前回の考察をした後、もう一度一話から見直した。
色々と考えて、最終的に自分の中でしっくりと落ち着く考察にたどりついたので、整理して書いていきたい。
「物語外の人間」である自分の視点は捨てる。
まず前回の考察について。
二周目を見終わって「自分はこの物語を間違った角度から見ていたのではないか」と考えた。
前回の考察の中心は「ウテナとアンシーは同一人物である」という発想だ。
これはたぶん間違っていない。柩に中にいた少女はウテナであり、アンシーだ。
だが同時にウテナとアンシーは別人物でもある。
「そんなことはありえない」
普通に考えればそう思う。
「少女革命ウテナ」は、「物語外の世界」の視点で見ればあり得ないことが数多く起こる。
「何で、人の身体から剣が出てくるのか」
「建物の構造で、あんな螺旋階段はありえない」
「決闘場に、いきなり色々なものが現れるのは何故なのか」
「なぜ車が噴水を割って現れたり、道場の中にいきなり現れるのか」
「暁生と冬芽は、なぜいきなり服を脱ぐのか」
「そもそも決闘って何だ、薔薇の花嫁って何だ。そんなことをしていて、何で一般の生徒や先生や親にばれないんだ」
見ているときは、それは「物語上の約束事」として受け入れている。
しかしいざ「物語の意味」を考えようとすると、どうしても「自分という人間の認識にあてはめて」考えようとする。「現実ではありえない描写」は暗喩や幻覚、登場人物の心象を表したものと解釈するしかなくなる。
そうすると、「なぜ、御影と暁生は年をとらないのに時子は年をとるのか」などの事象を説明することができなくなる。暁生の「この学園にいる限り、年はとらない」とはどういう意味だろう? と考えてしまう。
しかし物語内の描写は、すべてそのまま意味なのだ。
暁生は「彼の現実」をそのまま言っている。「鳳学園にいる限り、人は年をとらない」のだ。
「視聴者の現実」と「この物語の世界の現実」は違う。
だから時子も暁生の説明を驚かず受け入れる。同じように年をとらない根室(=御影)を見ても「あなたを見ている人は悲しい」と言うだけなのだ。
「少女革命ウテナ」の世界で、彼らは「物語内の現実」をそのまま生きている。
だから見ているほうもこの物語の意味を知りたければ、「自分の現実」はとりあえず捨てて、彼らと同じように「物語の現実」の中で物語を見なければいけない。
このことは32話で、暁生が七実に対して言っている。
「君がその目で何を見ようと、それは君の世界のことでしかない」
「君が見ている世界、君が存在している世界、わずかな視界の中で、同じ道を彷徨い続けているだけの出口のない迷宮の世界。本当に君が見るべきものはそこにはない」
「物語外の現実に生きている『自分』」という存在の視界で物語を見ようとすると、その姿は見えない。
この発想で「ウテナとアンシーは同一人物なのか?」ということをまず考える。
「少女革命ウテナ」という物語の法則
ウテナとアンシーは、同一人物であると同時に別人物である。
結論は、ウテナとアンシーは、両方とも「柩の中の少女」である。だから同一人物である。なぜそう思ったのかという根拠は、前回の考察に書いた通りだ。
しかし、もうひとつ大切なことがある。
「ウテナとアンシーは同一人物である」「しかし、別人物である」
「少女革命ウテナ」の世界では、この二つの事実が同時に成り立つ。
どういうことか?
