うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

「乙女戦争 -ディーヴチー・ヴァールカ-」をもっと楽しむ。5分で分かる「フス戦争と中世プラハの歴史」

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「乙女戦争」を読んだら、「フス戦争」について詳しく知りたくなった。

 

 

「乙女戦争」の背景である「フス戦争」の状況は、かなり複雑で理解しにくい。

この時代のキリスト教がどういうものだったのか、ということから現代の感覚だと理解しにくいし、そのうえ単純に宗教的な対立のみ、というわけでもない。

一人の人間が色々な国の王を兼ねていたり、貴族と市民、聖職者、王との力関係や利害関係や諸外国の関係が複雑に絡み合っている。

 

「乙女戦争」はこういった時代背景をうまく整理して、エンターテイメントに落とし込んで物語を展開しつつ説明してくれているが、「後世からみたフス戦争の意義」や「こういったことが起こった時代背景、影響」などをもう少し知りたいな、という思いが湧いてきた。

 

「乙女戦争」の参考文献でも挙がっている、薩摩秀登「プラハの異端者たち-中世チェコのフス派にみる宗教改革-」を読んでみた。

プラハの異端者たち―中世チェコのフス派にみる宗教改革 (叢書 歴史学への招待)

プラハの異端者たち―中世チェコのフス派にみる宗教改革 (叢書 歴史学への招待)

 

 

プラハに視点を固定しているので、状況が分かりやすい。

当時のボヘミア周辺の状況は、諸外国の利害関係、ヨーロッパの外の敵であるオスマン帝国の動きなども絡んだり、フス派の中でも身分や考え方の違いで分裂が起こったり、読めば読むほどひと口では説明できない複雑さだ。

この本はプラハという町に視点を固定して語られているため非常に読みやすいし、分かりやすい。

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(引用元:「プラハの異端者たち-中世チェコのフス派にみる宗教改革-」/薩摩秀登/現代書館)

 

現代の日本で生きる人間の価値観だと理解しにくい「二種聖餐を認めるか認めないかが、なぜそんなに問題なのか」などの概念的な問題もすんなりと理解できる。また後世からみたフス戦争の意義や、その後に起こったルターやカルヴァンの宗教改革との関係も分かりやすく語られている。

その時代の諸身分の立場や街の状態、歴代の王がどんな人物だったかなども書かれており、少しでもこの時代の歴史に興味がある人ならばとても楽しい本だと思う。

 

この記事では、時系列や背景が理解しやすいように年表や出来事をまとめてみた。

名前や地名の表記は「プラハの異端者」の表記に準じている。「メモ」は読んだときの自分の感想や疑問、考えなどを書いている。

 

ボヘミアの歴史まとめ

「ボヘミア王冠諸邦」誕生まで

6~8世紀 遊牧民族アヴァール人がスラヴ人を支配

8世紀   カール大帝がアヴァール人国家を滅ぼす

830年   モラヴィア王国が成立

9世紀末  モラヴィア王国がマジャール人に滅ぼされる

10世紀半ば オットーⅠ世がマジャール人を撃退。マジャール人はアールパート王家の下でハンガリー王国を築く。

 

962年 オットーⅠ世がローマ皇帝に即位。神聖ローマ帝国の誕生。

10世紀 プラハを本拠地とするプシュミスル朝ボヘミア、クラクフを本拠地とするピラスト朝ポーランドが成立し、中欧に国が出現。

プシュミスル朝ボヘミアで確認できる最古の人物は豪族ボジヴォイ(在位850頃~894)。プシュミスル家で最初にキリスト教徒になった。ボジヴォイの孫、ヴァーツラフ(在位921~929(935))の頃には、プシュミスル家の権威はボヘミア全土に及ぶ。

 

929年(935年) ヴァーツラフの弟・ボレスラフが兄を暗殺し、ボレスラフⅠ世となる。ボレスラフ二世の時代、プラハに司教区が創設される。

1212年  皇帝フリードリヒ二世がボヘミア君主プシュミスル・オタカル一世に、シチリアの金印勅書を与える。

「ボヘミア王国を、その王とその後継者たちに永遠に付与する」

ボヘミアが一つの王国であることが、正式に承認される。

 

