い詰められた状態にも関わらず、彼らの巧妙な「邪悪さ」の前に、専門家ですらほぼ打つ手がない。

 

「邪悪な人」には「他者」という概念がない。

本書に出てくる「邪悪な」人々は、一見すると心優しく真面目で善良な普通の人だ。

周りの評判もいい人が多い。

しかし彼らは、自分たちに少しでも不利な状況や自由なふるまいが許される状況になると、他人に対して徹底的に不誠実になる。

不誠実、という言い方すら正確ではない。

彼らには「他者」という概念がない。

罪悪感というものは、「他者」という概念があって初めて生まれるものだからだ。

この「他者という概念のなさ」は、「邪悪な人」を見分けるひとつのポイントになると思う。

 

本書の例から、「他者という概念のなさ」とは何なのか、「罪悪感から逃れるために邪悪な人が取る方法」を見ていきたい。

 

本書の中の「邪悪な人」例

①ボビーの両親 -弱者権力-

十五歳のボビーは、抑うつ状態で著者の下にやってきた。

半年ほど前にひとつ年上の兄がライフルで自殺をしたこともあり、抑うつ状態が続いている。学校の成績も下がり始めていて、車を盗むなどの問題行動も起こしていた。

著者と話すうちに、ボビーは驚くべきことを口にする。

クリスマスプレゼントにテニスのラケットを頼んだが、両親がプレゼントしたのはボビーの兄が自殺に使用したライフルだった。

著者はボビーの両親に一体、どういうことかと質問する。

「うちには新しい銃を買ってやる余裕なんかないですからね。なんでそういうことで責められるのか分かりませんね。金ってのは、そのへんの木にぶら下がってなっているわけじゃない。うちはただの労働者家庭です」(略)

それが息子さんにどう受けとめられるかってことは、考えなかったんですか。(略)兄が自殺に使った銃をくれてやるってことは、弟にも同じことをしろ、兄と同じように自殺しろって言うようなものじゃないですか(略)ボビー君がそうとるとは、考えてもみなかったんですか」

俺たちは、あんたみたいに教育を受けた人間じゃない。(略)俺たちはただの労働者です。そういう風に考えろって言われたって無理な話だ」

(引用元:「平気でうそをつく人たちー虚偽と 邪悪の心理学」M・スコット・ベック/草思社.P105ーP106/太字引用者)

このケースは、両親の異常性がまだしも分かりやすいケースだ。自分たちの子どもを「自分とは違う感じ方や考え方を持つ他者である」という発想が一切ないこと、「他者性の欠如」も明らかだ。

 

そして彼らは著者に「あなたたちは、子どもの気持ちを考えない親だ」という「事実」を突きつけられたとたん、その事実やそこから生じる罪悪感からすごい勢いで逃れようとする。

「子どものことを真剣に考えている親」という自己像を破壊されることを防ぐために、著者の口を封じようとする。

自分たちを「お金がない」「ただの労働者」といういわば弱者の位置におき、著者を相対的に上の位置におくことによって、「弱者VS強者」の構図に持ち込み、罪悪感で著者の口を封じようと試みる。

「弱者権力」「罪悪感コントロール」と呼ばれるものだ。

対等な対話や批判から逃れるために、相手に何のためらいもなく罪悪感を背負わせる。こういう手法も「邪悪な人」がよく用いる手法だと思う。

 

②シャーリーン -一般化-

シャーリーンは神経症の患者であり、若い女性だった。

ある日の夜中、シャーリーンの車が、医者の家の前でガス欠になる。医者はひと仕事を終えてくつろいでいたが、彼女に頼まれて止む得ず、自分の車の予備のガソリンを彼女の車に入れる。

シャーリーンは次回の診療に現れたが、先日の失敗については彼女は何も口にしなかった。とうとう私は、このあいだのことをどう思っているのか、と彼女にきいてみた。(略)

「面白かったわ」(略)

「面白かったって?(略)私がどう思っているかってことは、考えてもみなかったのかい?」

「先生も楽しんでらしたと思います。(略)人間って、他人を助けるのが好きなんだって、私そう考えています。すくなくとも私は人を助けるのが好きです。先生は?」

(引用元:「平気でうそをつく人たちー虚偽と 邪悪の心理学」M・スコット・ベック/草思社.P323ーP324/太字引用者) 