「認知された概念は現実化する」というルール
例えば9話では、冬芽にとって「柩の中の少女」はウテナだが、西園寺にとってはアンシーだ。
大切なのは、この時の西園寺にとっては「『永遠が欲しい』と言った柩の中の少女に、自分が永遠のものを見せたい」という思いが最も大切なのであって、そこに今のアンシーを当てはめているだけだ、ということだ。
だが、「西園寺が『柩の中の少女』という概念にアンシーを当てはめている」という事実があるときは、物語内ではアンシーは「柩の中の少女」になる。
「柩の中の少女は誰か」と考えるのではなく(これが「物語外の現実」で、物語を解釈するときの物の見方)「物語内のその時々の登場人物の認知」によって「『柩の中の少女』(という概念)はウテナになることもあるし、アンシーになることもある」と考える。
この物語では、「誰かがその概念を認知しているときに、その概念が可視化される」
本来、概念でしかないことが可視化されることによって、「物語内の現実」として他の登場人物にも認知される。
これが「少女革命ウテナ」という物語の中で、最も大切なルールだ。
言葉にすると何だかややこしく聞こえるが、見ている多くの人はこのルールを受け入れている。
具体例を上げて説明する。
登場人物は、みんな「柩の中にいる」のか?
「ウテナ」を見ていると、「はっきりとおかしいというわけではないけれど、どことなく違和感を感じる描写」というのが数多く出てくる。他にもっと「現実的に考えておかしい」描写が出てくるため、「小さな違和感」程度のものは見過ごしてしまう。
「柩」については、この「小さな違和感」を感じる描写が数多くある。
前回の考察でも上げた「『柩の中の少女』はウテナのはずなのに、何故、9話の決闘場や最終話で柩に入っているのがアンシーなのか」という点もそうである。
西園寺は「冬芽が『柩の中の少女』に永遠のものを見せた」という事実に、強い対抗心を燃やしている。冬芽も「だったらお前が永遠のものを見せてやれよ」と、西園寺を煽るようなことを言っている。
「(冬芽と同じように)『柩の中の少女』に永遠のものを見せたい」という思いが、なぜ「アンシーと共に永遠のものを手に入れる」ことにすり替わってしまうのか。
これは西園寺の中の「柩の中の少女」という概念にアンシーが当てはまり、当てはまるという事実を持ってアンシーは「柩の中の少女」になる、ということがこの物語の世界のルールだからだ、というのは上記で説明した通りだ。
他にも西園寺は、「柩」に対して引っかかる反応を示している。
9話で冬芽が柩を開けようとしたときの描写だ。
「やめた方がいいんじゃないのか?」という反応ではない。
明らかに「柩の中に何が入っているのか」を知っていて、「やめろ」と懇願している。
というよりは、事実関係を無視してこのときの西園寺の反応だけで印象を述べるならば、「彼自身が柩の中に入っていて、開けないでくれ」と言っているかのようだ。
そして、それはたぶん正しい。
柩の中に入っているのは西園寺なのだ。あの瞬間の西園寺にとっては。
しかし「物語内の現実」では、柩の中に入っていたのはウテナだった。それは冬芽が「柩の中身」という概念に、西園寺を結んでいないからだ。
仮にあの瞬間に、冬芽が「柩の中身」という概念に西園寺を結べば、開けた瞬間に西園寺が柩の中に入っている。「少女革命ウテナ」では、そういうことが成り立つ。
柩の中に入っているウテナを見た瞬間に、西園寺は「柩の中にいる自分」という認知を捨てた。
その瞬間に物語内で「柩の中にいたのはウテナ」という事象が具現化する。
最終話で柩を開けようとしたウテナに対して、暁生はこの時の西園寺と同じ反応をしている。
「いやいや、さっきまで暁生も薔薇の門を開けようとしていたじゃないか。ウテナが開けちゃダメなのか?」
もちろん、「開けたものが、世界を革命する力を手に入れるから」「開けたもののみが新しい世界に行けるから」という解釈も成り立つ。
ただこのときの暁生の「やめろ」という叫びは、9話の西園寺と同じで「(中に何が入っているのか知っていて)開けないでくれ」という反応に感じられる。