13世紀~14世紀 プラハにおいて、参審人から行政機関である参事会が分離、発達していく。

参事会=12名で構成される。一年ごとに改選され、なれるのは都市貴族だけ。国王の意向に沿って選任されるため、完全に国王に従属している。

1310年代 参事会員のうち一名が、一か月ごとの交代で市の代表を務めるようになる。(市長職の起源)

1306年8月4日 ヴァーツラフ三世が暗殺され、プシュミスル家が断絶する。

ヴァーツラフ三世の姉婿ハインリヒが跡を継ぐが、国内は混乱。ドイツ国王アルブレヒトがボヘミア貴族に国王選出権を認め、息子のルドルフを選出させる。

しかしルドルフが急死し、再びハインリヒが国王になる。

 

メモ=中世の国王はこの後の近世の国王と違う、ということが分かる。血筋よりも実際の統治能力や、権力のバランスや後ろ盾が選ばれる基準になることが多い。

権力自体も絶対的なものではなく、どちらかというと「貴族の中の代表」という意味合いが強い。政党政治において、その代表が元首になるようなイメージ。都合が悪くなると、すぐに反乱を起こされたり、立場を追われたりする。この辺り、絶対王政のようなイメージでとらえていると分かりにくい。

「乙女戦争」でも、ジクムントが貴族の統制に苦労している描写がある。

 

1310年 ドイツ国王ハインリヒ七世の息子ヨハンがヴァーツラフ三世の妹エリュシカと結婚し、ボヘミア国王となる。

ヨハンは貴族たちと対立し外交活動が多くなる→ボヘミアは貴族たちの寡頭政治状態になる。

 

メモ=外部からきたボヘミア国王は「馴染めなくてほとんど国外で過ごす」パターンが多い。ボヘミアの標準語であるチェコ語も話せない王もでてくる。マクロで考えると「国にほとんどいない王」ってなんだかなと思うけれど、個人レベルで考えると「それは馴染めないだろうな」と納得してしまう。

 

1334年 ヨハンの息子カールがモラヴィア辺境伯になり、プラハで代理統治を始める。

1338年 ボヘミアで最初の市庁舎がプラハに登場(市の行政や裁判が行われる)

1346年 カールがカール四世としてドイツ国王に即位。

百年戦争のクレシーの戦いでヨハンが死亡。カールはボヘミア国王にもなる。

 

メモ=この後の時代もボヘミア国王はハンガリーとドイツの国王も兼ねることが多い。「王」という語のイメージで考えると納得しづらいけれど、力の強い首長の傘下に色々な部族が集まる、みたいなイメージだと納得できる。

「王」の概念が近世とは違うのがややこしい。

 

1348年 プラハで帝国議会が招集される。

ボヘミア国王と、モラヴィア、シレジア、ラウジッツの君主の間に封建的主従関係が成立。

「ボヘミア王冠」という王の上位の概念が成立。従属関係や忠誠を誓うのは「王冠に対してである」という考えで、モラヴィア、シレジア、ラウジッツの君主の心理的抵抗を和らげる。

「ボヘミア王冠諸邦」の誕生。20世紀まで制度として続く。

 

メモ=「ボヘミア王冠」は「乙女戦争」でも出てきた。「王冠」にこだわっていたのは、忠誠の対象として王よりも王冠が上位だからか、と納得。

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(引用元:「乙女戦争-ディーヴチー・ヴァールカ-」/大西巷一/双葉社)

 

カール大帝の時代~フス戦争直前まで

国内の貴族は、国王と権勢を分け合う存在。プラハは国王の強い支配下にあり、都市貴族は郊外に所領を設け、そちらへいることが多かった。国王の行政スタッフは、聖職者が多かった。

メモ=ここで、聖職者が世俗権力と結びつく道筋が見えてくる。

 

1355年 カール四世(ボヘミア国王カレル一世)がローマで皇帝として戴冠。

1356年 金印勅書を発行

金印勅書=皇帝選出の慣習を整理、成文化したもの。神聖ローマ帝国解体まで効力を持った。

1376年 カール四世の息子ヴァーツラフ四世が、ドイツ国王に即位。

1378年 カール四世死去。

 

