うさるの厨二病な読書日記

生涯中二の着ぐるみが、本や漫画、ゲーム、ドラマなどについて好きも嫌いも全力で語るブログ。

山本直樹「レッド」と「普通の人たち」が引き起こした連合赤軍事件について。

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山本直樹の「レッド」の一巻、「レッド 最後の60日間 そしてあさま山荘へ」の一巻が試し読みの対象になっていたので読んでみた。

 

 

連合赤軍事件については当事者である永田洋子、坂口弘、植垣康博、坂東国男がそれぞれ手記を出している。吉野雅邦の友人の大泉康雄も本を出している。

坂東国男の本以外は、かなり繰り返し読んでいるけれど、それらの本の印象的な部分が取り入れられているなあと思う。事件の一連の経緯も分かりやすい。

ただそれぞれの一巻を読んだ時点で、気になったことがあるのでそれを書きたい。

 

 

永田洋子(赤城)の描写が気になった。

「基本的にはあったことをそのまま書いている」が「フィクション」と銘打っているのは、作者の解釈を入れたかったからか。

個人的にはその解釈が、永田洋子に対して厳しいのが気になった。

以下、漫画の内容に言及する箇所だけ()内に漫画の人名を記載している。

 

気になった箇所をあげてみる。

坂口弘(谷川)が永田洋子(赤城)に結婚を申し込んだとき、彼女の女性としての部分を利用しようとする気持ちがあった、というのは永田も感じているけれども、坂口弘本人がそう書いていたと記憶している。

「収監される前に、女性の体を知っておきたい気持ちがあった」「彼女ならば、自分が出所するまで待っていてくれているのではないか、という気持ちがあった」と書いていたと思う。

漫画では、坂口(谷川)は永田(赤城)に好意を持ったから申し込んだのに、永田(赤城)が「あなたはこういう魂胆があるのだろう」と邪推しているように見える。

この坂口弘による永田への結婚申し込みは、当時、革命左派内で女性がどういう扱いだったかという一例になるので、ここはきちんと描いて欲しかった。

こういうことが全て、後の山岳ベース事件における総括につながってくるからだ。

このあと結局結婚したのは、永田は「坂口氏ときちんとした愛情関係を築いてみたいと思ったから」と言っていたと思う。

これを入れるのと入れないのとでも、相当永田に対する印象が変わる。

 

また他にも公判を傍聴した永田(赤城)が怪我をさせられたあと、吉野雅邦の家に厄介になるのだが、その時の印象を吉野(吾妻)の母親は「強引な人」と同時に「人なつっこい人」とふたつの印象を持っていたと思う。

それが漫画では「強引な人」という印象ばかりが強調されているように見える。

また遠山美枝子(天城)に、腫れ上がった自分の顔を見るように強要するシーンは、かなり誇張されているように感じる。

同じ遠山美枝子(天城)の総括に関する場面で、「遠山に着替えをさせる。そういう援助は必要では」という永田の言葉は、「甘い」と咎められるのではないか、と思いながらも思いきって発言したと言っている。

そういう葛藤や場の雰囲気が、漫画では反映されていないのも気になる。

こういうところを見るとどうしても、永田という人物をある一定方向に印象づけたいのかなと思ってしまう。

一巻を読んだだけでもこういう印象なので、ずっとこの調子か? と心配になる。

 

人は自分が信じた「正しさ」の構造に、たやすく閉じ込められる。

決して永田洋子にもこういう事情があったんだ、同情しろ、と言っているわけではない。

連合赤軍事件はそれぞれの記憶も主張も感じたことも、同じことを経験していながら微妙に違う。

誰の視点に立つかでだいぶ印象が変わるのだが、1979年に出た第一審判決(石丸判決)を始め、永田洋子の性格や個人的な資質に原因を求める論がかなり多い。

 

