うさるの厨二病な読書日記

厨二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好き勝手に語るブログ。

「貧乏で幸せな人間はいても、貧困で幸せな人間はいない」 鈴木大介「最貧困女子」感想

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鈴木大介「最貧困女子」は、「貧乏とは違う貧困状態」の女子の中でさらに極限の貧困状態に置かれている「最貧困」の女性たちの様子を記述したものだ。

 

「貧乏と貧困は何が違うのか?」

この辺りについては、だいぶ知識が広まりつつあるが、まだまだ根強い「貧困」に対しての疑問や声がたくさんあると思う。

「同じような収入で、上手くやりくりしている人もいる」

「自分も同じような収入だけれど(だったけれど)、生活できていた」

「生活保護を申請したりとか、養育費をもらったりなど、他にも色々な制度があるのに、何でそんな状態になる前に使わなかったのか」

「そもそもそんな状態に陥ったのは、それまでの選択が悪かったのではないか。自己責任だ」

自分も責めるつもりはないけれど、疑問に思うことはある。

「どこかでどうにかできなかったのかな?」どうしてもそう考えてしまう。

 

この本では、そういった疑問の声にひとつひとつ例示を上げながら、「どうして彼女たちは貧困という状態に陥ってしまったのか」ということを説明していく。

彼女たちは選択ミスの積み重ねで「貧困」という穴に入り込んだわけではない。

そもそも初めから穴の中に置き去りにされているのだ。そしてそこから這い上がるための力を、親から与えられなかったケースがほとんどだ。

しかしそのことは目に見えないため、つい自分を基準にして考えてしまう。

「目の前の道の中で、行きたい道を自分で歩けばいいんじゃないのか? 自分も急な坂道を必死で駆け上がったこともあった。デコボコ道を歩かざるえないこともあったよ。みんな同じだ」と言いたくなってしまう。

 

「最貧困」に陥る人は、なぜそんな状態になる前にどうにかできなかったのか。なぜ今もどうにかできないのか。

この本では、ひとつひとつケースを上げながら説明していく。

 

「貧乏」と「貧困」は違う

貧困は収入の少なさに加えて、「家族の無縁・地域の無縁・制度の無縁」が重なった状態だ。

例え収入が少なくとも、「縁」を持っていれば「貧困」になることはない。

「貧乏と貧困は違う」と発言していたことがある。

貧乏とは、単に低所得であること。低所得であっても、家族と地域との関係性が良好で、助け合いつつもワイワイとやっていれば、決して不幸せではない。一方で貧困とは、低所得は当然のこととして、家族・地域・友人などあらゆる人間関係を失い、もう一歩も踏み出せないほど精神的に困窮している状態。

貧乏で幸せな人間はいても、貧困で幸せな人はいない。貧乏と貧困は別ものである。

(引用元:「最貧困女子」 鈴木大介/幻冬舎/太字引用者)

 

「貧乏だけれど貧困ではない」例として、北関東在住の永崎さんが出てくる。

永崎さんは年収150万円。

年収だけ見れば、この本に出てくる貧困状態の他の女性とほとんど変わらない。

しかし永崎さんは、生まれたときからずっと同じ場所に住み、友人に恵まれている。友人の友人、友人の先輩のそのまた先輩など縁がつながっていて、知人レベルならば百人ほどいるのではないか、と言っている。

週末はみんなで買い物に出かけて、まとめ買いをして分配し、ガソリン代も割り勘する。ご飯を食べるときは肉屋に勤めている子が安い肉を持ってきてバーベキューをしたり、結婚するときは友人同士でカンパして挙式代を集める。

 

地元の縁の中で生きて、その中で結婚して、子供を産んで、子育てをはじめ何事も協力し合って、みんなで生きていく。

年収だけを見れば「貧しい」状態でも、永崎さんは生活にはまったく困っておらず、むしろ充実した人生を送っている。

 