という以前に、前のシーンでは、薔薇の『門』だったものがなぜ次の瞬間に『柩』になっているのか。
頭で考えればいくらでも疑問は沸く。
しかしここまで見た人の多くは、恐らくこのシーンに何の疑問も持たないはずだ。むしろ「ここでウテナが開けるのは『門』ではなく、絶対に『柩』でなくてはならない」とすら感じるはずだ。
そして「さきほどまでは自分も『門』を開けようと試み、ウテナが『門』を開けようとしているときは平然と見物していた暁生が、開けようとするのが『柩』に変わった瞬間に顔色を変えて『やめろ』と絶叫する」
これも「当然だ」と受け入れると思う。
暁生は「門」は開けたいが、「柩」は開けられては困るのだ。
ウテナが最終的にたどり着くのは、開けたいと願ったのは、「その奥にアンシーが眠っている」と確信しているのは、「門」ではなく「柩」なのだ。
「ウテナが『柩』を開けようとしたから」門が柩になったのだ。
これが「誰かがその概念を認知しているときに、その概念が可視化される」というこの物語のルールである。そして可視化された概念は、現実化する。だから「柩」が可視化された瞬間、先ほどまで「門」だったものが、暁生にとっても「柩」になるのだ。
なぜ西園寺も暁生も、「柩」を開けられることをこれほど恐れるのか。
それは彼らも「柩」の中に隠れているからだ。
35話で西園寺が「あの子はまだ柩の中にいる。彼女だけではない。俺たちも柩の中にいる」と言っている。
最終話では、アンシーが暁生に向かって「あなたはいつまでもこの居心地のいい柩の中で、王子様ごっこをしていてください」と言って決別する。
では「鳳学園=柩」ということだろうか?
「鳳学園にいる人は、全員『柩』の中にいる」この解釈でいいのだろうか?
実はこれはそうではない。
「暁生にとっての『柩』が鳳学園である」ということに過ぎない。
「鳳学園=柩」としてしまうと、幼いころウテナが隠れた「柩」は鳳学園だ、ということになってしまう。
物事をイコールで結んではならない。
この物語では「概念」によって、色々なものが結ばれている。
ウテナは昔、何かに傷つき「柩」の中に隠れた。彼女は柩の中から出て、「薔薇の花嫁」として苦しむアンシーを見て彼女を助けたいと願う。アンシーの本質は、傷つかないために「柩」の中に隠れている。
この「柩の中に隠れている」という概念でもって、ウテナとアンシーは同一人物として結ばれている。
そして「アンシーが柩の中に隠れている」という事実をもって、ウテナにとってアンシーは「ウテナ自身の『柩の中に隠れている部分』」という機能を持ち、しかも物語内で可視化される。
ウテナは既に柩の中から出たにも関わらず、西園寺が「あの子はまだ柩の中にいる」というのは「アンシーというウテナの一部分が、柩の中にいる」ためだ。
余談だが、「鳳学園=柩」だからでは?という解釈がこの場合、一見尤もらしい。
しかしこういう「ひとつの事物をひとつの事物で定義する、私たちの世界の法則」でこの物語を解釈しようとすると、どこかで行き詰るはずだ。(前回の自分の考察のように、「ウテナとアンシーは同一人物である」とイコールで結んでしまうと、38話の屋上の二人の会話におけるアンシーのウテナに対する「あなたには何の関係もないのに」という言葉と矛盾が生じる。「鳳学園=柩」にしてしまっても、ここで矛盾が生じる。ウテナは自ら望んで、柩の中に隠れたからだ。イコールで結ばれていなければ、二人が何かの概念でつながっていないときは別人物だし、「鳳学園」はウテナにとっては「柩」ではない。)
関係ない二つの事象のあいだに意味を見出すのが「物語を読む」ということ
では「柩の中にいる」という概念でもって、物語の登場人物は全員結ばれるのではないか、という意見も出てくると思う。
しかし、例えば暁生とウテナは「柩の中の少女」という概念では結ばれない。
それは暁生が男だからではない。この物語では、概念を結ぶのに外見は関係がない。
実際、23話の最後で暁生が馬宮の肩に手をおいた瞬間、馬宮はアンシーになっている。