ボビーの親の例よりも、さらに「他者性の欠如」が顕著だ。

「夜中にガス欠した車を助けてもらうことは、他人にとっては迷惑かもしれない」という発想が一切ない。

「私は他人を助けるのが好き。私は他人を助けることがいいことだと思う」

「私がいいことだと思っている」ということが、彼女の世界の全てなのだ。

 

シャーリーンの例は、「邪悪」と「自己中心的」がどう違うかもよく分かる。

「自己中」には「他人」という概念がある。「自分とは違う他人という中にいても、自分を中心に物事を考える」のが自己中だ。自己中であれば「あなたの迷惑が、私に何の関係があるのか」という返し方をするだろう。

反論しているが、「あなたの迷惑」という概念の存在は認めている。

しかし「邪悪な人」には、「あなた」という概念自体が存在しない。「迷惑と感じるあなた」の存在を認めてしまうと、罪悪感が生じるからだ。

 

そしてシャーリーンは、ここで「一般化」という手法を使っている。

「夜中に私が不注意で車をガス欠させて、相手に迷惑をかけたこと」を「困っている人を助ける親切な行為」と、すべての固有の条件を外して一般化している。

そしてこの一般化された「困っている人に対して親切にする行為が、嫌なことで悪いことだとでも言うのか?」という主張をする。

 

「人がどこまで相手にしてあげられるか」というのは、条件による。その条件によって、第三者はその行動の是非を判断する。しかし、そのハードルとなる条件を全部外し、その行動のハードルをかなり低くした状態で、相手に行動の是非を問うている。

非常に巧妙なやり口だ。これも罪悪感コントロールの一種だ。

これがどれだけ他者に対して不誠実で、卑劣なことかということが分かれば、「邪悪な人」がなぜ「邪悪」なのかが分かると思う。

 

③R夫妻 -事実の捻じ曲げー

社会的に成功をおさめ、洗練された物腰のR夫妻の長男ロージャーが抑うつ状態で著者の下を訪れる。

著者はロージャーの希望をことごとく無視し、それどころか些細なことでその希望をつぶす両親のほうに異常性を感じ、彼らこそ精神分析療法を受けるように提案する。

両親は「自分たちの接し方が原因で、息子が病気になった」という可能性を認めないために、「息子は遺伝性の不治の精神的病かもしれない」と言い出す。

 最初の面会時、ロージャーから「両親から離れるために寄宿制の学校に行きたかった」ということを聞いた著者は、ロージャーの希望通りにするように勧める。また別の精神科医を紹介する。

 

しかししばらくたってロージャーが再び問題を起こしてきたとき、両親はロージャーを寄宿制ではない別の学校に入れたうえ、著者が紹介した精神科医の下にもいかなかったことが判明する。

この二回目の面会のときに、ロージャーは転校先の学校のことをとても気に入っていた。学校も、ロージャーに続けて通ってもらうことを希望していた。

著者は両親に 「この学校のことをロージャーは気に入っているし、今回の件があったにも関わらず、学校も続けて通ってくれと言っているので、今の学校に続けて通わせてください」と言った。

しかし、後にロージャーの母親からこんな手紙がきた。

先生のお言葉に従い、ロージャーを寄宿学校に入れたことをお伝えしておきたいと思います。ノースカロライナの陸軍学校で、素行に問題がある子供の教育では大変評判のある学校です」

(引用元:「平気でうそをつく人たちー虚偽と 邪悪の心理学」M・スコット・ベック/草思社.P192/太字引用者) 

ロージャーの両親であるR夫妻は、非常にたくさんのウソ、不誠実を重ねている。

「自分たちが治療を受けなければならないほど、ロージャーに対する接し方に問題がある」と認めるくらいなら、息子を「原因が遺伝性の精神的病者」にしようとしたこと。

また一度目の訪問で「ロージャーの希望に沿って、寄宿学校に入れるべきだ」と言われ、二度目の訪問では「ロージャーが現在の学校が気に入っているので、転校させるべきではない」と言われた、それぞれのときの状態や時系列をまったく無視して、自分たちの都合のいいように事実を組み合わせている。

 

会話や言葉というのは、「その時の状態や条件を前提として共有して」初めて成り立つものだ。

しかし本書でいう「邪悪な人」は、本来は相手と共有しているために、「自分の都合で勝手に変えてはならない前提や条件」を無視して、自分に都合よく相手の言葉を解釈し使う。