この事件の最大の責任が、森(漫画では北)と永田にあるのは間違いない。

ただ永田洋子の性格や彼女の個人的な資質に事件の主因を見出すのは、かなり安易な見方だと思っている。

本当にこの事件を描こうと思うならば、流されないように常に気をつけていないとどうしてもそちらへ流されてしまう。

何故なら「ブスで性格が悪い女が権力を握って増長し、自分に逆らう人間を殺し、自分より才色が優れた同性を嫉妬から殺した」という解釈は、聞いているほうからすれば「単純明快でわかりやすいから納得しやすく、なおかつドラマとして描くうえで面白い」論だからだ。

ちなみにこれが塩見孝也が永田に求めた総括らしい。(永田の言によれば。)

 

特定の個人の人格や行動の動機を悪意のみで解釈して事件の原因とするのは、永田たちが殺害したメンバーに強いた理屈とまったく同じだ、と思う。

「人は自分が信じた正しさの中に閉じ込められると、他人の人格や身体を破壊することさえ何とも思わなくなる」「そしてその正しさの構造に、誰もがたやすく閉じ込められてしまう」ことこそ、この事件の主因だと思っている。

だから特定の個人の人格に事件の原因の全てを見出す言葉を見るたびに、事件と同じ構造を見るようで非常に残念な気持ちになる。

そういう解釈でこの事件を描きたいと考えているならば仕方ないが、「あった事実をそのまま描く」ことを目的としているのならば、分かりやすく刺激的で手軽な「悪女、永田洋子が事件を主導した説」は意識的に避けて欲しいと思うのだ。

 

「新組織における女性リーダーの座をめぐる争い」と見られがちな永田の遠山美枝子に対する総括要求は、「新組織において両派のうち、どちらが主導権を握るか」という争いの要素のほうが大きかったと思う。

つまり永田洋子においてのみそういうものがあった、と指摘されがちな心の機微は、彼女特有のものではなく、事件に関わった全員の心の中にあり作用していた、と思うのだ。

 

森は革命左派を迎えにいかせるときに、「水筒を持ってこなかったこと」を批判するように伝えており、すでに主導権争いを仕掛けていた。

そういう赤軍派に対して革命左派の面々は不満を募らせており、「そちらが批判してくるのならば、こちらも」という潜在的な争いの中で起こったのが、永田からの遠山批判なのだと思う。

人間関係でよくある「そういうこというなら、お前だって」という構図だ。

そして何故、そういった主導権争いを森が仕掛けたのかと言えば、革命左派の持つ銃や処刑の「実績」に、森が強いプレッシャーと恐怖を感じていた、と板東国男が書いている。

 

遠山批判は、森にとっても渡り船だったのだと思う。

それまで「幹部の妻」で赤軍派では特別扱いされていた遠山には、森も遠慮せざるえなかった。植垣なども「ちょっと面倒臭くてやりづらい」心境を吐露している。

森は自分にとって目の上のたんこぶの遠山を排除しつつ、彼女をスケープゴートにすることによって革命左派との連携を強めたのではないか。

 

日常生活の延長線上にある事件

連合赤軍の山岳ベース事件で起こった色々な出来事の構図自体は、日常生活でも「あるある」なものが多い。

「日本の組織が抱える構造的な問題だ」と四角四面に考えるまでもなく、こういう微妙な人間関係の力学は、日常的に学校でも会社でもよく見る。

 

自分がこの事件を恐ろしいと思うのは、そういう自分が日常でいくらでも見てきた「こういう構図、よく見るなあ」「こういうことってあるよなあ」「こういう人っているよなあ」「自分もこういう部分があるかもしれない」と思うことが、歯止めがなくなればここまで凄惨な結果に行きついてしまうというところだ。

この事件は「異常者が起こした異常な事件」ではなく、「思想にとりつかれた未熟な若者たちが引き起こした事件」でもなく、自分も含めた普通の人が生きる日常の延長線上にある事件だと思うのだ。(あの時代の学生運動は現代から見ると異様に見えるが、当時は多くの学生にとって日常の延長だった。)