「その概念を認知する人がいない」からだ。
言い換えると「暁生を『柩の中の少女』という概念に当てはめる人がいない。ゆえに『柩の中の少女』=暁生という現象は、物語内で可視化されない」という法則が成り立つ。
ここまで読んで「何だそれは。めちゃくちゃややこしいな」と思われるかもしれない。
しかし、実はこれこそが自分たち「物語外の人間」が「物語を読むときに行っていること」なのだ。
例えば「かしらかしら」の影絵は、「ウテナ」という物語にはまったく関係がない内容だ。だが「この影絵が『ウテナ』という物語の中で行われている」という情報から、見ている人間は「これは今回の話の暗喩だったり、何かを示唆する内容である」と「勝手に意味を見出す」
七話の「遠足なんて行きたくなかったから、風邪をひいて丁度良かった」という影絵を見て「樹璃は強がっているだけで、本当は奇跡の力を欲しがっているのだな、これはそういうことを表す影絵なんだな」と解釈する。
まったく関係のない事象同士を結び付けて考え、自分の内部にある概念を当てはめてそこに意味を見出している。
しかしこの影絵と物語内の樹璃の心を結びつけるのは、「見た人間の解釈」のみだ。逆に言えば見た人間が影絵は影絵、樹璃の心とは何の関係もないと思えば、その影絵は『ウテナ本編』には何の関係もないもの、ということになる。
この影絵と樹璃の関係のように、暁生もウテナもアンシーも「柩の中に閉じ込もっている」のに、なぜ暁生は「柩の中の少女」という概念を共有しないのか、というのは「そういう解釈(認知)をする人間が物語の中にいない」ということだ。
これは構造主義の哲学者、バルトの「作者の死」の考えに似ている。
テクストはさまざまな文化的出自をもつ多様なエクリチュールによって構成されている。そのエクリチュールたちは対話をかわし、模倣し合い、いがみ合う。しかし、この多様性には収斂する場がある。その場とは、これまで信じられてきたような作者ではない。読者である(略)テクストの統一性はその起源ではなく、その宛先のうちにある。(略)読者の誕生は作者の死によって贖わなければならない。
(ロラン・バルト「作者の死」より/太字引用者)
あくまで自分の解釈だが、「物語(引用文ではテクスト)」というのは「それ自体に意味性はない」 「読み手の認識」と相互作用し合って、初めて意味を持つ。
だから「作者がこのテキストを通して何を言いたいのか。作者の何を表しているのか」という目線で物語を解釈しようとするのは無意味だ。これがバルトが主張する「作者の死」だ。
「少女革命ウテナ」では、この物語の読み方を登場人物たちが「物語内の現実」でしているのではないか。
「物語内の現実が何であるか、という発想で物語を考えるのは無意味だ。大事なのはそれぞれの登場人物が、その事象にどんな意味を見出したかで、『ウテナ』はその意味を可視化した物語」なのではないか、と思った。
この考え自体が「作者の意図を探る」ことになってしまうのだが、とりあえずそう考えると自分の中では物語の辻褄が合う。
この考えを基にして物語の分からなかった部分を見ていきたい。
物語内の事象の意味
根室記念館
根室記念館が何であるかは、23話で御影がほぼ話している。
「大切な人によって人生を変えられた」
「その美しい思い出を永遠のものにしたいと願ってやまない」
「そういうイリュージョンを持っているものではないと、決闘場には立てないし、ディオスの力には近づけない」
根室の望みは「時子」という「美しい思い出」を「永遠のもの」にすることだった。
そのために根室は、暁生と契約する。彼はその「美しい思い出」というイリュージョンを守るために、時を止めた。「永遠のもの」にするために、馬宮を「薔薇の花嫁」にしようとする。
しかしウテナに敗れたために、イリュージョンが破れてしまう。イリュージョンは、御影一人がそれを信じていたものだ。だからその「御影の認知」が破れれば、「他の人の認知」が表面に表れる。
「根室記念館はずっと昔に焼け落ちており、火をつけたのは根室だった。そして誰も死んでいない」