せっかく上京しても、余計貧乏になったみたいな子も多いし。

さっさと彼氏と共稼ぎになったほうが生活も人生も充実するじゃないですか。だから、婚期大事。晩婚化とかなにそれ? って感じ。

だってこの辺で仕事してて、女は三十代になっても賃金上がらないし、むしろ年食うほどマトモな仕事がなくなるんですよ。だったら金はなくても体力がある20代で第一子産んで、自分が30歳になるまでには気合で子供小学校に上げちゃうほうがいい。

 (引用元:「最貧困女子」 鈴木大介/幻冬舎)

 永崎さんは冷静に色々な状況を踏まえて、自分の価値観で人生を選択して生きている。

「自分」という存在に価値を見出してくれる共同体の中で、お互いに支援し合いながら生きていく。

 「地元のマイルドヤンキー文化の中で生きている」という言い方もできるが、こういう生き方は「評価経済に近いな」と思った。

 

「貧困」の伝わらなさ

永崎さんの例を見ると「贅沢はできなくても、家族や周りの人たちと助け合って生きていけばいいじゃないか。そういう縁がないのは、その人のこれまでの人生の結果ではないか」ついそう思ってしまう。

 

実際に、後に出てくる手取り年収150万円台の仕事をしながら、副業で週一でデリヘル嬢をやっている愛理さんがそう指摘する。

別に珍しくないんじゃないですか? 親いない友達とか、メンタル病んで落ちているときに生活保護受けた友達とかは、私らにだっていますよ。

でもだからこそ、友達とか男が大事なんじゃないですか。デブだから友達になんないとか私らないし、関係ない。(中略)

その子が友達いないとしたら、その子のハート(性格)が腐っているとしか私には思えないんですよ。

むしろ、子供可哀相じゃないですか。いまその子がここにいたら、ひっぱたいて根性を入れなおしてやりますよ。それで直るなら、そういう子が近くにいたら私らきっと助ける。

(引用元:「最貧困女子」 鈴木大介/幻冬舎)

これを読んで、「愛理さんは、きっといい子なんだろう」と思った。「たくましくて、とてもいい子なんだろう」と。

だけど恐らく著者が言いたいことは、愛理さんには何も伝わっていない。

そしてここまで本を読んでもなお、愛理さんの言葉に心のどこかで「そうだよな」と思っている自分を発見して、著者が終始一貫して感じ続けている「貧困という状態の見えなさ。その問題点がいかに可視化しづらいか」ということも分かった気がした。

 

「貧困状態にある人」に対しては、愛理さんのように「一見、似たような状態にある人(あった人)」が批判者になることが多い。 

それは、愛理さんは愛理さんなりに努力して必死に生きているからだ。

愛理さんほどこの本に出てくる女性たちと似た境遇にいない自分も、どれほど読んでも、どれほど著者から「なぜ、伝わらないのか」と訴えられても、どうしても「でも」という言葉が出てきてしまう。

 

どれだけ取材しても、どれだけ彼女たちの抱えた痛み、苦しさ、貧困や虐待といった過酷な成育歴を描いても、読者に「伝わった」という実感が薄い。

 (引用元:「最貧困女子」 鈴木大介/幻冬舎)

彼女たちの家庭環境はひどい。それは分かる。

でもそこから先輩たちに誘われて売春をするようになり、さらに長じたら今度は自分が後輩に売春をさせたり、万引きなどを非行を繰り返すことは見過ごせない。

また家に居られない、制度が信用できないからと言って、制度をぶち壊す側に回ることや、「大人は信用できない」と言って施設に入れられるよりも家出を選び、性産業に取り囲まれるというのも納得できない部分がある。

虐待は許せないが、性的虐待から逃れるために家出をして、性産業に回収されてしまうならば施設に保護されるほうを選べないのか、「信用できない」と言って差し伸べた手を払いのける子をどうすればいいのかなど、どうしても「分かるけれど、だからと言ってなぜその選択?」と思ってしまう。