 

ある構造の中に閉じ込められている、という一点の条件を加えるだけで、日常的に経験しているものがここまで恐ろしいものになりうるのか。

そしてこの構造に何かの拍子に閉じ込められたときに、自分がその構造の外では「異常」と言われる思考や行動をしている、と気づくかどうか。

塩見孝也が永田洋子にしたこの事件の総括の「指導」や、立松和平の「光の雨」のように、自分が連合赤軍事件が起こった構図と、そっくり同じ構図を再生産していることにまったく無自覚なままこの事件を解釈しようとしている意見を見ると、ある思考やシステムに一度取り込まれると、その外に抜け出すのがいかに難しいかということを思い知らされる。

 

 立松和平の「光の雨」は、総括の理屈を内包してしまっている。

「光の雨」は、「他人の自己実現に、自分が関与できるという欲望の発露」が総括の本質と同じだという点を、大塚英志が強く批判している。

自分も「自分の言葉は、他人の主体を変革するほど価値があり力があるはず」と考える傲慢さこそ「総括」という概念の醜悪さだと思っている。

「結果的に」「ためになった」とその相手本人が考えてくれるのはいいと思うけれど、それは言う側が「相手のためになるはずだ」と考える、ましてや相手が受け入れないときに押し付けていいものではない。

 

「光の雨」は、坂口弘がモデルになっている主人公の話に若い男女が真剣に耳を傾けて、援助交際をしていた女の子が「私、自分を大事にしようと思ったの」という結論に達するという筋だ。

これをこの事件のモチーフとして用いてしまうとは。

「自分たちの言動によって、他人が自己実現する」

この「総括」の発想をそっくりなぞって肯定的に描いているのに、そのことに無自覚なまま終わるのがこの小説の怖いところだ。

「光の雨」を読んで思ったことは、連合赤軍事件のメンバーたちが行った総括の根っこにある、「自分の関与によって他人を変えたい。その事実をもって、自分の言動の価値を感じたい」という欲望は、人間にとって抑えがたいものなのだろう、ということだ。

 

この欲望が根底にある「総括」という概念を否定するために、主人公が自分が正しいと信じた思想と犯した罪の深さを必死に訴えても、今の若い人たちは退屈そうに聞いている。いや、聞いてすらいない。

結果、「自分が正しいと信じたことをいくら訴えても、相手には伝わらないことがあるし、人と人とはそういうことがあってもいいんだ」というごく当たり前のことに気づくことが、この事件にふさわしい結論じゃないかと思っている。

 

どれだけその人にとって大切で切実で正しいことでも、他人にはあくびが出るほど退屈で聞く価値のないものであることもある。それが多様性なんじゃないかと自分は思う。

全てがそうだと寂しいけれど、「そういうことが時にあることは、人がそれぞれ違うという健全さでもある」と思うことが大切なんじゃないかと思う。

 

「結局、伝わらなかった、分かり合えなかった」それでいい

結局「総括」の構造から抜け出ないまま、この事件は終わるのかなと思っていた。

そんなとき、塩見孝也が死んだときに書かれた雨宮処凛の文章を読んだ。

塩見孝也とのコミュニケーションのとれなさ、その困惑があけすけに書かれている。

「うーん、ちょっと、こっちは世界同時革命じゃないんですよねぇ…」

 渋々そう口にすると、塩見さんはいつも心の底から驚いたように「なんでだ!」と叫んだ。「世界同時革命が目的でないことを説明する」ことに、どれほどの時間を費やしただろう。

 そんなこともあって、塩見さんの「会おう」という誘いをのらりくらりと断り続けていると、ある日、「怒りのメール」が届いた。

 そこには、「お前は左翼でもなんでもない」「だいたいマルクスも読んでいないのに左翼とは何事だ」などという言葉が書かれていた。おそらく、塩見さんにとっては最大限の罵倒だったのだろう。しかし、こっちにとっては痛くも痒くもないのだった。

