うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

広瀬香美「ロマンスの神様」は、女性に対する呪いの歌なのか?

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「呪い」とは何なのか

togetter.com

絵本作家ののぶみが作詞した歌が、「母親に呪いをかけるものではないか」と物議を醸している。

呪いとは「特定の対象に対して〇〇しないとこうなる、こう思われる、と言うことで、相手が自分の望みどおりに行動したり、望むような存在になるように暗に圧力をかけること」と自分は考えている。

「あたしおかあさんだから」は、その部類の中でもかなりストレートで「お母さんになったら、当然こうだよね」と言い切っている。

「お母さん=こうである」ということは、「そうではないお母さん」に対して「否定された気持ち」「認めてもらえない気持ち」を与えることになる。

 

他の記事でのぶみは、「どんなに自分が悪い子だった事実を話しても、その事実を母親に認めてもらえなかった」と話している。

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「悪い子だった自分(母親にとって都合の悪い自分)を、母親に認めてもらえなかった」という自分が傷ついたことと同じ図式のことを、「母親という属性」に対して行うのはどうかなと思う。

 

もし「呪いを受けそうだ」と思ったら、「これは主語をデカくして呪いを拡大しているだけで、作者の個人的な物語なんだ」と思い、呪いを受けないようにして欲しい。

その属性に入っているときは、自分も巻き込まれそうになるので余り大きなことは言えないが(それが「主語デカい系の呪い」の怖いところだ。)なるべく呪われないように、誰かを呪うこともないように気をつけたい。

呪われて呪い返しをしてしまうと、最終的には属性同士の殴り合いになってしまう。

 

「ロマンスの神様」は、「一般化されていない私」の歌

ブコメではそこから派生した話題で、「この歌も呪いではないか」という歌がいくつかあげられていた。

そういうのを見ているうちに、広瀬香美の「ロマンスの神様」を思い出した。

「ロマンスの神様」のストーリーラインは、「出会いの場に行って、いい男をつかまえて結婚できて幸せ」というものだ。

これこそ「結婚することこそ女の幸せだ」という、呪いの歌ではないか。

 

でもその考えに今いちピンとこない。

何故だろう、と思ったときに唐突に閃いた。

「ロマンスの神様」は「女」の歌ではない。「私」の歌なのだ。

 

歌詞はたいてい「私・僕」という一人称で歌われるが、実は「『私』を個性化しない、特定しないこと」で「一般化した私」のことを歌っている

そうすることによって、多くの人に「これは私のことを歌っていると思わせる=共感させる」

「歌詞の中の『私・僕』は、聴いているあなたである(もしくはあなたに近しい人のことである)」ということを聴き手に思わせること、これを前提として歌詞の多くは作られている。(だから「あたしおかあさんだから」を聴いた人は「歌詞の中の『あたし』は他人であり、私ではない」と思えず、多くの反発を生んだ。)

 

ところが「ロマンスの神様」は違う。

この歌詞に出てくる「私」は、一般化されていない。

この歌の主人公は、一般的な感性から考えると「性格が悪い」と思われるキャラ付けがされている。

 

「ロマンスの神様」の「私」は性格が悪い

「ロマンスの神様」の主人公の「私」は、自分の条件に合う男性と出会い恋をして、できれば結婚したいと考えている。

それは沈む夕陽に向かって、拳を握り締めるほどの強い決意だ。「相手はどこにでもいる」と今まで出会えなかった割には、すごい強気だ。

「私」は「(世間では女性は)性格が良ければいいと言うけれど、そんなのウソだ」と喝破し、友達のツテで飲み会に参加したのに「幸せになるために友情より愛情が優先」と言い切る。

 