14世紀末 ヴァーツラフ四世の時代

①国王と教会上層部の対立

②国王一族の権力闘争

③貴族中心の政治を確立しようとする、貴族たちの思惑

 

1393年 大貴族たちが同盟を結んで反乱を起こす。約10年内戦が続き、国内が無政府状態になる。

ヴァーツラフ四世の異母弟ハンガリー王ジクムントや従兄弟のモラヴィア辺境伯ヨシュトも介入、国王と対立する。

1400年8月 ヴァーツラフ四世が、ドイツ国王の廃位を宣告される。

 

メモ=「乙女戦争」で敵方のボス?であるジクムントが登場。

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(引用元:「乙女戦争-ディーヴチー・ヴァールカ-」/大西巷一/双葉社)

異母兄と血で血を洗う闘争を経ていた模様。

ヴァーツラフ四世は四面楚歌で気の毒だ。大変な状況を乗り切る政治的手腕に欠けていた人だったのだろうか。

 

ウィクリフの宗教改革論~コンスタンツ公会議(フス処刑)

1390年代 イングランドのウィクリフの情報が、プラハに伝わってくる。

プラハ大学のマギステルは、ウィクリフ支持と不支持で割れる。

 

メモ=他の国ではこういうことが起こらず、なぜボヘミアでウィクリフの説によって分裂が起こったのかは、ドイツ人とチェコ人の潜在的な対立があったからのようだ。ドイツ人とチェコ人という分類も今日でいう「民族」とは違う概念だし、はっきり割れたわけでもないところがややこしい。

 

ウィクリフ=イングランドの聖職者。聖書を信仰の基本とし、教皇の権威と聖職者階層制、全質変化説を否定する。

全質変化説:聖体(パンとぶどう)がミサで授与された際、その外観は変わらなくても、質的にはキリストの血と肉に変化するというカトリックの教義。

 

メモ=聖餐は宗教的な儀式というだけではなく、教会の権威を市民に知らしめるために非常に重要なものだった。フス派の二種聖餐とウィクリフの全質変化説の否定は説としては少し違うのだろうけれども、どちらも教会の現実的な権威を揺らがせる主張だった。

 

1402年 フスがベトレーム礼拝堂の説教師になり、教会批判を始める。

1408年 反ウィクリフ派の訴えにより、ローマ教皇がウィクリフの説を唱えることを禁じる。プラハ大司教は、司教区には一切の異端や誤謬はないと宣言。

1409年 クトナー・ホラの勅令(ボヘミア人が大学の事実上の支配権を得る。)

 

メモ=プラハ大学は開設当時とは違い、ドイツ人よりもボヘミア人のほうが多くなっている。それなのに一民族一票だったため、その割合を正した勅令。単なる思想上、宗教上の対立ではなく、民族問題も絡んでいる。

 

1410年 プラハ大司教が、フス及びその仲間に破門を宣告。

    ハンガリー国王ジクムントがドイツ国王に選出される。

1412年 ローマ教皇による贖宥状の販売をフスが批判。このことにより、フスは国王からの保護を失う。

 

メモ=この贖宥状の販売費は、ナポリ王との戦争の資金のために必要だった。単純に金が欲しいというわけではない。教会大分裂が根底にある。国王がここで教皇を支持したために、フスは保護を失う。

フスが反対した理由が「キリスト教徒同士の戦いのためなのは」というのも面白い。「キリスト教徒以外の敵」だったら、反対しなかったのか?など色々思う。

 

1415年 コンスタンツ公会議

内容:①教会の統一(教会大分裂の収束) ②教会の改革 ③ボヘミアの異端問題 ④フスの処刑

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(引用元:「乙女戦争-ディーヴチー・ヴァールカ-」/大西巷一/双葉社)

プラハで二種聖餐派=聖杯派が登場。プラハはカトリックと聖杯派に分裂する。

 

☆フス戦争・「乙女戦争」の時代

1417年6月 ヴァルテンベルクのチェニェクが聖職者に、二種聖餐の実施を命令するなど、貴族が聖杯派を保護。

1419年 聖杯派は穏健派と急進派に分裂する。

7月 プラハの急進派ヤン・ジェリフスキーが市長を殺害。(フス派革命の始まり)