「彼(御影)はこの学園に最初からいなかった」
これが「御影以外の人間の認知」だ。だから御影が敗れた後は、ウテナや幹の「物語内の現実」はこの認知になる。
馬宮とアンシーは「薔薇の花嫁」という概念で結ばれており、馬宮と「ディオス=暁生」は、「永遠のもの」という概念で結ばれている。
だから御影の認知では、馬宮はディオスの姿をしている。
そして御影という存在が消えたあと、「馬宮=ディオス」という御影の認知がなくなったために、「薔薇の花嫁」という概念で結ばれたアンシーの姿になるのだ。
最終話の意味
柩を開けた瞬間、なぜウテナはアンシーに「やっと会えた」というのか。
まったく辻褄が合わないわけではないから見過ごしてしまいがちだが、これも小さな違和感だ。
ほんの少し前に剣で刺されたばかりなのに。
ウテナとアンシーは「柩の中の少女」という概念で結ばれている。
西園寺が「あの子はまだ柩の中にいる」と言った通り、「柩の中の少女」は柩の中にずっと隠れていたのだ。「ずっと柩の中に隠れていた少女」という概念が、最終話で「アンシー」という姿で現れる。そしてアンシーは「柩の中で眠っている」という事実をもって、「ウテナの一部」という概念を含むことになる。
ここでも大事なのは、「アンシー=ウテナの一部」とイコールで結ばないことだ。
あくまで「アンシーという存在が、『柩に閉じこもったウテナ』という概念を表すこともある」ということだ。
イコールで考えてしまうと「トラウマを克服し、自分で自分を救う物語」という文脈になってしまう。そうするとウテナがアンシーを救えなかった最終話は、アンハッピーエンドと解釈するしかなくなるからだ。
「ウテナとアンシーは、『柩の中の少女』という概念で結ばれた同一人物である。しかし、別人物である」
だからこの場面は、「私(ウテナもしくはアンシー)が私(ウテナもしくはアンシー)に会った」のではない。
「誰かを救うために、女の子の身で王子になるという不可能なことを必死でやろうとした自分」と「柩に隠れたいと願うほど世界に絶望しているところを、誰かに助けられた自分」が出会う物語なのだ。
この「助けた自分」と「助けられた自分」は、同一人物であり別人である。その「助けようとしたとき」と「助けられたとき」は違う状況で、「自分で自分を助けたわけではない」からだ。
助けようとしたときに助けられず「結局、王子さまごっこだった」と思った。しかし「助けられたとき」は新しい世界の扉が開かれ、自分の足で柩=鳳学園を出ていった。
あの時、自分は何もできなかった、と思ったけれど、もしかしたらアンシーのようにどこかで「今度は私から会いに行くから」と思ってくれているのかもしれない。
あの時自分を助けてくれた誰かを、助けてくれた本人さえ忘れているかもしれないけれど、自分はずっと忘れない。
その両方の感覚を同時に想起させるから、「ウテナ」の最終話はこんなにも美しく感動的なのだ。
まとめ
ここまで考えて、自分の中では物語の内容についてはだいぶ腑に落ちた。
この物語は、本来は感覚だけで味わう物語だと思う。
例えば「アンシーはなぜ、ウテナを刺したのか」など、言葉にはできなくても感覚で、「そうだよな、当然刺すよな」と思う。樹璃がペンダントを失ったあと、なぜ自ら胸の薔薇を捨てたのか、なぜあの場面で突然雨が降り出すのか。言葉にする前に「そうだ、こうなるはずだ」という感覚が生まれる。
その因果自体は言葉でも説明できるが、この場面を見たときに想起させられる感覚はとても言葉では説明できない。そういうものを描いているから、この物語はこんなにも美しいのだろう。
38話のウテナとアンシーの屋上の会話や、最終話でウテナが柩を開けたあとの流れは何度見ても泣く。
「少女革命ウテナ」は本当に気高く美しい物語だ。
その美しさ、気高さを感覚で堪能するのが、この物語を一番味わえる見方なのかもしれない、と思った。
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