ミステリーの女王として名高いアガサ・クリスティーの作品群の中から、テーマやシチュエーションごとにおススメの作品を取り上げます。
*犯人とトリックはネタバレしていませんが、作品を紹介するに際して、多少中身に触れています。ご注意ください。
- 初めて読む人におすすめなのは?
- 超有名作を読んでみたいんだけれど。
- クリスティーの特色が出ているものを読みたい。
- それほど知名度はないけれど、面白いものはある?
- クリスティーの傑作を上げろ、と言われたら?
- アガサ・クリスティーファンなら必携! 「アガサ・クリスティー完全攻略」
初めて読む人におすすめなのは?
「アガサ・クリスティーって作品が多いから、何から読んでいいか分からない。いきなりはずれを引いても嫌だし」
そんな方には、「アガサ・クリスティーらしさ」が出ていて、なおかつそれなりに有名な作品をおすすめしたい。
「スタイルズ荘の怪事件」(ポアロ)
アガサ・クリスティーのデビュー作であり、名探偵エルキュール・ポアロの初登場作品。この作品には、良くも悪くも「クリスティーのミステリー観、ポリシー」がしっかりと現れている。
「ABC殺人事件」(ポアロ)
見立て殺人だが、伏線の張り方の上手さ、レッド・ヘリングのばらまき方の上手さが出ている。
「ABC殺人事件」は、今でいう「サイコパスの殺人ではないか」と疑われるのだが、そういう存在に対する、クリスティーの徹底した興味の無さが窺える。
クリスティーは基本的に「殺人は絶対に悪だ」という強い倫理観を持っており、多数残した作品の中でその倫理観が揺らいだような跡はほぼ見受けられない。異常心理を持つ犯人も何人か描いているけれど、それは「誰にでもある人間の弱さだ」と考えていたふしがある。
「悪とは異常性でも特殊性でもなく、正常な人間の弱さ」というクリスティーの人間観がよく表れている一作だと思う。
「火曜クラブ」(ミス・マープル)
ポアロと並ぶクリスティーの生み出した名探偵ミス・マープルの初登場作品。
話自体ももちろん面白いのだけれど、この話の一番のポイントは、ミス・マープルというキャラの魅力が存分に楽しめるところだ。
名だたる人間たちが解けない事件を「田舎の狭い世界で生きてきたおばあちゃん」が解いてしまう爽快さ、「田舎の人間関係は多くのことを教えてくれる」という神通力にも似た洞察力、「あらあらみんな、こんなことに騙されちゃって」と自分のことを馬鹿にしていた人たちを見返す茶目っ気、それでいながら「女同士でしか言えないこと」は男性の前では決して明かさない仁義や聡明さなど、一見「ただの温和でかわいらしいおばあちゃん」にしか見えないミス・マープルが、どれだけ鋭い洞察力と強い価値観を持った人間なのかが分かる一冊になっている。
クリスティーはポアロを書くことには、若干うんざりしていたようだが、自分の祖母をモデルにしたミス・マープルは描くことを本当に楽しんでいたと思う。
超有名作を読んでみたいんだけれど。
「アクロイド殺し」(ポアロ)
読んだことがない人も、恐らくメイントリックは知っているだろう一冊。
しかし「メイントリックを知っているから読まなくていいや」というのは、とてももったいない。
何故なら、そのメイントリックを明かされて、初めてどれだけ緻密に伏線が張られていたかに気づくからだ。
ああ、あのシーンのあの言葉はこういう意味ではなく、そういうことだったのか。あの人のあの行動は、こういう意味だったのか。そうか、あれはこういうことか。
一から十まで騙されていた快感を味わえる一冊。
トリックを知ったあと二回目、三回目と繰り返し読んでも楽しい。
「そして誰もいなくなった」
クリスティーの作品群の中でも一、二を争うくらい有名だが、作品全体から見ると異色の一作である。
粗筋だけを聞くと「そんなにうまくいくかな」という感じがするが、実際に読むとどんどんその緊迫感に引き込まれていく。
実際の事件や出来事でもよく「えっ? 何でそんな行動をとったんだ?」「なぜ、もっと冷静に行動できなかったのか?」と思うことが多々あるが、実際に自分がそういう雰囲気の中で緊張状態に置かれたら、とんでもない行動をとってしまうのではないか、そんな疑似感覚を味合わさせてくれる。
息が詰まるような緊張感と不安感が延々と続き、結末を知らずにはとても本をおけない。
クリスティーの代表作というだけでなく、間違いなくサスペンスの傑作として歴史に残る作品。
事件の検証をやってみました。
「オリエント急行の殺人」(ポアロ)
トリック自体はアンフェアすれすれだと思う。
ただクリスティーは「トリックだけならば、ものすごく単純だったり、ありきたりだったり、どこかで見たようなもの」を物語の力で斬新に、必然性の高いものにするのがとてもうまい。