 (引用元:「雨宮処凛がゆく!」第431回「革命バカ一代、塩見孝也、死す。の巻」)

 

これを読んだとき、笑ってしまった。

 

「正しさ」を受け入れられない人間は、その人格を傷つけ罵倒しても構わない。

その赤軍派の「正しさ」の構造こそ、連合赤軍事件の構造の片親であり、そこで殺し殺された人たちが閉じ込められたものだった。

そのことにあの事件から四十年以上たっても気づかず、まったく同じことを繰り返している塩見孝也に、その「正しさ」を気にもとめない言葉を言う人がいて良かった。

「マルクスも読んでいないなんて左翼でも何でもない」という言葉が最大限の罵倒であると考える価値観と、「そんなものは痛くも痒くもない」という価値観が何ひとつ分かりあえずに並ぶさま、そしてそれでいいんだと思えることが、この事件の結末に最もふさわしいと思うのだ。

この記事に書いているようなこともまったく考えず、塩見孝也が自分の思想や正しさを最後まで信じて死んだのなら「自分が正しいと考え、相手のためになると思った言葉なんて、他人には意味がないし伝わらない。そもそもろくすっぽ聞いていない」という事実を彼自身が証明したことになる。

 

それでいいと思う。

それが連合赤軍事件の結論に最もふさわしいと思う。

「どんなに正しいと思っても、それが伝わらないこともある。分かりあえないこともある。そういうこともある」

そういう考えを常に持っておくことが、「正しさ」の中に閉じ込められそうになったときのために大切なのかなと思った。

 

 連合赤軍事件関連書籍

 

革命左派側で起こったことや流れは、この二人の本を読むとだいたいわかる。

この二人は山岳ベースを退去するまでほぼ行動を共にしていたのだが、大まかな出来事はともかく、記憶や心境や観察にはかなり食い違いがある。

「川島豪が自らの奪還を指示したのか」などは事件の原因につながるので非常に重要だと思うのだが、今となっては真相を知る術がない。

 

赤軍派から参加した植垣康博の本。幹部だった上記二者の本とは、かなり雰囲気が異なる。

植垣康博はインタビューで「永田洋子は普通の人」と答えていたが、この本を読むと「普通の若者たちが起こした凄惨な事件」という印象が深まる。

 

吉野雅邦の学生時代からの友人だった大泉康雄の本。

吉野が金子と付き合う前からの友人であり、吉野と金子が付き合った経緯や、付き合ったあとにみんなで遊ぶシーンも出てくる。

大泉本人は学生運動には関わっていないので、事件の記述よりも吉野と金子の交流や人柄が中心に描かれている。

金子みちよは恋人の吉野雅邦を支えるために学生運動に加わったのだが、山岳ベースに行く前に大泉に「わたしたち、馬鹿なことをしていると思う?」と聞くなど、運動に対して冷静な目も持っていたと思う。

山岳ベースでも反対の声を上げたり、最期まで総括に屈しなかった彼女のことを思うと胸が痛い。 

二人への優しい気持ちと友情が伝わってくる本。読んだことがない人はぜひ。

 

あさま山荘に突入した警察部隊の指揮をとっていた佐々淳行の本。現場がどのような雰囲気だったか、ということがよく伝わってくる。

この本で印象的だったのは、著者の息子が学校で「警察官や自衛官の子供は立ってください」と言われて教師から色々と言われたという箇所だ。

現代だったらあり得ないことだと思うのだが、そういう時代だったということも感じとれる。

 

 「連合赤軍事件を描く上で、よりによってこのモチーフを用いるか」「山岳ベース事件以外のことが、そこに至る経緯も含めてほとんど書かれていない」という不満もあるが、それを差し引いても余りに安易な設定では……と思う。