 

公的制度は、セーフティネットにならない

だから著者が主張する「どれだけ功利的な搾取と被搾取の構造で成り立っているとしても、彼女たちが求めるセーフティネットが性産業にしかないのは確かだ。公的制度でそれを作るのは不可能だ。だからそれを否定するよりも、現実的にセーフティネットとして機能している性産業を脱犯罪化し、彼女たちの権利を守れるようにするべきではないか」という意見も、とても頷くことはできなかった。

 

確かに色々なケースを見ると、彼女たちを現在の制度で救うことは難しいのかもしれない。

でもだからと言って、彼女たちが性産業に取り込まれ、搾取されている構図を認めろというのは賛成できない。

制度を整備して何とかできないのか。

でも「社会制度そのものを信用できない」と言って逃げていったり、自分から「救われようとしない人」をそもそもどうにかしようとする必要はあるのか。それは本人にとって救いではないんじゃないだろうか。

 

色々な思いでモヤモヤして仕方がなかった。

ここに至っても自分は「制度に頼るくらいなら、劣悪な環境で性産業に従事していたほうがマシ。それくらい社会に根強い不信感を持っているけれど、社会的には守らなければならない人」という像がうまく実感できなかった。

道端で倒れて七転八倒している女性がいれば、多くの人が手を差し伸べるだろう。

だが、その女性が脂汗を拭きながらも平然を装っていたら? 声をかけても「大丈夫ですから」と遮ってきたら? 睨み返してきたら? その女性との間に一枚の壁があったら? 人々は通り過ぎるだろう。

さらにその女性が何か意味不明なことを喚き散らしでもしていれば、人は目を背けて足早に歩き去るかもしれない。

  (引用元:「最貧困女子」 鈴木大介/幻冬舎)

個人ではこういう人を助けるには限界があるだろう。

でもそのために制度がある。個人では助けようと思っても負いきれない負担を、制度ならば負え、手を差し伸べられる。しかしその手すら振り払われたら? 

その人は、本当に助けなければならない人なのだろうか?

どうしてもそういう気持ちになってしまう。

 

しかし知的障害を持つCと、彼女の「彼氏だ」と名乗り客引きをする男のケースを読んだとき、唐突に「最貧困女子」の実像が頭の中に浮かんだ。

『ぼくんち』のルリちゃんととめさんだ。

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 (引用元:「ぼくんち」 西原理恵子/小学館)

 

「最貧困女子」の存在を、「ぼくんち」によってようやく実感する。

(Cは)記憶障害があるといい、知的障害で療育手帳を取得しているというが、本人は非常に挙動不審で視線すら定まらず、会話も困難(基本的に「あ、はい」「わかりません」以外の言葉はない)。

住民票という言葉の意味を理解できないようだった。

  (引用元:「最貧困女子」 鈴木大介/幻冬舎)

彼氏だという男との間に信頼関係を強く感じだ。取材中、Cはずっと男の膝枕で、男の顔を見上げていた。

驚くことに、この男性自身も精神障害者保健福祉手帳の取得者だという。

  (引用元:「最貧困女子」 鈴木大介/幻冬舎)

 

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 (引用元:「ぼくんち」 西原理恵子/小学館)

 

「ルリちゃん」の姿を思い出した瞬間、著者が訴える「制度の無縁」とは何なのか、こういった女性たちを買春する人間に怒りをぶつけながらも、性産業がセーフティネットになる現状では、そのセーフティネットを正常化するしかない、公的な制度では彼女たちは救うのは難しい、と著者がいう意味がようやく腑に落ちた。

 