「私」にとって、世間が言っていることも社会(女友達)のことも関係がない。

自分の望み、自分の判断、自分の行動が全てだ。

「結婚相手を見つけたいから、自分がいいと思う男をあらゆる方法を使って探しに行き、自分にとっての合格ライン(←この言い方もすごい)の男を見つけ出す。性格がよければいいんだ、というのはウソだといい、友達と好みの相手がかぶったかもしれない、ということはチラリとも思いを馳せず、ノリと恥じらいを駆使して合格ラインの男を落としにいく」

この歌はそういう歌だ。

こんなことを現実で口に出して言ったら、男性からも女性からも総スカンを喰う。

たぶん聞いている人の多くは、「私のことを歌っている=共感する」のではなく、「そういう人もいるのか」「誰かを思い出す」という立ち位置で聞くと思う。

 

「私」は合格ラインの男性から、帰りは送らせてと言われることに成功する。そして次の土曜日には遊園地、一年たったら新婚旅行に行っている。

「結婚したい」と思ってから実際に結婚するまでは、けっこう時間がかかる。

親への報告や挨拶、結婚式をするのかしないのか、するのであれば式の打ち合わせや、新居を探したり、引っ越しの準備をしたり面倒くさいことが山のようにある。この手順を踏むのに、早くても半年、だいたい一年くらいかかる。

 

「私」と相手の男性はそれほど形式にこだわらず、結婚式もせず、新居もどちらかが住んでいた家に、どちらかが引っ越す程度だったのかもしれない。

しかし新婚旅行をハネムーンと呼ぶ感じからして、恐らくこの辺りもきっちりやったのではないか、と推測できる。

とすると、出会ってすぐ~半年くらいで結婚を決意したということだ。

目的を定めたら、その目的を強固な意志でわき目も振らずに完遂している。

「帰りは送らせて」→「土曜日、遊園地」→「一年後のハネムーン」までの経過の詳細が知りたくなる。

 

「ロマンスの神様」は呪いを受けずに、自分自身の望む生き方を追求する歌

「ロマンスの神様」は、世間の言うことなどまったく気にしない(一般化されていない)「私」が自分自身が合格と思う男性と結婚したいという望みを持ち、強固な意思と凄まじい行動力でその目的に向かって一直線に邁進し、最終的にはそれを叶える歌だ。

一般的にはそれがどれほど叩かれ、煙たがれることでも、周りからの圧力には屈せず自分の望みを叶えている。

 

「ロマンスの神様」の一番いいところは、最終的には「結婚したこと」や「幸せになったこと」ではなく、「恋する気持ちをくれたこと」を感謝するところだ。

「いい男に出会わせてくれて、その人と結婚できてありがとう」ではなく、「恋する自分のこの気持ちが一番の宝物だ。それをくれてありがとう」なのである。

 

「私」が一番望んでいたことは「結婚すること」ではなく、「自分が恋をすること。その気持ちをずっと忘れないこと」だ。仮に結婚まで至らなかったとしても、結論は「ロマンスの神様、どうもありがとう」なのだ。(その場合は冒頭に戻り、また拳を握り締める。)

 

これは呪いの歌ではなく、呪いから解放されて(もしくはハナから受けつけず)自分自身が望む生き方を、強い意思を持って自分で行動して手に入れる歌だ。

「人から性格悪いと思われても、自分にとっての合格ラインの男と恋がしたいと思って行動した。そうしたら恋ができた。やったあ」

そしてそれは自分の行動力や魅力への当然の成果だ、と思うのではなく「ロマンスの神様のおかげ」と自分以外のものへの感謝で終わる。


そういう歌だから、自分はこの歌が大好きなんだろうな、と思った。

ロマンスの神様

ロマンスの神様

 

友達が「『今週も来週も再来週も今日、会う人と結ばれる』ということは、何人と出会うの?」と言っていた。

確かにそうとも読める。日本語は難しい。

「合格ラインの男性」と「土曜日に遊園地に行った男性」と「一年後にハネムーンに行った男性」はもしかしたら別人なのかもしれない。

やっぱり「私」はすごい。