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(引用元:「乙女戦争-ディーヴチー・ヴァールカ-」/大西巷一/双葉社)

8月 ヴァーツラフ四世が死去。王国の権力は、王妃ジョフィエとヴァルテンベルクのチェニェクが引き継ぐ。

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(引用元:「乙女戦争-ディーヴチー・ヴァールカ-」/大西巷一/双葉社)

急進派はプラハの南に拠点を作り、ターボルと名付ける。ヤン・ジシュカやアンブロシュなどが頭角を表す。

メモいよいよフス戦争が始まる。ジェリフスキーが市長を窓から投げ落として始まったらしい。すごい。やばい。

 

1419年 ペトル・ヘルチツキーがフス派の運動から離れる。

1420年 教皇マルティヌス五世がボヘミアの異端討伐のため、十字軍を起こす。ジクムントとプラハは、戦争状態になる。

1421年 プラハ同盟が成立。

 

様々なフス派

穏健派(聖杯派)=プラハ市街を中心とする都市上層部、大学のマギステル、貴族たち

急進派(ターボル派)=下層民、農民、一部貴族。初期の指導者はミクラーシュ。

ピカール派・アダム派=終末論にこだわった極端な急進派。

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 (引用元:「乙女戦争-ディーヴチー・ヴァールカ-」/大西巷一/双葉社)

 

1421年 ターボル派がピカール派(アダム派)を滅ぼす。

6月 急進派ジェフリスキーがプラハでクーデターを起こす。二つの市街が統一される。

8月 第二回十字軍→10月に撤退

1422年3月 ジェフリスキーが斬首され、プラハは穏健派の拠点になる。

5月半ば リトアニア大公ヴィタウタスの甥・コリブートがプラハに到着

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(引用元:「乙女戦争-ディーヴチー・ヴァールカ-」/大西巷一/双葉社)

 

10月 ブランデンブルグ伯フリードリヒ率いる、第三回十字軍が結成

1423年春 ジシュカ、ターボルから急進派オレープ派がいるフラデツに移る。

1424年10月 ジシュカ死亡

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(引用元:「乙女戦争-ディーヴチー・ヴァールカ-」/大西巷一/双葉社)

 

1428年 第四回十字軍が結成されるも惨敗する。

1431年 ブランデンブルグ伯フリードリヒ、第五回十字軍を結成。

「ドマジュリツエの勝利」=十字軍を、プロコフ・ホーリーが率いるターボル派が破った歴史的勝利。これを機に、カトリック陣営はフス派との和解を考えるようになる。

 

メモ=「乙女戦争」を読んでいると、ジシュカが死んだ後ターボル派や孤児はどうなるのだろう、と心配になる。

なんとプロコフ先生が首領となり戦っていく。「乙女戦争」では軍事的指導者はサーラになるかもしれない。期待が高まる。

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(引用元:「乙女戦争-ディーヴチー・ヴァールカ-」/大西巷一/双葉社)

 

1433年 国外遠征「偉大なる行軍」が続く。

メモ=ボヘミア全体が経済封鎖を受けているため、他国に侵略せざるえなくなる。

 

1433年 バーゼル会議 「形だけの二種聖餐」をターボル派と「孤児」以外は、認めるようになる。→急進派が孤立する。

メモ:急進派と穏健派が袂を分かつ。穏健派は、現実的なカトリックとの協調の道を探るようになる。

 

1434年 リパニの丘の戦い 

穏健派・カトリックVS急進派。プロコフが死亡。急進派はほぼ消滅。穏健派(聖杯派)のみが残る。

フス戦争はカトリックに妥協した穏健派が勝利し、1436年に和平が結ばれ終結する。

1436年 バーゼル協約が成立 ボヘミアの宗教制度の基本となる。

フス戦争の結果:勢力が増大した貴族階層こそが、フス戦争の勝利者と言える。

 

メモ「乙女戦争」はこの辺りくらいまでやるのかな。

歴史だから仕方がないとはいえ、この結末は辛い。貴族は個人としてはいい人が多く、カトリックの聖職者側にあくどい人間が多い描写なので、意外と後味のいい終わり方かもしれない。(と思いたい。)

 

