うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

自分が知らない「普通」を教えてもらった。

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先日、見た「ザ・ノンフィクション 人殺しの息子と呼ばれて」を見終えて、つらつらと考えたこと。

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この番組に出たきっかけについて息子は、

「僕のことを知らない人が、僕のことをあれこれ悪く言うのが納得がいかなかった」

「マトモ(普通)に育つはずがないよねって(言われる)」

ということを話している。

 

彼の境遇自体は、どう考えても「普通」とは言いづらい。

両親共に殺人事件の加害者であり、父親は死刑囚、母親は無期懲役囚、その事件の被害者の大半が彼の母方の親族なのだ。

 

自分の好きな映画「王立宇宙軍 オネアミスの翼」で、主人公のシロツグが自身についてこんな独白をする。

「いいことなのか、それとも悪いことなのか、分からない。でも、多くの人間がそうであるように、俺もまた、自分の生まれた国で育った。そして、極中流の家庭に生まれつくことができた。だから、貴族の不幸も貧乏人の苦労も知らない」

自分はこのセリフのような人間だと思う。

色々な境遇の様々な苦労を味あわずに(味合わずに今のところは済んでいる、と言うべきか)生きてきた。

それがいいことなのか悪いことなのかは分からないけれど。

 

自分にとっては「自分」というものは取り換えのきかないものだから、文章にすると起伏のない、何ということのない人生だとしても、そりゃあそれなりに色々あった(と思う。)

でも今の時点から振り返って自分の人生を誰かに説明するとなると、とりたてて話すことが思い浮かばない。

 

自分が自分のことを「普通だ」というのは、「それなりに人生を歩いてきて、自分は普通なんだ、という結論に落ち着いた」という意味だ。

「普通」には「自分はここまでだった」という一種の諦念も含まれている。

 

でもこの番組を見て、「自分はここまでだった」という物分かり良さげな顔をして「普通だ」と語るときに、「普通」の境遇を与えられずに「普通の生き方」を自分の手でつかまなければならない人のことを、どれだけ想像して「普通」という言葉を使っていただろう、と考えさせられた。

 

自分は「普通」を、無意識のうちに「生まれたときに特別なものを、何も与えられなかった」という意味を含めて使っていた。

自分が「何も与えられなかった」という意味を内包して使っていた言葉を、「自分の手で勝ち取らなければならないもの」として考えなければならない人がいる、ということを、本当の意味で考えたことがあったかな。

 

「お前が普通に生きられるはずがない」と赤の他人から言われる人にとっての「普通」とはどんなものかを、一度でも考えてから「普通」と言っていたかな。

 

自分がこの息子と同じような境遇に生まれていたら、「自分は普通です」なんて決して言えなかっただろう。境遇を言い訳に使って、きっと多くの人がこの息子に言ったように「マトモに育たなかった」だろう。

 

血も境遇も「普通ではない、普通でいられるはずがない」と他人から言われるものを与えられながら、息子は見たこともない、与えられもしなかった「普通」を、自分でゼロから作ろうとしている。

彼が試行錯誤して少しずつ「普通」を積み上げても、少しでも石がぐらついたり、崩れたりするたびに、周りの人は「やっぱりこういう境遇の人間には、普通は無理だ」と言うかもしれない。そういう「失敗すればすぐに非難につながる」強い緊張感の中で、「普通」に生きようとしてきたと思う。

彼は「自分のような普通ではないものを背負わざるえなかった人間でも、普通に生きることができる」ということを証明しようとしているように見えた。

 

自分が使うのとはまったく違う、こんなに重みのある「普通」がある。

「普通」という言葉を使うときは、少しだけそういうことを覚えておこうと思った。

王立宇宙軍 オネアミスの翼

王立宇宙軍 オネアミスの翼