ルリちゃんは、明らかに精神障害か知的障害、もしくはその両方を抱えているように見える。彼女が自分の力で公的な制度を利用するのは、どう見ても不可能だ。

「ルリはわしの手料理しか食いまへんねん」

この言葉で、何の意思表示もしないルリちゃんが「トメさん以外の社会」をどういう目で見ているのか、どんな感情を持っているのかが分かる。

「知人からの食事すらとらない」

この行動だけで、彼女がどれだけ社会にすさまじい不信感を抱いているか、そしてそのすさまじい不信感から、彼女が社会から今までどのように扱われてきたのかがうかがい知れる。

 

ルリちゃんは恐らく、これまで「彼女から何も搾取しなかった人間」「彼女を人として認める人間」に出会ったことがないのだ。

トメさんもルリちゃんを性的に搾取している。人権を踏みにじっている。だが今までの人間たちと一点違うのは、トメさんは「天気が悪い日には暴れる」ルリちゃんの怒りと憎しみを、すべて引き受けているところだ。

それだけでトメさんは、ルリちゃんが生きていくうえでセーフティネットとして機能している。

 

こういちくんがルリちゃんに差し入れを持っていくように、三つの縁のうち「人の縁」がまだ少しは機能している。しかし、ルリちゃんの中の強い不信感があり、また自己が破壊されているため、その手をとることができない。

 

「ぼくんち」はほのぼのとした絵柄で、叙情的な衣がかぶせられているが、描かれていることはこの本でインタビューを受けた女性たちの境遇とほぼ重なる。

子供たちに聞いたんですよ、施設のこと。施設どうする? 入る?って。泣きながら『ママと一緒がいい』って言う子を、どうして私が手放せるの?(中略)

私、子供の頃、私を叩くママだっていいから、一緒に暮らしたかった。だから私、決めている。私、絶対に子供たち手放さないから。子供を施設にとられるぐらいなら、心中するって。それが最後だから、そこまでだから。

 (引用元:「最貧困女子」 鈴木大介/幻冬舎)

 前述した愛理さんが、その話を聞いたときに「むしろ、子供が可哀相じゃないですか」「ひっぱたいて根性を入れ直してやりますよ」と言った加奈さんの言葉だ。

 

自分も加奈さんの話を聞いたとき、「何でこんな状態で子供を産んだんだろう?」「子供は施設に入れて、その間に自分の生活を立て直して、また迎えに行けばいいんじゃないだろうか?」と思っていた。

これは「ぼくんち」のかの子と、一太、二太の状態と重なる。かの子は、結局二太を手放さざるえなかったけれど。

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 (引用元:「ぼくんち」 西原理恵子/小学館)

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(引用元:「ぼくんち」 西原理恵子/小学館)

 

「まずは一人で生きていく力を身につけないと」と思うのは、自分が本当に「寂しい思い」も「捨てられたこと」もないからなのかもしれない、と思った。

 

この本に出てきた女性たちと、読み手の人間たちとは言語が決定的に断絶している。

彼女たちが「寂しい」というときの「寂しさ」は、安定した人生を送ってきた人間の「寂しい」とは違う。「自己責任」という言葉の「自己」の意味も違う。

それなりに色々とあったけれど、それでも自分は、少なくともこうやって自分の意見を他人に伝えられ、自分の意思をはっきり打ち出せる「自己」を親や社会から与えられた。

それは自分が思っている以上に幸運なことなのかもしれない、と思った。

 

こういう人たちに何がしてあげられるのか、というと、申し訳ないが個人としてはほとんど出来ることはないと思う。

彼女たちが、「最貧困女子」という言葉を聞いたときに想像した「自分の無力さに震え怯える、見るからにいたいけな被害者」ではなく「可愛げのない面倒臭い人物」であること、そういう人が自分たちと同じ場所に住んでいる、そして性的に搾取されるような状態がかろうじてセーフティネットとなって生きているということ。彼女たちにどんな背景があって今のような状態になったか。

そういうなかなか実感しづらいことを知ること、そして少しでも広まってくれたらと願うこと、それくらいしかできることがない。

 

「貧乏」の話ではなく、「貧困」の話だったことに今さら気づいた。