フス戦争以後イジーの時代~ルターの宗教改革まで

1436年12月 ジクムント死亡。娘婿のアルブレヒトが跡を継ぎ、ドイツ、ハンガリー、ボヘミアの国王になる。

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(引用元:「乙女戦争-ディーヴチー・ヴァールカ-」/大西巷一/双葉社)

「乙女戦争」のアルブレヒトはほんとムカつく。エリーザベトはいい子なのに、こんな奴と結婚させられて…。早く〇ねと思うけれど、最後まで生き残るのか~。

 

1439年10月 アルブレヒト死亡→ボヘミア、ハンガリーは王が不在となる。

聖杯派イジーが、アルブレヒトの生まれたばかりの息子ラディスラフを王とし、摂政をおく案を提案。

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(引用元:「乙女戦争-ディーヴチー・ヴァールカ-」/大西巷一/双葉社)

 

1448年9月 イジーがプラハに乗り込み、カトリック派を排除。実権を握る。

1453年10月 ラディスラフがボヘミア国王として戴冠

 

メモ「乙女戦争」で出てきたイジーが、フス戦争後はボヘミア国王になる。物語の中ではフス戦争にも絡んでくるのかな?

 

1457年11月 ラディスラフ急死

1458年3月 イジーがボヘミア国王に選出される。

1460年頃 ヘルチツキー死去→彼の一派は「同胞団」と呼ばれるようになる。

 

メモ=実は長生きしていたヘルチツキー。物語には絡んでこないかもしれないが、「同胞団」は長々と続いていく。自分が死んだあとも自分の思想がつながる、ということが一番望むことだと思う。「孤児」たちにもこういう救いがあるといいんだが。

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(引用元:「乙女戦争-ディーヴチー・ヴァールカ-」/大西巷一/双葉社)

 

1462年3月 教皇が「バーゼル協約」の破棄を宣告。カトリックとフス派の和解が白紙に戻る。

1465年9月 カトリックの大領主シュテルンベルグのズデニェクを中心とする反国王派同盟「ゼレナー・ホラ同盟」が成立。

1466年 教皇パウロ二世がイジーとその家族、支持者を異端と宣告する

1467年頃 ボヘミア諸邦が内戦状態になる。(第二次フス戦争)

1468年3月 ハンガリー国王マーチャーシュがモラヴィアを占領

1469年 休戦

5月 「ゼレナー・ホラ同盟」がマーチャーシュをボヘミア国王に選出。

1471年3月 イジー死亡

5月 イジーがポーランド王子でカトリックのヴワディスワフを後継者に指名。ボヘミア国王に選出される。

 

メモ=なぜ聖杯派であるイジーがカトリックの人間を後継者として指名したのか。情勢と各陣営の思惑がものすごく複雑だ。

ずっと見てきて思うのは、ボヘミア国王の権力基盤は本当に脆弱だなということ。この流れを読むだけで、イジーは苦労が絶えなかっただろうなと思う。

 

1479年12月 ヴワディスラフがボヘミア、マーチャーシュがモラヴィア、シレジア、ラウジッツを統治することで和解が成立

1483年 プラハで聖杯派が暴動を起こし、プラハを占拠する。

1485年3月 「クトナー・ホラの協定」が結ばれる。フス派革命のひとつの到達点と言われる。

「クトナー・ホラの協定」=一種聖餐と二種聖餐を自由に選ぶことができる。どちらを受けるかを強制してはならない。

 

メモ=「これだけ色々あって、二種聖餐が認められたことがひとつの到達点?」と思ってしまうが、カトリックの権威が政治にも日常にも思想にも及んでいたこの時代では、それまでの権威や階層にヒビを入れた「二種聖餐」というのは革命的な発想だったんだろう。ここまで読んで「二種聖餐を認めさせる」というのはものすごく難しいことだったんだ、ということが分かってくる。

 

宗教革命以後の時代

1516年 ヴワディスワフ死亡。息子のルートヴィヒが跡を継ぐ。

1517年10月31日 ドイツでルターが「九十五か条の論題」を発表。

 

メモ=面白いと思ったのは、ルターは「社会問題」など特に考えておらず、このままカトリックとして活動をしていたら自分の魂は救済されないんじゃないかと考えて行動したということ。