ある点で、この作品はクリスティーの作品の中では異色なものになっている。後発の作品で、ポアロが突っ込まれたりしている。
クリスティーの特色が出ているものを読みたい。
アガサ・クリスティーの最も優れた点は、「物語を描くのがとても上手いところ」
トリックの斬新さやミステリーとしての完成度ならば、もっと上手い作家がたくさんいる。
クリスティーはトリックだけならば、平凡なものだったり、既存の作品と同じものを使いまわしていることが多い。しかし、その見せ方や話の持っていきかた、クライマックスまでの盛り上げ方などで、まったく別のものに見えてしまう。
人間の心理や人間関係の機微への深い洞察、「事件に至るまでに何があったのか」「なぜ、その事件が起こったのか」という物語の上手さがクリスティー作品の最大の醍醐味だ。
「ナイルに死す」(ポアロ)
「クリスティーを好きになるかならないか」をはかる踏み絵のような作品。
クリスティーが最も得意とする「入り組んだ人間関係や心理の結節点のような殺人」だ。これが面白くなければ、たぶん他は何を読んでも面白くないと思う。
評論家の霜月蒼に「クリスティーはスゴい作家だ。読みもしないで本作を馬鹿にしていたおれは死んだほうがいいと思う」と言わしめた、クリスティーらしさが凝縮した一作。
「死との約束」(ポアロ)
クリスティーが得意とする人物像のひとつ「人間心理を巧みに突いて、他人を支配下に置く怪物のような老人」が出てくる。
こういう人間関係の描写は名人芸としか言いようがない。怪物ボイントン夫人を見て、「うわあああ」と既視感を覚える人もいると思う。
「予告殺人」(ミス・マープル)
クリスティー本人がとても気に入っていた作品。
田舎の人間関係や過去の人間関係が、キーポイントとなっている。
ミス・マープルものはすべてそうだけれど、この時代の田舎の生活や雰囲気が分かるのが楽しい。
「邪悪の家」(ポアロ)
「ああ、こう見えていたものがこうか」というクリスティーお得意の「事実は目の前にあったのに見えなかった」驚きが味わえる。
難点は気づきのポイントになることが、日本人にはちょっと分かりにくいものであるところだ。
「ひらいたトランプ」(ポアロ)
イギリスではポピュラーなゲーム(らしい)「ブリッジ」の最中に起こった殺人。「ブリッジ」は四人でプレイするが、そのうちの一人が「休み」になる。
誰が「休み」のときに殺人が行われたのか??
このシチュエーションが面白い。ブリッジというゲームの特性も、事件に深く関わっている。
この話で一番印象的だったのは、ある人物が「自分が犯人だ」と自白したときに、ポアロが「この殺人は衝動的に行われたものだ。あなたが犯人であるなら、絶対に計画した殺人のはずだ。だからあなたは犯人ではない」と言ったことだ。
自白した人物は「自分は自白しているのに」と言うのだが、ポアロは譲らない。
「あなたが殺人をするときは、絶対に計画するはずだ」と言い張る。
こういうところが、ポアロ……というよりはクリスティーの真骨頂だ。
「杉の柩」(ポアロ)
クリスティーの作品は、コアは単純なものが多い。
殺人のモチーフでも、家族関係、三角関係が頻繁に出てくる。そういったものが一番こじれやすく、しかも人が興味を持ちやすいと分かっていたのだと思う。
三角関係のもつれの最中で殺人が起こる。
容疑者は、婚約者を奪われた美しい女性。彼女の裁判が進む中で、ポアロが依頼を受けて真相究明に乗り出す。
カーやクイーンは恋愛絡みの描写は余り上手くないが、クリスティーは恋愛描写もミステリーと一緒に楽しめる。
「五匹の子豚」(ポアロ)
これも三角関係が事件の中心にある。
モデルの若い女の子と夫の浮気を知った妻が、夫を毒殺したと言われている事件。
大人になった夫婦の娘が、自分の母親が父親を殺すのはおかしい、再調査をして欲しいとポアロに頼みにくる。
当時の事件現場にいた容疑者五人が、自分の記憶している限りのことを手記にしてポアロに送ってくる。
三角関係が事件の中心にある作品は、思いつくだけでも「ナイルに死す」「杉の柩」「白昼の悪魔」、本作といくつもある。でもどれもまったく別の面白さがある。
「人間は事実ではなく、見たいものしか見ない」というクリスティーのミステリーの根幹を支える人間観が、はっきりと出ている一作。
容疑者五人のキャラもはっきりと立っていて面白い。
「ねじれた家」
家族の誰もが死を願っていた心のねじれた老人が死ぬ。家族内の誰が犯人なのか?
あの名作のオマージュか? と思わせる作品。読み比べをすると、あの作品の作者とクリスティーの違いが見えて楽しい。
もうちょっと有名になってもいい気がする。
クリスティーの傑作を上げろ、と言われたら?