「その言葉を言った」ということは事実であるため、これも反論したりすることが非常に難しい。もしくは手間がかかる。

 

「邪悪な人」の何が問題か。

「邪悪な人」は、「自分とは違う他人」という存在を認めないし、尊重もしない。

他人と関わるとき、「その人を、自分とは違う人と認識しない」「その人を、この世にただ一人のその人自身と認識しない」ために、関わる人は常に「自分」という存在を無視され、軽んじられ、傷つけられる感覚になる。

 

彼らの第一の目的は「自分が信じたい自己像を守ること」であり、その自己像が破壊されそうになると、本書でも書かれているとおり、うそをつき、事実を捻じ曲げ、他人を貶めようとする。

「事実」というのは自分だけのものではなく、他者と共有しているものだ。それを偽り、捻じ曲げるというのは「他者を尊重しない行為」なのだが、「邪悪な人」にはそれが分からない。

R夫人の手紙のように、時系列を変えたりなど一部で虚偽や隠ぺいを行って、事実を自分の思い通りのものに変えてしまう。

厄介なのは、本人もそれが「事実」だと信じている点だ。少なくとも表層部分では。

 

本書では「自分が見たくない自己像や罪悪感から逃げ続ける、本来哀れむべき存在」と書かれている。

確かに「本当の自分」や「事実」から目をそらし続けて生きるのは、本当に「生きている」と言えるのだろうかと思う。もしかしたら本書であげられている人たちも、こうなったにはそれなりの事情があるのかもしれない。

しかし、実際に自分がこういう人たちに関わってしまったら、全力で逃げるのが一番賢い方法だと思う。本書の中では、専門家ですら時には取り込まれそうになっている。

サイコパスと同じように、恐らく表面上はとても魅力的な人が多いのだろう。R夫妻のようにその自己像を守るためには、自分の子供ですら犠牲にし、貶めるのだから。

 

この本の後半にある「集団の悪」の章に書かれている通り、「邪悪さ」は濃淡の差はあれ、誰にでもあると思う。

集団で「他者と向き合う個人の責任や感覚」が薄くなったときに、自分の中の「邪悪さ」からどれだけ目をそらさずにいられるかというのは、重要な問題だと思う。

 

ただ個人として

「他者という存在に対する不誠実さを持つ」

「異常なほど罪悪感と向き合うことを恐れ、向き合わないためなら事実すら捻じ曲げる」

「すべての事象を自分ではない他のものに責任転嫁して、自己像を守る」

そんな「邪悪な人」を見つけたときは、自分という存在を守るために関わらないしかない。

そのためには、「モンスターマザー」の記事でも書いた

「違和感がある出来事は、事実を自分の目で確かめ、自分の頭で考えて結論を出す」

こういうことを続けていくしかないんじゃないかなと思う。

とても難しいことだけれど。

 

余談:「メタボラ」の裕太の母親が「邪悪な人」の典型例かも…。

桐野夏生の小説「メタボラ」の登場人物・裕太の家庭は、父親のDVによって崩壊する。もちろんDVは許されないことだが、控えめだが子供に優しい普通の家庭人だった彼が、暴力を振るい、家庭も自分自身も崩壊させたのが何故なのか、読者には分かる仕組みになっている。

 

裕太の母親から父親への本質的な無関心、不誠実さ、無責任は恐ろしいほどでその人間の近くにいればいるほど、心が傷つき荒廃していく。そして母親の「邪悪さ」は、父親が死んだあとは、子供に対する態度に引き継がれていく。

自分が家を出て行ったあと、荒れた父親との暮らしを強いられ、経済的に困窮する子供たちの訴えを聞いても「それは困ったわねえ。でもお母さんだって大変なのよ」というだけで何もしてくれない母親、父親が死んだあと遺骨と家族アルバムのどちらを引きとるかという話のときに、「私だってどっちもいらないわよ。だから片方ずつ引き取りましょう」という母親。

その「他人に対する情や責任という概念のなさ」は、読んでいてゾッとするほど怖かった。

彼らと一緒にいても、彼らの中には「あなた」は存在しない。

桐野夏生は、こういう「普通の人の中の悪」を書くのが上手いなあと改めて思う。

 

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