個人的な思想の疑問が社会変革に結びついたのは、社会が変化する基盤が整っていたからなのか。

 

プラハはルターと特に協調しない旧聖杯派と、積極的に宗教改革の波に乗る新聖杯派に分裂する。

メモ=また分裂するのか~~。

 

1524年 旧聖杯派のツァヘラがプラハの実験を握り、急進派を一掃する。

旧聖杯派はカトリックに近づき、新聖杯派は再洗礼派に近づく。フス派は二つに分裂。

1526年 ルートヴィヒ、オスマン帝国との戦いで死亡。ルートヴィヒの義兄弟であるハプスブルグ家のフェルディナントが王に選出される。

 

1547年 ドイツ国王VSシュマルカルデン同盟(プロテスタントの貴族の同盟)

フェルディナントは兄のカール五世を援助しようとしたが、プラハが反発する。結局はカール五世とフェルディナントの勝利に終わり、プラハの自治権が消失する。

1555年 アウグスブルグの平和令

1564年 バーゼル協約を教皇ピウス四世が承認。ついに聖杯派が異端ではなくなる。

    フェルディナント死亡。息子のマクシミリアンが王位を継ぐ。

1575年 新聖杯派と同胞団が共同で「ボヘミアの信仰告白」を国王に提出し、ローマ教会からの分離に踏み切る。

 

メモ=フスなど改革を試みた人でさえ、教皇を通じて力を授かると考えていたため、「ローマ教会からの分離」という発想はなかったのだと思う。ここでついにローマと袂を分かったという意義は大きい。

 

1576年 マクシミリアン死去。ルドルフ二世が即位。

1609年7月 ルドルフ、プロテスタントの宗教の自由を認める。フス派は名実共に、独立した教会となる。

1611年 パッサウ司教レオポルトの侵攻に対抗するために、ボヘミア議会はルドルフ二世を排し、マティアスを国王に選出。

1617年7月 マティアスの跡を継ぎ、従兄弟のカトリック派フェルディナント二世が即位。宮廷をプラハからウィーンに移し、ボヘミアの再カトリック化を図る。

1619年 ボヘミア貴族、諸身分が「ボヘミア連合」を設立。フェルディナント二世に廃位を宣言する。

1620年8月 ビーラー・ホラの戦い

「ボヘミア連合」は敗北し崩壊する。以後、ボヘミアは①ハプスブルグ家の絶対的な支配下におかれ②カトリック強制の国となる。

 

メモ最後の最後でオチはこれかよ、という感が半端ない。

ハプスブルグ家という巨大な家の統治下に入ったボヘミアは、これからは巨大な歴史の一部分になっていく。この「民族闘争」とも「宗教闘争」とも「階級闘争」とも言い切れない、それでいながらどの要素も含んでいるフス戦争は、ボヘミアの人たちにとって大切な歴史になったよう。「乙女戦争」の時代に生きた人たちの生きざまや思いは、今の時代にもちゃんと伝わっているのが良かった。

さんざん潰されそうになったり、実際にターボル派や孤児のように存在自体は消滅しても、後世には何がしか伝わっているのが救いだし、それが歴史だよなあと思う。

 

まとめ

ざっくりと関係のある事実だけを追ったけれど、「プラハの異端者たち」は事実以外も、その時代に生きた人の立場や思惑への推測なども分かりやすく書かれていて、まったく馴染みがない時代の歴史に対する認識を、楽しく理解し知識を深められる本だった。

「勉強しよう」という四角四面な気持ちからではなく、単純に読み物として読んでも十分面白いと思う。

「乙女戦争」が好きな人は、この時代を生きた人への愛着や理解がいっそう強まる本だと思うので、特におすすめしたい。

 

それ以外に

『乙女戦争 ディーヴチー・ヴァールカ』大西巷一先生×『アンゴルモア 元寇合戦記』たかぎ七彦先生 歴史コミックの巨星トークショー レポート! | Charalab(キャララボ)

この記事で「乙女戦争」の作者である大西巷一がおススメしている、同じ作者の「物語チェコの歴史」も読んでみたいと思う。

 

ついにジシュカが死んでしまった…。どうなるんだろう。