「鏡は横にひび割れて」(ミス・マープル)
騒々しくてうっとおしいが、特に誰に恨まれているわけでもない平凡な女性が毒殺される。一体、誰が何のために殺したのか? 誰かと間違われたのか?
過去記事でも上げたが、ホワイダニットの傑作だと思う。
「こういう理由で、自分が殺人を犯すか」と言われると頷きがたいけれど、本作を読むと犯人の心境に関しては納得せざるえない。
「人は自分のやったことが、どれほど他人に影響してしまうか分からないものだな」
そういう怖さと悲しさを感じる。
「カーテン」(ポアロ)
名探偵エルキュール・ポアロ最後の事件。
ポアロ最後の事件というのみならず、クリスティーが今まで描いてきた「人の弱さから生まれる悪」「人間の心理の怖さ」の総決算。
これを読まずに、「クリスティーを読んだ」とは言えない。
「終わりなき夜に生れつく」
個人的にはクリスティーのミステリーの中で一番好き。
人間の暗い心理への洞察、ミステリー的仕掛け、伏線の妙技、物語としての完成度、どこから見ても一級の作品だと思う。
「春にして君を離れ」
クリスティーがメアリ・ウェストマコット名義で書いた普通小説。
子育てを終えた平凡な女性が自分の人生を回想するだけ……なのだが、すさまじい破壊力を持っている。
読んだあと、しばらく人間不信になる「欝本」
この本が怖いのは、恐らくここで描かれていることを、大なり小なり誰もがやっていたり、やられていたりするからだと思う。
終わりかたにも納得する。こんなことを認めてしまったら、たぶん生きていけない。
これを読むと、クリスティーはミステリー小説にさえ反映させなかった暗いものを、心の奥底に持っていたんじゃないかと思う。
「暗い抱擁」
メアリ・ウェストマコット名義の普通小説。
クリスティーの全小説の中で一番好きで、繰り返し読んだ。
自分が自分である苦しみ、癒されないコンプレックスの苦しみを描いた作品。
「醜く下品に生まれついたイアーゴーに同情する」
「地獄行きのあの卑劣な小男について、君が何を知っているというのだ?」
主人公ゲイブリエルの魂の叫びに、全私が泣いた。
好き嫌いが分かれそうな作品ではあるけれど、面白いのでぜひ読んで欲しい。
唯一不満なのは、日本語タイトル。別のものにして欲しかった。
アガサ・クリスティーファンなら必携! 「アガサ・クリスティー完全攻略」
有名作から隠れた名作、短編、普通小説、自伝、戯曲とアガサ・クリスティーの全作品を読破し、批評している。ファン必携の書。
「その作品のどこがいいのか?」
「ちょっとな、と思う話はどこがそう思うのか?」
一冊一冊細かく書かれており、多少好みや意見が合わなくても………いや、意見の相違すらクリスティー愛読者なら楽しめると思う。
個人的にうなったのは、「オリエント急行の殺人」と「そして誰もいなくなった」は同じテーマのネガとポジではないかという意見だ。
何より似通うのは「殺しの動機」である。『オリエント急行の殺人』と『そして誰もいなくなった』の動機は事実上まったく同じだ。しかし前者は読者の共感を呼び、後者は読者を恐怖させる。この「対」の関係は偶然とは思えない。
この動機は、クリスティーにとって重要な問題だったのではないか?
(引用元:「アガサ・クリスティー完全攻略」霜月蒼/講談社/P326/太字は引用者)
クリスティーは「なぜ、その殺人が起こったか?」という物語を描く名手であり、そこにポイントをおいた数々の作品を生み出したが、実は逆なのかもしれない。
「人は自分が見たいと思ったことしか見ず、自分が認識したいようにしか物事を理解しない」
その「認知の歪み」がクリスティーの中で最も大きな関心事だった。だから「ミステリー」を書いたのかもしれない。
この「人は物事をそのままでにではなく、理解したいようにしか理解しない」「そして物事というのは、見る角度によってまったく別の意味を持つ」というのは、普通小説も含めてクリスティーが書く作品でかなりの確率で頻出している。クリスティーはその心理効果を読者に対して仕掛けることによって、「ミステリーの女王」と言われたが、それこそがクリスティーの人生や人間に対する最も大きな疑問であり、関心事だったのかもしれない。
と考えると、やっぱり昨年放送されたドラマ「そして誰もいなくなった」は残念ながら、そのクリスティーの本意を理解していなかったことになる。
「事実を自分の都合のいいように解釈し、捻じ曲げてしまう」人間の心理こそ、クリスティーの最も大きなテーマだったのだとしたら、それに綺麗にハマってしまったことになる。
ドラマとしてはとても上手く構成されているし面白かったんだけれど、「あの箇所」はやっぱり変えてはいけなかった。残念。